はてなキーワード: 被災者とは
Yahoo知恵袋には、本吉病院長に対する地域の冷たい仕打ちがあったような記事が出てくる。
webには、そのようなものはなかなか出回らない。 とりあえず、ちょっとメモまで。
どうなのかな? 投稿者:一患者 投稿日:2007/02/20(Tue) 19:57 No.106
この頃、本吉病院に行くことに、ちょっと抵抗を感じるようになりました。誤診なのか知識不足なのか、適切な処置をされないで手遅れになるところだった人の話を聞きました。医者も生身の人間ですから、診誤ることもあるかもしれないけれども、私たち一般の人は医者を頼りに病院に行くわけですから、しっかり診察をしてほしいものです。
森町長がこの掲示板を見るかどうか分かりませんが、できたら、もっと医師に研修なり、勉強の機会を与えて、町民の命を預かるというのは、重責かもしれないけれども、でも、本吉町で唯一の病院ですので、高い機械を入れるばかりでなく、それを使いこなす人材や医師を育ててほしいと思います。赤字で大変でしょうが、一考お願いします。
直接、病院事務長や院長に話をすればいいのでしょうが……
あとは、勉強用に。
本吉町国民健康保険病院改革プラン(平成20年12月:本吉町国民健康保険病院)
本吉町国民健康保険病院は、昭和22年8月に旧津谷町国民健康保険組合の直営で一般病床24床の病院として開設された。
翌23年には、法改正により旧津谷町に移管され直営病院となった。
昭和30年3月の町村合併により本吉町国民健康保険病院となり、この年に新病棟が建設され、一般病床52床、伝染病病床12床を有する病院となった。
昭和34年当時の診療科目は、内科、外科、小児科、産婦人科を標榜しており、地域の中核的病院として住民の健康と福祉の増進に大きく貢献してきた。
しかし、その後人口減少などの理由により、病院は多額の累積赤字を抱えるようになったため、昭和47年に病院運営委員会を設置し累積赤字の解消に努めてきた。
その後も逐次規模の縮小が図られ、昭和61年には一般病床38床で、内科、小児科を標榜する現在の病院の規模となった。
昭和47年から取組んできた累積赤字の解消は、一般会計からの繰入金の増額等により平成6年に全て解消することが出来た。
その後は単年度の損失はあるものの繰越利益剰余金により累積赤字は発生していない。
本吉町内には、かつては数軒の医科医院が開業されていたが、医師の高齢化等により廃業し、平成15年以降は診療が行われておらず、本吉病院が町内唯一の一般病院として現在に至っている。
国の医療費抑制策による近年の診療報酬改定は、小規模な病院に与える影響が大きく本吉病院においても診療収入が減少している。
特に平成16年度の診療報酬改定により薬の長期投与が可能となり、患者の通院数が月2 回から月1 回になったため外来患者数が減少したことも診療収入減少の要因の一つとなっている。
現在本吉病院では、常勤医師2名により平日の診療に当たり、土日及び祝日等は東北大学病院より臨時医師を派遣いただき診療に当たっているが、患者数による必要医師数は常勤医師3名となっており、早急に常勤医師3名体制の確立を図る必要がある。・・・
本吉町国民健康保険病院は、一般病床が38床で、診療科目は内科、小児科を標榜しているが、現在は内科医師2名により、実質的には内科単科のみの医療提供を行っている。
外来患者数は、1日平均70~80名で年間約21,000人となっているが年々減少傾向にある。入院患者は1日平均35人で病床利用率は93%となっておりここ数年は横ばいとなっている。
外来、入院診療のほかに、件数は少ないが訪問診療や訪問看護・訪問リハビリ等も行っている。
本吉病院は、町内唯一の一般病院であることから、毎週日曜日は当番医として診療を行っているとともに、救急告示医療機関にはなっていないが、内科に係る初期救急については24時間受け入れを行っている。
また、町の健康福祉課が計画している乳幼児等の各種健診や予防接種のほか、町立の幼稚園・保育所、小学校、中学校の校医も受託している。
さらに、町内企業の産業医を受託しているとともに気仙沼地域産業センター主催の健康相談への協力も行っている。
以上のように、本吉病院が地域において果たしている役割は極めて大きく、本吉町の保健医療の推進を図る上で欠くことのできない重要な医療施設となっている。
