はてなキーワード: 社畜とは
成人式で暴れているヤンキーには、地元の仲間がいる。馬鹿だけど、若くて可愛いギャルな彼女もいる。だが、あいつらには仕事がない、将来がないじゃないかとの批判がある。だが、彼らの多くは建設関係の仕事をして、手に職を持っている。そして、建設業界は今空前の好景気だ。さて、はてな村のマーチ卒の中途半端な高学歴諸君はどうだろうか。成人式は家でネットをして孤独に過ごす、年齢=彼女なしの真正童貞、卒業後の仕事は良くて大企業の事務、営業系の社畜、悪ければブラック企業の使い捨て要因。どちらが勝ち組かは一目瞭然だ。
断定はよくないが、ちゃんとしたデータがある。
学生時代の友人(A子)と再会のアポを取った時点で、何となく「乗り気じゃないな…彼女」と思った。
A子は地方で老舗料亭の4代目。社長兼女将として店を経営する忙しい同級生だった。だから、社畜な私としても、A子の都合を考えて会う日も慎重だった。
「都合の良い日や時間帯はある?」「私はいつでもいいから、日にちと時間が決まったら教えて。」
「じゃあ、〇〇日の御昼か、〇〇日の御昼、どちらが良い?」「どっちでも良い。」
凄く素っ気なかった。そんな子じゃなかった。その後、前日にドタキャン。「ああ、やっぱりな」という気分だった。
何故、私がA子と再会しようと思ったのかというと、A子が初出産をしたからだ。結婚したっけ?寝耳に水だった。詳細は省くけれど、兎に角おめでたい事には変わらない。A子の仕事柄、そう簡単に会える感じでも無かった。だから、この際出産祝いを兼ねて是非会いに行こうと思ったのだ。同級生とは言え、実家は料亭でお高いし、正直言って気軽に会える感じでも無い。だから出産祝いを兼ねて再会出来るきっかけが出来た事はとても嬉しかった。
思い立ってから私も仕事が立て続けに忙しくなり、そうこうして行く内に月日が経ち、その子が1歳の誕生日を迎えた。そして、再会のアポを取るも、先ほどのやり取りの通り。素っ気ない対応のあと、前日にドタキャンだ。A子の赤ちゃんにプレゼントを渡したかったのに。
ドタキャンされる1カ月前から私はA子の赤ちゃんの為にプレゼント探しに躍起になってた。SNSを使い情報収集したり、同僚のママ・パパ社員に尋ねたり、おもちゃ売り場で遊ぶ子どものお母さんに事情を伝えて尋ねると皆気さくに答えてくれた。「1歳なら〇〇にこの子はハマってましたw」「音のでる本が好きだったなあ」中にはその場には無い商品とか商品名を色々教えてくれて、本当に嬉しかった。コミュ障な私が自分自身を信じられない位。そして、デパート中を駆け回った。
漸く買った、プレゼント。気に入ってくれるのかな…。心配だった。そして迎えた前日ドタキャン。
何としてでも、プレゼントだけでも渡したかった。最早意地だった。
リスケの為、またアポを取り付けた。一連のお互いのあいさつの後、私は「〇〇日か〇〇日はどうかな?」と斬り込んでみた。レスが止まり、連絡が来なくなった。
その後、FBには遊ぶ写真が上がるも、連絡は無く。コメント欄には私と同じような人達が居たみたいで。彼らは「当日連絡が来ないから心配したよ~」「御免ね、中耳炎になったり、ノロになったりと…」と、FBで尋ねてようやく事情を把握する有様だった。私も、彼らのやり取りを第三者の立場から見る事で、「あ、だから連絡が無かったのか。」と知る感じだった。
もう大丈夫なのかな、と思い、「FB見たよ~!ご病気だったんだね、大変な時にリスケの連絡してしまって御免ね!」「ううん、もう治ったから大丈夫!いつでも遊びに来てね!」「ほんと!よかった!なら、〇〇日か〇〇日はどうかな?もし難しかったら大丈夫だからね。」また連絡は来なかった。
そしてFBで遊ぶ写真と、同じくコメント欄に私と似たような立場の人達とのやり取りで、またも風邪をひいたという事で…。状況把握。
何で、直接連絡くれないんだろう。
「赤ちゃんの具合はどう?会えなくてもいいから、治ったら教えてね。心配。」連絡は来なかった。
その後、ようやく、彼女と会う事が出来たのは、もう半年が経ったころだった。既に赤ちゃんは1歳半!ようやく会えた!そこで、A子の出産事情を知る。きっと、プライベートの事を聞かれたくなかったのだと思う。学生時代からの相変わらずの私のコミュ障っぷりに、A子は安心したのかもしれない。私がプライバシーについては口が堅いと踏んで、そこからは、遊ぶ日のアポはスムーズになった。
