はてなキーワード: 等価交換とは
錯覚による恋愛であっても本当に好きになってしまうと裏切られたと感じると感情は止まらなくなる物よ
それを周りがバチャ豚が~とか冷めチキを越えるか?とか煽ってる方がとてつもなく醜悪で人の醜さが出てるよね
V側もV側で一部がこの件に反応してV側の立場で「こう推せ」みたいなことを言い出すのは違うし形を強制するのであれば
始めに契約書を準備してペイに対するリターンを明確にしろスタンスを全て明確にしろ、リアルとバーチャルを混同させるな
コンビニで110円使ったら「110円」がなくなるんじゃない、「110円の価値」と「110円のお金」を交換したのだ
お金は使ったらなくなるのではなく価値の移動を担保するための存在だ
君らの配信ってそもそも面白いの?違うよね?「貴方」という人格が好きだからだよね
ただそこが居心地がよくって安心できるから自分の居場所があると思えるから行く人もいるんだ
めちゃくちゃ馬鹿なこと言うけど、交換して失うものと得るものの価値が等しいなら、そもそも交換する意味がないのでは、と思ってしまう。
① 物品Aと物品Bの価値は、現時点では等しいが、将来的に一方は下がってもう一方は上がるとする(通貨でも株券でもいい)。交換する者同士がお互いに、いま向こうが持っている物品の方が将来的に価値が上がると思っている
とか、
② 大量に羊毛を持っている者と大量に作物を持っている者がいて、お互いにこんなに持っていてもしかたがないので、市場価値で同じになる分量を交換する。現金化した場合の資産額は交換後も変動はないが、双方の生活は以前より向上する
とか、理屈をかませれば、まあそういうことなんだろうと思うけど、もう一つ腑に落ちない。
①の場合ではリスクとリターンがお互いに公平であってこそフェア=等価を完全化できると思うんだけど、偶然に左右されたり、多分にして情報格差による詐欺が横行しそうなのできわめて高度な知能でもなければ公平性の真偽を判断できそうもないのに、どうやってそれが等価だと証明するんだ。
②だって、羊毛10g100円、大根も一本100円、だから等価な、つって物々交換するか貨幣を使うんだろうけど、本当に大根一本100円なのか? 誰が決めてんだ、それは。と思ってしまう。
需要と供給、神の見えざる手、的なことで市場価格100円に落ち着いてんだ、ガタガタ言うんじゃねえ、ということなのかもしれないが、どうも納得いかない。
だいたい、100円分の羊毛と大根を交換した後の双方の満足度は同じなのか。たぶん違うだろう。三日連続でふろふき大根食ってたら、もう要らんだろう。でも100円は100円なのだ。
というか、等価交換という言葉が出てくる場面で、こんなことまで込みで考えてる雰囲気を感じない。
ハガレンは名作だが、「同程度の痛みや苦い教訓を伴うが、実行した方がギリギリ得」ぐらいな意味合いで使われている感じがして、1円でも得ならもう等価じゃねえんじゃねえか? 単なる合理的な判断では? と思わなくもない。
そういうことで頭に戻ってきてしまうのだが、交換して失うものと得るものの価値が等しいなら、そもそも交換する意味がねえんじゃねえのか。なんなんだ。
秋篠宮家の眞子さんの結婚関係記事は、何故あれほどに炎上するのだろう。一体、何が人々の心を燃え上がらせているのだろうか。私には分からない。自分のことでもないし、自分の家族の話でもないし、そもそも話したことも会ったこともない人のことで、時間を、そして感情を注ぎ込むことに疑念をもたないのだろうか。分かっているとは思うのだが、あれは「他人」だよ。これまでも、そしてこれからも、あなたの人生に何の関わりもない人なんだよ。当然のことながら、あなたには何の決定権も、批判する権利すらないんですよ、と言いたい。しかしそういう私も、恥ずかしながら俳優やアイドルの結婚記事を見て心がざわついたことはあるし、それと同じ話なんだとは思う。結局、自分と他者の境界線がきちんと引けてない証拠だ。
ただ、皇室関係の話題となると、なぜか自分の感情の暴走を正当化しようとして、「皇室には自分達の支払った税金が支払われているので、国民として意見を言う権利がある」などと臆面もなく主張する人が出てくる。・・・いるよね、金を払えばあらゆる権利が与えられると勘違いしている人。こういう人が、「俺は客だぞ」と店員を召使のように扱ったり、「お前らは税金で食わしてもらっている身分だろう」と、役所の窓口で吠えているのだろう。家庭で「誰の稼ぎで生活できているんだ」とマウンティングする人も同類か。ドコモキャリアなら、ドコモの社員が自分の言うことを聞いて当然と思っている?発想が根本的に間違っている。金銭の支払いは契約の履行に過ぎず、支払った対価と等価分しかサービスとして受け取れない。お客様は神様ではない。