本吉病院の正職員数は、医師2名、薬剤師1名、診療放射線技師1名、臨床検査技師1名、理学療法士2名、管理栄養士1名、看護師18名、事務職員5名の計31名、ほかに臨時職員が看護補助員9名を含めて21名で、合計52名となっている。
医師については、本吉病院の患者数による常勤医師必要数は3名で、1名不足となっていることから、当直等を含めた勤務時間が過剰になるなど医師の負担が重くなっており、早急に医師の確保を図る必要がある。
宮城県気仙沼市本吉町の市立本吉病院(38床)が苦境に立たされている。津波で1階が高さ1.7メートルまで浸水した被害に加え、2人の常勤医が辞職するなどして現場を離れたからだ。被災と「常勤医ゼロ」の異常事態が重なる医療現場で、看護師や派遣医師が「住民の身近な病院を守りたい」と奮闘を続けている。
押し寄せた津波に入院患者20人や職員は避難したが、1階の診療室やエックス線室、コンピューター断層撮影(CT)などの医療機器は水に漬かり、損壊した。
3月20日には院長(59)が辞表届けを提出。もう1人の常勤医の40代男性も体調を崩し、ともに現場を離れた。病院関係者は「停電、断水、薬不足の中、外来患者は普段の2~3倍に上り、昼夜働きづめだった。誰も責められない」と語る。
現在の医療活動は、徳洲会病院グループでつくる災害医療協力隊「TMAT」が担う。入院患者は岩手県立千厩病院(一関市)に移送し、24時間態勢で外来診療に当たる。
千葉県から5泊6日の日程でやってきた医師黒岩宙司さん(54)は「避難生活の長期化で風邪や不眠を訴える人が増えている。今こそ協力隊の力を発揮しなければならない」と力を込める。
病院職員は津波によって12人が自宅損壊、2人が家族を失った。自宅が津波で流された薬剤師長の遠藤博文さん(54)は「JR気仙沼線の復旧の見通しが立たず、遠距離通院はできない。ここを守るしかない」と、泊まり込みを続ける。
TMATの支援期間は1カ月程度の見通し。市は復興作業と医師確保という難題を背負った。
看護師長の佐々木美知子さん(44)は「人口1万1000の本吉地区住民にとって、病院はここしかない」と話す。
職務に追われ、2人の子どもと会えたのは震災1週間後だった。「住民の健康を守るため、病院存続のため、みんなで力を合わせたい」。言葉に強い覚悟がにじんだ。(高橋鉄男)
◎常勤医去り職員が結束/宮城県気仙沼市立本吉病院看護師長・佐々木美知子さん(44)
入院患者19人全員を岩手県の病院に移し、人心地ついた朝だった。
3月20日。気仙沼市立本吉病院。
男性院長(59)の姿が消えた。
震災から9日間、泊まり込みで診療を続けていた。部屋に辞職願があった。同じ日にもう1人の常勤医も体調を崩し、現場を離れた。
旧本吉町で唯一の病院は常勤医がいなくなった。
看護師ら31人の職員が残された。被災で派遣された外部の医療団の応援を受けている。4月上旬。
「おばあちゃん、眠れていますか」
2階の一室で外来の患者に話し掛ける。そばで派遣医師が心音を聴いている。
院長は地元が兵庫県で阪神大震災にも遭ったという。耐えられなくなったのだろう。
「責められないよね。私も逃げ出したいぐらいだもの」
津波で1階が水没した。医療機器が壊れ、カルテが流され、ガスと電気と水が止まった。
メモ用紙に「カルテ」と書き込み、急場しのぎの診療記録を作ることから始めた。
入院患者の足元で雑魚寝し、患者のタオルを借りて寒さをしのいだ。医薬品が足りない。患者によっては点滴を半分に減らさざるを得なかった。
病院は存続するのだろうか。常勤医の不在は職員を不安にさせた。
外来患者は1日200人前後。震災前の3倍に増えた。不眠や風邪を訴える。
「病院が地域の人に求められている。病院消滅の不安は消え、存続への使命感に変わった」
4月9、10の両日、地元の住民約100人がモップと雑巾を手にやって来た。自治会長(52)が常勤医不在を知り、「地域の力で病院を守ろう」と清掃を呼び掛けた。
1階の泥をぬぐい取る。職員も一緒に精を出す。
看護師長になって12年になる。2人いる管理職の1人として職員を束ねる。
「みんなと一緒に目の前の患者に向き合うことしかできない」
職員のうち、12人が家を流された。それでもほぼ休みなく働いてくれる。家族を失った看護師も現場復帰した。
