だから、「ハラスメントされてでも男にかまわれたい」ってブスがいるのかどうか知りたいんじゃないの?元増田は。
「いくらブスでもそんな人いるはずない」と言い切れるのかどうか。
ちなみに俺はハラスメントされてでも女にかまわれたいブ男ですが。
どこをどう読んだらその理解になるのだろう
これ豆な。
今気分が良ければ嫌な思い出がフラッシュバックしても「でもあの時の苦しみが今の俺を幸福にしたんだ!」となる。
今気分が悪ければ楽しい思い出に浸っていても「もしあの頃調子に乗らずにコツコツと努力していればあるいは」となる。
今どんな気分でいるかで思い出の印象が全く持って変わる。
これ豆な。
特に自販機で売っている缶ジュースが好き。それはペットボトルより冷えているから。缶の性質上、中身が冷えやすいのがいい。やっぱりジュースは冷えている方がうまい。あと、缶と言えばロング缶。コンビニでもたまに見るけど、コーラとかペプシとかのロング缶は嬉しい。500mlで100円とか超嬉しい。特にペプシの青いロング缶は綺麗だし好き。そしてコーラはペプシが好き。コーラよりさっぱりした感があるから。
あ? 私小説? どうせ、実生活で体験の幅が狭い作家が、どうでもいい身辺雑記を延々と書いた文学のことだろ? くっだらねぇ。
というふうに自分は思っていた。
で、私小説をいくつか読んでみた。
食わず嫌いの先入見は、まちがいだった。
なにが面白いか。
私小説は、主人公が馬鹿で、下衆で、これでもか、これでもかというほどに生活がどんどん下降していくさまが、ある種爽快なほど露悪的に書いてあること、
そしてこれが事実であるかもしれないという期待を読者に抱かせながら、虚実入り混ぜて物語が展開されること、
ではないかと思う。
主人公が失業して貧困に陥ったり、男女関係で泥沼にはまったり、酔っ払って人に迷惑をかけ、誰からも相手にされなくなっていくごとに、読んでいる側としては、変なカタルシスを感じてしまうというか。
で、ネット上で有名になって、お金も欲しいという人は、もっと私小説的な文章を発表してけばいいと思う。
ネット上で炎上してきた(している)話題は、当事者を主人公にして、私小説仕立てにしてみると、もっと面白くなりそうなものばかりだ。
ネット上の有名人が、ネット以外でブレイクすることを妨げているのは、彼ら(彼女ら)が、小賢しいことだ。
小賢しいとは、自分の失敗や品性の低さを指摘されると、取り繕ったり、反論したりして、自分を分相応以上に賢く見せようとするということだ。
こうすることにより、彼ら(彼女ら)は、いっそう小者に見えてしまう。
コンテンツとして自分の価値を最大化したければ、大正、昭和の私小説作家のように、あるいは現代の西村賢太のように、卑小さを卑小さのままに、破綻を破綻のままに描き出し、そのことから生じる業を生きるほうが、じつは戦略としては賢いかもしれないのだ。
サッパリ自著は売れないながらも、昨年の彼の税務署への申告額は、小説関連の収入と、作家の肩書あっての各種アルバイトで、それでもx千x百万円になっていた。汚ねえ身なりをしているからと云って、そう容易く浮浪者を見る目で眺めて欲しくはないのである
これをフィクションと受け取るかどうかは、読者次第だろう。
炎上芸人は炎上芸人のままで終わる必要はない。もっとコンテンツとしてのポテンシャルがある。金銭的に報われる可能性がある。自分の人生をコンテンツとし続けることの業を生き続けるだけの覚悟があれば。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000984/card3212.html
「近所の借金がうるさくて仕様が無いので、どこかに行つて書いて来るつもりだ。……大洗の方へでも行かうと思ふ」と言い残して主人公は東京を出て茨城に行き、知人のつてを頼って旅館に逗留するが、そもそも宿代を持ってきていない。知人が何とか融通してくれるだろうと最初から当て込みながら、居座る。
知人は当然のことながら激昂し、旅館からは宿代をつけにしたまま追い出される。
有り金がないまま次々と宿を変えながら茨城をさまよう話なのだが、最初はちゃんとした旅館だったのに、しだいに宿のグレードが下がっていって、最後はドヤ街の宿のような木賃宿で弟の送金を待ちながら、身につけたものをどんどん質に入れて裸になっていくところが笑える。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000249/card49655.html
