はてなキーワード: 安政とは
元号 | 出典 | 備考 |
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大化 | 『書経』(『尚書』)大誥、『漢書』巻56、『宋書』巻20 | |
白雉 | 『漢書』巻12 平帝紀 | |
朱鳥 | 『礼記』曲礼 | |
大宝 | 『易経』繋辞下 | |
慶雲 | 『文選』巻6、『晋書』巻54陸雲伝 | |
和銅 | ― | 和銅(ニギアカガネ)が朝廷に献上されたことにより改元 |
霊亀 | ― | 瑞亀献上により改元 |
養老 | ― | 養老の滝命名に因んで改元 |
神亀 | ― | 白亀出現の瑞祥により改元 |
天平 | ― | 「天王貴平知百年」の文字を背に負った瑞亀の献上により改元 |
天平感宝 | ― | 陸奥からの黄金献上により改元 |
天平勝宝 | ― | 孝謙天皇即位により改元 |
天平宝字 | ― | 蚕が「五月八日開下帝釋標知天皇命百年息」の文字を成したことにより改元 |
天平神護 | ― | 藤原仲麻呂の乱を神霊の護りによって平定したことによる |
神護景雲 | ― | 瑞雲の発現により改元 |
宝亀 | ― | 瑞亀献上により改元 |
天応 | ― | 伊勢斎宮に現れた美雲の瑞祥により改元 |
延暦 | 後漢書 五十二巻 | |
大同 | 『礼記』礼運篇 | |
弘仁 | ― | |
天長 | ― | |
承和 | ― | |
嘉祥 | ― | 豊後国大分郡の寒川(現在の大分川)で捕獲された白亀が献上されたことを大瑞として改元 |
仁寿 | ― | 白亀・甘露の瑞祥による改元 |
斉衡 | ― | 石見国から醴泉の瑞を献上された事による改元 |
天安 | ― | 美作国・常陸国両国より白鹿、連理の樹が献上された祥瑞による改元 |
貞観 | 『易経』 | |
元慶 | ― | 白雉・白鹿献上の瑞祥による改元 |
仁和 | ― | |
寛平 | ― | |
昌泰 | ― | |
延喜 | 『尚書』旋璣鈐 | |
延長 | 『文選』東都賦、白雉詩 | |
承平 | 『漢書』 | |
天慶 | 『漢書』 | |
天暦 | 『論語』 | |
天徳 | 『周易』 | |
応和 | 「董巴議」 | |
康保 | 「書経」 | |
安和 | 『礼記』楽記第19 | |
天禄 | ― | |
天延 | ― | 天変、地震による改元 |
貞元 | ― | 火災、地震による改元 |
天元 | ― | 災変、陽五厄による改元 |
永観 | 『書経』洛誥 | |
寛和 | ― | |
永延 | 『漢書』巻75翼李伝 | |
永祚 | 『晋書』巻21礼志 | |
正暦 | ― | 大風、天変による改元 |
長徳 | 揚雄の『城門校尉箴』 | |
長保 | 『国語』(周語中) | |
寛弘 | 「漢書」(元帝紀賛) | |
長和 | 『礼記』(冠義) | |
寛仁 | 『会稽記』 | |
治安 | 『前漢書』 | |
万寿 | 『詩経』 | |
長元 | 『六韜』 | |
長暦 | 『春秋』または『晋書』 | |
長久 | 『老子』(七章) | |
寛徳 | 『後漢書』(杜林伝) | |
永承 | 『書経』 | |
天喜 | 『抱朴子』 | |
康平 | 『後漢書』 | |
治暦 | 『尚書正義』 | |
延久 | 『書経』または『尚書‐注』 | |
承保 | 「尚書」 | |
承暦 | 「維城典訓」 | |
永保 | 『尚書』 | |
応徳 | 「白虎通」 | |
寛治 | 『礼記』 | |
嘉保 | 『史記』 | |
永長 | 『後漢書』巻1光武帝紀 | |
承徳 | 『周易』 | |
康和 | 崔寔『政論』 | |
長治 | 『漢書』 | |
嘉承 | 『漢書』礼楽志 | |
天仁 | 『文選』 | |