家に帰ると、長男(8)と長女(5)に抱き付かれる。「うちはどうして休みがないの」と聞かれる。ほとんど一緒にいられない。夫(42)も市の水道職員で忙しい。
医療団はいずれ去る。
「それまでに常勤の医師を確保し、以前の運営に戻れるかどうか分からない。でも、職員と地域の人は命の拠点を残したいと頑張っている」
心の中でわが子に言い聞かす。
もう少し待って。いい未来を残すから。(高橋鉄男)
東日本大震災の津波で1階が水没した宮城県気仙沼市の市立本吉病院(38床)は、大半の医療機器が流されたうえ、院長ら2人いた常勤医が病院を去るなど苦難に直面した。だが、残った看護師や職員は県外から派遣された医師とともに「被災して苦しんでいる人をわれわれが見捨てるわけにはいかない」と奮闘を続けている。【村松洋、堀江拓哉】
3月11日、2階建ての病院は大きな揺れで停電した。非常用発電機でひと息ついたのもつかの間、約35分後には津波が襲った。1階が水没したが、入院患者19人と看護師長の佐々木美知子さん(44)ら看護師、職員約20人は2階に避難して無事だった。医薬品や布団、非常用食料は2階の一室に運び込んだ。
夜には自治会から発電機を借りて、心電図などの機器をモニターした。それでも院内は真っ暗で、懐中電灯で看護を続け、患者にはレトルト食品など非常食を食べてもらった。
来院者は増えた。不眠やストレスで息苦しさを訴える被災者が多く、通常の約4倍の270人が来院する日もあった。佐々木さんは10日間、自宅にも帰らずに看護を続けた。
17日には県外から3人の医師が応援に入り、19日には入院患者の転院を終えた。だが翌日、院長(59)の姿はなかった。机上に「一身上の都合」を理由にした辞職願があった。
院長は阪神大震災で被災し、東日本大震災では津波にのまれ、病院の燃料タンクにつかまって助かった。管理課長の鈴木幸志さん(59)は「2度も被災され、院長の家族も心配していた。去ったことをとがめるわけにはいかない」と話す。体調を崩したもう一人の常勤医も病院を去った。
残った看護師や職員たちも被災者で、計29人中12人が津波で家を流された。夫や親族を亡くした看護師もいるが、全員がほとんど休まずに勤務を続ける。
4月9、10日には地区の住民ら約100人が1階の汚泥の掃き出しなど掃除をしてくれた。地震から1カ月の11日、1階での診療を再開した。
応援の医師はいずれ県外に戻る。病院は今、市や医師会を通じ、新たな常勤医を求めている。佐々木さんは、常勤医不在で病院の将来を心配しながらもこう話す。「家を流され、私たちより困っている人が大勢いる。そんな人たちを診てあげられるのは私たちしかいない。今できることを毎日続けるだけです」
宮城県気仙沼市本吉地区で唯一の医療機関、市立本吉病院では、震災後に男性医師と院長が相次いで休職・辞職し、残された看護師たちが応援の医師と休まず働き続けている。
「大丈夫? 痛くないかな」。白衣の代わりに白いエプロンをまとう看護師長の佐々木美知子さん(44)が高齢の女性から採血し、優しく語りかけた。
1階天井近くまで達した津波は白衣も医療機器も流した。人口1万1千人の本吉地区から市中央部への道は断絶。佐々木さんらは、薬を求めたり体調不良を訴える市民の応対に追われた。院長(59)は1日に最大で270人の患者を診察した。
応援の医療チームが到着した14日から、50代の男性医師が休職。20日には院長が姿を消した。院長室の荷物にまぎれて辞表が見つかった。「院長がああいう辞め方をしたことを責められない」と佐々木さん。「看護師だけになってもやるしかないと覚悟した」
応援チームは小児科や外科の医師もいて、24時間体制で患者を診られる。皮肉にも、内科だけだった震災前より多くの市民を診察できるようになった。5月までは医師2人のチームが交代で来てくれる。ただ、地元の主治医と呼べる医者がいずれ必要となる。
「ここが地域の中心になって、福祉や介護、生活すべてを守りたい」。佐々木さんは同僚の看護師と肩を寄せ、笑いあう。「早く新しい先生に来てもらえるよう、私たちが頑張らなくちゃ」 (柚木まり)
自分は動かずに、口だけ出す。
相手が書いてもいないことを勝手に補足して罵るのは、君の説得力を著しく落とすだけだ。
元増田は自分が動かず口だけ出した、なんてことは書いてないぞ。
与えられた作業をちゃんとこなしていたと言ってるじゃん。
家来か何かのようにってなんだ?
