はてなキーワード: 怠惰とは
すこしずつ死んでみたらどうですか?
ゆるやかな自殺なら死にたいという願望も死にたくないという欲望も
ゆるやかに死ぬのに血とか痛いのとか嫌ならセルフネグレトおすすめ
あのさ、真面目にやっても報われないから怠惰になったって話なんだけど。まあ、実際そうだと思う。けどさ、完全に怠惰じゃなくて、趣味で同じ趣味の連中に役立つものを作り続けてれば社会には貢献できるし、何よりも楽しいでしょう。
それはその通りで、
「支えているのは自分が払った税金」という主張がおかしいという話。
もしそうなら現役世代が負担に感じることはないし、先の増田も海外に移住する必要はない(老人が意地汚く怠惰をむさぼっていたとしても自分が払った税金によるものなのでその権利がある)。
ハードワークした世代が現役だった時代はせいぜい1989年前後くらいまでだろ
与えて貰って当然の苦労知らずが全員仲良く怠惰に、ポジティブ面なら、専門性はともかくちょっとだけ教養がつき、ちょっとだけおしゃれになった
教科書通りの共産主義は無理でも日本型社会主義(親方日の丸)ならうまくいく
けど、それは焼け野原になり、移民並みの勤勉さでハードワークをした世代が現役だった時代までの話
平等で平和で豊かであるが故に怠惰になり組織に適応するために家畜になり全員が仲良く質と競争力を落とした
ただそんだけの話の気がする
教科書通りの共産主義を成功させる方法は人間牧場(生得的に利他的な人間を集める)以外は思いつかない
けど国が資本を管理して平等を体現する方法は日本を見るにうまく行ったようだぞ
環境に気を使う俺私(Conspicuous conservation)がブランドとして機能しているので
なんか以前からずっと思ってたんだがRailsというかRuby界隈は宗教というか自己啓発ビジネス臭さえするのがイヤだ
金持ち父さん…とか7つの習慣とか、そういう詐欺のカモっぽい人も多いイメージがある
しかし、Ruby登場当初からやたらとエレガントに書ける、スッと書ける(この「スッ」という表現も詐欺で多い表現なので嫌い)とか、
そんなことは個人的にはどうでも良くて、ソフトウェアを使うユーザーは機能が便利かとかそういう視点でしか見ない、悲しいけど
保守の観点からも美しいソースコードを書こうという意気込みは間違っていない、というか正しいと思う
しかし、プログラマーが美しいコードが書けたと悦に浸る、自己満足におちいっているだけのようにも見えるのが納得いかない、不愉快にさえ思える
C++やJavaのような型のあった時代から、型なんてダセーよな、プレステの方が全然おもしれーよな、を経て、また型に戻ってきてる
型推論云々にかまけてパフォーマンスよりも綺麗なコード、富豪プログラミングからまた元に戻ってきてる
学習コストが高いものほど評価されるような傾向も個人的には感心しない
どうせ同じゴールなのに、そこに辿り着く方法が険しいほど評価されるなんて、プログラマーの美徳の怠惰だのから逆行している
実によろしくない
そういう点ではRustよりもGoやC#の方が評価できる気がする
もちろんRustの守備位置はそこではない気もするので単純比較はおかしいのだけど、ゴールが同じなら自分はC#やJavaで書いて終わらせるのにと思うことがある
別にWebだけでなくコマンドラインでの捨てコードにPHPやJavaScriptも適している
そういう意味ではPythonはやはり強い、Glueだからだろう
正直PHPなんかよりPythonの方が言語としてはおかしい気もするのだけど、正しいとかエレガントが生き残る条件ではないのである
しかし、学習コストとしては低いシェルスクリプトは便利ではあるが流石に古いというか罠が多い気がする
PowerShellの方が使える気がする、少なくともWindowsでは優先的な選択肢になった
生き残るというのはそういうことではないのではないか
人生はあらゆる瞬間に行われる大小の選択の結果だと思うんですけど、じゃあその選択ひとつひとつは何によって決まるか?
