はてなキーワード: 部族とは
デンマークといえば、みんな大好き「(植民地とかではない)メインの領土が大陸にあるのに首都が島にある」2か国のうちの1つだけど(もう1つは赤道ギニア)、確かに「現在の」地図を見れば、首都コペンハーゲンはずいぶんと端っこにあるように見える。だが、コペンハーゲンはもともと国土の中心にあった。現在のスウェーデン南部スコーネ地方はもともとデンマーク領だったが、17世紀に戦争でスウェーデンに奪われたのだ。つまりコペンハーゲンは、ユラン半島とスカンジナビア半島南端部というメインの2つの領土をつなぐ、ちょうど真ん中の位置にあったことになる。仮に東北地方がソ連に奪われていたら、東京はずいぶん国土の端っこにあるように見えるのではないだろうか。
言うまでもないだろう。仮に将来南北統一が実現したら、ソウルは統一コリアのど真ん中に位置することになる。
これも言うまでもない。独立当時のアメリカは東部の13州しかなかった。13州のうちの北部と南部のあいだの妥協案として南部に新しい首都が作られたが、地図を見ると、まあ、「真ん中よりちょっと南」の立地と評価できるのではなかろうか。
ソフィアはずいぶんと国土の西側に偏っているが、本来はそこが国土の中心になるはずだった。20世紀の初頭、オスマン帝国領バルカンに残されたマケドニア地方を周辺の3カ国が虎視眈々と狙っていた。セルビア語とブルガリア語の中間のような言葉を話すその地の住民を、セルビアはセルビア人と呼び、ブルガリアはブルガリア人と見做し、ギリシャはスラブ化したギリシャ人の裔であると主張した。二度のバルカン戦争を経て、その地方は主にセルビアとギリシャの間で分割される(このオスマン領マケドニアのうち、セルビア領になった部分が現在の北マケドニア共和国)。……そう、ブルガリアはマケドニアという果実を得られなかったのだ。仮に幻の「大ブルガリア」が実現していれば、ソフィアは「大ブルガリア」の中心部に位置することになっていただろう。
オーストラリアはもともと1つの国だったわけではなく、オーストラリア大陸に作られたいくつもの植民地が寄り集まって独立した国だ。独立するときに二大都市のシドニーとメルボルンのどっちを首都にするかでモメたので、その2都市の間に新しい首都を建設することにした。つまり、国土の中心ではないが、二大都市の中間に首都があるということだ。まあ、オーストラリアの文字通りの中心、人住めなさそうだもんね……
交通に便利なパナマ地峡に街(パナマシティ)が作られる→交通に便利すぎて街のそばに運河が作られる→アメ公が大西洋と太平洋をつなぐ運河の支配権を欲しがる→運河地帯の住民による独立運動を煽ってコロンビアから独立させる、という経緯で作られたのがパナマ共和国。つまり首都のまわりが国土になるように切り取られた国なので、国土の真ん中に首都があるのは当たり前なのだ。
ブラチスラバは国土の端っこにあり、立地的にはほぼウィーンである。スロバキアというのは、元々「ハンガリー王国北部でスラブ系言語を話す人たちが集住しているところ」に過ぎず、伝統的な行政区画を持っていなかった(これは「オーストリア側でスラブ語話者がいっぱい住んでるところ」に過ぎなかったスロベニアと同じ。この2つの国名が似ているのは偶然ではなく、両方とも「クロアチア」みたいに伝統的な地域名を持っていなかったので、それぞれが「スラブ人の土地」と名乗った結果なのだ)。それが第一次世界大戦のドサマギでハンガリーから分離したわけだが、当然「どっからどこまでがスロバキアか」という合意があるわけではなかったので、チェコスロバキアとハンガリーによる実力での分捕り合戦になった。その中で、「大都市(当社比)だし交通の要衝だから、スラブ人率は低いけど占領しとこうぜ!」となって占領されたのがポジョニ、のちのブラチスラバである。ブラチスラバはあまりに「国際色」が強すぎたので(20世紀初頭の時点で人口の4割がドイツ語話者、4割がハンガリー語話者)、国土の中心にあってスロバキア民族運動の拠点でもあったマルティンにスロバキアの首都を遷そうぜ! という議論が戦間期に行われたのだけれど、結局ブラチスラバが首都として維持された(ところで日本語版ウィキペディア、マルティンの記事名が「マルチン」になってるな。確かにスロバキア語ではtiと綴ると「チ」と読むけど、Martinみたいな外来語の場合は「ティ」の音が維持されるんだよ!)。
島国といっても、メインの島が1つなのか、複数なのかでだいぶ違ってくる。というのは、小さな島がたくさんある国だと、まずもって「国土の中心かどうか」というよりも「島のデカさ」で首都が決まることがありえるからだ。そりゃ、真ん中にある小島よりも、端っこにある大きな島に首都置きたいよね……典型的にはトンガとかがそうで、南端にあるトンガタプ島のヌクアロファに首都が置かれている。あるいは、「大きな島+小さな島」の組み合わせでできている国は、たいてい大きな島の方に首都がある。バレッタ(マルタ)とか、バセテール(セントクリストファー・ネイビス)とか、セントジョンズ(アンティグア・バーブーダ)とか、ポートオブスペイン(トリニダード・トバゴ)とか……(元増田が挙げてるニュージーランドは例外)