初めて再会出来た時「うわ~!お姉さんになって!綺麗になった~!本当にもうお姉さんになって!美人さんよ!」ってビックリされた。学生時代のマドンナにそう言われて嬉しかった。その後、
「貴女は絶対に着物が似合うから。私の衣装はもう、着れないから、全部あげる!だから住所教えて?箪笥にしまっておくよりも、着物は喜ぶと思うんだ。」
「ねえ、お芝居すき?私はこの子が居るから、もう行けないんだけど、毎年貰うんだけど、もしよければお母様と一緒に行かない?着物送る時にチケット同封するよ!」
凄く嬉しかった。A子の事は尊敬してたし、学生時代からマドンナ的な存在だったA子からそんな気遣いをしてくれるなんて、本当に嬉しかった。私も母も嬉しくて、母は公演日の日は有給をとった。だけど、待てど暮らせど、着物もチケットも届かず。ついに、公演日も過ぎてしまった。御厚意で「送るね」と言ってくれたものに対して催促なんて出来ず…。公演日当日まで待ったけれど、結局、その日は母と二人で地元の温泉に行った。今頃は…はあ…。
「口約束…にしては住所も聞いてくれたし、おかしいなあ…。ウソだったのかなあ。社交辞令だったのかなあ」
母は言った。「金持ちの気まぐれだったのよ。富裕層同士、付き合いもあるだろうし、お着物の件はもっと差し上げたいと思える方が現れたのかも。チケットの件もそうかもしれないし。商売柄、ご贔屓にしなくちゃいけない人は優先しなきゃ。でもあなたは友達で、ご贔屓さんではないでしょ?もう、忘れましょう。」
そうこうしている内に、学校の同窓会のお知らせが届いた。A子に「行く?」と尋ねると「私は、この子もいるし、難しいな。あ!そうそう。チケットの件だけど、御免ね。今年に限って届かなかったんだ。当日まで私も届くのを待ってたんだけどー。今年に限って来なかった。御免ね!」と、連絡が届いた。「そっかあ。連絡くれて有難うね!楽しみにしてたけど、残念!また今度遊ぼうね!」「うん!」「母がね、公演日に合わせて有休を使ったんだ。その日は二人で地元の温泉に行ったよw」すると態度が急変。
さっきまで、サラーっと流していたのに「私、どうしよう。酷い事しちゃった。本当にどうしよう。このお詫びは必ずするね。お母様に本当に御免なさい。どうしよう」と態度が全く変わったのだ。私に対しては、「御免。届かなかった。」と軽く流してたのに。
「ううん、A子もさ、当日まで待っててくれたんでしょ?ドキドキして待ってたのはお互い様さあ!気にしないでよ!それよりまた、遊びに行こうね!」
すると、次の日、お詫びの別チケットが届いた。お高い系の。
何なんだ。この対応の早さ。着物の件も、チケットの件も、何だかもう、全てが胡散臭く思えてきた。
すると、後日、FBで、A子のFBにコメントを残した他の友達が「A子、お芝居のチケット有難う!無事に行けたよ~!凄く楽しかった!」とのコメントが。その日程は、正に私と母が有休で明けて置いた日だった。
別の機会で、A子に会う事があったけれど、それとなく着物の事を何度か触れてみたけれど、ノーリアクション。丸で記憶がスッポリ無くなったかのようなキョトンとした表情だった。
優先順位が変わると、咄嗟に落ちた順位の人間の事を忘れるのだろう。記憶の上書きではないが…。今目の前にある事が全て。という感じ。
そう言えば、「私がしっかりしてないから…従業員や社員さんたちがテキパキ段取りを指揮ってやってくれるんだあ…。」とこぼしていた事があった。
でも、自分で言った事に責任は持ってほしいなあ。ぬか喜びしちゃうし…。というか、社交辞令なら、住所なんて聞かないでよって思う。手の込んだ社交辞令だなあ…。
大切にしたい友達に、そんな幻滅する様な事はしないはず。それが一気に露呈した。
友達だ、と思ってたのは私だけで、信じる気持ちが強すぎたのだ。重いというか。
父は「自分の店の〇〇というブランドに胡坐をかいてるんじゃないの?」とも言った。プレゼントのお礼も、特に何も…言われなかった。
古畑曰く「自分の事を嫌ってるんじゃないか、と不安に思う時、有りますよね。安心して下さい。確実に嫌ってます。」と言う言葉を思い出した。その言葉には続きがあって、「問題なのは、自分が嫌われているという自覚が無い人…」というくだりだ。
