はてなキーワード: 死刑廃止論とは
死刑廃止論者って、どんな理由があれ人が人を殺しちゃいけないとしか言ってないわけだから、単なる感情論だよね。
遺族の気持ちはどうなる!お前の娘が惨殺されても死刑反対なんて言えるのか!なんていのも感情論。
感情論同士で決着付くわけがない。感情一切廃して、コスト、抑止効果、更正率など合理的に考えていけば答は明らかなのにね。何故未だに揉めてるんだろ。
おぼっちゃまの新人刑務官が、死刑確定囚とのふれあいのなかで死刑についてや死刑囚についていろいろ考えて行動したりしなかったりする
ドラマ化もされてたと知ってどんなもんかと思って刑務官っていうテーマが面白そうだと思って読んでみたけど、自分には合わなかった
死刑についての考えを深める最初の一歩という意味ではいいのかもだけど、両論に平等に描写があるわけではなく、死刑廃止論者側の意見がメインだった
絵も下手で表情もわかりづらくすごく読みづらい
あまりにもフリーダムに死刑囚の部屋がかかれててここまでフリーダムなものなのか?とちょっと疑問に思った
いろいろ本は読んだみたいだけど、取材には行ってるのかなあと
うじうじgdgdと悩みまくって公務上知りえた秘密を話したり、必要以上に介入して自分のためだけに改心させようとしたりと、あまりにもひどくて見てられなかった
もったいつけて、これは自分とナントカの心の物語だみたいな言葉をしょっちゅういれてくるけど全然語られないし、
最終巻の感想読んだら結局現状維持っていう結論に落ち着くらしいし、もうそんならつまらんと思うものを無理して読むまいと思って読むのをやめた
死刑廃止論者なら当然そうなる(そう言える)というリプライに対し、モトケンさんが「たくさんRTされたところからすると、そうでない人が多かったんじゃないかな。」と返してるところからすふと、前者の意図だったんじゃないかな。
本当は死刑抑止派(死刑廃止か存続かの二択なら存続派)なのに、自分が死刑廃止派だと誤解している人が相当数いるなら、前者の意図でも意味があるツイートでしょう。
モトケン@motoken_tw
これってどうなんだろう。個人的には「死刑の要件を厳格にして、大量殺人鬼の場合に限定すべきだ」という議論は別に成り立つと思うのだけど。
ただし、これは正確には「死刑抑止論」とでも呼ぶべき立場であって「これを死刑廃止論と呼ぶのは不正確」という指摘はあるかもしれない。ただこれは呼び名の問題であって、些末な問題。モトケンさんもそういう意図で言ったのではないだろうし(もしそういう意図ならこの議論自体クソどうでもいい)。
この場合、別にモトケンさんの言っていることはそんなに新しいことではない。この主張を言い換えれば「多数人の被害者感情にどう応ずるのか」ってことだろう。
この辺の議論はさんざんなされてるところだし、Wikipediaにもよくまとまっているので詳しくは触れない。
一応一言すると、私はクリスチャンなのでやや前提が異なってきてしまうんだけど、①死刑にするより悔い改めさせることの方が大事、②刑務官に殺人をさせるのは不当、③憎しみ(大量殺人)に対して憎しみ(死刑)で返しても憎しみが広がるだけで遺族感情も癒されないのではないか、④人が裁かなくてもどうせ神様が裁いてくれる、という点で、モトケンさんの仮定に立ったとしても死刑は不当であると思っております。
出エジプト記の続き。
キリスト教って何となく死刑廃止論のイメージがあったんだけど、「人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられる」(21章12節)って書いてあってびびった。
一応同じ出エジプト記に「殺してはならない」(20章13節)ってのがあるのだけど、注釈を読むと、前者は後者の例外らしい。
あと関連して、ロマ書の13章に、政府には従えよ~お前ら~税金もちゃんと払えよ~って書いてあってびびった。反権力的なイメージがあったけど違うんだね。
※ブコメ返信
いつもありがとうございます。相変わらずの博学で大変勉強になります。指定された箇所を見て、こんな記述があったのかと驚いております。
また変なこと書いてたら教えてください。どうぞよろしくお願いいたします。
日本でフランスやトルコやアメリカのようなテロがまだ起こっていない理由は何か。
少なくとも外交の成果ではあり得ない。
海外では普通に被害に遭っているから、日本人だから狙われないわけでもない。
公安や警察は他国よりはマシなのかもしれないが、それでも警備が手薄なとこを狙われれば厳しい。
そうではない。テロを抑止しているのは日本の空気そのものである。
受け入れたのに疎外するから絶望してテロに走るのだ。最初から受け入れなければ全て解決!