では、メインの島が1つしかない国はどうだろう? これなら「国土の中心」も定義しやすい……あれ、意外と首都の位置偏ってんな。元増田が挙げてるアンタナナリブ(マダガスカル。ちなみにマダガスカル語ではoと綴ってuと読むので「アンタナナリボ」は間違い)は確かに真ん中ら辺にあるし、ダブリン(アイルランド)やダグラス(マン島)やディリ(東ティモール)やアロフィ(ニウエ)やポートルイス(モーリシャス)やスリジャヤワルダナプラコッテ(スリランカ)もギリギリ真ん中辺りと言えるかもしれないけど、台北(台湾)もハバナ(キューバ)もキングストン(ジャマイカ)もレイキャビーク(アイスランド)もマナーマ(バーレーン)もヌーク(グリーンランド)もヤレン(ナウル)も島の端っこの方にあるな……首里、沖縄本島の中心都市として見ると南すぎるけど、奄美~先島までの琉球王国の首都として考えると割と中心に近くて草。
首都の立地はよくよく考えますよね。ここは盆地で長らく中央集権国家だったから真ん中に首都があるやろとか、端っこの部族が全土を統一したから首都は端っこにあるんだよとか、東部は原生林が多いから人口の多い都市は西部に偏ってるんだよとか、港町を中心に発展したんだよとか、そういうことを地図描きながら妄想するだけですごい楽しい……だから元の「首都が国土の中央部にないのはおかしい」っていうツッコミは全然理解できないっていうか、変な形の国作って変な場所に首都置くのが楽しいんやんけ、となってしまうよね……
ではここで、ワイが昔書いた日記を本邦初公開するやで
客のいる売り場で怒号を飛ばしたり、無断欠勤を繰り返したり、人を選り好みし無視や陰口を繰り返したり、
人の過去の恥を嬉々として話したり、文章で知識を共有する取り組みを今更恥として非難したり、他人が意にそぐわないとすぐ不機嫌をあらわにしたり、
主語の欠けた曖昧な説明を投げておきながら受け手の理解度不足や要領の悪さとでも言いたげな態度をとったり、
というのは、この私が2年半この職場で働いて実際に見聞きした有様である。
改めて列挙してみると、ほんとうに以前の職場やそこで関わった同業他社の方々とは異なるというか、根本的にマインドが低いと言わざるを得ない。
私とてそこまで意識高い系のつもりではなかったが、この職場のあなた方が、心底軽蔑せざるを得ないほど人間を雑に扱い、
内輪に引きこもり外界を拒絶し、部族の慣習に従わない人間を排撃する、底辺を地で行き一切の自省なく、
走性のみで挙動を成している昆虫がごとき生き方を晒して何の疑問も恥も抱かない人々であるがゆえに、
私程度の人間ですら相対的に意識高い系にカテゴライズされてしまうのである。
残念ながら、所詮はこれが手に職をつけること能わずな人々が集まる肉体労働年収200万円台の世界である、ということか。
私が生ゴミなら、あなた方は何なのか?信念も自己客観性も哲学も何も持ち合わせていないあなた方が得ているのは自由ではなく無秩序であり、
「最初に保護者目線から入ると恋愛対象として認識しづらい」という現象(※)は確かにあると思うので、ラストの増田のほろ苦い感慨も含めて普通に共感できる。
もちろん、そういう「微妙な恋愛未満」の状況自体が、傍から見れば当人たち以上に露わになっている部分があると思うので、周囲の反応も仕方なかったのではという気もする。たぶん、いくら説明しても、「彼女以外の女性と一緒に暮らしてるらしい」「いや、病弱のいとこだから」「いとこと恋人みたいに暮らしてるの?!余計悪い」みたいな風にしかならなかっただろうし。
ただ、元増田を批判する増田諸氏の反応にほの見える「近親相姦憎悪」の感情がすげーなと思った。お前ら自分にミリも関係ないよそのおうちの親戚事情に感情爆発させすぎじゃね、って。
思うに、インセストタブーってその発生の淵源から考えれば、部族親族の縛りが薄まった現代社会ではほぼ意味無い風習と思われるんだよね。でもその割に根強く生き残ってる。これって、あるいは男性恐怖又は男性嫌悪(ミサンドリー)の感情と親和性が高いからかなあ(つまり、身近な親族男性から恋愛感情を向けられることに対する恐怖又は嫌悪)……みたいなことを以前増田に書き込んだんだが、それを思い出したよ。
※この現象って、たとえば上司部下とか疑似親子とか教師との恋愛ものとか、そういう「立場に差がある状態からの恋愛」ドラマなんかでは定番のスレ違い設定だよね。立場上の側が自己の恋愛感情に気付くまでの本人のもやもやに、読者が傍目で「それってもう恋愛やん!」みたいにもやもやするの自体がエンターテインメントみたいな。「葬送のフリーレン」のヒンメル・フリーレンの関係にもちょっとそういうとこがあるよね。
まず言っておきたいのは、俺はドクターストーンが嫌いではないということ。
むしろ好き。というか大好きだ!
