はてなキーワード: 00年代とは
ホッテントリに入っていた記事(https://news.yahoo.co.jp/byline/soichiromatsutani/20221231-00330955)とそれに対するブコメを読んで思ったことを書く。あくまで個人の感覚に過ぎず、先の記事のようなデータに基づいた分析ではない。
同じ年代の人5人で集まって紅白を見ていた。どの人もそれなりに音楽を聴く方の人だと思う。趣味でギターをやっていたり軽音に入っていたりした人たち。
俺は楽器とか弾けないけど、音楽は人並みより聴くという認識。参考までに、Spotifyが教えてくれた「去年のトップアーティスト」5つはmy little airport、中谷美紀、フィッシュマンズ、くるり、Nujabes。ああ、そういう系統か、と思ってもらえればよい。ただ音楽の趣味はみんなわりとバラバラ。さっきのSpotifyのリストは日本のアーティストが多いけど、もっと洋楽中心の人もK-POP中心の人もいると思う。
さてそんな面子で見たとき、別にいまの流行曲だからみんな知ってるとかはない。いまセットリスト(https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_63aa433fe4b0d6724fb7e745)を見ながら思い出しているけど、紅白を見ながらみんなが一部でも歌を口ずさんだりして盛り上がったのは、鈴木雅之、Perfume、ウタ(Ado)、Vaundy、あいみょん、藤井風、篠原涼子、ゆず、関ジャニ、KinKi Kids、石川さゆり、福山雅治とかか。
たとえばKing Gnuとか髭男とかSaucy Dogとか、アーティストは知っていても紅白で歌った曲まで知っているとは限らない。音楽が好きでも(あるいは音楽が好きだからこそ)そんなに熱心にバイラルチャートを追いかけていない人の方が多いと思う。
だから逆にみんながちゃんと知っている曲って夏色とか硝子の少年とかになるんだよな。歌手としての篠原涼子を知っているのは一部の世代では? みたいな反応もあったけど、「恋しさとせつなさと心強さと」くらいは知ってる(ほかは全然知らんけど)。むしろ、わりと親世代が小室哲哉の影響にあって車とかで流してがちだと思う。Get Wildとかだってまだ流行ってるしな。
夏色、硝子の少年、桜坂あたりを「おっさんに媚びたラインナップ」とか言う人もいたけど、その世代の人がそう感じるのはそれで合ってるだろうけど、たぶんいまの20代もどれもかなり知ってるし、カラオケで歌っても全然大丈夫なレベル。下手な流行曲よりむしろ外さない。紅白出てないけど、丸ノ内サディスティックなんて必ず誰か歌うような感じ。
だから月並みなことを言うようだけど、音楽の聴き方が変わってみんなが知ってる流行曲というものが少なくなって(たとえばTikTokとかで流行ったりした曲は、TikTok見ない層にはまったくわからないし、アニメの主題歌とかはアニメ見なければ知らない)、90年代とか00年代の流行曲が、もちろんごく一部だろうけど、しぶとく生き残っているという話だと思う。
でもそれは20代だから、音楽の聴き方が変わったからというだけじゃなくて、別に40代でも50代でも自分が生まれる前かかなり幼い頃の流行曲を何曲も知っているはずで、後世においても愛唱される作品というのがどの時代にもあって、夏色とか硝子の少年とか桜坂はもうその域なので、別に必ずしもおっさんに媚びたラインナップでもなくて、むしろ万人向けに用意しているんじゃないかと思った。まとまらない話だけど。
ワイがやっとったのは00年代やが今でも賞金かけた世界大会やっとるみたいやから
https://www.4gamer.net/games/038/G003896/20191015113/
正直まだ続いとったのにびっくりや
Twitterで楽しそうにニワカ競馬トークしてる人見つけて嬉々としてROMってると、大抵は大学生とか20代前半リーマンとかで中には中高生すら結構いるからビビる。