私は、A子と距離を置こうと思う。着物をくれる、という言葉を聞いて、着物が似合う、という言葉を聞いて、私は凄く嬉しかった。着物に対する文献は勿論、写真集や画集、着付けをネットで観たりした。流石に、お店には足を運べなかったけど…趣味になっていた。その位、美人のA子に「お姉さんになった!綺麗になった。美人になって」など外見を褒められたり「着物が似合うと思う」と言われて嬉しかったんだ。
けど、もう、A子とはお終いかな。友達で居たい、と思えるような素敵な人間に私はなっていない、という事だという点は理解した。
乱文になって御免。ここまで読んでくれて有難う。
いくつか回答。
その「儀礼」が「なぜ」そして「本当に」必要なのか、という疑問に答えていない。そもそも「なぜ」親戚に会わなくては「いけない」のかという事だ。
まず、「行かなくていいよ」とアドバイスしている人々も、なぜ「不要」と判断できるか、「本当に」不要か、ということに何一つ説明を加えていない。むしろそちらの方に(その無責任さに)驚く。
そもそも、ある親戚同士のつきあいの在り方に、一般的な「べき」論など通用するわけがない。そして、関係者の一番若い人間一人による書き込みから分かる情報など多寡が知れている。そして、いわゆる「親戚づきあい」において、「年に一度」的イベントによるそれは、なかなか洗練された部類に属する。関係者の知能も書き込みを見る限り決して低いわけではない。以上を踏まえれば、その「儀礼」は、関係者間によるそれなりの妥当性の下に運用されているだろうと『推定』できる。要するに、まともな大人同士が、それなりの年月をかけて、合意の下に運営しているシステムだから、そこに必要性・必然性があるのだろうと推定されるということだ。この状況下では、むしろ「必要性も妥当性もない」と判断する方に、説明責任があると思うがどうか。
更に言えば、書き込みを見る限り、書き手の増田は、そのような親戚間の合意形成に関与しておらず事情を把握していないらしいことは容易に想定され、言い換えれば自分の行動やその余波に対して充分な責任が取れるだけの分別があるようには読み取れない。このような状況で、安易に「行く必要ねーよ」などという尻押しをする方が、いささかおかしいと思う。
メンツの話など全くしておらず、明白に誤読である。自分がしたのは、現実に元増田の生活の基盤であり、一番の味方であろうと推定される人間に対して、最大の迷惑をかけるような行為は悪手に過ぎない、という話だ。元増田にその方面への配慮が全くないように見受けられたので、そこを指摘する意味も強くある。
両親が年1回になるよう守っていると言っているが、「うちの子は部活があって来られないんですよー」とか理由づけて守ってやることもできる。守るってのはそういうことだ。
「守っている」というのはあくまで推定に過ぎないが、そもそも元増田は親に対して「嫌だ」と口に出したことも、それについて親と喧嘩したこともないのではないか? それ自体が既に問題だと思わないか? インターネット上の無責任な他人があーだこーだ言うのではなく、本来は子どもとして親と向き合うべき問題だと思う。その上で、親が全く何もしてくれない、となったときにはあなたの言う理屈も成り立つと思うが、現状ではまだその段階にも達していない。子どもが「なんか嫌そうにしているしー」とかで、先回りして子どもの気持ちを忖度して勝手に親戚から遠ざけるなどという行為は、少なくとも高校生に対して取るべき対応ではないと思うし、元増田の両親はその意味で正しいと思う。
「年1回の儀礼なんだからイヤミ言われてきなさい」「年1回の儀礼なんだから晒し者になってきなさい」「年1回の儀礼なんだから好きでもない相手にコビ売ってきなさい」こう言われて納得するなら結構な社畜精神である。
「親戚づきあい」をそのようにしか受け取れないというのは、あなたは相当親戚に恵まれなかったのだろうと推察するが、元増田の親戚づきあいを見る限りどこにも「非道」な内容はない。むしろ、親戚づきあいに対して腰がひけている主たる原因は元増田のコンプレックスと読み取れるし、それ自体が簡単な問題だと言うつもりは毛頭無いが、しかしそれは本来元増田自身が(少なくとも親子の対立関係の中で)何とかして解決すべき問題であって、親戚レベルの他人に飛び火させてよい問題ではない。
まあ、親戚を楽しませるのはお前の役目とか言ってる時点で相当お察しだが。