「この方が効率的」と言ってるだけじゃん。
あのな、お前、そのボランティアの何を知っているんだ?
誰がどの作業に適しているか、わかってんのか?
元増田がそういう高度な適材適所の話をしてるようには読めないが。
誰でも・みんなが出来る作業について、効率を良くするノウハウがあると言ってるだけでしょ。
俺は子供のころの草刈ぐらいしかボランティアに参加したことないからその点は君にも元増田にも劣るが、
ボランティアってのはその作業によって誰かの助けになるのが目的なんじゃないのか?
もしそうではなく、目的がボランティア参加者の爽やかな筋肉痛とかフィットネス効果とか精神的満足などであれば
作業効率なんかそっちのけにせよ、は正しいが。
あと文法的には「金を貰って働く」か「金を払って働いてもらう」だね。
え
屋根から雪を落として住民の高齢者に喜んでもらう、が目的じゃないの?
(俺は純粋にボランティア無知なので、これは嫌味でも何でもない質問だ
サークル活動的な、参加者の心地よい疲労や充実感や出会いの為にするのがボランティアだということであれば
確かに俺や元増田の方法論はおかしくて、あんたの方法論が正しい)
一応、ボランティアの目的が「被災者支援、被災者の生活を実効的に楽にして喜んでもらう」だと仮定して話を進めるけど
その目的の為になるべく効率的な段取りや指揮があってこそ参加者のモチベーションが上がるもんではないのか?
俺が参加するなら、明かに非効率的なリーダーの下に、俺の流す汗に無駄が多いんじゃあモチベーションが下がるけど。
1日終わって、
おおっこんなに片付いた!っていうのと、
疲れただけであんまり作業の成果出てないな…っていうのと、
1日、ひょっこり来て、すぐ帰るようなやつは入らない
純粋な質問だけども
非効率的にめいめいデタラメな行動をさせておくとまた来てもらえるようになるものなのか?
だとすればそれはどんな理由なんだ?
