はてなキーワード: 先進とは
パートナーシップ制度の先進的運用が共同体安定のネガティブ要因になるって認識なのは理解しました。
(たぶん信念からして相性悪いけどしかたないし増田は悪くない)
多少横道に逸れるけど、前近代の家族観の認識のずれの方が気になった。
今となってはそれが極論に過ぎないという批判も多い
お手数だけどこれの根拠があれば紹介請う。自分の観測範囲ではE.トッド『家族システムの起源』で、人類の原始的な家族形態は核家族だと示したものだけど、これも数年前の書籍だ。
古事記に情報を求めるなら、近代から見て異様な婚姻エピソードが記されたイワナガヒメとコノハナサクヤヒメを出してみたい
実の姉妹が同一の男性に嫁ぐ話で、一方の縁談を断ったことにより厄災が加わるのだが
このエピソードが古くからの多くの人に受け入れられた背景に同様の婚姻システムの存在をみるのだけど
なお、横増田の「性愛と婚姻を結びつけるのが極めて近代的」という話も気になるけど、
もう少し考えをまとめてから…
(1)「『同性婚を推進すべき』という意見に対する肯定の根拠が見えない」という指摘について
◦ 現行の婚姻制度は共同体の安定の機能のためなるべく「現状を肯定することを前提に」運用する
◦ パートナーシップ制度は「共同体の安定」のために先進的な制度「の導入については慎重を期す」←同性婚は「現状」に沿った形で「現行の婚姻制度」の柔軟な運用により対応する
となる。増田の意見とは結構、真逆な結論になるよね。つまり、増田の提案する「新しいパートナーシップ制度」が、極めて近代的発想に基づくもので、それがうまく「共同体の安定」に資するビジョンが見えない、と言いたいわけです。分かりにくくて申し訳ない。
極東ブログの意見は、それこそ「(我々のイメージする近代的)家族はなかった」という話に過ぎないし、引用している本も40年ほど前の本だよね。それこそ「近代の見直し」が盛んだった時代の論としてはありがちな意見だけど、その時代の意見については、今となってはそれが極論に過ぎないという批判も多い。
これが極めて極論であることは、たとえば古事記を引いてもいいだろう。ヤマタノオロチに娘を捧げなくてはいけない状態にあった老夫婦(アシナヅチ、テナヅチ)を見たスサノオが大蛇退治をする、というストーリー。この人たちが当時として特異な「家族」として描かれているように読めるだろうか? むしろ普遍的に理解される家族・親子の姿として描かれているのでは? あるいは「物語のいできはじめの祖」とされる「竹取物語」ではどうだろうか。「子供の出来ない老夫婦が、子供を拾って家族となる」ところから話が始まるのではないだろうか。宇治拾遺や今昔物語などを調べてみてくれてもいいが、「一対の夫婦がいて子供がいて共に暮らす」というのはむしろ多くの物語で見られる「一般的な『家族』の姿」だよ。
もちろん増田の言う「ひょっとすると近代に作品が伝わるにつれて近代にそぐわない婚姻のスタイルの話が継承されなくなったのかもしれない」という想像を100%廃するわけじゃないけど、それを主張するなら、むしろ「確実に古代から伝わっている多くの本」に描かれたこれらの姿をどのように説明するかについての納得のいく説明が必要じゃないかな。
ただ、今までの議論では同性婚を現行制度に追加して容認する動機は見えなかった
この2本構成で行くというのなら話はわかるし、俺の理想もそんな感じなんだけど
> 少し考えて欲しいのだが、ごくごく一般的な庶民が、二人も三人も嫁をもっている前提のストーリーが、古典作品にあるだろうか?
簡単に言うけど名もなき庶民の結婚形態を把握するって相当むずかしいぞ
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2012/10/post-6075.html
「地方領主が家長として隷属民の家族形成も支配していた」が正しいんだろう
これが歴史のフィルタを生き残った家族形態なんだけど、今これを再現したい?