天永 | 『尚書』 | |
永久 | ― | 『詩経』? |
元永 | ― | 天変、疾疫による改元 |
保安 | ― | 天変、厄運による改元 |
天治 | 『易緯』 | |
大治 | 『河図挺佐輔』 | |
天承 | 『漢書』 | |
長承 | 『史記』 | |
保延 | 『文選卷十一·魯靈光殿賦并序』 | |
永治 | 『魏文典論』『晋書』武帝紀 | |
康治 | 『宋書』 | |
天養 | 『後漢書』 | |
久安 | 『晋書』劉頌伝 | |
仁平 | 『後漢書』孔奮伝 | |
久寿 | 『抱朴子』 | |
保元 | 『顔氏家訓』文章篇 | |
平治 | 『史記』夏本紀 | |
永暦 | 『後漢書』辺譲伝、『続漢書』律暦志 | |
応保 | 『尚書』 | |
長寛 | 『維城典訓』 | |
永万 | 『漢書』巻64王褒伝 | |
仁安 | 『毛詩正義』 | |
嘉応 | 『漢書』王褒伝 | |
承安 | 『尚書』 | |
安元 | 「漢書」 | |
治承 | 「河図挺作輔」 | |
養和 | 「後漢書」 | |
寿永 | 「詩経」 | |
元暦 | 「尚書考霊耀」 | |
文治 | 礼記祭法 | |
建久 | 『晋書』『呉書』 | |
正治 | 「荘子‐漁父」 | |
建仁 | 『文選卷四十七・聖主得賢臣頌』 | |
元久 | 「毛詩正義」 | |
建永 | 『文選』卷四十二・曹子建與楊德祖書 | |
承元 | 「通典」 | |
建暦 | 『後漢書』 | |
建保 | 「尚書」 | |
承久 | 「詩緯」 | |
貞応 | 『易経』 | |
元仁 | 「周易」 | |
嘉禄 | 「博物志」 | |
安貞 | 『周易』上経坤 | |
寛喜 | 「後魏書」 | |
貞永 | 「易経」(坤卦) | |
天福 | 「書経」(湯誥) | |
文暦 | 『文選卷四十六・顔延年三月三日曲水詩序』 | |
嘉禎 | 「北斉書」 | |
暦仁 | 「隋書」(音楽志下) | |
延応 | 『文選卷二十四・潘安仁為賈謐作贈陸機』 | |
仁治 | 『新唐書』 | |
寛元 | 『宋書』 | |
宝治 | 「春秋繁露-通国身」 | |
建長 | 「後漢書」 | |
康元 | ― | 赤斑瘡による改元とみられている |
正嘉 | 「芸文類聚-歳時中・元正」 | |
正元 | 「詩緯」 | |
文応 | 「晋書‐劉毅伝」 | |
弘長 | 「貞観政要‐封建」 | |
文永 | 「後漢書‐荀悦伝」 | |
建治 | 「周礼」 | |
弘安 | 「太宗実録」 | |
正応 | ― | 伏見天皇即位による改元 |
永仁 | 『晋書』巻22楽志 | |
正安 | 『孔子家語』 | |
乾元 | 『周易』 | |
嘉元 | 『芸文類聚』天部 | |
徳治 | 『左伝』 | |
延慶 | 『後漢書』馬武伝 | |
応長 | 『旧唐書』礼儀志 | |
正和 | 「唐記」 | |
文保 | 『梁書』 | |
元応 | 『唐書』 | |
元亨 | 『周易』 | |
正中 | 『易経』 | |
嘉暦 | 『唐書』 | |
元徳 | 『周易』 | |
元弘 | 『芸文類聚』天部 | |
正慶 | ― | 光厳天皇即位による改元 |
建武 | ― | 『文選』? |
延元 | 『梁書』 | |
興国 | 『春秋左氏伝』昭公四年伝、『新五代史』伶官伝序 | |
正平 | ― | 天変や兵革による改元か |
建徳 | 『文選』 | |
文中 | ― | 『易経』彖伝上? |
天授 | ― | 『史記』淮陰侯列伝? |
弘和 | ― | 『書経』君牙篇? |
元中 | ― | 『易経』彖伝上? |
暦応 | 『帝王代記』 | |
康永 | 『漢書』 | |
貞和 | 『芸文類聚』 | |
観応 | 『荘子』 | |
文和 | 『旧唐書』順宗紀、『三国志』呉志孫権伝 | |