もちろんアラフォーアラフィフでも、平野耕太を筆頭にプロ・セミプロのオタク業界人は新規に競馬にハマってたりするんだけど、一般のオタが全然いない。
5、6年前はけもフレにはハマってたようなオタでも、競馬どころかウマ娘すら完全スルーがザラ。
理由というか原因はこんなところだろうか。
俺もう四半世紀前ぐらいからずっと競馬に興味はあったけど手を出せずにいたのが、ウマ娘ブームの熱に当てられてようやく始めたら、いや奥が深くて楽しいわ。
収支はマイナス1000円だけど、何なら全く馬券買わなくても推し馬・推し騎手・推し馬主・推し血統追ってるだけで十二分に楽しめそう。
○ご飯
朝:なし。昼:ケンタ。夜:くるくる。深夜食:ラーメン。チャーハン。
○調子
むきゅーはややー。おやすみ。
日本のサブカルチャー大好きなスペインの方が作られたノベルゲーム。
水中を進む電車で日本へ修学旅行に向かうお嬢様学校の面々、しかしそんなクローズドサークルの中で殺人事件が発生する。
作中に散りばめられたマニアックなオタクネタを掻い潜りながら、殺人事件の真相を探る。
とはいうものの、あまり所謂本格ミステリ的なノリではなく、人間関係の中の動機を探っていく類のノリになっている。
(アメリカのドラマだけど13の理由がちょっと近いかも? コメディ要素の多さは全然違うけどね)
聞き込みをしていく過程で見えてくる、キャラクタ同士の繋がりと、彼らが表では見せない裏の顔。
こういう事件の輪郭を人間関係に特化して掘り起こしていくのはいかにも古き良きADVの味がする良きところだった。
特に面白いのが名探偵役の乱子が、その時々でその人間関係を評するところが、中立性というか、中庸な意見をちゃんと書こうとしていて好印象。
個人的にはイジメっ子のエリカが、そのイジメの相手に向ける歪な感情が、好きだった。
ちゃんとその感情を主人公が客観的に断罪するところも込みで、バランス感覚の優れた作者だと感じた。
短くも丁寧にまとまっていて、日本文化が好きな気持ちと、日本にはないことをやろうとする気持ちとがうまくまとまっている。
特に後半、男性と女性の立場による幾つかの(あるいは一方的な)やりとりは、ポリティカルコネクトをインターネットの茶化し用語としてしか実感を持てていない自分を深く反省することしきりだった。
ただ、ゲームとしては正直なところ、丁寧にまとまってはいるものの、ある種丁寧すぎるというか、もう少しケレン味も欲しかった。
コマンド選択や単純な選択肢も無い、真っ直ぐな読むだけゲームだけに、ゲーム性を利用したトリックであるとか、叙述トリックであるとか、「メフィスト賞」的なというか「00年代美少女ゲーム」的なというか、そういう味わいが一才無いのは、僕の好みとは違ったかな。
(※この文章、全く意図したわけじゃないんだけど、日曜日、11月27日に書く感想のゲームの中で批判されてて、なんか申し訳なくなった)
とはいえ、500円の低価格ゲームなので真っ直ぐスマートにシンプルにまとまっていて、良いところがたくさんあるだけで、十分面白かった。
2005年頃から2015年頃までの間に、西成にバックパッカーとして何回か泊まった俺が補足してみる
だいたい本当
00年代は千円代前半が、10年代は千円代後半が、低所得者向けドヤと旅行客向けドヤの境界線になっていた
テレビを観る時はイヤホン必須。風呂とトイレは共用で、安宿ほど悲惨な状態になる。黄色っぽくて異臭のする湯舟は、この土地以外で見たことが無い
安宿には、ダニだけでなく人の血を吸うトコジラミもいる。夜行性で生存・繁殖能力がやたらと強い
ある宿で泊まった時は、ひっくり返したマットレスにびっしりとシラミが付いていて、虫に食われないよう一晩中電灯を点けて床で仮眠を取った
シラミは荷物に忍び込みもするとその時知ったので、旅行から帰宅した時は携行品を煮沸消毒したり廃棄処分したりした