馬鹿で不細工で貧乏であることに強い劣等感を持っている主人公の中学時代を描いた作品。恥ずかしい過去を思い出して悶絶するときのシーンはとくに秀逸。
「あツ、あツ」と、私は奇妙な叫び声を発して下腹を抑へた。両手の十本の指を宙に拡げて机の前で暴れ騒いだ。
「何を気狂ひの真似をなさるんです。えイ、そんな気狂ひの真似する人わたし大嫌ひ」
私淑していた葛西善藏の気狂いっぷりを書いた『足相撲』もあわせて読みたい。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000249/card1337.html
ミハイル・バフチンがカーニバル文学と読んだドストエフスキーの作品のように、これ以上ないほど気まずく不謹慎な破綻の場面を職人的な巧みさで書ききるようになった著者の近年の作品はすべて必読。
高3ならまだ、そういう世界しか体験できてないかもしれないけど
もう少し年取って行動範囲が広がると、努力しなくてもまあ大丈夫な世界もあるよ
元増田がここに辿り着けるように、祈りながら待ってる
元々、そして今も、下ネタ大好きセクハラ野郎だったのを、知らない/忘れていた人がそれを知って/思い出し、今までの評価バブルが軽く弾けただけ
ちょっとオーバーシュートしたかもしれないが、すぐに前くらいに戻るだろう。
だからいろんな人に叩かれ、注意されても、それを認めるわけにはいかないので、脳内で、「いろいろ攻撃される私かわいそう」みんなセクハラと表現の違いわかってないのね」と脳内変換して、悲劇のヒロインになる。
だってそれを認めてしまえば、自分の間違いを認めることになるからだ。
何年もやってきた童貞マウンティングが間違っていたなんて、認めるわけにはいかないからだ。
自分が間違っていたと認めると自分の人生がいっきに色あせてしまう。
はあちゅうさんは、自分は素晴らしく有意義な人生を送っていると思っている。自分は正しく、素晴らしいと思っている。
だから、絶対に他人の忠告を聞けない。無意識に、自分を守るために、忠告した人を悪人に仕立て上げる。
ただただかわいそうな人だ。
いや、会話での情報量の違いが発端なんで
むちゃくちゃ速い
https://www.ted.com/talks/helen_pearson_lessons_from_the_longest_study_on_human_development/
日本語だと難しい
クズが生きるということは難しい。
なぜならこの社会では「努力は誰でも出来る」ということになっているからだ。そんなの当たり前だと思ったあなた、ぼくは本当にあなたが羨ましい。この世にはどうあがいても努力が出来ないという人種が存在するのだ。
自分語りになってしまうがぼくは現在高校3年生、所謂受験生である。しかし、この時期になっても全く受験勉強をせずにいる。勉強しなくてはいけないことは当然頭では分かっている。だが身体が動かないのだ。
あなたはそれはぼくの甘えだというかもしれない。みんなそれを乗り越えてきたんだと言うかもしれない。だが、ぼくもあなたもウサイン・ボルトほど速く走れないし望月教授のようにABC予想を証明することも出来ない。どうして努力だけが全人類共通に備わった能力だとみなされるのか。ぼくはそれが不思議でならない。努力を「しない」のではなく「出来ない」のだ。
もちろん誰かに救済してもらおうだとか努力しなくてもいいようにしろとかそういった意図でこの記事を書いたわけではない。ただ、努力出来ることを前提とした言説が溢れ、努力「出来ない」という悩みを持つことさえも許されていないかのような風潮を目にするたび深い絶望に襲われる。この言い様のない苦しみを共有出来る人がいるかもしれないという一縷の望みにかけて駄文を書きなぐった次第である。
クズが生きるということは難しい。
・ハラスメント認定されるリスクがあるので告白やプロポーズはリスキーだ
今日の増田を見てて、正当な恋愛とハラスメントの違いを理解してない投稿が見受けられました。
Aさんがワサビで握ったおむすびを持ってきました。具はほんの少しのお米です。Aさんはこれが大好物であなたにも食べて欲しかった。
あなたが食べてみると辛くてとても美味しい。あなたが喜んでくれてAさんも満足です。
以上、これが同等のやりとり。
