はてなキーワード: 尾崎豊とは
世代の主観が思い切り入っているけど、個人的には90年代半ばを分水嶺として、そこで起きた変化が現在でも続いているように感じる。
90年代の人間にとって尾崎は心底共感はできないし、もう古いんじゃないかと感じてはいたけど、一応何を言いたいのか、伝えたいのかは理解していた。学校の反抗文化は廃れつつはあったが、かっこいいという雰囲気もある程度は残っていた。
しかし00年代になると、若い世代が共感以前に「さっぱりわからない」になった。当たり前だが、上の世代が「布教」しようとすればするほど、若者は遠ざかった。俺も80年代世代の「布教」は正直うざく、自分の中でも尾崎豊は嘲笑の対象になった。
最近尾崎豊を見直しているのは、歳をとって客観的に見れるようになったのと、自分の体を痛めつけて命を削るように歌っている姿が、理屈抜きにすげえなと思うようになったから。今でもたまに10代のファンがいるけど、歌詞やメッセージではなく、その完全燃焼の生き方やパフォーマンスに新鮮さを感じているように思う。
amazarashiって令和の尾崎豊だな
ただねぇ。あの時代、校区が一つ違うだけで、公立学校の雰囲気は全然違ったんよ。
全くと言っていいほど不良に見える子のいない平穏な学校では全然違った。
まぁ隠れてシンナーとかやってる子はいたけど、学校では大人しかった。
僕は新成人になった。成人になると、成人式や新聞の社説、その他諸々の機会に、エライ大人たちがありがたい言葉をかけてくれる。
そういえば昔、朝日新聞の社説で尾崎豊の話が出てきた。当時はまだ中学生か小学生くらいの頃だったが、何故かメディアで取り上げられていた内容を覚えている。その世代のおっさんらしい人が、尾崎豊の話を引き出してきて色々と説く内容だったが、「平成の若者に尾崎豊を押し付けるな」なんて批判があったと思う。そいで、とある精神科医のおばさんが「尾崎豊の曲に共感する若者はグッと減っている」みたいな事も言ってた気がする。
じゃあ新成人のお前はどうなのかと思われるかもしれないが、僕は尾崎豊の曲が大好きだ。だけど、『15の夜』や『卒業』で歌われるような不良行為や非行に共感するわけじゃない。
彼の曲が好きなのは、「自由とは何なのか」とか、「自分はどう生きたいか」とか、そういうアイデンティティにまつわる苦悩を描いているから。自分は何物なんだと苦しみながらも、強く生きていこうとするエネルギーに溢れた彼の曲と歌声が、大学進学やら何やらに悩んでいた僕の心に刺さったのである。
尾崎豊の事を「若者の教祖」「反逆のカリスマ」なんて表現する人が沢山いるけれど、それは誤解だと思う。『15の夜』や『卒業』で描かれる不良行為は、自由や自分らしさにまつわる苦痛にあがいたゆえの行動として表現されているし、『傷つけた人々へ』という優しい曲もある。そして、『僕が僕であるために』のように、ストレートに自分らしさ、生き方を表現した曲を、彼はたくさん遺している。
彼が曲の中で描いた大人への反抗は、アイデンティティにまつわる傷跡を描くための一面でしかない。そして、尾崎豊とは「若者の教祖」ではなく、「迷える若者のひとり」だったのではないかと、なんとなく思う。その時代に生きたわけではないから、実際のところは分からないけれど。
また、「尾崎豊の曲はあの時代じゃないと理解できない」みたいなことを言う人もいるけれど、それも違うと思う。自分らしさに悩む若者はいつの時代にも居るし、とても普遍的なことだから。もちろん時代によって多かったり少なかったりするだろうけど、彼の曲は今も、そしてこれからも、輝きを放っていくと思う。
僕の自分らしさとは何なのだろうか。そして、それは人に受け入れられるものなのだろうか。
きっと、受け入れられなかったり、理解してもらえないことが沢山あると思う。現に、死後30年近くたっているのに尾崎豊と彼の曲は誤解されたままだ。僕も彼の曲のように、自分の人格、考えたこと、感じたことが、人に受け入れられなかったり、誤解されていくことになるだろう。
そして、それらを理解してもらえないばかりか、そもそも理解しようとすら思わないような人が、世の中にたくさんいる。物事について、何が間違っていて何が正しいのかを考えようともしない人たちが、間違ったことを真実であるかのように信じ、それを広めていく。でも、僕はそんな世の中を生きていかなくちゃならない。きびしい大人の世の中を。
そりゃそうだろ、金があっても常識のないやつや重度の発達障害やアスペルガーなんか本能的に健常者は嫌うだろ
常識身につけてさえいれば今頃チンポ乾く暇や他のイケメンたちが声かけてくるから会える時間30分だけねみたいなくらいくらいモテるスペックや素養があるのに
増田の自己申告する年収や社会的地位や学歴が本当なら、それでモテないってそれを差し引いてもドン引きされるくらい常識がないからでしょ?