どんな集まりでも、参加する際に「参加した人みんなが楽しく過ごせるようにしよう」とするのは参加者の最低の義務だし、「お客様」の立ち位置でなく対等の人間関係での集まりならなおさら当然のメンタリティだと思う。高校生ならば、もう「お子様」ではなく、一人の大人としてその場に臨んでいい年だ。それが親戚の集まりでなく、たとえば友人間のパーティであっても同じ事だ。
お年玉を給料としたバイトと思えばたぶん丸く収まるが、姪っ子にそう思われるほどに慕われない親戚にも問題があるなと思わざるをえない。
「思わざるを得な」くはない。元増田が一方的に苦手意識とコンプレックスをこじらせている以外に、親戚に問題があると読める描写がない。元増田が手加減して書いているという可能性はゼロではないが、書いてもいないことを勝手に読み取るのは、読み手の側の単なる「思い込み」ではないか。
それと、「お年玉を給料としたバイト」という発想は、元増田の一番ダメな部分なので、そこを肯定するつもりは全くない。この件について「お年玉を拒否すればいいんでしょ」というのは全く子どもの発想であって、関係者全員に対して非常に失礼な考え方だ。そういう発想に基づいた言葉がチラとでも出るようなら、この親子の話し合いは一切上手くいかないと思うし、元増田はダメ人間にしかならない。
結局は「実生活に何の関係もない親のメンツを立てに行かされる子供」の図式。親側がそういうのを嫌ってくれれば回避できるイベントである。
ハッキリ言っておくけど、普通に考えれば親が連れて行くのは「親戚と元増田の関係」のためであって、親自身のメンツなんて関係ないでしょ。ほとんどの親戚づきあいにおいて、その図式は全く当てはまらんと思うよ? 元増田のために、親戚づきあいを維持することがよかれと思って、引っぱり出してるんでしょうに。「親戚づきあいなんていらねーよ」という増田の皆さんは、この元増田の両親以上の責任感をもって、元増田の未来の人間関係や社会性に対して何かを担保してやってるつもりなのかね? 「行かなくていい」系のコメントしてる増田みんなに言いたいのは、アンタらほんと無責任だなの一言だよ。
自分が元増田に言いたいのは、物事はいろいろな形で繋がっているものだということ、特に人間関係は。そして、子どもの目から見ただけでは気付かないような仕組みに、元増田はそろそろ気付くべき年齢であり、そういうことについて(どのようなやり方でも)しっかり周囲の大人とコミュニケートすべきだということ。少なくとも、その準備ができていない状況で、嫌だ嫌だで逃げ回るのは子ども以下の振る舞いであり下策だということ。それなら、現状一番易しい形で親戚づきあいをスルーする方法を用意してもらってるんだから、素直に乗っとけよ、ってこと。
要はいつまでも親にケツを拭かせてんじゃない、と。てめえのケツも拭けないガキならせめて大人しく抱っこされてろよ、ってことだよ。
まあ、「いい大学に入る」以外の人生の成功ルートを元増田に上手く提示できてないという一点において、元増田の両親に責任の一端がないとは言わんよ。ただ、現状そこを指摘しても、元増田をもっと甘やかすことにしかならんでしょ。また、現状元増田が、うまく他人とコミュニケートできていないのも大きな問題だと思ってる(元増田だけの責任という意味じゃなく、だよ)。
元増田は、まず来年はもっと、自分の好きなことやりたいことに自分の時間を費やすべきだと思うね。そんで自分の錨をどこかにしっかりと下ろしてったら、初めて、人とホントの意味でコミュニケートできるようになるだろ。フラフラはしててもいいんだが、根のないフラフラでは周囲も対応しきれんよ。まずは小さな事でも、自分の好き嫌いをハッキリさせることから始めるべき。
その「儀礼」が「なぜ」そして「本当に」必要なのか、という疑問に答えていない。
そもそも「なぜ」親戚に会わなくては「いけない」のかという事だ。両親のメンツ、それ以外に理由はないのかという事だ。
何時間とか年何回とかの「1か10か」じゃなく、会うか会わないか、「1か0か」の答えがない。
両親が年1回になるよう守っていると言っているが、「うちの子は部活があって来られないんですよー」とか理由づけて守ってやることもできる。守るってのはそういうことだ。
「年1回の儀礼なんだからイヤミ言われてきなさい」「年1回の儀礼なんだから晒し者になってきなさい」「年1回の儀礼なんだから好きでもない相手にコビ売ってきなさい」
まあ、親戚を楽しませるのはお前の役目とか言ってる時点で相当お察しだが。
お年玉を給料としたバイトと思えばたぶん丸く収まるが、姪っ子にそう思われるほどに慕われない親戚にも問題があるなと思わざるをえない。
