はてなキーワード: 麻痺とは
うちの父親も自分が中学ぐらいの頃に指定難病になって半身麻痺残ったけど、定年再雇用まで勤め上げて、今は孫(自分の子)と遊んでるよ。
子供にとっては父親が指定難病になったことより、両親が思い悩んだ顔してる方が辛いんじゃないかな。そんな単純な話では無いと思うけど。奥さんと支え合って、使える支援はどんどこ使ってください。
フランク・フラゼッタのFire and IceとかHeavy Metalのメビウスのもそうだよね
実写を元にアニメ作ると何がいいって、
昔は合成とか特撮技術が金と手間がかかったりショボかったから、
実写をわざと絵に落とし込んで絵の特殊効果と合成するとフィットするし比較的安価になるんだよね
京アニはそういう目的ではなくて、顔はいわゆる日本のアニメのオタク受けする顔なので、
京アニとかリミテッドの枠を越えて?というか、動きがヌルヌルするほど、
お面被ってる人が踊ってるように観えることがあった
祭りの夜店で売ってるみたいなお面を被ってる感じ
どれだけ視聴者を騙せるか、ということでもある
騙せる騙せないに年齢層の違いもあるだろうし、
最近の3DCGを混ぜるのも、どれだけ違和感を生まないかが根にあるのは変わらん気がする
でも、ファーストガンダムの最初のザクとかムサイのシーンとかもそうだけど、
縦とか横にゆっくりスライドさせることで奥行きを出すとか、迫ってきている感を出すとか、
背景動画だろうが、コルドバ回頭だろうが、難なくこなせるようになって、
今までのアニメの記号みたいなものが違和感がありすぎて耐えられなくなることもある
そういえば、奥行きのある道を垂直に描いて、車両とかはゆっくり縦移動するやつは、
宮崎駿だったか、あれはあれで騙せるというか、道にアップダウンがあるなら尚更かもしれないけど、
画面の上下に垂直に道路を描くのはやっぱり当時でも違和感があったというか、
道路や地面だけ真上から見た状態で、当然パースもクソもないわけで、
でも、違和感はともかく、真面目に描いたらコストが半端ないというか、
庵野氏も言ってたと思うけど、従来のアニメは二次元の制約が半端ないので、
ずっと従来のアニメに慣れて麻痺してしまっていると、コンテだって自然と二次元ベースで考えてしまう
奥にスクロールするより、何でも横にスクロールさせたくなってしまうとか、
そういう癖を排除するためにも、絵コンテ描かないでプリビズになったんだろうなぁと思ったり…
そういえば、最近になってプリビズなんて騒いでるけど、
ジュラシック・パークのときにすでにOpenInventorとかでやってなかったっけ…
というか、もうInventorないのか…、はぁ…
表現の側が表現に責任を持っていないし。言葉狩りだ!表現の自由だ!法で規制されているわけでもない表現に個人のお気持ちで文句をつけるな!それが嫌なら法規制しろ!って主張してたわけでしょ?
表彰は社会にどんな影響も与えないし、犯罪が認容されるように誤解させるミスリードをしたり、専門知識を誤解させて広めたり、義務教育で習わない大人が聞かれてすぐに答えられないような事柄について、倫理観を欠如させるような描写をしたり、イジメや軽犯罪を肯定的に描いたり
法規制はされていないのだから、それを止める権利はない。表現の自由に対する侵害だ!
主張ってのはこうでしょ?