常識なんて身につけたくねぇとか尾崎豊にかぶれた中学生みたいな心理のまま今まで来て致命的に世間ズレ起こして周りから距離を置かれることにさえ気がつかないなんて増田めっちゃ多いよここ
教育や生まれた家庭も行き届いていたのに常識を叩き込めなかった親の責任とまではいうつもりはないが
後天的な努力や勉強でどうにかなるどころかそれ以外に方法がないことを邪教のように嫌う割には口では努力努力いう増田めっちゃ多いよね男も女も
例えば歌詞とか小説とかにおいても、そもそも受け手の立場にとっては他人のことなんかわからないわけである。尾崎豊が歌詞を書いたって、俺には尾崎豊の人生のこともなにもわからないし、なんで亡くなったかとか、マジで15歳でバイク盗んで走ってたかとかもわからない。なぜなら俺はそんなことをしたことがないから。これはきっと15歳でバイクを盗んだ人間にしかわからない「経験」だし、20歳になった今バイクを盗んでもそれとは違う。なんなら15年間尾崎豊という人間を生きていなければわからない歌詞であるのに、そこに人気が集まったのは、「なんとなくわかる」という自分を持っている、もしくは作り上げてそこに投影したからではないだろうか。では作り上げた自分という人格に価値があるのか。
「文章」を理解するのは大変に難しいと考えている。ハグやキスといった身体的コミュニケーションに比べて明らかに難易度が高いのは、目に見えないからだろう。受け取り手の感性に多く順応するために最も適切なコミュニケーション方法は五感に依存するものと比例している。たとえば本のなかでも絵本は最大限に五感に攻撃している。絵と文章、読み聞かせなど、幼少期に「自覚」の獲得に必要な感性に訴えるもので、人間はそこから物心をつけていくわけだが、そこに協調性というノイズが入るせいで感性はやがて鈍ってゆく。
人間は所詮動物であるため、種の保存という目的さえあれば何の問題もなく活動を行えるはずだが、そこに思考という足枷がかかる。人間は考える葦であるが、考えなくてはならない葦である。この葦は協調性、多様性といった様々な性質を持たざるを得ない葦である。本来必要ではない、無駄な思考であるこれらを動物にとってプラスにとるかマイナスにとるか。それもまた一つの多様性というノイズのひとつになる。
詩や文章という他人の知識や語彙に依存したメディアが発展するのは特に人間的でもあり、前時代的でもあると考える。人間が思考した結果が他人への依存であるならば、思考したことは無駄であると一蹴できるからである。なぜなら思考は内的感覚への訴求であり、それもまた自らの知識や語彙に依存しているからだ。他人から受け継いだ知という感性を自らに受け止め、それを発展させることに意味があるとすると、それと矛盾するからだ。その矛盾と戦う人間たちは極めて無駄であり、また自然であると考えるのである。こんな「文章」を書いている自らについて。
表記は以下:
僕は学生なのだが、休暇中は大量の課題と勉学を程々にしつつも、インターネットの海でバカンスを過ごしていた。
さて、本題に入ろう。新型コロナウイルスの流行によって更に露呈してきた「大人(笑)」について、少々愚痴を垂れ流させていただきたいのだ。
「大人」は何をもって大人とするか。僕はこの問いにいつも頭を悩ませる。
マスクを高値で転売し不要不急の飲み屋へ出歩き著名人を誹謗中傷し「自粛警察」ムーブをし、更に口を開けば「若者がー」。
こういう事を言うと「大人に反抗したがる尾崎豊のなりそこないがよォ」と言われそうだが、そんな人には、「反抗期」は「大人に反抗したがる時期」ではなく「子供と違ってなんでも出来ると思っていた大人が子供と同じくなんにも出来ないことを知ってそれに言及しだす時期」で、それを乗り越えると「もう皆何も出来ないんだから一々矯正しようと思うのも疲れた」と思いだすのが人間だと思っているので「あなたにもこんな感じの時期、ありませんでしたか?」とだけ言っておこう。
最近の話題で言うと、「センター試験の廃止」「外部試験の導入」が僕からするととんでもなくムカついた。ああでも安心して欲しい。大人の方々、初めからあなたたちに期待などしていない。特に教育関連の仕事に務める方々よ。しかし、期待していないにしてもこれはあまりにも酷すぎやしないだろうか。なんの中身も計画もなく、ただなんか国際的な国際に合わせて国際したかったんです国際🥺というのが伝わってきた。滑稽。
「身の丈にあった受験を」なーんてこと、思っていたとしても言わないのが大人(笑)の務めではなかろうか。身の丈にあった職業じゃないからその職辞めた方がいいですよ。
「私たちの時はこうだったからお前らも我慢しろ」理論はすごくサムい。そんな考えは大便と共にトイレへ流してからインターネットを使ってくれ。あとそういう大人(笑)に限って我慢してない。
「大人」っておっきくなった子供で、人間はもって生まれた価値観のベースからそう簡単には変われないんだよって、「大人」ってだけで信頼する同世代に言いたい。「大人」なんていないんだ。子供に手を出す大人は、あなたにとってどれだけ落ち着いてカッコよく見えたって、同年代から見ればただのハリボテだ。
この国を支えてくれているという点を無視した結果の文章でないことは分かっていただきたい。それはそれ、これはこれ。
ここまで喚き散らしておいたのだから、僕は「大人」な大人にならなくては示しがつかないな。
まず初めに「身の丈にあった」スーツでも買ってこようか。