何がプロだ お前は金もらって働いてもらうスタッフを使ったプロかもしれんが、ボランティアコーディネートはこっちがプロなんだよ
最後の質問だけど
東日本大震災 民主新人議員が震災勉強会
毎日新聞 2011年4月19日 東京朝刊
民主党の新人衆院議員の有志が19日、東日本大震災への対応を議論する「国難に立ち向かうための勉強会」を発足させる。発起人には小沢一郎元代表を支持する「北辰会」のメンバーから、前原誠司前外相や野田佳彦財務相を支持する議員まで、グループ横断の7人が名を連ねた。新人議員には原発対応で後手に回る菅政権に対して不満もあり、勉強会が政権批判の場になる可能性もはらんでいる。
当時、どうしようもない自民党をよってたかってバッシングしていたマスゴミにつられ、
当時の自分は、一度自民党には臭い飯を食わせなきゃならないと言う気持ちもあったが、
どう考えても民主党の圧勝雰囲気だったことがとても気になり、結局自民党に投票した。
まぁ、自民党が負けるのは仕方がないとしても、これだけ民主党に勝たせるのはどうかと疑問を持った。
その結果がこれだ。
わけのわからん新人議員が震災から1ヶ月以上経ったところで勉強会を開いている。
3月のはじめにボーナスが出た。今までのボーナスは生活用品に消えてきたけど、今回は少し余裕があった。
自分の眼鏡を新調して、弟の眼鏡も買ってあげた。母にはギフト券をプレゼントした。その後、例の地震があって
僕の叔父は仙台に住んでいたけど、特に被害はなかったようだ。他に被災地に親戚や友人はいない。むしろ、
僕の方が被災地に近いくらいで、親戚や友人に心配されたくらいだ。この震災は日本に、世界に、確実にダメージを
与えた。でも僕個人には直接関係のない話だった。どちらかというと、これからの日本経済をどうやって渡り歩いて
そんな僕でも、大量の車が流されている津波の映像を見ると恐怖を覚えたし、児童の大半が亡くなったという
小学校の話を聞くと心が痛んだ。僕は多少サバイバル生活の心得があるので(雪洞で生活したり)、被災地に行っても
被災者の邪魔にはならないように自活してボランティアできるだろうなと思って色々調べたけど、結局行かず
じまいだった。物資を送ったり、募金をしたりしただけで、僕の罪悪感や不安感は取り除かれたらしい。
そんな中、台湾の募金運動の話を聞いたのは確か3/22のことだったと思う。どこかのブログで目にした。
台湾の人はなんでそこまでしてくれるんだろう?台湾や韓国で同じことが起こったら僕たちは同じことをしていた
だろうか。台湾が親日国家だという話は前から聞いていたけど、不思議だった。今でもなぜかはわからない。
僕は猛省した。できるだけ募金に協力しようと思った。自国民がこんなことではいかん。
何かの折に募金するようになった。プライベートでもチャリティーに参加するようになった。
謝謝台湾計画はTwitterで発せられたMaiko Kissakaさんの
僕は謝謝台湾計画以外はKissakaさんのことをなにも知らない。なにかネットの有名人とかが絡んで、計画が
広まったようだけど、ネットにも疎いのでよくわからない。たまたま震災関連の情報を探していて見つけた。
良くも悪くもKissakaさんの姿勢は一貫している。台湾人にお礼を言ってみたい。それだけだ。
僕には台湾人の知り合いはいない。台湾に行ったこともない。台湾がどんな国なのか、人並み以上のことは
わからない。日本政府が台湾の新聞にお礼広告を出していないという話は後から知った。そういうことは関係ない。
感謝状は送ってるそうじゃないか。きっと、Kissakaさんもそうだろう。だけど、お上に楯突く気はないけど、
「なんでそこまでしてくれるの。すまん、ありがとう」
乙武洋匡氏がツイッターで「今発達障害の本を読んでいる」と書き込んだところ
「今原発の件以外をツイートするのは不謹慎」というコメントが出た、と話題になった。
これに対して、被災者が「俺は漫画読んでる」とコメントしたら乙武氏が冗談半分で「不謹慎」と切り返していた。
しかし私見だが、乙武氏のような有名人は、この数ヶ月はオフの時も原発や災害関係を考え続けるのが
自分は、原発や震災について発言しているが、自分のような無名人の投稿は、社会的に全く影響力を持たない。
他方、乙武氏ほどの有名人であれば、その影響力は絶大で、「恵まれた地位」にある。
であれば、その影響力を社会的に使用するのが「持てるモノの道義的責任」でないか?