延文 | 『漢書』儒林伝 | |
康安 | 『史記正義』と『唐紀』 | |
貞治 | 『周易』 | |
応安 | 『毛詩正義』大雅江漢 | |
永和 | 『尚書』舜典と『芸文類聚』巻8 | |
康暦 | 『唐書』 | |
永徳 | ― | 『群書治要』巻17? |
至徳 | 『孝経』 | |
嘉慶 | 『毛詩正義』 | |
康応 | 『文選』曹植七啓 | |
明徳 | 『礼記』 | |
応永 | 『会要』 | |
正長 | 『礼記』正義 | |
永享 | 『後漢書』 | |
嘉吉 | 『周易』 | |
文安 | 『晋書』 | |
宝徳 | 『旧唐書』 | |
享徳 | 『尚書』 | |
康正 | 『史記』と『尚書』 | |
長禄 | 『韓非子』 | |
寛正 | 『孔子家語』 | |
文正 | 『荀子』 | |
応仁 | 『維城典訓』 | |
文明 | 『周易』 | |
長享 | 『文選』 | |
延徳 | 『孟子』 | |
明応 | 『周易』 | |
文亀 | 『爾雅』釈魚 | |
永正 | 『周易緯』 | |
大永 | 『杜氏通典』 | |
享禄 | 『周易』 | |
天文 | 『易経』 | |
弘治 | 『北斉書』 | |
永禄 | 『群書治要』巻26 | |
元亀 | 『毛詩』と『文選』 | |
天正 | 『文選』と『老子』 | |
文禄 | 杜佑『通典職官十七』 | |
慶長 | 『毛詩注疏』 | |
元和 | ― | 徳川家康の命により、唐の憲宗の年号を用いた |
寛永 | 『毛詩朱氏注』 | |
正保 | 『尚書』正義 | |
慶安 | 『周易』 | |
承応 | 『晋書』律暦志 | |
明暦 | 『漢書』律暦志と『後漢書』 | |
万治 | 『史記』と『貞観政要』 | |
寛文 | 『荀子』致士篇 | |
延宝 | 『隋書』音楽志 | |
天和 | 『尚書』、『前漢書』、『後漢書』、『荘子』 | |
貞享 | 『周易』 | |
元禄 | 『文選』 | |
宝永 | 『旧唐書』 | |
正徳 | 『尚書』正義 | |
享保 | 『後周書』 | |
元文 | 『文選』 | |
寛保 | 『国語』周語 | |
延享 | 『芸文類聚』 | |
寛延 | 『文選』 | |
宝暦 | 『貞観政要』 | |
明和 | 『尚書』 | |
安永 | 『文選』巻一 | |
天明 | 『尚書』 | |
寛政 | 『左伝』 | |
享和 | 『文選』ら | |
文化 | 『周易』賁卦彖伝、『後漢書』荀淑伝 | |
文政 | 『尚書』舜典 | |
天保 | 『尚書』 | |
弘化 | 菅原為定の漢文 | |
嘉永 | 『宋書』楽志 | |
安政 | ― | 内裏炎上、地震(安政の大地震)、黒船来航などの災異による改元 |
万延 | 『後漢書』馬融伝 | |
文久 | 『後漢書』謝該伝 | |
元治 | 『周易』 | |
慶応 | 『文選』 | |
明治 | 『易経』 | |
大正 | 『易経』彖伝・臨卦 | |
昭和 | 書経堯典 | |
平成 | 『史記』五帝本紀、『書経(偽古文尚書)』大禹謨 |
https://kotobank.jp/word/%E4%BB%A3%E5%A7%8B%E6%94%B9%E5%85%83-1359409
代始改元は,(中略)平安時代からは806年の平城天皇の大同の改元の場合を除き,皇位継承の年に先帝の年号を改めるのは非礼であるとしてこれを避け,翌年に改元するのを原則とするようになった。
※南朝の元号の出典、勧申者がのきなみ不明になってる。焚書にあった?それとも元号を考えられる教養のある人がいなくて適当につけただけだったりする?
※元号って漢籍から適当に二文字抜き出しているように見える。「百姓昭明、協和萬邦」から明和と昭和の2つの元号が作られているし。なんか規則あるんだろうか?
