はてなキーワード: スケープゴートとは
親愛なる同志たちへ、僕もできれば愛を捧ぎたかった。
東京における直前告知で効力の強い有観客催事中止の報を受け、有明で開かれるはずのイベントはなくなり、誰もいないホールに机が並ぶ異様な光景が生まれた。静かに混乱が巻き起こっている。
国や自治体がありとあらゆる娯楽や飲食を抑圧し、それでも五輪は着々と開催へと進んでいる様子は、態度があべこべであると誰しもが怒りを投げかけた。
そう言わんばかりの空気が取り巻いている。
しかし、見えない無辜の民たちの雰囲気に乗り、同じことを言ってはいけないのだ。
持っていると思い込んでいる矛が、次に向くのは私たちだからだ。
五輪が仮に中止したとして、そのあとに待つのは如何なる催行も「民が許さない」世界である。
いくら生活がかかっていようと、いくら人生唯一の潤いであろうと「五輪がやめたんだから、あなたもやめるんだ」と強く殴られるのだ。それが例え全てを否定することと同義だとしても、無辜の民はなりふり構わない。
五輪が感染対策に成功すれば、その後残された国レベルの安全な対策ガイドラインに基づきあらゆるイベントを開催出来るだろう。
もしも五輪で感染対策が失敗すれば、国かオリンピック委員会が悪者になる。その屍を踏み、さらに強固な対策をもって催行に臨む選択肢がまだ残っている。
五輪が始まる前に何かしらのイベントが対策に失敗してしまえば、五輪を待つでもなく「全てが止まる」。
どれだけ今が理不尽だろうと、従って耐えるしかない。まだ相手が見えるから耐えられる。
耐えなければ、姿の見えぬ理不尽に全てを否定される未来がやってくる。やつらには文化を殺す力がある。
そういう自分も同じかと言うだろう。
頭の片隅に書き留めておくだけでいい。
私の刃は鈍だ。
最初に、フェミによる、性犯罪とかハラスメントには該当しないような欲望や行動に対する道徳的批判があったわけ。萌え絵・ポルノ批判とかマンスプ批判とかデリカシーの無さとかいろいろ。
あと、医学部入試問題のような、社会構造(勤務医の過重労働に支えられた安価で高度な医療)に起因する問題を、誰もが満足できる案が無いから男性の道徳性の問題としてスケープゴートにした。
これに対して、少なくはない男性たちが、女性の非道徳性を調べて、あげつらっているのが弱者男性論の本質。
弱者男性論で、槍玉に挙げられる女性の上方婚(下方婚忌避)や、最近下火になったけど「負の性欲」といった批判は、「婚姻相手をあてがえ」「キモカネを受け入れろ」といったことを目指しているわけじゃない。
つまり、実際に言っていることは、「お前らも我慢するか、それが嫌なら俺らに我慢を求めるな」という話。
フェミは、どうこれに回答するんだ?
「私たちはわきまえない、お前らはわきまえろ」じゃ通らないだろ。
プログラミングスクール出身の無能なエンジニアが出社要員としてかなり採用決まっているらしい。
上場企業も出社前提ならとプログラミングスクール出身者に内定を出しているそうな。
派遣会社も「この人は技術力はそれほどでもないですが出社可です」という風に売ってるんだと。
知り合いの会社でもプログラミングスクール出身の無能派遣を出社前提で受け入れたそうなので話を聞いた。
(その会社では派遣でもリモートで働いている人は居るので派遣だから出社させられているというわけではないことに留意されたい。)
なんでもCEOからエンジニアも当番で出社しろという圧があって、今までは開発トップが抵抗していたらしいのだがついに圧に負けそうになったときに「出社可能な無能エンジニアを置いてスケープゴートにする」というのを思いついたそうな。
一応リモート面接でマシなのを選んだそうだがそれでも無能は無能。
仕事はSlackの簡単なチャットボットとか作らせてるんだと。(「天気」って書いたら今の東京の天気出すみたいな奴らしい。)
もちろん出社しろという圧をかけるようなCEOだからエンジニアの能力なんてわからない。
たまに無能エンジニアが質問受けるらしいがそれは全部リモートしてるエンジニアに流すようにしてるらしい。
なんでこれを書いたかというと今これを見ている人の中で出社させられているエンジニアが居るならリモートできる会社に転職するべきだなと思ったから。
理由はこのままこの傾向が進むと「出社させられているエンジニアは無能」という烙印が押される世の中になりそうじゃない?