あなたは一口食べてみたものの、辛くて食べられない。「私にはちょっと食べられないのです」と述べると、Aさんも納得しました。
以上も、同等のやりとり。
さて、ハラスメントです。
あなたが辛くて食べられないと断ると、「お前みたいな出来損ないないが食べ物を恵んでもらって文句を言える立場か!さあ食え。食べ物を選り好みするのか、おまえは何様だ??」
ハラスメントはこんな感じっす。
少女終末旅行は素晴らしい。さっき最終話を見たばかりのワタシからすればこれはもはや自明なのだが、もしかしたら明日朝起きたワタシにとってはそれはもはや説明を必要とするような感覚かも知れない。だが、ワタシはこの気持を忘れたくないので、一度言語化してみる。言語化することによって記憶は記録となる。記録を残すと思い出はより高い精度で再生する事が可能になり、明日以降のワタシも少女終末旅行の素晴らしさを忘れないでいることが出来る様になるのだ。話が逸れてきた。興奮しているようだ。落ち着け。
落ち着いた。続きをかく。
ここ数話の少女終末旅行を見てワタシの記憶に蘇ったのは2つのアニメだ。1つはけものフレンズ、もう1つはテクノライズ。どちらも素晴らしいアニメだ。片方は滅びた後の優しい世界を描いた作品であり、もう片方は滅びゆく優しくない世界を描いている。少女終末旅行の世界は優しくない世界の名残が各所に残る優しい世界だったからこの両者を思い出したのだろう。1つ間違いなく言えるのは、滅びるとは美しいという事だ。そして、滅びていると滅びていくが同居する、滅びかけの世界はとても美しいという事だ。
少女終末旅行の世界は滅びているし、滅びかけているし、滅び続けている。そして少女終末旅行の世界には世界を滅びから救う道が残されていない。人類の世界が滅びることで、別の新しい世界が生まれていると捉える事はできるが、人の世が滅びることはもはや避けられない。世界に残されているのは思い出と、ほんのわずかな人間であり、そこから人類の世界が蘇る未来はもはや何処にもない。
滅びている世界の中で、残されているのは人類がかつてそこにいた記録だけだ。だが、それらの記録を人類の記憶として再生するための人間がもはやいない。観測者不在の世界において記録はただのデータであり、記憶に書き換わることはない。そこにオッサンやオネーサンや、2人の少女がやってくることで、かつて人類がそこにいた世界を生きる日々の思い出が生まれていく。この世界に人が居たことを証明する事が出来る存在はもはや残り僅かだ。
歯車が、兵器が、工場が、食料が、機械が、記録が、人類がこの世界にいた証拠がこれほどまでに溢れていて、自然を上から覆っているのに人間はほとんど残っていない。矛盾だ。人間の為に存在するものが世界を覆っているのに、人はもうほとんどいない。矛盾ではない。人間の為に存在するものは、人間が存在していたことは証明しても、それらを築き上げた人間たちが今もそこにいることはまでは証明しない。
あの世界は屑鉄色だ。しかし、その世界で描かれる物語は暖かく柔らかい。それはそこにいる人間が柔らかいからだ。つくみずデザインの丸顔はとても柔らかい。饅頭を頭に乗せたような顔をしている。ちーちゃんはとても柔らかい。ユーもとても柔らかい。2人の関係も柔らかい。出会う人達もまた柔らかい。あの世界はあんなにも固くて冷たそうな物ばかりが溢れているのに、その世界を観測する人間が柔らかいからあの世界は柔らかい。
屑鉄色の固くて冷たい世界が、それを眺める人間によて柔らかくなっていく。その過程があそこにはある。
少女終末旅行が何故素晴らしいのか。それは夜に見るのに相応しいアニメだからであろう。それも週末の夜に見るのにとても素晴らしいアニメだ。週末にやっているという事が素晴らしいのかも知れない。放送時間はとても大事だ。平日の夜に見る深夜アニメは、次の日が平日であるという気持ちから入り込めない。平日への逃避の気持ちから深く入り込めるという意見もあるだろうが、それは入り込み方として濁っているとワタシは考える。これはワタシの個人的な意見だ。平日が終わった金曜日の夜に、一週間の仕事の疲れを抱えながらテレビを見る。季節は冬だからもう周りは真っ暗で部屋は少し寒い。だけど心は穏やかだ。膝に載せた電気毛布のほのかな暖かさと柔らかさが肌にしみる。そしてアニメが始まる。人気のない道をケッテンクラートが進む。寒空の下か、暗い工場の中を。少女達が現れる。途端に世界は晴れやかになる。晴れやかなまま穏やかに物語が進み。OPが流れる。とても心地よい。そしてCMがやってくる。