でも実際にはゆるキャンが売れればモチーフのキャンプ人気が高まる
真実味を帯びたような描き方の表彰や報道は様々なミスリードや誤解を招く、女性に対して軽いノリでセクハラが流行ったのもスカート捲りが流行ったのもタバコが広まったのもドラマやアニメや漫画の影響だった
現に、海外から見たら今の日本は幼い女性キャラクターが男性にあたかも恋愛感情を持っているかのような表情や言動、大人の女性らしい特徴を備えた描写をしている
客観的に正常な感覚で見れば明らかにポルノなんだけど現に表現物に慣れ表現に強く影響されたことにより麻痺していて、ごく普通の少女がこんな見た目で男に媚びた設定で、実在の少女を描くこと、女性を描くこと、ではなくてエッチで自分を性的に受け入れてくれるポルノキャラクターを描いてるから、言論の自由や表現の自由に無関心かつ熱心な反対派が騒いでいる
おじさんの欲望のサンドバッグなのに、しかもそこに自覚的になっていないから、温泉むすめのようなキャラクターを温泉地に置いてしまう
大人になったら消えるキャラクターなんて、ほとんど性奴隷じゃないか。性を客体化し性の自己決定を否定した作風が全肯定されていいものか
こんな現状で規制派は二次元と三次元の区別がついていないとか立証されてないと言うのは詭弁だね
立証というのも、表現が社会的に無害であることは立証されていないし有害性についてはいくつもの過去事例が存在している。立証するなら現代社会から隔離されたグループを用意しなければいけなくなるんだから
法規制がないからと表現の側が責任を放棄して無制限に表現をしていいと主張するなら、必要な政策だと思う
表現が規制されて失われることを嘆くなら、表現の自由を社会的な責任を伴って正しく使いこなせなかった社会の未熟さを憂うしかない
女子の下着チェックなど、そもそも校則があるのかすら疑わしいセクハラ案件もあるしなあ。
私が通った小学校は、昔は全員ジャージ着用義務だった。教師達は「校則で決まってるから」とずっと言ってたんだけど、実はそんな校則はなかった事が、私が6年生だった年に発覚。それを暴いたのは有志の保護者(子供は一年生)で、初めは二人の女子が保護者の意向で私服登校を始め、やがて一年生全体に広まった。
しかし、私の四つ下の妹は卒業するまでずっとジャージ登校だったので、私服がなし崩し的に許されたのは、最初の私服女子二人の学年以降のようだ。
なお、私の母校は私の父の母校でもあるが、父の小学生時代はジャージ義務なんかなかった。おそらく、件の最初の私服女子の親世代もなかっただろう。
それと、高校時代に女子のセーラー服のスカート丈の事でも一悶着あった。驚いたことに、校則では「膝丈」という、思いもよらない短さ(セーラーが制服の他校でそんな短い丈のところはなく……)。
だが、私よりも少し上の世代がツッパリばかりで、セーラー服のスカートといえばスーパーロングで松の廊下を歩く時の裃かよっていうスタイル(頭は爆発したみたいなパーマだし)の学生がうようよしていたせいで、生活指導教員の感覚が狂ったか麻痺ったかしており、膝丈でも違反。校則を確認せずに中学の制服の感覚で長すぎのスカート(床から10cm)を履いてる女子はOKという、訳のわからんことになっていた。
ついでにいうと、髪型で違反だと注意を受けるのも爆発系パーマやアイパーとかじゃなく、爽やか系な直毛(ストパー疑惑とジャニーズ系)に変わっていた。
魔法が解けた と逆の経験をした。今も私は魔法の中にいて、不便さと面白さと両方感じている。
昔、私は真面目な性格だった。
書類仕事は得意な方で、記入ミスがあるのを見ると「ここに指示が書いてあるのに、目が見えてないんですか?」ぐらいに思っていた。
大した病気では無かった筈なのだが、なぜか手術後に連日連夜、激痛に苦しめられた。
医療ミスだった。
このままの状態が数日続いたら死ぬな、と思った頃に別の医者に交代して再手術を行って何とか生還した。
退院するまで大分かかったし、退院後も当分の間は本当にしんどくて、ソファーでぐだぐだ過ごす時間ばかりだった。(幸い、今は良くなった。)
しかしそれ以降は、自分の仕様が書き換わったのかと思うぐらいに出来る事が変化した。
