はてなキーワード: メソッドとは
酒は抜けてないけど、返信だけ。
だらだら書いて、自分でもひどいなーと思ったので、ウザいと思ったら、日本のゲームにあこがれてやってきた金髪ツインテールの女子が上気させながら書いてると思っててください。ルーツさんメソッド。
ゲンロン側のお気持ちを想像して書かれても、こちらとしては特にそうですか、としか言えないので、その辺は割愛で。
もともと「この記事には事実誤認がある!」ってゲーマー側が大盛り上がりして、その流れで投げられた電ファミの質問状が
そもそも知りようがない内部情報を元にした指摘と編集方針へのツッコミが大多数のクソの山だったので、
そりゃないだろうというのが元記事の主張であって。ゲンロンの語りが正しいとかそういうことは1ミリも言ってないつもりですよ。
ひらがなの人褒めたけど、あの人にも突っ込みどころがないわけじゃないし。
返信だけと思ったけど、思いついたので、ついでにぶら下げときます。
Twitterではゲンロンを許すなとか未だに言ってる人いて、なんでだろうなあ、あのリスト読んだんやろー?と思ったんだけど、
やっぱヲタクちゃんは自分達が一番ゲームについて知ってるって思ってて、ゲーヲタカースト外から突っ込まれると、すげー嫌なんだろうなという想像はしました。
あと「ゲームの歴史」という正しい一つ史観だけがあって、ゲーヲタカースト上位の長老達がそれを知っている、今回の騒動で、長老達が重い口を開いて語った歴史が正しい。と思っているのではーと。
これも想像。「正しい『ゲーム史』」という言葉はTwitterで見たけど。
それも正しくはあるんだけど、人だし、忘れるし、会社員だし、言えないこととか、ポジショントークとかするじゃないですか。そういうの現実世界でもいっぱい見てきてるじゃないですか。
近年Wizファンのあの人が頑張ったように、歴史なんて調べなおせば変わることもあるもんなので、アマチュアの頑張りも大事だから、
そういう語りとか、語りの際しての細かい省略や間違いを認めないスタンスはあかんでしょうって思うのよね。
なんとか警察ってすこしネガティブな意味合いでみんな言うじゃないですか。
あと業界人も自分のいないメーカーについては結構アレなこと書いとるぞ。
Wikipediaは間違っとる!って書いてた某氏の同人誌にんん?って思うような音ゲーへの記述があったり。
大事なのはみんなで自分の知ってることを気軽に話したり、評論したりできる場だと思うんですよね。
手続き型と違うみたいなことを書いてるのをみるけど、
データをオブジェクトにまとめて、それ専用の関数をクラスに定義できるのは便利だけど、構造体と関数でもできるわけだし
オブジェクトに対して、あれする、これする、それする、と書けば内部はブラックボックスだけでメソッドに応じたことが起こる
使う側が for 分であーしてこーしてみたいな処理を順に書いてるだけだから読むときに結局何がしたいのかをじっくり読まないとわからない
最適化のためか一つの処理であれもこれもやってるようだとすごく解読が辛い
関数型の考え方だとけっこう違うし制限が多いからか読み方さえわかればあまり分かりづらいコードは少ない
何するかがそのまま書かれている感じ
とは言っても、前に関数型は考え方と書くのがそもそも難しいからある程度できる人しか使わないから簡単に使える手続き型みたいに能力ない人が書くケースが少ないから読みやすいコードが多いと聞いたことはある
新体操のレオタードって、はっきり言って無茶苦茶エロいじゃないですか。
素肌に宝石を散りばめたような、ほぼ裸に見えるような格好だぞ。
そんなのを自発的に着てるんだぞ!
もうすっごくエロい!
