はてなキーワード: ゼロ戦とは
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繁華街の近くにあって立地が良いだけで、他に良いことは何一つない神社。
それが護國神社。
寺社仏閣としての歴史は浅くて明治時代以降に作られたものだし、社殿は質素で特にみるべき物は無いし、観光に行っても何一つ面白いことはない神社。
それが護國神社。
靖国神社は明治維新から大東亜戦争までの歴史資料の展示があるし、アームストロング砲やゼロ戦などの兵器の展示があるし、食堂では海軍カレーが食えるし、お土産屋では兵器を模したグッズだったり、小林よしのりや百田尚樹の右翼本が売ってるんだぞ。
地方を観光する際にせっかくだからと護國神社に寄ることもあるけど、どこに行っても観光する価値が無くてガッカリするんだよな。
ハンーッス
本日は日本においてワクチンの日、サラダ記念日、公認会計士の日、ピアノの日、ゼロ戦の日、ナンの日となっております。
サラダ記念日は有名ですね、この味がいいという独自性を記念日にした奴です。
そういう細やかなところを気にかけていくことで、何かしらに繋がるのかもしれません。
とはいえ、昔の細やかさと現代の細やかさはまた基準が変わっていますからね。
昔の細やかさでやっていてもまだ無神経だと判断されることがたまにあったりしますので
そういうのは年々更新していくか、もしくは「ちゃんと作業はした」と主張しておくかなんだと思います。
まぁどこで何をしたかの報告は欲しいですね、色々あるかもしれませんので。
ということで本日は【作業後の報告よいか】でいきたいと思います。
人は「楽と感じる方法」しか選ばないことを前提に、仕組みを作らなければならない。
https://blog.tinect.jp/?p=75230
人の上に立つ人であるとかが
部下に身勝手な期待をする前に
ただ、どうにもモヤッとする文章ではある。
以下のような主張が展開されている。
誰が戦っても勝てる仕組みづくりをしたから
緒戦で日本の優秀な戦闘機と熟練パイロットにボロ負けした米軍が
勝てるようになった、という論が述べられ
誰がやっても勝てる仕組みを作らねばならない、と結論づける。
なるほどと思うのだが、
しかし、その論だと、その「勝てる仕組みを考える仕事」をする人が
勝てる仕組みを簡単につくれる環境を作る人が必要になるのではないか?
という問題が発生する。
更に言うと、その勝てる仕組みを考える仕事をする人が勝てる仕組みをつくれる環境を作る仕事をする人が、
その勝てる仕組みを考える仕事をする人が勝てる仕組みをつくれる環境を作る仕事をする人にその環境を作れるような環境を作る人が必要になってくる。
と、延々と入れ子状になっていくのだが、
おそらく筆者は経営者、企業のトップがその入れ子の大本である、と定義しているのだと思う。
そして、その入れ子状の仕組みの一番内側にいるのが、なにも考えずにただ飛行機に乗って一撃離脱すればゼロ戦に勝てるヤンキーということになる。
なんか文章力がなくて意味がわからなくなってて申し訳がないんだけど、
さらに内側の入れ子の仕組みを考えなくてもいい、というわけではないということである。
もちろん最末端のさらに最末端のワーカーであれば別だろうが。
そう考えると、もとの文章の冒頭に書いているベンチャーの営業の面々がやるべき仕事としては
やはりもう少し踏み込んで消費者・お客様のことを考えなくてはいけないのではないか?って話になるんじゃない?