骨がもろくなるのを防ぎ、骨や歯の発育を促す。
15錠(成人1日量)で645mgのカルシウムがとれる。
発売されたのは、百年以上前の1911(明治44)年。現在のワダカルシウム製薬の前身であり、大阪・道修町に1856(安政3)年に
創業した和漢薬問屋、和田卯助商店の三代目和田卯助が開発した、日本で最初のカルシウム錠剤でした。
現在では骨を丈夫に保つだけではなく、筋肉や血管の収縮に関与し、神経伝達を安定させるなど人間の生命維持に不可欠な
ミネラルとして知られているカルシウムですが、開発当時は一部の先見の明のある人間にしか注目されていなかったのです。
副島 種臣(そえじま たねおみ、文政11年9月9日(1828年10月17日) - 明治38年(1905年)1月31日)は、日本の江戸時代末期(幕末)から明治時代の佐賀藩士、政治家、書家。勲一等、伯爵。初名は竜種(たつたね)。通称は次郎(じろう)。号に蒼海(そうかい)、一々学人(いちいちがくじん)。
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1 生涯
2 書家
3 栄典
4 参考文献
4.1 伝記
5 登場作品
6 脚注
7 関連項目
8 外部リンク
生涯[編集]
文政11年(1828年)、佐賀藩士・枝吉南濠(忠左衛門、種彰、30石)の二男に生まれる。父は藩校である弘道館の教授を努める国学者で、兄は同じく国学者の枝吉神陽。母は木原宣審の娘・喜勢。父と兄の影響により、早くから尊皇攘夷思想に目覚める。弘道館で学び、この間に江藤新平や大木喬任と交わる。
嘉永3年(1850年)、兄・神陽が中心に結成した楠公義祭同盟に加わる。嘉永5年(1852年)、京都に遊学、漢学・国学などを学ぶ。この間に矢野玄道らと交わる。さらに、神陽の命を受けて大原重徳に将軍廃止と天皇政権による統一を進言する意見書を提出して青蓮院宮朝彦親王から藩兵上洛を求められるが、藩主・鍋島直正に退けられた上、藩校での国学教諭を命じられた。
安政6年(1859年)、父の南濠が死去し、同年3月には同藩士の副島利忠の養子となる
元治元年(1864年)、長崎に設けた藩営の洋学校・致遠館の英学生監督となって英語等を学ぶ。慶応3年(1867年)、大隈重信と脱藩するが、捕らえられて謹慎処分を受ける。
明治維新後は慶応4年(1868年)、新政府の参与・制度取調局判事となり、福岡孝弟と『政体書』起草に携わる。明治2年(1869年)に参議、同4年(1871年)に外務卿となり、マリア・ルス号事件において活躍する。マリア・ルス号事件では、助けを求めた中国人奴隷を解放したことで、正義人道の人と国際的に支持された。
明治6年(1873年)2月には前々年に台湾で起きた宮古島島民遭難事件(台湾出兵も参照)の処理交渉の特命全権公使兼外務大臣として清の首都北京へ派遣され、日清修好条規批准書の交換・同治帝成婚の賀を述べた国書の奉呈および交渉にあたった。この間、清朝高官との詩文交換でその博学ぶりを評価をされている。同年10月、征韓論争に敗れて下野し、明治7年(1874年)には板垣退助らと共に愛国公党に参加、同年には民撰議院設立建白書を提出したものの、自由民権運動には参加しなかった。西南戦争中は、中国大陸中南部を旅行滞在している。
明治12年(1879年)、宮内省一等待講。明治17年(1884年)、伯爵。明治20年(1887年)に宮中顧問官、明治21年(1888年)に枢密顧問官、明治24年(1891年)に枢密院副議長になり、明治25年(1892年)には第1次松方内閣において内務大臣を務めた。
竹添 進一郎(たけぞえ しんいちろう、1842年4月25日(天保13年3月15日) - 1917年(大正6年)3月31日)[1]は、日本の外交官、漢学者。名は漸、字は光鴻(こうこう、みつあき)、号は井井(せいせい)と称した[2]。 甲申政変時の朝鮮弁理公使であり、後に漢学者として活躍した。日本学士院賞受賞。熊本県近代文化功労者[3]。
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1 来歴
2 主な著作
3 栄典
4 脚注
5 参考文献
来歴[編集]
肥後国天草(現・熊本県上天草市大矢野町)生まれ。父である小田順左衛門(竹添筍園)は、肥前国島原出身の医者で、天草大矢野島に移り住み、上八幡宮の宮司二上出雲の娘である美加と結婚した[3]。順左衛門は儒学者広瀬淡窓門下十八傑の一人でもあり、進一郎が幼い頃より儒学を教えた[1]。
1855年(安政2年)15才の時、天草より熊本に出て儒学者木下韡村の門下生となった。学業は極めて優秀で、木下門下では、井上毅、木村弦雄と三才子と称され、さらに古荘嘉門を加えて四天王といわれる[3]。藩校時習館の居寮生となり、木下のはからいで士分に取り立てられ、藩命により京都、江戸、奥州を訪れる。江戸では勝海舟の知遇を得る[1]。
1871年(明治4年)、廃藩置県で失職し熊本市や玉名市で私塾を営んだ後、1875年(明治8年)に上京する[3]。勝海舟の紹介で森有礼全権公使に随行し、清国へ渡った。同郷の津田静一と共に清国を旅し「桟雲峡雨日記」を記した[1]。天津領事、北京公使館書記官などを経て、1882年(明治15年)、花房義質の後任として朝鮮弁理公使となるが、甲申政変に深く関わり辞任した[4]。
