はてなキーワード: 看板とは
確かに清掃中の看板出てたのに言いなり開けたのは私の落ち度です。そりゃ分かります。
わかりますが、普通に施設は開いてたよね? お風呂場も鍵かかってなかったよね?
なんで????
ねえなんで全裸??????
開けたらこちら白い尻を向けてフリフリ、アニソンに併せてぷらぷらするおいなりさんとポークビッツが目に焼き付いて離れません。
つまりこう言うことですか
anond:20230823115403
正直済まんかった。というか、俺はその時とっさのこと過ぎて相手のお客さんの顔見れてないんだけど
ははは……。もうやっぱりお婿にいけない…。次からは鍵をかけて全裸風呂掃除します。
① 自分等の自由や正義のためなら何をしても何を言っても許されるという態度が性質の悪い正義マン
② チー牛、オタク、弱者男性差別を隠そうともしないその口で叫ぶ反差別や弱者支援は説得力がない
5年ぶりに裸になりたくなった。
Playa de la Mar Bella。ビーチ全体ではなく、限られたエリアがヌーディストビーチ。ちゃんと看板でこの先が全裸ゾーンって書いてある。
カタルーニャ広場停車場(Pl Catalunya - Portal de l'Àngel)からH16のバスでPg. Calvell - Rambla del Poblenou停車場まで。徒歩の時間も込みで30分
バス停からは公園を横切って移動する。なんか途中にドッグランもあった。ビーチそのものは公園からは高台というか小山で遮られている。
小山を向けて海に向かって右側にまず行ったんだけれど、さっそく小山の上で全裸で仁王立ちしているおじいさんがいた。
でも、その時点ですごくトイレに行きたかった。で、近くの海の家的な店で聞いたんだけれど、トイレはお客さん専用だとのこと。
しょうがないので、近くにトイレはないかと小山の左側の店に行った。そしたらそこにトイレがあった。
用を足してあたりを見回す。一応ヌーディストビーチなので裸でシャワーを浴びている人もちらほらいたんだけれども、それよりは筋肉質のビキニパンツの好青年のほうが多かった。こっち側はゲイビーチらしい。皆さん概してマナーがいい。健全な出会いの場という印象だ。
こっち側の海の家の名前は「Be Gay」で、おそらく「ゲイであれ」と「陽気にやろうぜ」の掛詞だ。シャワー付近には裸の女性もいたが、着衣の人が多かったのでここで裸になるのはためらわれた。
さっきはトイレに行きたくて状況がよくわからなかった反対側はどういう雰囲気かと思って、戻ってのぞいてみると、こっちのほうが普通に裸になっている人が多い。ただしシャワーはない。ほとんどが男性で男湯っぽい雰囲気だけれど、カップルが数組いて、父と幼児が海辺で戯れていた。男女比は大体10対1くらいで、以前訪れたウイーンの混浴サウナとはだいぶ雰囲気が違う。それにウイーンのほうが夫婦連れが多かった。
私はここで素っ裸になった。ウイーンとは違って遮るものがないし、着替える場所もないのでちょっと緊張したけれど、えいやと脱ぐ。まずは上半身裸で太陽を浴びて、それから下半身も脱ぐ。パンツと下着を同時に脱ぐ。お尻丸出し。やっぱり全身を太陽にあてると気持ちがいい。
ところで、バルセロナのビーチでは普通にトップレスの女性がいる。二人連れの女性がなんだか楽しそうにしていた。ヌーディストエリアの隣なので、それこそ全裸中年男性がたくさんいるのだけれど、まったく気にしていない。私がヌーディスト的な世界に憧れるのは、相手のことをじろじろ見たりせず、自然な姿をありのまま受け入れているからだ。相手だけが着衣、私が裸(あるいは逆)というプレイに結構興味はあるけれども、ここで感じる解放感とはまったくの別物だ。
何となくだけれど、ビキニパンツのトップレスってなんかユーモラスだ。ジーンズのトップレスのほうがセクシーだ。なんでだろ? ティーバックの水着もなんかお尻丸出しでなんだかセクシーよりも面白衣装って感じちゃう。服って脱ぎすぎて裸っぽくなるととユーモラスになっちゃう。そういえばここで見かけたおっぱいの大きなすっぽんぽんの中年女性、きれいだったけれども、バルセロナ市内で見かけたへそ出しファッションのほうがよっぽどエッチな印象だった。
へそ出しと言ってもブラトップみたいなもあるし、タンクトップみたいなのもあったし、おへそまわりだけ出ていて、その周りのお腹をレースで覆うタイプのもある。
ボディスーツっていう、ハイレグレオタードみたなトップスにジーンズみたいな恰好の女性も見たけれど、腰の素肌が出ているだけなのに、すっぽんぽんよりもなんだかエッチだった。十代もいたし、ぽっちゃりした人もいた。誰も気にしていないのがいい。さすがにパンツが見えそうなミニスカートにはびっくりしたけどね。