もちろん自分の技術力が無くて、今は転職できないと思うなら今の会社に居ればいいけど。(この記事お前のことだけどな。)
おしまい。
別に障害者本人に何かされたわけじゃないけど、周りのせいで被害こうむったって話。
ショッピングモールの増田は対一で嫌なことされたからまぁ分かるんだけど(たまたまイカれた客が障害もってたってだけとも言えるけど)
障害者本人には責任ないけど、イカれた保育士とイカれた障害者の保護者のせいで、障害者にまつわる嫌な思いしたって話。
もうはるか昔の話になるけど、保育園でずっと知的障害持つ子の世話させられてた。
その時はまだ特別学級とか田舎の方ということもあってあんまり普及してなくて、保育園ならなおさら。普通に20人にも満たないクラスに、知的障害持つ子がふたりと、たぶん発達障害だろうなって子がひとりいた。
自分は割と発育早くて、身長も大きいし、他の子より聞き分けも良くて、先生から何かと頼りにされることが多かった。
だから、その3人の世話を任されること(押し付けられること)が多々あった。
一番重度の知的障害を持つH君は、会話もままならず、顔もなんか変で体も小さくて、周りの人とのコミュニケーションが取れなかった。
だから庭遊びの時とか、いつも手を繋がされてふたりで放置された。
他の子が縄跳びとか竹馬とか追いかけっこしてるとき、自分はH君と黙々と砂遊びしたり、園庭をぐるぐる散歩することしか出来なかった。
もう1人の知的障害を持つFちゃんは、癇癪が酷くて、自分のままならない事があると奇声をあげて泣きながら、とにかく周りの人もものも叩きまくった。
工作なんかは他人の倍時間がかかるので、手先の器用だった自分がいつもお手伝いとして投入されていた。この時間があれば、もっと絵を書き込んだり、工作も丁寧に出来るのになと思いながら、たまに癇癪おこされて頭ぶっ叩かれながら卒園までお役目は続いた。
発達障害のN君も癇癪持ちな上、ワガママで暴力的。お昼寝の時間になるとこっちの布団に潜り込み、陰部を触ったり、キスしてきたりとなんかこれはこれで大層ヤバい子だった。
布団を離してくれというと、泣きわめいて先生を蹴るので、「我慢してね」と言われて長らく園児による園児へのセクハラを受けながら過ごした。
自分の灰色の保育園生活はこんな感じだったけど、いずれも障害者本人達には何も責任はないと思う。(むかしは本人達が嫌いでしょうがなかったが)
今思えば、スケープゴートを差し出してクラスの安定をはかろうとしていたバカ保育士や、そもそも園に通わせていた保護者がむしろ加害者であると思っている。
でもその時の嫌な思い出が原体験としてはつよすぎて、未だになんか障害者とは関わりたくないんだよね。
どんだけ強いかといえば、あんな子持つぐらいなら子供いらないなと思うぐらい。
今回の内容は、一言で表現するならば「論語読みの論語知らず」です。
『映画秘宝』の功績の一つは、マイケル・ムーア監督及び彼の作品を積極的に日本に紹介したことでしょう。これは評価されて良いと思います。私のように『映画秘宝』の記事をきっかけに、マイケル・ムーアの作品と活動を追うようになった人もいるのではないでしょうか。
しかし、マイケル・ムーア作品を紹介した『映画秘宝』自身の振る舞いは、ムーアの姿勢や思想からは懸け離れたものでした。
既に述べましたが、現在のサイズになって以降の『映画秘宝』はスプラッター系ホラー映画、切り株映画を礼賛して「切り株映画は世界の真実を描いている!」と盛んにアジテーションするようになりました。その動きの中で、特に『映画秘宝』が好んで取り上げたのが『悪魔のいけにえ』『食人族』『ホステル』といった「田舎に行ったら襲われた」系の作品群でした。そして、これらの作品群を誌面で紹介する際に町山智浩や高橋ヨシキらが好んで書き添えたのが「非・都市部在住、非・富裕層、高等教育を受けていない人間たちは『野蛮人』」と云う主張でした。
都市部に生まれ育ち、入学金や授業料が高い有名私立大学に通って高等教育を受けることも可能と云う恵まれた境遇で育った、謂わば「上級国民」である町山智浩や高橋ヨシキらにとって、上記のような階層に属する人間たちは、ただそれだけで「差別(しても許される)階級」でした。そして、切り株映画とは「そのような野蛮人たちは嘲笑され、差別されても仕方が無い」という理由を描いていると云うのが、町山智浩や高橋ヨシキらの主張でした。
一度など『映画秘宝』が発行した切り株映画系出版物が、某県において有害図書指定を受けた際には、それに対する報復行為として「某県では斯斯然然の残虐な殺人事件が起きた!だから某県の住民は野蛮人!」というアジテーションを誌面で行った事もあります。このような彼らの言動は、本質的に朝鮮人差別や部落差別と異ならないと私個人は思います。