1893年(明治26年)、東京帝国大学教授に就任し漢文学を講じた[1]。退官後、小田原に暮らし、76才で没した。1914年(大正3年)、日本学士院賞受賞(第4回)。文学博士。従三位勲三等。熊本県近代文化功労者。次女の須磨子は、講道館柔道の創始者である嘉納治五郎と結婚した。媒酌人は、木下韡村の次男で後に京都帝国大学の総長となった木下広次が務めている[1]。
単純な値上げだけでなく内容量減少という実質値上げも含めれば、最近は凄まじい物価上昇ですね。牛丼ですら最近は値上がっています。なんでこんなことをなっているのかというと、円安政策や量的金融緩和の影響もありますが、基本的には日銀が前年比2%のインフレ目標を掲げ、この目標を達成するために色々やっているからです。
なぜこんなことをするかというと、デフレ脱却が一番の目的です。デフレ経済というのは供給過剰の状態の経済であり、需要が足りない状態です。供給過剰の結果として生産物の減産や価格の値下げが行われ、経済に悪い状況を与えます。このように、経済学ではデフレは基本的に悪いもの(経済がうまくいっていないとデフレになる)です。
それだけでなく、急激なインフレやデフレは経済を混乱させます。例えば、2年前は150円だった牛丼が去年は1000円になり、今年は20円になったとします。こんなむちゃくちゃな経済ではみんな困ってしまいますね。そこで日銀がインフレ目標を発表し、インフレ予想というものに働きかけることで実際のインフレ率を安定化させようというのがインフレ目標政策です。
インフレ目標政策は経済を「安定化」するものであって、経済を刺激するものではありません。インフレ目標政策によって日本経済が安定化することはあってもV字回復はしません。経済を刺激する政策である量的金融緩和や拡張的財政政策とは違ったものです。
また、フィリップス曲線を根拠に、インフレ率上昇(デフレ脱却)には雇用拡大効果があるとも言われます。また、インフレ率上昇は実質賃金を減少させるのでその分雇用拡大するのではないかとも言われます。しかし、スタグフレーションのようにインフレ率が上昇しつつ実体経済も悪化する場合や、逆にアメリカのニューエコノミーのような場合もありえるため、インフレ率上昇が必ず雇用拡大に繋がるわけではありません。
金融政策には色々手段があります。日本はずいぶん昔からゼロ金利政策という金融政策を取っていますが、あまり効果がありませんでした。そこで今回チャレンジしているのが量的金融緩和です。これは日銀がどんどんお金を刷って、そのお金を市場にじゃぶじゃぶ投入する政策です。これによって市場でのお金の価値が下がりインフレ率が上昇し、また外国為替市場では円安になります。これは経済を刺激する(景気底上げ)政策です。
量的金融緩和はいつか必ずやめなくてはいけません。量的金融緩和をやめられない場合、極端に言えば経済はハイパーインフレーションに陥ります。でも、だからといって量的金融緩和を急にやめれば景気悪化します。極力悪い影響を与えずにどうやって量的金融緩和をやめるのか、その戦略を出口戦略といいます。出口戦略はアメリカですら苦戦するもので、量的金融緩和を始めたはいいけどどうやってやめるのか、いつやめるのかは課題となっています。
さらに量的金融緩和は通貨の価値を下げ、通貨安状態になります。日本円も下がっており、それによる貿易収支改善が期待されています。しかし、通貨安政策というのは通貨安競争につながるもので、本来IMFが禁止しており、やってはいけないことです。それでもIMFが黙認しているのは、日本が「量的金融緩和の副作用として通貨が下がっているだけですよ。意図したものではないですよ。」という態度をとっているためです。
金融緩和、ウォン安政策は一般的にはその前の時期を指すでしょう。2010年の後半からは
金融引き締めに転じた結果、韓国労働市場は踊り場を抑えて、名目賃金の伸びが大幅に低下
(2010年の名目賃金伸び率は+6.8%だったのに、2011年にはわずか+1.0%に落ち込んだ)
したことから実質賃金がマイナスになった。金融引き締めをすれば景気や賃金が弱含み、
インフレも抑えられるという教科書通りのことが実演されたわけだ。インフレは引き締めに
転じてから約一年後の2011年8月にピークをつけて以降、2013年6月には1.0%まで低下した。
昨年から始めた金融緩和がこれまた一年たってインフレに影響が及び始めたのか7月には
1.4%となっている。
大幅な金融緩和、自国通貨安政策をとったところでインフレがコントロール不能になって
ハイパーインフレが起きるなんてことはなく、引き締めに転じれば簡単にインフレを抑え
られた事例であり、また、金融引き締めに転じた後の一時期を除いて、大きな金融危機の後でも
金融緩和のもとで実質賃金がだた下がりになることなどなく、堅実な伸びに転じられることを
示した事例でもある。
リフレをやってもハイパーインフレは来ないだろうし、経済が破綻することもないかもしれないが、経済が韓国のようになる可能性は高いのではないか?