で、何でそう感じるか。たぶん素っ裸になると、身体にはどこにも境目がなくてひとつながりで美しいって感じるんだけれども、中途半端に隠すとかえって暴いて見たくなるというか、えっちな部分が強調されちゃうんだろうな。
さて、裸で太陽を浴びてうとうとしていると、水売りのおじさんが通るのが見える。アジア人は私だけだった。アフリカ系の男性が数人いた。でも誰も気にしない。バルセロナは日本人観光客が多いけれども、ここは私だけ。無名のままでいられるって素敵。よそ者の気楽さ。
十分に太陽を浴びた私は、ほかの泳いでいる人たちに続いて、素っ裸で海に飛び込んだ。頭まで潜ったり、波に乗ったり、大股を広げて背中で浮いたりした。すっぽんぽんで太陽を浴びると気持ちがいいし、何物も遮るものがない海に一糸まとわぬ姿で飛び込むと、なんだかいろいろな汚れが流れ去っていく感じがした。これは木々に囲まれたウイーンの混浴サウナでは味わえない感覚だ。途中で急に深くなっていて、一瞬足を取られたのには焦ったけれどね。海に飛び込んで、休んで。また飛び込んでを繰り返す。
で、すごく開放感があったんだけど、ウイーンのほうがマナーが良かったかな。おっちゃんがおちんちん一往復だけいじってたし。単に皮に砂が入ったからかもしれないけど。あと、小山の茂みの中でごそごそやっている人がいた。邪魔したら悪いからよく観察しなかったけど、あれはなんだったんだろう。きっと気にするのは無粋。
あと、ウイーンと違ったのは、こっちは陰毛処理していない人がほとんどだった。ヌーディストだから自然派なのかな?
そうそう、それに、財布も浜辺に置いてある。だからウイーンのほうが安心して裸になれたかな。持ってきたのは現金ちょっとだけだったけど、服も財布も盗まれたらどうしようもない。
でも、やっぱり海にはいろんなものを押し流す力がある。何か聖なる洗礼を受けたというか、生まれ変わった感じがする。何も恐れるものがない気持ちになる。これから生きていくこともいつかは死ぬことも、自然と一体になった私は恐れることはないと。水着で邪魔されず、海水が私の全身を撫でる。頭からつま先まで。無限に広がる温泉のような素晴らしさ。それはとてもやさしくてあたたかい。来世とはこんな感じではないか。個我が消えて宇宙に包まれているのはきっとこんな安心感だ。そんな宗教的な気持ちまでも出てくる。裸になるって神聖。
とはいえ、十分も泳いでいたら普通にオーシャンビューの温泉で構わない気もしてきた。このあたりで私の全裸徘徊願望は収まってきたらしい。温泉では髪の毛を水につけたり、泳いだりはできないんだけれどね。でも、なんだかこうやって心から裸になるのは、信頼できる人の前でだけのほうがいい気がしてきた。
気が済んで、なんだか馬鹿馬鹿しくなってきた。やり残したことを終えると、すっきりすると同時に、なぜあんなにこだわっていたのかがわからなくなる。
罪悪感とは少し違う。やる必要はなくなったかなという気持ち。もう少ししたら気分も落ち着いてくるだろう。これは再確認だ。これは自分にはもういらない要素だということの。別に外で裸にならなくても、普通に暮らしていけるという感じ。
やりたいことをすべてやってしまったという感覚が、おそらく次のステップに必要なんだ。
現に、帰宅してからは、以前は家では裸で運動していたのに、旅行から帰ったら普通に着た方がいいなって感じられるようになった。
なお、小山の右側と左側をつなぐ浜辺は人がぎっしりだった。歩いていくのがためらわれるくらい。たぶん8月のハイシーズンなのと、潮が満ちてきていたからだと思う。
バルセロナはこの時期は日没が21時だ。私がカタルーニャ広場を出たのが18時で、ビーチに着いたのが18時半くらい、脱いだのが19時、だいたい20時ちょっと前くらいまですっぽんぽんで過ごしてすっきりして帰った。服を着た人のいるところまで裸で歩いてシャワーを浴びる気にはならなかったから、軽くタオルで身体をふいてホテルでシャワーを浴びてご飯食べて寝た。
トヨタの看板方式、非人間的な量の仕事をさせられてそりゃ他の国より良い製品はできるでしょう
いきつく先は限界まで酷使される人間の増加なんだけども、そういう「がんばり」がより悪い結果をもたらすってわからないものなのかなあ
自分は誰もが名前を知ってる大手企業で仕事をしている。技術畑が長く、40代になってから営業関連部門に異動した。
デスクで背伸びをして周りを見渡すと、あんまりパッとした人はいない。JTCの総合職だが、
男女比率では女性はかなり多い方ではないか。男性:女性=7:3くらいはある。
男性も女性もワークライフバランスがわりとライフに寄っていると思う。それで職場ではそれでいじめられないよう、
仕事しているフリ、上司への根回しが仕事の根幹にある。あんまり社会に対して何を貢献してどれくらいの収益を得るか、
世の中にどんな影響を与えていくか、自分の仕事を家族に自慢できるか、大きなこともできるはずの看板なのに、