そもそもオブジェクト指向そのものが40年以上前の技術だろが。
生物が単純な細胞の組み合わせと相互作用で複雑なシステムを構成するモデルに習って、単純なオブジェクトとメッセージパッシングの組み合わせでプログラムを表現する事で、プログラムを完結する小さなオブジェクトという単位に分割し、管理困難な複雑さに対処する事がオブジェクト指向の本質だろ。
構造化との違いはデータ構造も管理の単位に含めた事で、これによって複雑な状態管理をオブジェクトの中に閉じ込め、インターフェースだけ意識すれば良くなった点。
本質を理解していればオブジェクト指向でプログラム作るのにオブジェクト指向言語とか必要ない。ジェネリクスとかそもそもオブジェクト指向と関係ないし、後付けのいろんな用語に騙されて本質を見失うなよ。
日本語とオブジェクト指向が相性良いと言われてたのは日本語の語順がオブジェクト→メソッドというプログラム上での表現に似ているから、日本語話者にはすんなり理解しやすいよねって点。
自分の中でモヤモヤしているものを吐き出そうと思って書いてみました。
それまでにこれといった実務的な研修はなく、入社後すぐ実践という形で、新卒でも出来そうな仕事をちらほら貰っていた(初めて扱う言語のため簡単なもの、皆が面倒くさく後回しにしていた管理画面周りやテストメソッドを書く仕事が多かった)
ただ、チーム内の風潮のようなものとして、「出来る人がやる」という事が多く、やる気はあるのに少し大きめの仕事を任せてもらえないのが現状だった。
周りの人はバリバリ仕事をこなしているのに、何もしていない自分。それがひどく不安で、かといってこのままでいたらいつまで経ってもチームの力にはなれない、このままでは駄目だ、と先輩Aに仕事を求める相談をした。
そんな時によく頭をよぎるのは、このままではスキルも何も身に付かないままお荷物になる自分、転職しようにもスキルが無くどこにも行けない自分。
どうにか出来ないものかと、部長とチームリーダーとで面談をしてもらい、新しい仕事を貰えるように(今までやっていたサーバーサイドはもう殆どする事がなかったため、クライアントサイドの開発(未経験)をさせて貰えるように交渉した)
ただここで指導についてくれた先輩Bが一癖あった。
新しく貰った仕事に対し、これからやってみろ、こういう手順で、と言った説明が先輩Bから無かったため、「まずはこれを考えてみる」と伝え、それがまとまれば、レビューを頼み、次に何をするつもりなのかを逐一報告していた。
レビューを頼んだから1〜2日音沙汰無し、といった感じのゆったりペースだったが、締め切りは決まっている。
レビューは来ないが、先に進まないと終わらない。
試しに次はこれをやる、と口頭で報告すると、「まだレビュー頼まれていたものを見ていなかった」と言われる始末。
最近では、
画面のレイアウトを考えて書けと言われ、それにokを貰え(今となっては適当にokを出していたのでは?とすら思う)早速作業に取り掛かっても、別の先輩から完成間近に根本的な指摘をもらう、その繰り返し。
(指摘自体はそんな考えがあったのか!気付かなかった!と勉強にはなるが)
そもそもレイアウトを考える担当の人もいるのに何故専門ではない私が考えなくてはならないのか、その疑問は人手不足だからねぇ、の一言で終わってしまう。
これを専門の人に考えてもらえていれば2日は多く開発に専念できたのに、と思わず考えてしまう。
また、こちらはきちんと報告をしているのに、間違った方向に行きかけても軌道修正してもらえないがために無駄な仕事をしている気になってしまう(分からない事があれば適宜質問しているため先輩には進捗が見えているはず)
社会人なのだからそのくらいは自分で考えて行動しろ、と言われるのだろうと思いつつも、右も左も分からない状況でここまで放置されるのが普通なのか、と少し思ってしまう。
ただ指導してくれている先輩との相性が悪かっただけなのか、世の中はそんなものなのか。
先輩が私の面倒を見る気がないのか、どこもそんなものなのか。
分からないし、聞ける人もない。
もんもんとそんな事を考えていると、
このままここにいていいのか、転職するとして今のスキルで雇ってもらえるのか。
そんなところにまで考えが行ってしまう。
夢があって、その夢に関わる仕事が出来ているはずなのに、やりがいを感じない。
やる気はあるのに、空回りしている感じがする。
https://nekogata.hatenablog.com/entry/2018/09/10/163206
この記事がはてブで大絶賛されてるが、個人的にはセンス無いなーと感じたので言語化してみる。
今回の仕様を図で書くと
みたいな感じになるとする。
すると、今回スライドで問題視しているのは矢印の右側の通知の部分が1クラスに共通化されている点。
しかし、オブザーバーパターンの出番は図の矢印の部分が絡まり合って処理が複雑になってしまった場合。
今回は1つのイベントから複数のリアクションが発生することは想定しないので