結局は「実生活に何の関係もない親のメンツを立てに行かされる子供」の図式。親側がそういうのを嫌ってくれれば回避できるイベントである。
奴隷は、奴隷の境遇に慣れ過ぎると、驚いた事に 自分の足を繋いでいる鎖の自慢をお互いに始める。 どっちの鎖が光ってて重そうで高価か、などと。 そして鎖に繋がれていない自由人を嘲笑さえする。 だが奴隷達を繋いでいるのは実は同じたった1本の鎖に過ぎない。 そして奴隷はどこまでも奴隷に過ぎない。 過去の奴隷は、自由人が力によって征服され、やむなく奴隷に身を落とした。 彼らは、一部の甘やかされた特権者を除けば、奴隷になっても決してその 精神の自由までをも譲り渡すことはなかった。 その血族の誇り、父祖の文明の偉大さを忘れず、隙あらば逃亡し、あるいは 反乱を起こして、労働に鍛え抜かれた肉体によって、肥え太った主人を 血祭りにあげた。 現代の奴隷は、自ら進んで奴隷の衣服を着、首に屈辱のヒモを巻き付ける。 そして、何より驚くべきことに、現代の社畜は、自らが奴隷であることに 気付いてすらいない。それどころか彼らは、社畜であることの証明である年収に自らの 唯一の誇りを見い出しさえしている。 (リロイ・ジョーンズ 1968年、NYハーレムにて)
http://azanaerunawano5to4.hatenablog.com/entry/2015/12/22/155416
この嘆きはよくわかるが、仕方がない。はてな運営自体がそういう風になっているのだから。
現在のはてな運営の態度はこうなっている。「直接相手を名指しした場合、そこそこまともな批判でも通報されたら記事を消せ、と機械的に処理される。」「それでいて直接相手を名指しない形で悪口を言ってくる増田やブロガーをはてな運営に通報しても「第三者からみてあなたのことを言ってると明らかじゃないので対応できません」といって対応してもらえない」つまりはてな運営の態度を忠実に解釈するのであれば、「主語や目的語を薄めて (主語がぼやけている代わりに、特定の誰かを批判しない)」「動詞や形容詞を過激にする (あきらかに語る内容に比べて表現が煽りになっている)」というものがはてなにおいては最適解ということになる。はてなにおける最適化とは、虚空に向かって過激な発言をすることなのだ。みんなが自分の庭に井戸を掘って「王様の耳はロバの耳」に類する鬱憤を吐き出すのが理想の姿なのである。サラリーマンや社畜といった特定の誰かをささない抽象的なイメージに対してはどれだけ過激な悪口を書いても良い。それでいてそういう発言をする人間にちょっとでも「それは言いすぎだ」と批判をすれば「匿名の暴力」「魔女狩り」「罵声を浴びせる人たち」となるのだ。そういう人間がいまのはてなブログの運営の答えなのだ。
はてな村かかりつけの医師がこんなことを書いていたがこれは必然の結果だ。
http://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20151107/1446854595
はてなブログは、トラバによる明確なつながりを捨てた。それによって虚空に向けて叫ぶ人材を求める仕組みになった結果、人とのつながりを求める人間は表現自体には過激さが求められるようになった。それでいて、直接個人に言及することを憚るよう運営は求めた。言及する対象が抽象的になればなるほど、人間は発言が雑で大げさなものになっていく。その結果、具体的な話よりも、ぼんやりした、中身の薄い、それでいて表現だけが大げさな記事が目立つようになった。なにせ、どれだけ価値があろうとも、具体的ななにかに関する直接的な言及は一切アウトなのだから、価値あるものは何も蓄積されない。アニメやラノベ作品についてさえ具体的に言及すれば天狗が襲い掛かってくるという噂が広がるに及んで、もはや人々は自分事以外で他人については何も語れなくなってしまった。はてなでは糸電話のような慎ましやかな通話はもはや消失し、拡声機をもって大声で喚く人間が盛り上がりそれをはてな村の老人たちがやれやれと嘆きながら何もしないという、発展性の全くないコミュニティと化した。誰も他人の話をまともに受け取ろうとしない。 ただみんなが自分の話を聞いているという妄想だけを頼りに大声で自分の言いたいことを喚くだけだ。 はてな村にもはや以前のようなつながりは存在しない。