http://d.hatena.ne.jp/abz2010/20121206/1354791881
リフレによってもたらされうるこのような状況は、例え輸出産業が牽引して経済成長率が幾ばくか底上げされたとしても殆どの国民にとっては決してよいものでは無いというのが筆者の考え
↓
http://www.nikkei.com/article/DGXNASFS1000K_Q3A810C1PE8000/
生活全体について「満足」は昨年の前回調査に比べて3.7ポイント増の71%。7割を超えるのは1995年以来で「不満」は4.4ポイント減の27.6%だった。収入・所得に「満足」は3.7ポイント増の47.9と96年以来の高い水準。所得・収入に「不満」は4.5ポイント減の49.8%で16年ぶりに5割を下回った。
食生活、住生活、自己啓発・能力向上、レジャー・余暇生活に「満足」との回答はそれぞれ過去最高となった。収入に余裕が生まれ、生活を充実させるための投資が増えていると内閣府はみている。
http://www.asahi.com/business/update/0319/TKY201303190521.html
http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20130806-OYT1T01534.htm
景気の現状について、「はっきりと回復している」が6社、「緩やかに回復している」が104社で、計110社(94・8%)が回復基調にあると答えた。
円高や欧米の景気減速が懸念された2012年9~10月の前回調査(9・2%)と比べて大幅に増え、企業の景況感が大きく改善していることを裏付けた。
http://sankei.jp.msn.com/economy/news/130805/biz13080522000019-n1.htm
日本政策投資銀行がまとめた平成25年度設備投資計画は、非製造業がバブル期以来の2桁増となり、安倍晋三政権の経済政策「アベノミクス」の効果が内需に波及していることを裏付けた。牽引(けんいん)役は、コンビニエンスストアや物流といった内需関連サービス業。自動車、電機など海外投資を進めてきた製造業も国内回帰の動きを見せ始めている。
http://jp.reuters.com/article/vcJPboj/idJPTYE96001W20130701
http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20130513/476347/
「ITサービスは12年前半は厳しかったが、後半は回復してきた。13年度も期待できる」(富士通の山本正已社長)、「これまでIT投資を我慢してきたユーザー企業が、今後の景気回復に伴い積極的に投資するだろう」(NTTデータの岩本敏男社長)など、ITサービスの分野では14年3月期も「明るさ」を展望する経営トップが目立った。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/38299
市場が伝えていることは、アベノミクスの結果、日本の信用度が高まったということだ。日本をデフレから脱却させようとする昨年12月以降の安倍晋三首相の取り組みは、円安をもたらし、企業と家計の心理を好転させただけではなかった。努力次第で国家財政を立て直すチャンスを日本に与えたのだ。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/130531/trd13053101310000-n1.htm
平成24年度の公的年金の運用の黒字額が過去最高の10兆円規模になり、年金積立金の取り崩し額よりも運用益の方が上回ることが30日、分かった。政府関係者が明らかにした。これまでの最高額は、厚生労働省が運用していた17年度の9・8兆円だった。安倍政権の経済政策「アベノミクス」の影響で円安・株高が進み、国内株式の評価益が膨らんだ。