ドクターストーンはアニメ勢で、1期の頃から欠かさず全話を試聴している。
初期の頃は「この後どうなるんだ!?」というワクワクが止まらなかった。
その後の展開にも驚いたし、科学の力ってすごいなぁと素直に思える描写には何度も感心した。
で、今三期目を放送している。
もちろん試聴してるんだけど「あれ?」と思うような場面が多くなってきた。
例えば何かを作るとき。
それこそドクターストーンの醍醐味で、身近にあるものってそうやって出来てたんだ!と勉強にもなる。
でも今やってるドクターストーンは無駄に現代性を求め過ぎというか、ドローン要る?ってなる。
一番の問題は部品の調達方法で、精密機械もないのにどうやって部品を作るの?となったとき「チートおじいちゃんが一人で作ってくれました」という展開が多い。マジで多い。
序盤は科学知識の応用で世界を立て直す!みたいな展開だったのに、最近は物理的なチート任せてで済ませる展開ばかり。
別にドクターストーンをこき下ろしたいとか、批判したってわけじゃないんだ。
でも「科学」っていうのを売りにしながら、チート能力ばかりで解決していくのって、それって科学なのか!?
その辺りが三期では特に雑になっているような気がして、なんだか残念。
バラバラになった石化像をパズルみたいに組み立てる。それも時間をかけず、寸分違わずに。
これなんかもチートだし、チート、チートの連続で、ああもぉおおお違うだろうっ!!ってつい思ってしまう。
心理戦だって、心理戦してるぜ!っていう描写を混ぜることで大抵は仕掛けた側の思い通りに事が進む。
敵も部族の癖にリアクションは現代的だし、行動も現代人の予想通りに動く。
そうじゃないよね?何千年のブランクがあるんだ。それでも変わらないものがある。
それって裏を返せば人の在り方は変わるってことだ。
なのに変わってない。おかしいよね?
何度も言うけど批判したいわけじゃない。でも不満なんだ。不安でもある。
ああぁああああああああああああ!!もおおおぉおおおおおお!!!
違うんだ。違うんだよ!
反政府はいい、かまわない、どんどんやってほしい。我こそはより良い政府になれるのだ、だから今の政府を打倒してなりかわるのだ。いいぞどんどんやれ。
反社会は程度問題である。どこかで折り合いをつけねば損をすることを反社会組織はうすうすわかっている場合がある。主流派になってしまうことはむしろ反社会組織にとって損失になるようなものであれば、ほどほどにはびこるのはやむを得ないという側面がなくもない。
自分の所属しているコミュニティを粉砕すべきだとして運動するのは所属している自覚が足りない。それが指導的立場に立つならコミュニティはろくな未来を迎えることができない。取り除かれるべきである。別のコミュニティへと分離されるべきだ。
所属を偽って別のコミュニティのために働く者も取り除かれるべきだ。それは単純に敵対行為である。
反科学は現在かなり見過ごされており優遇もされているが、その存在によって科学を信奉する者に多大な被害が出そうなときは存在が危険となる。covid-19では実はかなり危なかったのではないかと見ていた。科学の狂信者によって反ワクチンや反マスクに対する虐殺が起きかねない状態だったのではないかと思う。反科学の人数がかなり多かったり科学の信奉者が同時に反科学コミュニティ(宗教や部族社会など)のメンバーであったりすることで幸いにも暴走は発生しなかったのだと推測している。
反人類は取り除かれたあとの居場所がない。人類社会には結構いるしなんとなく事を荒立てないという人類側の余裕によって生かされているが本人たちには自覚がない。大変に悲しいことだ。