例えば、身体障害者と震災、身体障害者と原発事故、という視点で、他の健常者ジャーナリストでは
思いつかなかった視点のエントリを書くことができるかもしれない。
他の身障者もそのようなエントリを書くことはできようが、そういうエントリは日の目を見ない。
乙武氏が「その気になれば」そのようなエントリを書いて注目される可能性があるにもかかわらず、
でも建物がいくつか崩れ、道路が崩れるくらいで、半年もすれば元に戻るんだろうなと思っていた。
でも、テレビを見ているうちに、どんどん状況が悪くなっていき、多くの建物や車が津波に流された。
その映像を見ている自分の顔が鏡に映ったとき、僕の顔は笑っていた。
心ではざまーみろという気持ちしかわかず、可哀想なんていう気持ちは微塵もなかった。
黙って何も喋らずにいることが唯一の自己表現になっていた自分にとって、
今回の震災は何よりの薬だったのかもしれない。
物資も届かないまま、死んでいく住人たちの姿を見るのが本当に楽しかった。
汚染された土地の農家や、汚染水が海に放出された漁師、家族が行方不明な人間たち、
気がつけばこの人たちのなんとも形容し難い顔を笑いながら眺めるのが日課になっていた。
増田に被災した兄とのやりとりを記したエントリがあったけれど、
あのお兄さんの気持ちはうつ病患者の気持ちを端的に表しているような気がする。
特に、他人から何らかの攻撃を受けて鬱になった人間にとっては。
責める気力もなく仕事を辞め、自分をひたすら責めて自殺未遂をした。
本当なら殺してやりたいくらい憎いけれど、何もできない。
そんな自分の状況に、今の被災者の人の気持ちは近いんだと思う。
今回の震災で自分を鬱に追い込んだ人間が死んだ人もたくさんいるはずだ。
鬱の辛さは簡単には他人に理解してもらえない。
反論や攻撃する気力もなく命を絶った人もたくさんいるだろう。
でも建物がいくつか崩れ、道路が崩れるくらいで、半年もすれば元に戻るんだろうなと思っていた。
でも、テレビを見ているうちに、どんどん状況が悪くなっていき、多くの建物や車が津波に流された。
その映像を見ている自分の顔が鏡に映ったとき、僕の顔は笑っていた。
心ではざまーみろという気持ちしかわかず、可哀想なんていう気持ちは微塵もなかった。
黙って何も喋らずにいることが唯一の自己表現になっていた自分にとって、
今回の震災は何よりの薬だったのかもしれない。
物資も届かないまま、死んでいく住人たちの姿を見るのが本当に楽しかった。
汚染された土地の農家や、汚染水が海に放出された漁師、家族が行方不明な人間たち、
気がつけばこの人たちのなんとも形容し難い顔を笑いながら眺めるのが日課になっていた。
増田に被災した兄とのやりとりを記したエントリがあったけれど、
あのお兄さんの気持ちはうつ病患者の気持ちを端的に表しているような気がする。
特に、他人から何らかの攻撃を受けて鬱になった人間にとっては。
責める気力もなく仕事を辞め、自分をひたすら責めて自殺未遂をした。
本当なら殺してやりたいくらい憎いけれど、何もできない。
そんな自分の状況に、今の被災者の人の気持ちは近いんだと思う。
今回の震災で自分を鬱に追い込んだ人間が死んだ人もたくさんいるはずだ。
鬱の辛さは簡単には他人に理解してもらえない。
反論や攻撃する気力もなく命を絶った人もたくさんいるだろう。
4月16日付 河北新報 「3.11 震災と作家たち(6)」より
http://ameblo.jp/goldenchildsee/entry-10863022937.html
3月11日の巨大地震と大津波以後、「想定外」あるいは、「想定を超える」という言葉が、この国ではどれだけ飛び交ったことか。
メディアを通してそれを耳にするたびに、最初から私は腹が立って仕方がなかったし、いまだに腹立ちは続いている。
沿岸部の被災地の人々は、あるいは、私を含め、東北に生きることで同じ痛みを抱え、困難な未来を共に引き受けようと覚悟している者、誰ひとりとして「想定外」という言葉を口にしていない。
たとえ確かにそうだと思っていても、目の当たりにした数々の光景はそんな簡単な一言で片付けられるはずがなく、無言を貫くか、懸命になって違う言葉を探そうとするかの、どちらかだ。