トランプを非難しながら、実質同じことをやっているのがこの国の強みだ。
ついでに言うとはみ出し者にも厳しく、凶悪犯への同情も全くと言っていいほどない。
信仰心も薄いので、殉教者と持ち上げたところで英雄どころかただのキチガイ扱いだ。
先日の裁判員裁判で死刑が適当だとされた高裁判決を破棄して無理やり無期懲役とした。
何故彼が死刑廃止論者と思うのかというと、その前2012年闇サイト殺人事件に対する最高裁の判決で高裁の死刑判決を破棄して無期懲役にした事による。
殺人犯に更生の余地などないことは、宮崎勤を始め女子高生コンクリ事件の加害少年たち、奈良少女児殺害の小林薫や光市母子殺害の少年死刑囚、リンゼイさん殺害の市川達也を見ると明らかだ。
そして、更生の余地ありとして少ない刑期で釈放されてみるのを想像すべきだ。
あるストーカー事件ではストーカーを許す判決が出た直後、ストーカー被害者が殺される事件さえ起こった。
言いたいことはタイトルの通りです。性格とか価値観とかの内面的な部分。で、そのために何が必要かというと、「きっかけ、意志、努力、時間」の4つかな、と。
こんな感じで積算した値が、変えようとしている部分が変わるのに必要な値に達すれば変われるのかな、と。なので、このうち一つがすさまじく大きければ他が多少低くても変わることができる。
最近だと3.11震災でしょうか。あれを体験して災害への意識が大きく変わった人って結構いますよね。あとは死刑廃止論者が身内を殺されて、一転、死刑推進論者に変わったり。
本質とか根本的な深い部分を変えようとしたら時間がすごく必要になるので、必要な値が大きくなる。普通はその通りに長ーい時間をかけるのだけど、大きなきっかけとか強い意志によって比較的短期間で変われたり。
逆に一つでも0だと変わることができない。なので、いくら若くても最近の学生のように意志や努力が0か、限りなく0に近いと変わることはないかほぼ不可能。和じゃなくて積にしたのはそういう理由から。
でもまあ、年を取ってから深いところが変わるのって、テレビで取り上げられるような希少な事例なんでしょうから、大多数の凡人は地道に時間をかけてやることになるのかな。で、その前に寿命が・・・。
うん、思いつきだからきっと突っ込みどころ満載なはず。でも、この程度のことならどこかのえらい人がとっくに書いてそうだなあ・・・
罪を犯して罪を償うのは、当然のことです。では、犯罪者から命を奪えば、彼(ないしは彼女)は「罪を償った」ことになるのですか?
それで「イイキモチ」になるのは、ハッキリ言えば事件に関係のない第三者だけではないですか? いい気味だ、ざまあみろ、自業自得だ、正義は為された。…etc。そんなことで、被害者の心は本当に癒されるのでしょうか?
大阪教育大附属の児童殺傷事件の犯人、宅間守は、「死にたかったが自殺する勇気がなかった」「死刑になれる相手なら誰を殺してもよかった」「子供をねらったのは殺しやすかったから」そして、死刑判決が出て、遺族に何か言うことがあるか、と聞かれ「あの世でもう一回お前らの子供を○してやるわケッケッケッ」…という趣旨の発言をしたそうです。
こういう人間をただ殺して、それで遺族は本当に心が癒されたと思いますか?