子どもが産める年齢のうちに先進的なパートナーシップの制定を日本で待てなかったから、私たちは海外に出て結婚し、自分たちの子どもを産んで育てています。こちらの生活は大変ですが、なんとか頑張っています。
日本に残った友人では、逆に不妊手術を受けて婚姻相当の権利を受けた友人もいます。色々と違うけれど anond:20190514024806 さんに近いかな。その友人は、海外に出ることよりも日本にいる方が自分にとっては楽なんだ、あなたほど頑張れないし能力もないんだ、あなたたちはとてもすごいよ、誰でもできることじゃないよ、と言ってくれました。私からすると、身体にメスを入れる友人の方がもっと強い意志を持っているように感じました。
今10,20代の方は日本に期待し過ぎてはだめですよ。そんなに簡単にこの法律は変わりません。日本だけが選択肢じゃない。いくらでも道はあるから、諦めないでくださいね。
https://anond.hatelabo.jp/20190519202053 の続き
端的に言って、業績のない研究室にはいかない方がよい。テーマがどれだけ合っても、研究論文を発表していない人間は研究者を辞めているのと変わらない。指導者としては絶対に選んではいけない。
研究業績は概ね研究室のウェブページに載っているが、ウェブページがなかったり、更新が止まっている場合は、以下のサイトが役に立つだろう
Google Scholar:author: “hogehoge” で検索すればhogehogeさんという著者名検索ができる
Researchmap (再掲):研究者のFacebook的なやつだ。
ResearchGate:研究者のFacebook的なやつ (こちらは国際的) だ。
まず注目すべきなのは、コンスタントに論文が出ているかだ。例えば、最後に論文が出たのが10年前であれば、それがその研究者の寿命だったわけだ。分野がどれだけドンピシャでも、そのような研究者の下で研究するのは勧めない。
・業績の質を吟味する
コンスタントにその研究室から、論文が出ているなら、どのような論文が出ているのかを精査すべきだ。インパクトのある研究をしているのかというものもちろん大切なのだが、あくまで過去の研究は過去の研究だ。これまでの研究履歴を見て、その研究室があなた自身のキャリアに寄与してくれるような研究状況にあるのかを見定めることが大切だ。
例えば、「過去の研究の焼き増しを続けているだけではないのか」という点に注目しよう。残念ながら、教員が自身の大学院生時代の頃のテーマを引きずって、代わり映えのしない研究を20、30年と続けているケースは実在する。もちろん、長年の苦労の末、大発見をするというケースもあるのだろうが、大半は単に最新の研究をインプットをしなくてなって久しいだけだ。つまり、研究者として賞味期限が切れてしまっている。そういう人のところに行くと、あなたは間違いなく腐る。なぜなら、その手の教員は「新しいもの」が嫌いだからだ。なので、あなたが面白いと思って見つけた新手法や現象、アイデアを持ってきても、気の無い返事をされるだけだ。
国際誌に論文を発表するのが当たり前な分野で、和文誌の論文でのみ書いている場合、完全に赤信号だ。論外なので、その研究室で博士課程には絶対に上がってはならない。そこに進学しても大した業績もなく博士生活を終えるだろう。28歳無職爆誕の時である。
科学研究の過度の業績偏重主義自体は、これはこれで問題であるのは私も思うところだ。しかし、博士院生が育つのはやはり、研究の立案、遂行、発表、そして論文化の一連のプロセスの中にあると思う。従って「院生に業績を出させる」能力があるのは、指導者として必須の資質なのだ。
まとめると、結局は主観的な言い方になるのだが、その研究室の論文を読んで「革新的だ」「分野を前進させている」「意欲的な研究をしている」とあなた自身が感じるかどうか、再三自問した方がよいということだ。
研究論文が出ていても、それが学外の共同研究者との研究ばかりで、そこの院生の研究でない場合もあるので注意した方がよい。この状況が生じるのはやや特殊だが、「教員本人は優秀だが学生がいない」あるいは酷い場合「指導があまりできていない」といったことが考えられる。研究室のウェブページには、概ね「メンバー」の欄があり、そこには所属している学生やポスドクの名前が書いてある。彼ら/彼女らの名前が「業績」欄に載っているのかはチェックした方がよいだろう。それを見たら、概ねどれくらいのペースで各学生が論文を書いているのかも確認することができる。