学生だった00年代はかなりテレビを見ていたんだけど、その後就職して15年程たった今ほとんどテレビを見ることが無くなってしまった。そんな中でも例えば銭湯のサウナなんかで2022年現在のテレビ番組を見ることもあるんだけど、いつも思うのが出てるメンバーが00年代と大して変わってないなということ。
たまにバラエティ番組を見ても全然知らない芸人だらけということはないし、大食いのタレントや塾講師のタレントなども00年代と同じメンバーが今も出続けている。09年と22年では実に13年も経ってるのにメンバーが代わり映えしないってちょっとおかしくない? それだけ日本が停滞しているということなのか、それともテレビを見ている年代に合わせようとしたらむしろ新陳代謝は邪魔ということなのか。00年代に定番品としてお茶の間に定着できた芸能人はかなり得をしているんじゃないかと思う。
うる星やつらがリメイクされた。最高レベルのスタッフが惜しげもなく投入され、凄まじい金が動いている。
コンテンツとしては四十年の歴史を持っており、コスプレ文化を日本に根付かせることにも一役買った今作においては、OPのクオリティーが非常に高い。音楽、映像共にキャッチ―で高品質になっている。
改めてOPをマジマジと見ると、明らかにZ世代へと向けられたメッセージが込められている。例えば、ところどころ挟まれるゲームを模した表現。90年代に流行した携帯型ゲーム的な映像や、00年代前後のギャルゲー的表現など、これらは明確にZ世代に向けられた演出表現――表象であると言えるだろう。また、OP冒頭に登場するインベーダーゲームは本作『うる星やつら』と同じくして四十年前から根付き始めたコンテンツであり、Z世代の範疇からは少しずれるが、四十代から三十代の後半といったZ世代に対する境界世代に対しても強く働きかける演出となっている。
同時に、SNSやマッチングアプリといった、十代二十代のZ世代若年層をも今作のOPは対象にしており、概してZ世代を対象にした演出が行われていることは明らかである。
何でこんなことを書き始めたかと言えば、公式アカウントがyoutubeにアップロードしているノンクレジットOP映像の、01:07~01:08に流れる、『地球儀』に関する表現が個人的に刺さりまくったからである。ノスタルジアで心がバッキバキになった。
本テキストにおいては、以降この『地球儀』に関するたった一秒間の演出に焦点を当て、記述していく。
『地球儀』をご存知であろうか? Z世代ならば当然知っているであろう、公園の遊具である。
そして、この遊具は現在公園には存在していない。何故なら遊具で遊んでいる子供たちに重大事故が多発したため、危険と見做され撤去されたからである。時流としては当然の対応と言えるだろう。この遊具で遊んだことのある人々は多いであろうが、遊具の使用中に大きなスリルを経験する人々も多かったことと思う。つまり、この遊具は根本的に危険なのである。
それでも、この遊具に関する良い思い出を持っている人々はZ世代を中心に多いことと思われる。明らかに、今作のOPはそのようなZ世代の人々の思い出に働きかける構成となっている。ノスタルジアに浸ることのできる良い演出である。
地球儀とは、つまり今喪われつつある一つの『世界』の喩えであると言える。
本OPにおいては、恐らく主人公の諸星あたるがこの地球儀の内側に引きこもる形で存在しており、その地球儀をラムが外側で浮遊しつつぐるぐると高速回転させている。その様子が諸星あたるの主観視点によって描写されている。そして、ラムは諸星あたるの表情を見てか、ニコリと微笑むのである。(あまりにも高速で回転する地球儀の中心に座り込む、主人公の怯えの表情を喜びの表情と錯覚して、ラムは笑ったのであろうと思われる。)たった一秒間の映像であるが、この一秒間にはOP演出家の粋が籠っている気がしてならない。
まず、節冒頭で書いた通り、この地球儀は、今喪われつつある(撤去されつつある)世界を表象していると言えそうである。かつては子供たちの間で楽しまれ、親しまれていたものの、今や危険視され排除されていく何かが、この地球儀には表象されている。