さて話をマイケル・ムーア作品に戻しますが、『ボウリング・フォー・コロンバイン』等の作品には、全米ライフル協会、ブッシュ政権・米国共和党、ミリシア等を批判的に取り上げる要素が有りました。しかし同時に、取材対象を少なくとも「同じ人間」「同じアメリカ人」として取り扱うという最低限の良識と理性もマイケル・ムーアには有りました。
それに対して、町山智浩ら『映画秘宝』はマイケル・ムーア作品に登場する「アメリカの非・都市部地域に暮らす人々」を指して「土人たち」呼ばわりし続けました。町山智浩や高橋ヨシキらにとっては、マイケル・ムーア作品も所詮は切り株映画と同じく「アホでマヌケなアメリカ白人」=「被・都市部在住、非・富裕層、高等教育を受けていない人間たち」を嘲笑の対象として消費する格好の理由を与えてくれる、娯楽作品に過ぎなかったのです。
また『ボウリング・フォー・コロンバイン』の中では、マリリン・マンソンが「コロンバイン高校銃乱射事件を始めとする無差別銃乱射事件の頻発を引き起すような悪影響を青少年たちに与えた張本人」として槍玉に挙げられ、謂れなき糾弾を受けたという話が出てきます。その事について「君の音楽が彼らの犯行に影響を与えたという主張について、どう思うか?」とマイケル・ムーアから質問されたマリリン・マンソンが、彼自身の口で何を語ったのか。それはこの映画を観て頂くとして、少なくともマリリン・マンソンは「俺は悪くない!悪いのは他のジャンル(例えばギャングスタ・ラップなど)だ!」とは決して言いませんでした。
それに対して『映画秘宝』はどうでしょうか。「切り株映画ファンは悪い事をしないが、美少女アニメを見るような奴らは犯罪者予備軍だからドンドンお上に通報しよう!」と、他人をスケープゴートにしたのでした。
マイケル・ムーアにとっては、たとえ意見や思想が異なろうとも、作品の取材対象である人々は「明日のアメリカを共に築き上げる『同じアメリカ市民』」です。それに対して、町山智浩や高橋ヨシキにとって意見や思想が異なる人間とは「差別しても許される『異人』」に過ぎませんでした。
でも、ひょっとしたら、町山智浩らが心の底で考えていた事は、マイケル・ムーアにバレていたのかも知れません。そんな事を思わせるエピソードが一つ有ります。
ブッシュJr.政権への批判を続けていたマイケル・ムーアが『華氏911』を製作・公開した時のことです。記者会見で、町山智浩はマイケル・ムーアに次のように質問しました。
「ブッシュJr.を政権の座から引きずり下ろす為に、何か僕たち(=町山智浩ら外国人マスメディア)に出来る事は有りませんか?」
マイケル・ムーアは「アメリカ市民を『土人』呼ばわりして人間扱いしない君(=町山智浩や高橋ヨシキ)のような人間に、アメリカの問題を『娯楽』として消費されたくはない」と言いたかったのではないか?この記者会見のやり取りを思い出すと私は、ついそんな想像をしてしまうのです。
恫喝DM事件が発覚した直後に『映画秘宝』編集者が発した「自分たちは映画を通じて『差別』や『不正』と闘う姿勢を学んできた」と云う主張は、事実とは正反対の完全な虚偽であるという事を示す話でした。
成人式そのものは感染リスクは少ない。だから、お前が遊びに行くのがよくて新成人がダメな理屈は通らない。
また、成人式は飲みに行くのが絶対前提だから成人式行くなと言うのもクソだ。それなら「誰も飲みに行くな」と言うべきで、新成人に限る理屈がない。そもそも成人式は飲み会付きというのは一部を全部とした間違った前提だし。「俺は車で映画館に行って直帰して家で食事するからいいんだ!」と言うなら新成人だって成人式に直出直帰すればいいんだろ。成人式に行くなと言いながら遊びに行く理屈にはならない。
新成人を政治批判のスケープゴート被害者にするな。自治体が成人式をするなら新成人は行くことができる。その上で、誰も飲みに行くな、と言うべきだ。誰も飲みに行くなと言うときに、例えば成人式の帰りとか、と付け加えるくらいなら許してやる。
解りやすい的が必要だったんだろうけど、GoToやってない国でも感染が広がっているところを見ると、
GoToトラベルを止めても、たぶん感染の広がりは止まらないんだろうね。
素人目にはモデルの立て方が間違っているような気がするんだけど、専門家集団がそのことを考慮していないとは思えないんだけど。
と言うことは、やっぱり解りやすい的からつぶしていくって方針なのかな。
GoToほにゃららをやっていようがいまいが、感染予防策は採らなくてはならないんだから、関係ないだろうに。
もっとも、ちゃんと対策をやっている人からすると「また言ってるよ」だけど、やっていない人は「そんなこと初めて聴いた(頭に残っていない)」という反応なのだから、啓蒙活動はしつこいくらいが丁度良いくらいだろう、何事も。