日本社会では、問題が起こると、当事者が「責任をとって辞職」したりします。しかし、それは本当に「責任を取った」ことになるのでしょうか。
特に、事故など、今後の対応が重く、長く、苦しい、果てしないものになることが想定されるとき、そんな対応から逃げ出したくなっても無理ありません。そんなとき、「辞職したから責任取った」と得意気に言われると、むしろ殺意が湧きませんか? それはむしろ「無責任」の一形態に過ぎないのではないでしょうか。
私が死刑などやめた方がいい、と思うのは、それが無意味だからです。本当の意味で「罪を償わせる」ためには、生かして、生かして、長生きさせて、どんなに苦しくても一生をかけて自分のやったことと向き合わせる。「償う」などということが実際に可能であるか否か、それは分かりません。しかし「罪を償う」などということが、もしできるのだとしたら、そういう地道で苦しいやり方の中にしかあり得ないと思うからです。
よく主張される「死刑は見せしめとして役に立つ」という意見。ですが、これまで死刑が廃止になった国で、凶悪犯罪が増大したというデータはないので(むしろその逆です)これは否定されます(※)。死刑に「犯罪抑止効果がある」という意見にはエビデンスがない。また、死刑には、受刑者本人に対する教育的役割(刑を受けることで、罪悪感を感じ、社会復帰への道が開ける)がないことは明らかであり、経済効果についても、無期刑に比べてコストが安いということも無いのです(人を監禁して殺す、というのは簡単なことではありません。そのための特別の施設、管理者、担当者、手続き……様々に膨大なお金がかかっています)。
更に、よく言われることですが、死刑は不可逆であるというその性質から、冤罪が発生したときに取り返しのつかないことが起こりかねない、もっと言えば、取り返しがつかないだけに「『取り返さないでおこう』という圧力が発生する」という危険も指摘できます。
死刑制度には、合理的に見ればこれだけの問題があり、普通に考えればむしろ「無くす」のが当然の立場なわけです。ご理解いただけたでしょうか?
それでは、次の問題。これだけ問題のある死刑制度が、アジア圏で根強く残るのはなぜなのか? これを考えてみたいと思います。
死刑を残す国々(日、韓、中など)は、どれも同程度に人権意識が低いのでしょうか? これらの国々は、民主主義的にみせていても、その実、全体主義的な管理社会だからなのでしょうか?
…
いろいろな理由は考えられますが、私は、これらの社会が、依然として「家、一族」を基盤とする封建制社会の気風を残しているからではないかと考えています。
「家、一族」を基盤とする封建制社会は、「個人」に対する毀損を、「一家、一族」に対する毀損と見なします。「個人」を基盤とする社会にも、もちろん特定の個人との絆からくる個人的な「復讐」は発生するわけですが、「家、一族」を基盤とする社会では、「個人」に対する毀損が「家、一族」あげての「復讐」、つまり「敵討ち」を引き起こしかねない。だから、これらの国家で秩序を保つためには、国民が勝手に「敵討ち」をしないようにする…つまり「公権力による敵討ち代行」を、制度として保証するしかない。それが、これらの国における「死刑制度」の意味なのではないか。
「日、韓、中」が、近代社会における刑罰としての「死刑」制度に合理性がないと分かっていながら、その廃止に踏み切れない理由は、これらの社会がもつ潜在的な「敵討ち」の論理のせいであり、これらの国で国民に死刑が支持されているのは、依然としてこの国の人々が「敵討ち」大好きだからなのではないか、と思っています。
従って、核家族化が進行し、家族関係が欧米化していけば、いずれは日本でも、死刑は廃止されるのではないでしょうか。ごく自然の流れとして。そうなっても不思議はない、と私は考えています。少なくとも、死刑を廃止した国々が「人の命を軽んじている」わけでも、「罪を償わせるシステムをもたない」わけでも、被害者を軽んじているわけでもない、ということさえ理解していれば、死刑廃止論というのを、まるで非現実的な論のように批判するのがおかしいことは、理解できるはず。そこで考えるべきなのは、「なぜ他の多くの国と違って、これらの国では死刑がなくせないのか」です。
(6)終わりに
死刑廃止論を感情論だと決めつけて、叩く。そういうのを「案山子論法」と言います。相手の実体でなく、自分が勝手に想定した案山子のような無力な「敵」を相手に、(自分の中では)華麗にワン・ツーを繰り出し、ノックアウトする。気持ちいいかもしれませんが、それはただのオナニーです。
死刑廃止論を批判するなら、もう少し死刑や法律、社会に関する勉強をしてからにした方がいいと思います。
追記
※参考:抑止効果という神話 http://d.hatena.ne.jp/good2nd/20070901/1188667970
たった一人というけれど、もしもそれが皆さんの身内であったら、それでも同じ事が言えますか?