また、地球儀というものは当然ながら球形をしており、地球という我々にとっての世界を表象していると同時に、緩やかに我々の意識世界や内的世界を表象しているとも言える。我々にとって、あくまで世界は手の届く範囲のものでしかない。我々は、日本にいながらにして地球の裏側にあるブラジルの人々の生活をつぶさに見て取ることは、殆どできない。つまり、我々の世界は場合によっては手の届く範囲――半径にして凡そ一メートル弱の球形の世界において完結しているとも言えるのである。つまり、この地球儀は、我々の手の届く範囲での世界――我々の(そして諸星あたるの)〈閉じた〉内的意識や内的世界を表象しているとも言えるのではないだろうか。
つまり、この地球儀は、様々な要素を多義的に表象していると言える。喪われつつある愉しかった頃の思い出、完結した内的世界――などなど。この、『地球儀』は非常に表象論的に優れたイコンであると私は思う。この『地球儀』に目をつけたOP演出家に賛辞を贈りたい。
そして、同時にこの地球儀は、「内側にいる人間だけで遊ぶことはできず、外側にいる他者に依存して初めて楽しさを感じることができるもの」としての側面を表象している。つまり、この場合には、ある程度間接的ではあるが、他者がいなければ成り立つことのない心情、恋心の存在が、緩やかに表象されていると言っていいかもしれない。そして、その地球儀は、空中を浮遊する超常的存在であるラムによって、とてもではないが緩やか、とは言えない超高速で回転させられる。そして、ラムは喜色一面に微笑むのである。ラムにしかできない形で諸星あたるの世界が回転しているのだ。このように回転する『地球儀』は、諸星あたるのジェットコースター的に起伏に富んだ生活や人間関係を、そして、それらを含む彼の内的意識を表象していると言える――そして、遠からず諸星あたるの心中に芽生えるかもしれない感情にも、その表象は緩やかに繋がっていると言えるのかもしれない。
世界が回転する――これもまた、一つの表象であると言える。ラムによって諸星あたるの世界は駆動し、心は動くのである。怯えと、スリルと、説明不能な感情。それらの心は、ラムの指先によって躍動感もあらわに駆動するのである
これが、ノスタルジアでなければ何であると言うのか。もうバッキバキである。心が。
70年代と80年代の間には、まず制作者の大きな壁があった。70年代におおきなアニメブームが起こり、その影響でオタクがアニメ業界で作る側に加わった。庵野秀明や河森正治の世代ね。だから80年代になると「仕事」じゃなく「趣味」的に絵作りにこだわるクリエイターが出てきて、それまでと画面の密度が一変した(例えば79年のガンダムと85年のZガンダムはもう別物)
そして90年代と00年代のアニメもまったく異なったルックを見せる。これは何といってもデジタル環境への移行がある。デジタルといっても作画は人力で行うのだが、その後の色塗り、撮影などをコンピューター上で行えるようになった。アナログセルが使われなくなったことでぱっと見ても画面がまるで違って見える
増田の言うこともわかるが、ただ現在と10年前のアニメ作品の絵作りは結構違うと思う。最近は新海誠やufotable作品の影響か、とにかくどの作品も「撮影」にえらくこだわる。撮影は濃い味付けのソースのようなもので、うまく使うと多少しょぼい絵でも食えるようにできる。 2008年のマクロスフロンティア当時はシェリル・ノームの髪を見て「うおー、これいちいち特殊効果かけてるのか、すげー」と感心したが、今やどのアニメでもあれくらいはやってる。現在と一昔前のアニメを分ける一番の違いは撮影だと思う
https://cloverworks.co.jp/special/interview04/
https://cgworld.jp/feature/201512-prisma-illya-cgw208t2.html