人間は何をどう想定しようと、人智をはるかに超えた力を、時に暴力という形で解き放つのが自然だという事を、私たち東北人は誰に教えられることなく知っている。
だからこそ私たち東北人は、自然に対して謙虚に向き合い、その厳しさに耐えることを当然としていき続けてきた。
だから今回の震災に対しても、失ったもののあまりの大きさに嘆きこそすれ、恨む事はしていない。
ただ黙々とその日に出来る事をひとつづつ積み重ね、日常を取り戻すための辛抱をするだけだ。
だが、内に抱える腹立ちや怒りを今回ばかりは遠慮せずに言葉にしてはいいのではないか。
それほど、東京を中心とした首都圏から発信される言葉は、下品なまでに卑しく、呆れ果てるものが多いからだ。
ここまで言葉に傷つけられ、それでも黙っている事は、もう出来ない。今回だけは、東北人はキレていい。誰もキレなくても、私はキレる。
例えば震災直後、大きな決断をしましたと言わんばかりに「2万人の自衛隊員を派遣する」と発表したこの国の政府。
被災地にいる我々は、2万はおろか5万だってぜんぜん足りない、最低でも10万は必要だと、誰もが直感的に思ったはずだ。
メディアがこぞって原発事故ばかりを騒ぎ立てている間にも、助けようとしたら助けられたかもしれない命が、瓦礫の下でどれだけの数、失われていった事か。
暴走しようとする原発を宥めるべく、現場に身を置き続ける作業員や自衛隊員、消防隊員には敬意を払う。
しかし、冷たい雪になぶられる瓦礫を、なすすべなく見つめるしかなかった私たちには、東京の放射線騒ぎや計画停電なんかどうでもよかった。
燃料の尽きた底冷えのする避難所で空腹を抱えていた被災者はもちろん、同じ寒風の下で幼い子どもの手を引き、愚痴をもらさず何時間もスーパーマーケットに並んでいた仙台市民も、東京のバカ騒ぎに対して、いい加減にしろっ、と心の内では吐き捨てていた。
東京に電気を送るために、私たちは進んで原発を引き受けたのではない。原発なんかなくても暮らす事は出来ていた。
原発がなくては暮らせないように東北の村を作り変えたのは、首都圏のエゴイズムだ。
今度原発を作る時には、東京湾に作ればいい。原発道路なんか、私たちには必要ない。
あるいは、今後は津波の来ない場所に町を再建すべきだと、訳知り顔で言ってのけるものもいる。
何度津浪が来ようと、海のそばでしか暮らせない人々の、その気持ちがなぜ分からない。
いつも海を見ていた人々の心の在り方に、どうして思いが至らないのか。
もちろん、東京人だって、私たちの痛みを同じ目線で共有しようとしてくれている人々がいることを、一緒に痛みを引き受けようとしてくれている人々が沢山いることを、私たちは知っている。
でも建物がいくつか崩れ、道路が崩れるくらいで、半年もすれば元に戻るんだろうなと思っていた。
でも、テレビを見ているうちに、どんどん状況が悪くなっていき、多くの建物や車が津波に流された。
その映像を見ている自分の顔が鏡に映ったとき、僕の顔は笑っていた。
心ではざまーみろという気持ちしかわかず、可哀想なんていう気持ちは微塵もなかった。
黙って何も喋らずにいることが唯一の自己表現になっていた自分にとって、
今回の震災は何よりの薬だったのかもしれない。
物資も届かないまま、死んでいく住人たちの姿を見るのが本当に楽しかった。
汚染された土地の農家や、汚染水が海に放出された漁師、家族が行方不明な人間たち、
気がつけばこの人たちのなんとも形容し難い顔を笑いながら眺めるのが日課になっていた。
増田に被災した兄とのやりとりを記したエントリがあったけれど、
あのお兄さんの気持ちはうつ病患者の気持ちを端的に表しているような気がする。
特に、他人から何らかの攻撃を受けて鬱になった人間にとっては。
責める気力もなく仕事を辞め、自分をひたすら責めて自殺未遂をした。
本当なら殺してやりたいくらい憎いけれど、何もできない。
そんな自分の状況に、今の被災者の人の気持ちは近いんだと思う。
今回の震災で自分を鬱に追い込んだ人間が死んだ人もたくさんいるはずだ。
鬱の辛さは簡単には他人に理解してもらえない。
反論や攻撃する気力もなく命を絶った人もたくさんいるだろう。