裏を返せば、それほどギリギリ働かなくてもある程度の収入が約束されていることでもあり、ありがたいのだが、
なんだかかなり物足りない。人事や組織もちぐはぐで、上層部のリーダーシップは日本の大学の体育会系のコーチとか監督のふるまいそのものだ。
あまり勝ちの戦略もロジックもポリシーもない。身内の可愛がりとスクールカースト的なイケてる、イケてない、みたいな基準で序列給料を決めている。
この原因の一つには、経営がある程度安定していて、仕事してもしなくても売上があまり変わらないことにあると思う。
自分たちが本当の意味で事業をやっていないので、勝手に入ってくる売上の分配に興味が偏っていて、
それはどうやって決めているかというと、上層部に気に入られるかどうか、という一点にある。勝手に入ってくる収入だから
お客さんも商品もサービスも2の次になって、取り分をだれがどうやって分けるか、という内向きの思考になってしまう。
つまり「ゴマすり、会議でカッコイイとこ見せとく、部長がいるときには頑張ってるフリをする、減点を喰らわない」
みたいなのがメインの業務倫理になっているのだ。アウトプットだ、成果だ、と言いながら結局部長所長の顔色がすべてなので、
リモートワークを避ける傾向がある。つまり実際の仕事はそれほどしておらず、しているフリをして怒られが発生しない、
また期待で業務負荷も発生しないような絶妙なバランスで出社することが業務遂行の基準根幹にあるのだ。
まあどちらかといえばホワイトだけど、体育会系ベースなのでいじめが発生すると陰湿巧妙になる。大企業なので閑職に異動すれば
多少の給与ダウンでどうとでもなるんだけど。はぁ、ため息
このタイトルは5chでみかけたレスなのだが、非常に的確であった。
発達障害、グレーゾーン、無能、コミュ障にありがちな現象。入社当初は快活だが、無能バレして周りから無能というレッテルを貼られ、付き合うメリットなしとみなされ、周りに怯えて媚びながらオドオドするようになるやつ。それについて考察したい。
結論から言うと、発達障害や無能はコミュニケーションや自分の人生について常に思考停止で場当たり的であり、自分の人生についての当事者意識が極端に薄い。これが結論である。
発達障害や無能は「社会人としての会話」を履き違える。まともな社会人は、公の場で初対面やまだ関係の浅い人と話す時、出来るだけ相手の気分を害さないようにする。なんなら、今後仕事で関わっていく上で今のうちに仲良くなっていれば自分にとってメリットがあると考えれば、おだてて少しでも気に入られようとする。面接や入社したばかりの時の先輩との会話はまさにこの「社会人としての会話」の場だ。面接官は自分の仕事だけではなく、会社の看板も背負っている。そして、面接を受けにきた求職者は今後自分の会社で利益を産んでくれる人間かもしれない。そうなると、会社の看板を汚さないためにも、求職者に入社したいと思ってもらうためにも、求職者の気分を害さないような気を使った対応をしてくれる。(もちろん圧迫面接とかはあるけどそういうのはそもそも「社会人としての会話」ができない人間の類であるため除く)また先輩たちも、関係が浅い時期は気を使ってくれる。その気を使ってくれた対応を、無能は自分のことを気に入ったんだなと勘違いし、どんどん調子に乗り鼻高々にイキりだし、自分の能力以上に自分を過大に見せようとする。本当は普通の人が当たり前にできることすらまともにできない無能なのに。イキって自分の能力以上に出来るように大口を叩いた結果、変に評価されてしまい採用されてしまったり、先輩から期待されてしまう。そして無能がばれ、ゴミ扱いされるようになる。普通の人間の場合はどうかと言うと、面接の時に対応が優しいのはあくまで「社会人としての会話」だと理解しており、イキった結果自分の能力以上の過大評価をされてしまうことを恐れ、あくまで自分の能力で出来ることだけをアピールしようとする。だから緊張感を持って面接に臨む。
なぜ無能は面接や初対面の先輩との会話でイキってしまうのか。それは自分の人生において当事者意識が極端に薄く、思考停止であり、場当たり的な行動しか取らないからである。まともな人間であれば、基本的にその会社で長い期間働き続けたいと考える。だから自分の能力以上に過大評価されて失望されるのを恐れ、常に考えて立ち回る。自分の人生だから真剣に考える。当たり前のことだ。しかし、無能は全く自分の人生であると言うことを考えない。その場の場当たり的な行動で、ちょっと気を使われたりおだてられたら調子に乗り、イキってしまう。仕事が出来ない事がバレて無能のレッテルを貼られるリスクを考えない。その会社に居づらくなることとかも何も考えない。自分の人生において極端に当事者意識が薄い。
面接官や初対面の先輩が優しいのはあくまで「社会人のとしての会話」ということを心得て、自分の能力以上にイキるのはやめよう。