まず書類仕事が苦痛になってしまった。書いてある筈なのに目が滑ってしまう。
それ以前に書類を見ようという気力が沸かず、封も切る事も出来ない。
最近はどうにか気力を溜めて、締め切り直前に自分を追い込んで処理する感じだ。
旅行の準備も非常に苦手になった。昔は難なく出来ていたのに。
持ち物リストを見ながらでさえも、丸一日かかってしまう。それに非常に疲れる。
また以前から散らかし屋だったが、それも拍車がかかってしまった。
他にも日常生活でやりにくくなった事は沢山ある。
ただ、嬉しい変化もあった。
ちょっとした出来事、ニュース、子供の頃の宝物などから設定が浮かんでくる。
お話がするすると頭の中で流れ出す時はメモ帳にまとめていく。細部を詰めていると、カチッとパズルがはまったように感じる事もある。
登場人物の言動がご都合主義すぎると「いや、私はこう動きたいから」と彼らは勝手に動き出す。
こういう時は頭の中がフロー状態というか、集中して頭も回転していてとても楽しい。
書いていて気がついたら昼休みが終わっていたり。
体調がギリギリセーフの時だけ起こる魔法なので、書き留めるにはかなり頑張らないといけないけど。
この状態は、魔法にかけられたとも思うし、大規模メンテナンスでリニューアルしたのかなとも思う。
いずれにせよ何か新しい扉が開いた感じがする。そして違う扉が閉じたのだろう。
そのせいで日常生活では不便な事も多々あるが、貴重な体験が出来たのは面白かった。
もう病気にはなりたくないけど、なったらなったで別の新しい扉が開くかもしれない。
認知症になったらある扉が開き、麻痺が起きたら別の扉が開くだろう。
自分以外にもこういう事が起こるのなら、どんなふうか是非知りたい。
将来、その開いた扉の中身を人にそのまま伝えられるデバイスが出来ていたらいいな。
読んでくれてありがとう!
20代会社員。女。3次元に推しがいる。CDが出たり、ライブをするようなジャンル、とだけ言っておく。かれこれ4年ぐらい、大学生の時から推している。
推しがいるかいないかであらゆる物事を考え、金も時間も惜しみなく使う。推しがコンテンツとして私たちに提供してくれる部分を余すことなく消費したい。わたしの知らないコンテンツとしての推しがいることが耐えられない。そんな感じ。
認知されたいとかTOになりたいとかはない。まあ、いつもありがとうとか言われたらそれは嬉しいけど、ステージでキラキラしててくれればそれで良かった。
「○○したいから○○しなきゃになったら離れ時」みたいなことを聞くが、私からすればそれは常にイコールだった。買おう買いたい、行こう行きたいではない。全部見たいから買わなきゃ、全部見たいから行かなきゃだった。
どうして世の中のオタクは、好きな人に対してそうも適当でいられるのだろう。金がない? なら作れ! 都合が合わない? 合わせんだろうが! その時その瞬間にしかいない推しを、どうしてそんな簡単に諦めて生きていけるの? そう思っていた。
というか、正直今も思っている。じゃあ全てを掴もうとすることが真摯ですか? と言われても、そうだよなんてとても言えないのに。
どうせ裏では何やってるかわかんないのにとか知らないことだらけなのにみたいなことを言われるが、それは当たり前だ。だから「コンテンツとしての推し」と書いた。
見せられない部分は知らなくて良い。知り合いにもなりたくないし付き合いたくもない。でも、こちらに見せているところは余すことなく見たい。
それが「普通」だった。私の中では。
当然、会社員の給料で生活費を切り分け、残ったお金だけで全部を賄うのはだいぶ厳しい。
いつしか夜の仕事に手を出した。そんな感じの漫画が少し前にバズっているのを見たが、まさにあれだ。推しのためなら頑張れる。頑張れた。あの輝きを得るためなら何だってできた。推しのためなら。推しを見るためなら。
わたしの原動力は全て推しだった。もはや、生きる理由も推しだった。
ある時、「自分の生活もままならないのに、何でこんなに頑張ってんだろう」と思った。
思ったら、最後だった。
ちょうど昼の仕事で人間関係で悩んでいたこともあり、全てが崩れた。