細かいところだが、これも一応確認しておきたい。指導教員の年齢が定年間近の場合、修士までは受けれ入れられても博士では指導できないこともある。また、そうでなくとも、学位をとって独り立ちをした後も、元指導教員は一研究者としてもっともあなたを理解してくれる人間であるはずだ。そんなかけがえのない存在が、あとどれくらい研究の世界に残るのかは知っておいた方がよいだろう。
私の例だと、新進気鋭の研究者を選んだが、大御所を選ぶのはそれはそれで正しい。どちらが自分の合っているのかは自分で考える部分だ。結局はケースバイケースであるため、個別にきちんと候補研究室を吟味した方がよいのだが、一般論としては
メリット:
大御所研究室の場合、上記のメリットとデメリットを反転させて考えればよい。
最後に、ここまで注意深く研究室を選んでも、失敗することは十分にありうる。
そういうときはどうすべきか。答えは一つ、すぐにでも脱出してほしい。
脱出先は、就職活動でもいいし、研究を諦めたくなければ他の大学院を受け直すのでも構わないと思う。
劣悪な研究室に長く滞在すると、人はゾンビ化する。学会に行けば、ゾンビ化した院生は必ずいるので、研究者諸氏には実感があると思う。
といった特徴がある。
・あの手この手で止めてくる
劣悪な研究室では「ここで逃げても何も得られないよ」「ここでダメならどこにいってもダメ」「とにかく手を動かせばいつかは報われるよ」「未来のことは考えるな、目の前のことに集中しろ」と、さながらブラック企業の上司のようなセリフを吐いてくるらしい。
当然、全力で無視した方がよい。
「あれ?私ゾンビ化している!?」と自分で気づくことができるのは稀だ。大抵、他の大学院の人間と会話する中で「もしかして、今の状況はおかしいのかもしれない」と感じる。
従って、他大学の人間と繋がりを持っておくのはとても重要だ。悪い教員は外との交流を持たせたがらない傾向がある。学会での懇親会や、研究会には積極的に出よう。それならば、教員としても止めようがない。とにかく、サードオピニオンを得る機会を作ろう。
随分長くなってしまったが、これで終わりだ。
この記事で読んで、良い指導者に巡り会える人が一人でも増えたら嬉しく思う。それと同時に、全ての研究室の健全化が進み、このような記事が不要になる未来を願う。
なんか当時のネットではドットiをバカにする風潮があって、自分もバカにしてたんだが、なんでバカにされてたんだっけ?
今から見たらPIAFSでイントラネットに接続できるのでセキュリティとして強固だし、標準プロトコル採用とか先進的な気がするけど、当時はバカにされてたよね。なんでだっけ?
なんか当時のネットではiモードをバカにする風潮があって、自分もバカにしてたんだが、なんでバカにされてたんだっけ?
今から見たらサブスクリプションでビジネスモデルも賢いし、おサイフケータイとか先進的な気がするけど、当時はバカにされてたよね。なんでだっけ?
男だけどお前の気持ちすげえわかる。女に共感したの初めてかもしれん。
俺はサッカー、いやイングランドに敬意を表してフットボールと呼ぶが、フットボールが大好きだ。
フットボールっていうのはお前らオタクにも分かりやすく言うとDQNの娯楽、文化であって
やたらと民度がどうこうとか言う馬鹿とか選手をアイドル視するババアとか消えてくれって超思う。
フットボールっつうのは労働階級やDQNが楽しめる場であり、DQNが文化を作ってきた歴史があるのに
今日本のサッカースタジアムじゃ観客が中指立てただけで出禁だぜ?
日本では野球に比べて後発のスポーツだったせいか、先進的なインテリスポーツ或いはオシャレスポーツだと勘違いした馬鹿共や選手をアイドル扱いするババアが多過ぎてうんざりする。
日本代表が勝って渋谷で大騒ぎになる度に「ああいうので盛り上がるファンは偽物」みたいに抜かすエセインテリ馬鹿が現れるが
あとついでに、サッカースタジアムで民度がどうこうっつうのはな、例えるならラップバトルの会場で「ファックやマザーファッカー等という言葉は汚いので使うのを辞めてください」というくらい的外れ。
民度が高いお淑やかな雰囲気がお好みならテニスでも見に行っとけやバカタレ。
俺はフットボールが大好きでフットボールを共に楽しむ仲間があと1億人くらい欲しいけど今の日本のサッカーファンは大嫌い。野球ファンの方がまだ仲良くなれる気がする。