オブザーバーが不要なのは当然。選択肢に出てくるほうがおかしい。
そもそも問題認識(通知部分が問題)と解決策(矢印部分を解決)がズレてるから話がおかしな方向にいってる。
Notificationクラスのサブクラスを作ろう、ならまだ分かる。
確かに設計を言語化するのは大事だが、言語化というのは「それっぽいことは幾らでも言える」危険性がある。そもそもプログラミングというのは芸術であり文学なんだから、センス無いのに言語化を頑張っても「一見それっぽく聞こえるけど間違ってる説明」しか出てこない。
成功者のありがたいお話や起業の本なんかでよく見る教え。無償でも助けておけば後で自分も助けてもらえる的な。
確かに一理あるんだけど、これ生存者バイアスなので力のある人同士じゃないと成り立たないから注意な。金も技術も人脈も持たない人を助けても、感謝はしてもらえるけどこちらに与えられるものを何も持ってない。そして残念なことに普通の人が人生で出会うほとんどの人は、この「何も持たない人」に当てはまる。皆だいたいいい人なんだけどね…。そういう人ばかり助けても、やはりいつまで経っても何の見返りもない。
そして大抵の人は自分も普通の人だから、見返りなしで与えてばかりだと自分の資源が枯渇して詰んでいく。たまに無限のパワーみたいなのを持つ人がいて、そういう人なら成功するまで生き延びたりするが、凡人が心がけだけ真似するのは危険だ。親切は相手をよく見極めてからしよう。
BUMP OF CHICKENを聴きながら勉強をした。
入ったのは、文科一類。
順当に行けば法学部に進学するところだ。
東大には、語学別のクラスがあり、顔合わせ的な意味でクラスごとに旅行にいったりする。
おかげで顔見知りくらいはできたが、友達ができることはなかった。
ガリ勉ばかりだと思ってた東大だが、「チャラい」人の方がむしろ多かった。
大学の授業には、最低限だけ出席し、Flashやテキストサイトを見て時間を潰すことが増えた。
就活に使えるようなガクチカエピソードもなく、コミュ障が面接をクリアできるとも思えなかったので、ロースクールに進学することにした。
そんな安易な発想だ。
ソクラテス・メソッドの名の下に、授業で発言を要求されるのには困ったが、学問的な内容であればまだ発言しやすい。
有志で勉強会をする人たちもいたが、ひたすら一人で勉強をした。
アラサーの男女が高校生みたいな色恋沙汰を繰り広げるのを横目に見ながら、判例や学説を頭に叩き込んだ。
テキストサイトはその黄金時代を終え、息抜きは2ちゃんねるに変わった。
ペーパーテストは昔から得意だし、他の人が人間関係に充てている時間を勉強に注ぎ込んだのだから、当然の結果だろう。
勉強ができる上に、顔も良くてコミュ力もある化け物のような人達に就活では負け続けた。
唯一、拾ってくれたのが今の事務所だ。
おかげで、なんとか今は生きている。
大学生のときは何も考えていなかったが、弁護士はコミュニケーション能力も重要だ。
ぜんぜんわからない、俺たちは雰囲気で演技を語っている、ってやつだよ。
だからパントマイムみたいに大袈裟な動作や表情で、感情を伝える演技が求められた。
1930年代からトーキー映画が始まって、より自然な演技が求められるようになった。
役柄の生い立ちや深層心理まで想像して「なりきって」いくというもの。
ロバート・デ・ニーロとか有名だよね。
タクシードライバー役をやるために実際にタクシードライバーになったりする。
そうやって役柄との一致率を高めていく。
一時期は、このメソッド演技法が「名優の条件」みたいな扱いだった。
たとえばどんな役も上手く演じる「カメレオン俳優」が評価され、
逆に「何を演じても同じ印象」みたいな俳優を演技力がないとするのは、
共演者と協調しにくいとか、台本の変更に弱いとか、精神的肉体的に負担が大きいとか。
「台本どおりにやれよ」と言ってメソッド演技を嫌う監督も多い。
だからハリウッドの俳優たちも全員がメソッド演技をやってるわけじゃない。
多くの人が演技を評価するとき、何らかの価値観を前提に置いている。
極論、「棒読みが悪い」とされているのは「声に感情を込めるべきだ」という価値観があるからだ。
でもなぜ声に感情を込めるのか?を突き詰めれば「好み」としか言いようがない。
「だって現実には無感情な声を出す人なんていないだろ?」というのも
誰々の演技が上手だ下手だというような記事をいくつか読んでも、
「この人はこういう演技が良いと思っているんだな」ということしかわからない。
映画の題材、割り振られた配役によって、求められる演技も違ってくるだろう。
「俳優の演技が下手」なのではなく「キャスティングが下手」なのかもしれない。
どんな演技だろうと映画がおもしろけりゃいいんだよ!ということかもしれない。
でも自分の嫌いな演技が目につけば映画全体もつまらなく感じるかもしれない。
演技を気にしていない観客のほうが、より多くの映画を楽しめるのかもしれない。