・それまでの経験(上のふたつによって決まるので自分の意思ではどうしようもない)
のふたつですよね
無理なんだ結局 本質的になにかを自分で決めることなんてできない
多分誰だって努力家で寛大で優しい人に生まれたいぞ でもそうはならん 怠惰さとか狭量さとか怒りっぽさみたいなものは生まれた時点で勝手に付与されると言っていい
起業家として成り上がる能力も、ひとにテキーラを一気飲みさせて殺す人格も、本人が得ようと思って得たものじゃない
いや、得ようと思ってたかもしれないが、その得ようと思うに至ったプロセスは本人に制御できるものではなかった
誰も悪くねえんだよな
何が悪いかと言えばこの世が悪い
俺は誰も恨めねえよ ものすごく酷い大量殺人みたいなのを見たって、「憎い!この人間の屑を一刻も早く殺せ!」とは思えない
まあ生きてても辛いだけかもしれないから、死刑にすること自体はそう悪くないかもしれないけども、憎しみは一切感じない だって仕方ないだろう 将来は殺人犯になって憎まれながら死刑になりたい!なんて思って生きてるやつがいるかよ いるとして、その思想を持たないことがそいつにできたかよ
元々働くつもりもなかったから、遊びの予定を入れた
つうか、当選するとも思ってなかったリアルイベントに当選した。
見切れ席。どうせコロナでキャンセルになるに決まってる。それに行かなければ、週5残業ありの仕事が待ってるだけ。交通費が出るのが救いだけど、そんなの正直当たり前だ。
離婚も予定してるから携帯電話会社を変えたいけど反対の声もあり、プランを変更したらまた馬鹿高い金請求されるに決まってる。
何から離れて、何を捨てりゃ良いんだよ。何を行動したら損しなくなるんだよ。
動いたら動いただけ苦しくなって、どうせまた手放す事になるのに。
「俺のは社会通念上仕方のない区別、お前らのは醜悪な差別(意訳)」
「自分は外野でなく当事者なのだから、何を発言しても無条件で許される(意訳)」
「自分の意向で何ともできない人種や性指向と違って、怠惰で動物以下の低学力を見下すことには正当性がある(意訳)」
anond:20201005213849
じゃあITは辞めといた方がいい
なぜか業務命令でも無いのに職場で資格勉強している謎増田(anond:20200807171943)にも書いたけど
業中もNGだぞ海外も。業務で資格取得を命じられているか、いろいろ規則規律が緩いとこだけよ
日本も監視とか警備とかは業務命令じゃない資格勉強がOKな職場が結構あるみたいよ
たとえ資格取得したらすぐ辞めるヤツでも
怠惰な連中よりは役に立つよ
って思ってる
ある程度の額までは年収と誠実さ(真面目さ)はリンクするの意味、
おわかりいただけますか?
自分も公立校だったけど、勉強について行けない子が結構多かったことが印象に残っているよ。
普通の授業を受けても全く内容が分からず、机に座っているだけで苦痛だと聞いたことがある。
なんか最近自民党をとにかく非難していればいいみたいな言説をたくさん見るので長文を書き散らす。
こういう事を言うとネット右翼だの安倍信者だの言われるのが目に見えているので先に述べると私は自民党政権を支持していない。
その上で、こういった事があるよと言っている事を前提としておく。
表題の件で何が言いたいかと言うと、社会的正義を建前としてメディアを通じて国民を煽り、自らの利益につなげるという商売スタイルが存在するので相手や立場の善悪に関係なく全ての情報を懐疑的に評価しなければならないという事だ。
未だに真実として語られるこの事実であるが、実は嘘と言って差し支えないほどの曲解、拡大解釈である。
これによって「ゆとり教育=テキトーを教える教育」というイメージが固着し、メディアや広告を通じたゆとり教育批判によって当時の小学生達は自尊心ガリガリ削られるという状態になっていたのだ。
「円周率は3」という事実はどのようにして形作られたかと言えば、90年代末に学習指導要領が改定され、小学校の算数について「円周率は目的に応じて3を用いる」「小数は小数点以下第1位までしか扱わない」という文言が登場した。