坂本弁護士一家殺害の件でもそうでしたが(自由法曹団が事件後、一度死刑賛成に回った)、これは感情論で済まされる問題なのでしょうか。
死刑は野蛮だし欧米諸国が廃止してるから日本でも廃止すべきだ!という言い分は分からなくもありません。
しかしながら、人ひとりの生命の価値を量刑程度で済ませようというのは如何なものかと思います。
人を殺しておいて、命乞いをする位なら初めから人を殺さなければいいだけの事です。
それでも人を殺したら、罪を償うのは当然です。
それは、権力者であってもです。
同様に、犯罪者を擁護するのに感情論を振り翳しますが、では、被害者やその遺族の感情はどうなのでしょうか。
死刑廃止論者の皆さんに知って欲しいのは、被害者には殺される理由がありません。また、その遺族は殺された理由、犯人の処遇について知る事、そして行使する権利があります。
法律の専門家である死刑廃止論者であれば、それが如何に同情されるべき事か計り知れないかもしれません。
ですが、犯罪者への救済措置を万全に行えるのに、本来被害者であるはずの人間やその遺族を蔑ろにするのは、それこそ感情論です。
被害者に原因があったかもしれません、しかし殺すまでもなかったはずです。
死刑廃止論者の皆さんは、もっと法に則って適切に判断して下さい。
共通点が多い。
主張してる人間がだいたい同じだ。
非暴力不服従を謳っててしばき隊のようなヤクザを先頭に立たせてる。
アメリカなどでは、仮釈放なし終身刑を最高刑にするなどして一生牢獄から出られないよう被害者遺族の感情を恣意的に和らげようとする試みがあり、
また被害者遺族に対して保護プログラムを組むなどしてアフターケアに事欠かない。
しかし、日本ではまず加害者の人権や生活の保障を第一として、加害者のプライバシー侵害を非常に恐れており、一方被害者遺族へは集中砲火の如くメディアスクラムを強行している。
加えて、加害者の推定無罪を基本として、いかなる残酷な殺人であってもそれでも殺人をおかす人の生命を救おうと死刑回避を目論み、被害者やその遺族の感情を大いに無視した行動が多い。また、死刑廃止を唱える割に、それに代わる代替案が皆無。無期懲役を最高刑にしようとさえ考えている。
それは、死刑廃止論者が被害者の人権よりも加害者の人権の方が大事という極めて異常な精神状態の持ち主で、
光市母子殺害事件の、ドラえもん発言のような人間の生命を救おうと躍起になってる。
同様に原発廃止論者は何が危険なのかを説明せず、チェルノブイリなどの実例を挙げるにしてもその利益によって生活を営む人達の権利を著しく損なわせ、
また代替案を多くはコストが莫大な割に利益が少なく、その殆どは即効性のきわめて低い太陽光発電を掲げている。
この嘘は、後に日経新聞や産経新聞など各紙で報道されたため、今では多くの人が原発廃止案を白紙にしつつあるが、原発廃止論者はたくさんの人が死んだから廃止にすべきと主張を曲げない。一種の精神疾患だ。
廃止するにしても、そこで暮らす人はこれまでその利益によって潤ってきたのだから、彼らを十分に納得させられる代替案が急務であるのに棚上げだ。
似たような人間というと、フェミニストや沖縄の活動家もそうなのだがここでは割愛する。
とにかく、これだけ権利を主張するにも関わらず、その恩恵にこれまで預ってきた人達つまり地元住民の意見を無視して中止ないし廃止を求めるのは何が目的か?
彼ら廃止論者には共通項が多い。