物語が再び始まる。冷たい雪景色に轍を残して軍用の半装軌車が進む。少女達が取り留めのない会話をする。雪が鉄を覆う景色は灰色と白の二色だ。しかし、その世界がまとう空気は春の並木道を思わせるような暖かさだ。世界は温かい。世界は冷たい。硬い。柔らかい。矛盾した感覚。滅びゆく世界。未来のある少女。少女2人の旅。未来のない世界。矛盾。心地よい。コタツに入ってアイスを食べるような。心地よい矛盾。
物語は進む。世界の真相は少しずつ暴かれる。暴かれているようで、暴かれていないようで、暴かれていく。世界の滅びの核心が近づく。世界が滅んでいても、2人の旅が楽しいことが確信に近づく。世界は滅んでいる。間違いない。もう駄目だ。救いはない。2人一緒の度は楽しい。もう疑いの余地はない。救いはある。
滅びの美学で少女の愛らしさをラッピングしているのか。少女の柔らかさで破滅の寒さを包んでいるのか。相互作用だ。相互に作用しあっている。混ざることのない2つが混ざり合わないからこそ引き立て合う。深夜アニメだ。深夜アニメとはこうあるべきなのだ。言い過ぎている。だが他の言葉で表現したくはない。真夜中に起きているような年齢の人間が、子供の見るような絵柄の番組を見る。内容は子供でも分かるような気がするが、大人の方が楽しめるように作られてもいる。難しい話をしているようにも見えるし、幼稚園児向けのおとぎ話みたいにも見える。深夜にやるアニメ。特別な時間。その特別がこの所は失われてきた。大人向けのおとぎ話、少し背伸びしたい子供のためのカルチャー。オタク向けの作品。オタクでない人間の視聴にも耐えるような作品。本当は誰のものなのか誰にも分からなくて、きっと誰のものでもない。子供は寝る時間。大人も寝たほうがいい時間にやる番組。狭間の世界にある狭間のテレビ。柔らかくて、冷たい。暖かくて、硬い。心地よい矛盾。その手触り。思い出せた。ワタシが深夜アニメを好きな理由。言語化しきれなかったけど、せめて言語化出来た範囲までは記録できたはずだ。何故ならこうして言語化したのだから。
とりあえず言いたいこと。ちーちゃんが凄い可愛い。ユーが可愛いのは、ユーがちーちゃんを可愛いと思っているからだと思う。相互作用。
はあちゅう氏が謝罪文を削除して声明を発表したので応援するつもりで書く。
はあちゅう @ha_chu
やっぱ気持ちが弱くなってる時になんかやったらダメだわ...。
あまりにもわーーっと大量に誹謗中傷がきたから、納得いかないけど、とりあえず謝って済まそうみたいな心境だった。私らしくなかった。
はあちゅう氏は、「セクハラ」と「表現」は違うというスタンスを取ることを決めた。 これは #MeToo の運動を今後も進める為の判断だと思う。
「セクハラ」と「表現」は別のものであるという主張自体を堂々と行っていくことを宣言した姿勢を、その是非は別として応援していきたいと増田は思う。(*1)
(1)「童貞」とは概念であり、特定の人や集団を指したものではないという考え。
もしかしたら「童貞」とは「概念」であり、特定の人や集団を指したものでは無いかもしれない。
ここで、一つの「特定の人や集団を指したもの」の例を見ていきたい
童貞がヤリマンを探して夜の六本木に出撃する「ヤリマンクエスト」通称ヤリクエのプロットを思いついたのですがどなたか漫画化して頂けないでしょうか。ジャンプで連載狙いたいです
この場合「六本木」そして「ヤリマン」というワードを使うことで、実在する「六本木」の「女性」を指していると考えられる。
よって 「セクハラ」であると証明される。ジャンプで連載が狙いたい位、自信があるようだが、「セクハラ」であればそれは無理だろう。
ただし、「童貞」に関しては「童貞的思考」を含む、「概念」であるとこの場合はいってもいい。
(2)「被害者」への直接的な言動、行動でないない場合は、「セクハラ」ではないと考えている場合だ。
ここで、二つ目の「「被害者」への直接的な言動」の例を見ていきたい
「だいたいね!六本木なんかブラついてる女にロクなやつは居ないんですよ!!六本木歩いてる女なんて全員ヤリマンですから!!」
「はい!」
と、好き放題っつーか言いたい放題の僕ではありましたが、
それでもまあ何故か会話が弾みまくりまして。
気付いたら3時間経過!なにそれ!