「目的に応じて3」というのは、円っぽい図形の時のみなし計算や、見積もりみたいな大雑把な計算をするときにとりあえず3としていいよ。ということであり、小数点第一位の件についても、円周率に関しては3.14で扱うという旨が明記されていた。
そこで、とある学習塾が「ゆとり教育では円周率は3!(だから塾に行こう!)」という感じの広告を撃ち、メディアも批判的精神の観点からゆとり教育の問題点の旗印として「円周率は3」を掲げて日夜教育批判を行った。
実際にはそうではなかったのにも関わらず、「円周率は3」という見出しのインパクトによってこれは広く受け入れられた。
それがテレビや親を通じて、当時の小学生達に「お前たちは失敗作になる」というメッセージで突き刺さった。
もちろんそういった意図があった人は一人も居ないだろう。しかし、「頭が悪くなるから塾に行こう!」「間違いだらけの教育!」といったメッセージが日夜飛び交っていれば、結果そういったメッセージとして当人たちに届いてもおかしくはない。
ここまで読んだ人なら想像がつくだろうが、私はもろにその世代である。
全員が全員ではないが、私達の世代には子供の時から「何をやっても無駄」「頑張っても無意味」という価値観の人が多い。
これはゆとり教育批判の流れ弾を子供自体に食らったからではないか?と思っている。
私もいい大人であるから自分の無能や怠惰というのは自力で解決すべきことであると思っているし、教育やメディアのせいにする気はサラサラ無い。その責任を取れとも全く思わない。
しかし、そのような環境に於かれていた当人たちは大人ではなく、第二次性徴も迎えていないような子供である。
精神が未発達でこれから人格を形成していくという子供に対して「失敗作になるぞ」といったメッセージを浴びせ続けるのは果たして円周率を3で教えるよりも良いことだろうか?
社会的正義に目が眩んで子供がどのように感じるかというケアはあの当時全く無かったし、その証拠に、未だに社会的には「当時円周率は3で教えられていた」というのが真実になっている。
いつからそうだったのかはわからないが、この時にはすでに日本のメディアは事実の観測者から正義の行為者へと変貌していた。
正義の行使ではなく、事実の観測を心がけていれば、ゆとり教育への批判も建設的に行なった上で学習塾の広告にも批判的視線を向けられたはずである。
メディアに観測者の存在しない今、情報の受け手である全員が観測者の心掛けを持たねばならない。
「○○政権の法案はこういう事実がある!」というような批判に関しても、「そもそもその事実は妥当なものか?」という俯瞰的観測精神を持たなければ、容易に誰かの意志に流され、守るべきものを壊しかねないということを忘れてはならない。
このブコメの言う「低学歴=怠惰の証」ってド直球の差別・偏見じゃないか
低学歴の人のなかにどれだけ発達障害・知的障害・学習障害が含まれてると思ってるんだ
四則演算もあやしい子が努力を重ねてギリギリ低偏差値高校に合格する世界なんてわかんねえんだろうな
社会問題について述べた,意識のお高~い記事にありがちな締め文句,
彼らによれば,地球の裏側の貧困にも,地球規模の水不足にも,アメリカの格差社会にも,全部俺らは関係者で,責任があるらしい.そんでもって,自分たちの活動が,他人にとっても価値のあることだということが,彼らには全く疑いの余地がないらしい.そんなわけねーじゃん.
俺は個人的には彼らの活動を評価しているし,見かけたら募金くらいはしてやろうというつもりはある.実際にしている.ただ,上記のような文句は,あまりに不遜な態度ではないか.事実を伝えて,それだけでよいのに,他人の良心にまで踏み込む権利は彼らにはない.彼らのような活動は,本来自発的なものであるし,それに,社会問題に目が向かない人は,怠惰でも不誠実でもなく,ただ余裕がないだけの場合が多い.当然国内にも貧困はある.無い袖を振らないことを,ともすれば悪意と取らせかねない,そんな言い草はやめるべきだ.身近にある貧困を無視して,「日本人は恵まれている」と主張するのは,あまりに冷酷じゃないか.