まあ、この増田の冒頭に書いたように
あくまでこれは人の上に立つ人が
その意味では成立しているのだと思う。
きちんと誰に向かってどのような状況に対して書いている文章なのかがわかりにくことと、
たとえ話として出しているベンチャー企業の話とか戦争の話とかがちょっと胡散臭いというか、ホントの話なの?と感じられるところ、
音のする方へ杖を突きながら歩き出す座頭市
始めは白黒だった世界にやがて色が付き始める
それに合わせて後ろで流れている音楽も最近の曲へと変わっていく
突如世界は白黒に変わり空爆の音と共に戦闘機の影絵が落下し続ける
そっと腰をおろし再び切腹を試みるために座頭市が仕込み杖を抜く
二人の影がだんだんと巨大化し
座頭市の剣はいつしかピンク色となり影のロボットはピンクの剣を振るう
ロボット同士は激しくすれ違いながらお互いの四肢を吹き飛ばし会場の片方には首と片腕を失ったロボットが
ロボットの対面に強い光が放たれロボットはソレに向かって歩みだす
その輝きの中央で首と片腕を失ったロボットは残った片腕を堂々と掲げて空を指差す
これならバッハもニッコリや。
思いついた順。順番に意味は無い。
・田舎の道路は舗装されて無いのがあたりまえだった。ごく一部が舗装されていたが、舗装はコンクリートだった。アスファルト舗装はまだほとんど無かった。
・川にかかる橋はまだ木と土でできていた。わずか数年のうちに、全部コンクリート造りに作り変えられた。その時の橋がまだ現役。
・石炭がまだ日常的に使われていた。学校の隅の方には石炭を積み上げておく小屋があって、冬は当番の子供がその日のストーブで燃やす石炭を小屋から教室に運んでいた。炭の燃えカスの掃除は先生がやってくれていた気がする。石炭ストーブが石油ストーブに置き換わると、石炭小屋は鶏小屋に改装されて、学校でニワトリを飼っていた。
・火鉢や七輪がまだ現役だった。火鉢の中では炭を燃やして暖をとっていた。
・掘りごたつの底は格子状になっていて、その下で炭か何か燃やして暖を取る構造だったが、それは当時すでに廃れていた。電熱線を使った電気ごたつが安くて便利なので、かなりはやくから普及していた気がする。
・家にかまどがあった。物ごころついた時にはもう使われなくなっていてプロパンガスだった。お年寄りの家ではまだ現役でかまどが使われていた。
・洗濯ものは川や湧水のあるところでやっていた。湧水は出口すぐが飲用水の採取場所、数m下ると食器や食べ物を洗う場所、そこからさらに数m下るとそれ以外を洗うもの、と順番が決まっていて、いつもだれか数人の主婦が何か家事をやっていた。水道が普及するといつしか誰も使わなくなり、掃除されなくなり、廃れた。
・秋には落ち葉のたき火で焼き芋を焼いて食べるのが定番のおやつだった。
・農業に使うかごなどが、まだ藁で作られていた。この伝統は数年後にはすっかり無くなってしまった。
・村の加治屋さんがいて、農機具の修理などをやっていた。
・軽トラックが普及しはじめていたが、農道がまだほとんど整備されていなかった。車が通れない歩行者用の山道を、天秤棒をつかって前後に思い荷物をぶらさげて運ぶという仕事がまだあった。
・コンクリートブロックを使って塀を作るのが流行り、みんなで競うように塀を作っていた時期があった。へー。
・車はどの車も数年でサビサビになった。今のような耐久性のある焼付塗装がまだ開発されておらず、車検のたびに車の塗装をやりなおしていた。車検とはある意味、車の塗装をやりなおすイベントだった。
・街へ行くたびに、あちこちでボコボコビルが建ち始めていた時代。1970年より前に建築されたコンクリート作りのビルというのはかなり珍しいが、1970年代にはめちゃめちゃ大量のコンクリート造りのビルが建設されて、日本の街の風景が一変した。
・いまはシャッター街となっている田舎の商店街に、もっとも活気があった時代。
・軍隊帰りの教師が現役でいた。ゼロ戦の特攻隊の訓練生だったとか、広島に原爆が投下された後の遺体を積み上げて燃やす作業をやったという教師がリアルに居た。多くの大人たちが原爆のキノコ雲の目撃者だった。
・家を建てる時、壁は土壁だった。そのへんの土に藁を混ぜて建材として使っていた。土壁の中の芯は細い竹を格子に編んだものだった。