この例は「男の婚活シリーズ第二弾~婚活バーに行こう~」と題し、とある有名サイトのメインコンテンツでヨッピー氏が「本気で結婚相手を探している31歳のIT系会社員」に対して行った発言である。
インターネット上の「嫌ならば見なければ良い」状態で「童貞」と言われて傷ついた人へ行われた発言とは大きく異なる。
身長180cmを超える大男が行ったセクハラ行為と、上下関係を元にしたセクハラ行為は何が違うと言えるのだろうか。
Twitter等で日々繰り返されていたヨッピー氏「ヤリマン」発言とは大きく異なる。
真剣に結婚を考えていた女性を相手に行われたこの行為を、セクハラ行為であるのを否定できる人はいるだろうか。
これは
と弁明し、
と発言で許されるわけは無い言動で、これを持ちましてBuzzFeedが #Metooの今後のためにも、被害者の名乗りを呼びかけ、ヨッピー氏をBuzzFeed上で被害者及び #MeToo 関係者に謝罪させるべきだという証明を終わらせていただく。
えっ。この記事何年前の話だって?奇しくも8年前ですよ。(続く)
(*1) 謝罪を取り消した事によって、「童貞」によって傷ついたと主張する人には再び蒸し返すのも自由であるが、セクハラ被害者が仮にセクハラをしていたとしても、セクハラを告発していけないわけではない。
追記、続いた
俺の場合は「百年分の恋愛感情が一気に来てしまった」と言った状況だった
もちろん精神が狂った
そんなの上手く行くわけないのでもちろん最悪な感じで色々潰えたのだが
その後とにかく忘れようと仕事ばかりした
月400時間労働してみたり、転職してみたり、フリーになってみたりした
今はフリーで3社目、その傍ら別の仕事をして、オリジナル事業も作ってる
もうそろそろ5年になるだろうか?
たぶん5年だ
数えるのが嫌だ、自分の歩んできた道を振り返りたくない
あと95年、呪いのように続くのかもしれない
どこで何を間違えたのか
今正しいのか
わからない
50くらいまで仕事ばかりしてみて、そうしたら何か別のものが見えるのではないか
ある日突然、人間のようになった日のように、ストイックを突き詰めれば人間じゃなくなれるかもしれない
今仕事は4つ持っている
確か去年も似たことを書いた気がする
来年もまた書こう
制限速度ピッタリで走る奴がいると渋滞するっていう説。昔からその理屈がよくわからん。
制限速度ピッタリに走る後ろの車も制限速度ピッタリで走りそのまた後ろの車も制限速度ピッタリで走れば渋滞はしなさそうだと思うのだが、制限速度ピッタリの車の後ろを走る車の運転手は何故か遠慮してしまって制限速度より少し遅いスピードしか出せない、その後ろの車も少し遅め、そのまた後ろの車も少し遅め……となるので、一番後ろの方に並んだ車は今にも停まりそうなノロノロ運転になるのだという。
しかし、普段運転をしていて後続車が自分の車より遅いスピードで走っているという感じはあまりしない。後続車の多くは車間距離を一定のまま着いて来ている様に見える。たまに煽って来るのや異様に遅い車もいるが。
自分だって、前の車に遠慮して必要以上にスピードを落とす事なんてあまりない。
これまでに渋滞の先頭付近を走った事が何度かあったが、そういう時って先頭車両が耕耘機やお年寄りの運転する軽トラだったり、事故処理中や工事中だったり、信号が多い道だったりと、何かしら渋滞してしかるべき理由があったものだ。