推しに会いに行っても全く心が踊らない。煌めきがない。推しのパフォーマンスのクオリティは何も変わらないのに、わたしがそれを受け取れなくなっていた。その頃には仕事も何もかもやる気がなくなり、1日ベッドに沈んで自分の空っぽの心に泣き伏すこともあった。
苦しい、くやしい。推しが嫌いになったとかじゃないのに。でもこう悩んでる間にもコンテンツとしての推しは続いていくから、一寸先も真っ暗の中縋るように次の予定を入れてしまう。諦めたくないから。やっぱり見たいから。
反面、どんなに見ても大事にしても応援しても、推しは決してこのボロボロのわたしを肯定してはくれないのだと悲しくなった。そんなの当たり前なのに変な話だ。それでも疲れきった身体は、なぜかステージ上での煌めき以上の労りや見返りが欲しくなっていた。
愛し返される範囲に限界があるのなら、わたしがこんなに費やす意味はどこにある。自己満足でなければいけない「応援」が、うまくいかなくなった。
そんな日々が数ヶ月続いた。さすがに何もかもを失う前に行動を起こそうと、心療内科に行った。
「やりすぎだね。多分もう、依存症に近いと思う」
最初に医師にそう言われた。正直自分と一番縁遠いと思っていた形に、わたしはとまどった。
依存症というのは、対象(たとえば酒などの物・ギャンブルなどは当たるという行為自体)に触れると発生する、ドーパミンなどの快楽物質が忘れられなくなることを示すのだと言う。いつの間にか対象を通り越し、快楽物質を求めるために対象に寄り掛かってしまう状態になるそうだ。私の場合は、この対象が「推し」ということになる。
こういう人がある時、はたと対象で快楽物質を得られなくなることがある。すると、どでかい喪失感に襲われて軽い鬱症状などが出る。わたしは今、この状態に近いらしい。
「推しを支えるっていうのは、自分が二本足でちゃんと立ってて、初めて背中を押せるものだから。今のあなたは支えるを通り越して寄り掛かって、寄りかかりすぎて、全部倒れちゃってる」
徹頭徹尾その通りで、何も言えずただ泣いた。自分を正当化するための理由に推しを使っていたのは確かだった。それを人は、寄り掛かっていると言うのだと思った。
推しと呼ぶなら、推しというコンテンツに触れ続けなければ。別に一つ失ったぐらいで何でもないはずなのに、そうしたくなかった。できなかった。欠けることが不安になるのは、依存なのだと言う。
脳内の物質を調整する薬を貰ったが、それはそれとして、私は私の中で推しとのあり方を治さないといけないらしい。
「別に変えたところで、今まであなたが頑張りすぎるぐらい頑張って推した事実は消えないし。きっと少し離れても、推しの中であなたは大事なファンの一人で変わらないよ」
医師はわたしにこう言った。脳内の一部のわたしは「ぬるいこと言ってんなや」「そういうことじゃないんだわ」と思ったが、それ以上に救われてしまってめちゃくちゃに泣いた。
わたしはきっと、こんなめちゃくちゃで自分勝手で傍迷惑な理由でも、誰かに「頑張っているね」と言われたかったのだ。
オタクなんて、頑張ってすることじゃないのにね。
とまあ、長ったらしく匿名で自分語りをしてしまってようやく本題なのだが、わたしと同じような思考のオタクって決して少なくないと思う。わたしが長い間麻痺していたように、推しに会うことで快楽物質が得られている間は、多少無理が祟ってもなんてことなくいられるからだ。
酒とか競馬とかホストのために、と言うとみんなあんまりいい顔しないけど、「推しのために」って口に出すと、献身的で綺麗に見えてしまう罠があるような気がする。だからなおのこと麻痺していく。どれも執着しすぎたら異常なのに。
だからわたしみたいになる前に、自分がちゃんと立って歩けてるか、やりすぎではないか立ち返ってほしい。推しててちゃんと楽しいですか。今日も推しが眩しいですか。お金を使うことを使命のように、義務のように感じていないですか。美味い飯食べれてますか。友達とも遊べてますか。ちゃんと寝れていますか。
医師はわたしに「今のあなたを推しが見たら、まずは自分のことを大事にしてって言ってくれると思うよ」と言った。
もう、容易に想像できた。というか、いつも言ってくれてた。応援はできる範囲でいいんですって。そういう優しいところがずっと好きだと思っているのに、どうにもわたしだけはそこにはいないような気がしていた。