・貯金の金利がめちゃめちゃ高かった。しかし実際には金利以上にインフレになったので、真面目に貯金した人はむしろ損をした。
・缶ジュースは当時から1本100円だった。子供には高級な飲み物だった。
・お豆腐屋さんに毎日お豆腐を買いに行っていた。田舎でも数100mも歩けば、一軒は豆腐を豆から作っている豆腐屋さんがあった。
・主婦が買い物に行くときは、細い竹を編んだような、かわいらしい買い物かごを持って買い物に行っていた。レジ袋などというものはまだ無かった。せいぜい紙袋。
・生ゴミはかまどで燃やして処分していた。灰は肥料として活用された。街のゴミの収集車は、不燃ごみの回収が主だった。
・冠婚葬祭は、5人組といわれる隣近所のグループで協力しあって、自宅で行うのが当たり前だった。
・どこの家にも子供がいた。夜は外出を厳しく制限された。今思えば、どこの家庭も夜になると夫婦でセックスして楽しむのが当たり前だったんだろう。
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・子どもは神社やお寺の境内に集まってよく遊んでいた。缶けりとかが定番だった。
・そんなド田舎にもエロ本はあった。子どもたちが拾い集めたエロ本の隠し場所が神社の床下だった。
・雨の日はよくトランプしていた気がする。
・こたつのテーブルの板をひっくりかえすと麻雀用の緑のフェルトが貼ってあった。
・蛍光灯が爆発的に普及したのがこの頃だった。電球よりずっと明るいので最初はみんな驚いた。
(しかし、統計を見ると子どもが減り始めたのもこの頃。電球の方がエロい気分になりやすかったというメリットはあったのかもしれない)
・バスには運転手のほかに、切符を売ったり、バックする時に誘導したりする車掌がもう1人乗っていた。それがワンマンになったのも昭和50年代
・国鉄で荷物を送るときは、包み方にめんどくさい規定があって、紐で縛ったり指定のタグをつけたりしなくてはならなかった。
・昭和50年代に複数の宅配便会社が競争で一気に普及して、国鉄で荷物を送ることは全くなくなった。
・女子の体操服はブルマだった。バレー部が人気だった。部活やマラソン大会では女子が校外を体操服(下はブルマ)で走っていた。
・ダンボールは既に普及していた。ダンボールが普及する前は農作物は木の箱に入れて出荷していたらしい。使われなくなった木の箱がよく他の事に転用されていた。
・そんなド田舎でも新聞と牛乳は毎朝届いていた。牛乳はビンに入っていた。
・学校の校舎は当然木造。体育館も木造。今思うと、体育館のような大きな建物が木造っていうのは当時としてはなかなか凄い事だったんじゃないかという気がする。
・バイクといえばスーパーカブのことだった。それ以外のバイクは見たことが無いレベルだった。
・車と言えば軽トラだった。それ以外の車も見かけたが、変わり者扱いされるレベルだった。
・仕出し弁当とかは薄い木で作った箱に入っていた。プラスチックや発泡スチロール製のトレ―が普及したのも昭和50年代
・幹線道路なのに1車線のところがあり、ときどき渋滞でにっちもさっちもいかなくなって警察を呼ぶことがあった。
・リヤカーを引いて魚を売りに来るおじさんがいた。スーパーカブに山ほど靴を積み上げて靴を売りにくるおじさんもいた。富山の薬売りもいた。
知り合いに自衛隊で偉い人がいるからちょっと聞いたんだけど、やっぱ今のご時世にわざわざ防衛大学校に入るような人達って、ハラキリ切腹お国のために天皇マンセーハラショッショーな人らが多いっぽいですね。
怖いね。
偏ってるね。
そりゃまあ歴史教育ちゃんと受けてたら自衛隊キンモー日帝の精神引き継ごうとかしてるしマジないわーってなるもんね。
つまる所、この国の軍人って頭の中は今でもゼロ戦で特攻しろと言われたら喜んで飛びだっていく人達なわけですよね。
ビリジアンコントロールが効いてるからなんとかなってるって事らしいですが、でもいま日本で上にいる人達は超無責任だから、なにかあったら全権移譲かまして軍人が勝手にやりました~~で終わらせようとしてくるよね。
この国はいつだって、あの戦争をやり直せる状態のままこの令和の時代を生きていくんだろうね。
どうにかする方法って何かないのかな。