まあ、税金については等価交換とは少し違うかもしれないが、「納税をした者は、皇族の結婚相手について意見をいう権利がある」という命題がおかしいことくらい分かるだろう。皇族について主張するなら制度についての話であるべきで、個人の生き様について見解を述べること自体が間違いだ。「一時金制度そのものがおかしい」と言っている人は、さーや(紀宮清子内親王)のときにも「一時金は高すぎる」と怒り狂っていたのか?結婚相手が黒田氏なら祝福するのに、小室氏なら駄目なのか?・・・もっとも、ヤフコメで暴走している人たちは、制度について議論をしたいわけではないのだろう。自分の気持ちを声高に主張することに目的があるので、議論が成立しない(議論は、互いに反論し合える内容であることが必要だ)。
感情をむき出しにして、嬉々としていじめをしている人は、おそろしい。しかも「自分は正しい主張をしている」と信じ込んでしまっている様子は、本当におそろしい。
(追記)この方のブログを見て、「有名とされている人の結婚・妊娠・出産・離婚・死去にはまず反応しないようにしています。」という人間は自分だけではないのだなと思い、少しほっとした。
皇室結婚絡みでの4年間のマスコミ報道・SNSを見る限り、皇室に婚姻の自由は不要と考える日本人は多いのだろう - 斗比主閲子の姑日記
うーん。これはちょっと微妙な質問なんだけど、あなたは、政治の立場で語られる「人類愛・博愛」を文字通りの意味だと思ってる? あるいは、そうであるべきと考えている?
私は、少しそれとは違う立場で、文字通りの意味で「人類愛・博愛」を語るならそれはただの宗教になってしまうよ、と思ってる。いや、宗教においてすら、「無私の善行」はしばしば「現実の利益から見ると全くゼロとみなされがちな『神の恩寵』とか『来世の救い』など」の見返りがあるから現実から見ると「無私」に見えるだけで、たいていの場合、それが方便であっても、少なくともそれを行う人から見れば等価交換が成り立つから行われているんだよね。だから、「完全に自分に利のない行動を取れ」と人々に訴えることが一つの運動として成立するものだろうかと思う。たとえば、「あなたの良心からすればそれは正しい行為だと感じるが、『神』はそれを禁じ、信者はあなたに唾を吐き、あなた自身もそこから何の喜びも得られず、そしてその行動をとればあなたは確実に地獄行です。」というたぐいの行動があったとして、それを100%他人のためだけにできるような宗教家がいるのかな。いたら、それはもう聖人すら超越して救世主とでもいうしかない存在じゃないかなあ。でも、あなたが「リベラル」に求めてることってそういうことだよね。それは期待が過剰ではないかな。
だから、少なくとも私には、あなたの考えるような「文字通りの人類愛・博愛」を前面に押し立てて議論を展開されても、全く説得力を感じないんだよ。特に、政治という、それがもたらす現実の利益でもって成果を測るしかないフィールドにおいて、「人類愛・博愛」を掲げるのは、それが長期的には利益を生むと判断できるケースにおいてだけであってほしいと思う。保守と革新の違いとは、その「長期」をどれぐらいに見積もるか…という程度の違いであって、それぞれの判断は時に正しかったり間違ったりするけど、お互いに折衝しながら、その時々で短期あるいは長期の判断を使い分けるシステムが民主主義であり、どちらかが絶対に正しいなんてことはないと思ってる。だから、今回のような「目前にリアルな死の迫っている状況」で、たとえリベラルと呼ばれる人たちであっても、人類愛・博愛を前面に押し立てて主張を展開しないのは、むしろ当然のことだと思ってる。
つまり、私たちは民主主義が正しく機能するようにあらゆる努力を払い必要なメンテナンスを行うべきなんだけど、それを越えてどちらかの陣営の意見が絶対視されるような考え方については、少なくとも政治的な見解や行動については「それは違う」と言っていく必要があるんじゃないかなあ。それこそ相手が右でも左でも。そういう柔軟性を「リベラル」と呼ぶなら、まあ私は一応リベラルに分類されるんだろうけど。
余談だけど、だから「常に一定の支持政党がある」ことが当然であるようなものの見方って違和感があるのね。具体的に言うと、選挙のたびに「無党派層が〇%でその行方によって…日本は諸外国に比べて無党派層が多くて…」云々みたいな。「無党派層」にまるで定見がないかのような語り方は本当に疑問。党派的行動ってのは政治的な振舞いの一つの典型ではあるんだけど、特に議員の投票行動をめちゃくちゃ束縛する日本の議会の様子を見てると、むしろ所属政党をもってる人の方がある問題についての「自己の見解」を持ち合わせていないのではないかとすら思う。特に昨今”リベラル”と呼ばれてる政党の中の人に特にそれを感じるのは、極めて残念なことだね。
俺は増田を評価する。ただ職業としては個人でやるとなんやかんや言われるかもしれない。会社を立ち上げて法人としてトレードすると若干は払拭されるかもしれない。
それはいいとして、俺は日銀が許せない。増田は日銀のETFお買い上げに関連する歪みを利用するような手法と書いているが、俺はこの日銀のETFお買い上げが許せないのだ。
株式と等価交換しているのだからお金をばらまいているわけではないのだが、実質的には富裕層にお金をばらまいているのと同義である。
富裕層はお金使わないし、企業もお金使わないから、市中にお金が出回らない。つまり、貧乏人である俺のところまでお金が回ってこない。
何がしたいんだろう、日銀。ねぇ、何がしたいの。
と、そういう日銀への恨みもトレーダーに向けられているのではないだろうか。
君、恨むって無能でみじめな姿晒してるだけじゃんって話にもっていくけど、そういうことをいじめや虐待の被害者にも言うんだろうね。
美学みたいなもんかと思うけど、個人的にはみじめだと思わないね、
今時点で等価交換ができない事柄に利子付けて返すために大事なこと。処理できないエネルギーの電池として機能すると思うけど。
すぐ豆電球つければチャラになる話じゃないんだよね。
済んだ失敗程度と同列の感情だととらえてるってことは、
今すぐ解決できないこと、時間か、仕返しでしか解決できないことの経験はないのかな。
何もできないくせにただ脅して同情を買おうと口だけ動かしてるじゃん、と思ってるでしょう?
人の恨みを買っても、いつでも逃げられるし実害なんて起こるわけもない、だってカワイソウごっこしてるだけだからと思ってるでしょう?
違うんだよなあ…。
読めてないのどっちなんだ。
この2018年は、共産主義の父といわれる哲学者・経済学者、カール・マルクスの生誕200年にあたります。出生地であるドイツのトリーアで記念式典が開かれ、青年時代を描いた映画が各国で公開されるなど、話題を集めています。
先月創刊した、古典・名著をマンガ化する新シリーズ「講談社まんが学術文庫」の初回刊行分にも、マルクスの主著『資本論』が入りました。近代資本主義が興隆する19世紀英国を舞台に物語が展開し、『資本論』のエッセンスを解説します。若い登場人物たちのドラマは楽しめます。
けれども、原作である『資本論』が不朽の古典として扱われることには抵抗を感じます。今からみれば、経済について完全に誤った考えに基づいているからです。
たとえば「等価交換」という考えです。マンガ版ではパン屋と八百屋が売れ残ったパンと野菜を交換し、その交換が成り立つのは互いの商品が同等の価値を持つからだと解説されます。
何となく納得してしまうかもしれません。しかし人が物を交換するのは、相手の物が自分の物と同じ価値を持つからではありません。もしそうなら、多くの買い物客がスーパーやコンビニを出たとたん店に引き返し、不良品でもないのに、買ったばかりの商品を返し、お金を取り戻そうとするはずです。同等の価値を持つことが交換の理由なら、商品とお金の交換を何度繰り返しても、人は満足するはずだからです。
しかし現実にはそんなことをする人はいません。買い物客は、払ったお金よりも買った商品の価値が大きいと思うからです。一方、店の主が商品を手放すのは、逆に商品よりもお金の価値が大きいと思うからです。
つまり交換が成り立つのは、同じ物(お金も物の一種です)でも人によって価値の大小が違って見えるからなのです。
ここからわかるのは、物の価値とは、それを作るためにかかった労働量などの客観的な基準で決まるのではなく、人それぞれの主観によって決まるということです。この事実は1870年代、オーストリアの経済学者メンガーらによって明らかにされました。経済学の歴史上、革命的な発見といわれます。
しかし、それ以前の世代に属するマルクスは旧来の考えにとらわれたままでした。1867年に全3巻のうち第1巻が出版された『資本論』は誤った古い考えによって書かれたため、つじつまの合わないおかしな主張が多いのです。「等価交換」はその一つです。
もっとおかしな主張は「剰余価値」です。マルクスは『資本論』第1巻でこう述べます。商品の価値はすべて労働によって生み出され、その価値どおりに市場で売買される。ところが資本家は商品を売って得た代金のうち、労働者には一部を賃金として支払うだけで、原材料費などを除いた残りは利潤として自分の懐に入れてしまう。いいかえれば、労働者が生んだ価値の一部には対価を払うが、残りの価値(剰余価値)には払わない。これは実質的な不払い労働であり、不当な搾取である、と。
これは商品の価値は労働によって決まるという、誤った考えから出発しています。実際には、商品の市場価値を決めるのは労働者の働いた量ではありません。消費者の心に基づく選択です。私たちは買い物をするとき、商品の製造にかかった労働量を調べたりしません。
もしマルクスのいうように商品の価値が労働量で決まるなら、大規模な設備を使い人手を省く資本集約型産業よりも、サービス業など人手を要する労働集約型産業のほうが利益率は高くなるはずです。しかし実際にはそのようなことはなく、長期ではあらゆる産業の利益率は均一化に向かいます。ある産業の利益率が他より高ければ、その産業に参入する企業が増え、価格競争が広がって利益率が低下するからです。
マルクス自身、『資本論』第1巻でこの矛盾を認め、あとの巻で解決を示すと約束しました。ところが第1巻を出版した後、なかなか続きを出さないまま、16年後の1883年に死んでしまいます。
あとを引き継いだのは盟友フリードリヒ・エンゲルスです。エンゲルスはマルクスの遺した草稿をもとに、第2巻を1885年に出版します。しかし矛盾の解決は示されませんでした。読者が不審に感じることを警戒してか、エンゲルスは序文で、解決は次の第3巻で示されると予告し、経済学者たちにこんな「挑戦状」を叩きつけます。この矛盾をどう解決するかわかる者がいたら、第3巻が出版されるまでに見せてもらいたい、と。
そこから9年後の1894年、残りの草稿やメモを取りまとめ、ついに第3巻が出版されます。エンゲルスはまた序文を書き、前巻での「挑戦状」に応えて多数の論者が矛盾について論考を発表したが、どれも的外れだった――と勝ち誇ります。それでは第1巻の刊行から27年もたってようやく出版された最終巻で、マルクスは矛盾をどのように解決したのでしょうか。実は、解決できなかったのです。
第3巻でマルクスは、商品の価値は投じられた労働で決まるという理論と、異なる産業で利益率は均一化するという現実は「一致しないかのように見える」と改めて述べますが、その矛盾の解決は示しません。その代わり、資本主義が発達した国ほど利益率の均等化が迅速に進むという現実を認めるだけです。これは結局、商品の価値は労働で決まるという第1巻の理論を放棄したものです。
メンガーと同じオーストリアの経済学者、ベームバベルクは1896年に出版した著書『マルクス体系の終結』で「マルクスの第3巻は、その第1巻を否認している」と指摘し、マルクスは解決でなくごまかしを示したという他の経済学者の厳しい意見に同意します。第1巻で述べた剰余価値の理論が間違っているなら、それに基づき展開された、資本家は労働者を搾取するという主張は根拠を失います。ベームバベルクは『資本論』を「カルタ札で組み立てられた家」、すなわち砂上の楼閣だと切り捨てました。
マルクスが第2巻以降を生前出版しなかったのは、この破綻が修復不能だと気づいたからともいわれます。そうだとすれば、学者としてかろうじて誠実だったといえるでしょう。
今の世界ではこうした経緯を無視し、マルクスを見直そうと無責任な声が高まっています。欧州連合(EU)のユンケル欧州委員長は記念式典に出席し「平等の実現のために力を尽くした」と功績をたたえました。
しかし20世紀の社会主義諸国崩壊が示すように、破綻した論理を土台に未来を築くことはできません。マルクスが話題となる今、それこそがかみしめるべき教訓のはずです。
https://bizgate.nikkei.co.jp/article/DGXMZO3064412017052018000000
すばらしいまとめ。エンゲルスの隠蔽手法は百家争鳴論を思い出す。矛盾ばかりで骨格ができていない思想だったから、虐殺国家が生まれてしまったのだろう。