これから社会を渡り歩く上で、是非とも知っておきたいこととして、世の中始末に負えない乱痴気野郎は数有れど、正論人間ほどタチの悪い、人生の詰んでいる人間は居ない。これは知っておいても損はないだろう。
これから社会へ羽ばたき偉業を成し遂げんとする君たちも、薄々感づいてはいるはずだ。学級委員長や生徒会長のような正論マンの不甲斐なさ、そして冬の碧空にも似た慟哭に。
世の中に蔓延る正論をなんとかして駆逐せねばならぬ、とまで考える人もいるだろう。また、正論をどや顔で言うような族(やから)にだけは俺様はならん!と固く誓っている人もいるだろう。
しかしちょっと待ってほしい。ここで大切なのは感情論の排除である。何事も感情的になっては琴をし損じる。感情的と言ってもヤキモキしたキモチを適切な形でストレートに吐き出すのはむしろ良いことである。
そうではなく本当の感情は棚にあげて都合のいい別の感情を正当化しようと論をひねりだすのが駄目なのだ。結局それは言い訳であり捏造にすぎない。自分にも他人にも嘘をつき、感情的になればなるほどその嘘の対立構造がエスカレーションする。
だから冷静に思考しなければならないよ。学生時代にロクに人と向き合うことなく2chなどをやり過ぎてきた人は特に注意。面接で俺は友達いるしサークル入ってたしバイトもしてた、なんて人がよくいるけど、
そんなのも名札(title)にすぎないのだよ。中身が肝心。素直な気持ち・意見をどれだけ適応的にやりとり出来たかどうか。その意味で正論を文字通り「正しい」と思えるような人は危ないと言ってよい。
結局のところ正論というのも名札にすぎない。正しいと名札がついたことを言えば、一応は一定の力をもつ。絶対無敵とまではいかないが、たいていの場面で有利な形勢に持っていくことが可能であるという意味において。
ところがね、第1にそもそもにおいて「勝つ」必要などないのだよ。狡黠な人間になんてなる必要ないとも言い換えられる。ずるい人間って世の中いるよね。それは一種の適応とも言えるが。
よく考えてほしいのは、適応というのは常に不適応の可能性をはらんでいるのだよ。ある方向に適応したということは、他の方向に適応できなかったからかもしれない。ズルいってのはそういうことなんだ。
あらゆるファクターがありうるので一面的に決めつけることはできないけどな。けれどもそれがもし不適応からきた果実だとしたらそんなに哀しい色の果実はない、そう思わないかいということなんだ。
第2に正論はあくまで論の正しさに過ぎない。論とは前提たる命題に推論規則を用いて演繹していくプロセスなのだがな。ともかく論の正しさはあくまで推論の正しさであり前提の正しさではないという中学校から教わってきた当たり前のことなんだ。
当たり前だがみんなすぐ忘れてしまうから常に確認しながら進んでいかないと行けないんだ論者たちは。でないと、、中学生が見てもバカじゃんこの大人たちはって言うようなことが頻発するのだ。
人間は多くの人間自身が考えているよりもスキが多い、不注意が多い、手抜かりが多い生き物なんだ。だから当たり前のことを当たり前にやれる大人になること、これが何よりも大切で、難しいことなんだ。
岡目八目と言ってハタからみて批判するのは簡単だけど実際にそういう立場になったとき自分自身しっかりやることが肝胆だよ。だから正論を畳みかけるように言われてもジト目で疑うことを怠たらない誠実さを忘れてはならない。
そういったことを抜かりなく積み重ねていく先に成長がある。正論を疑うにあたっては、繰り返すが感情的になってはいけない。感情を包み隠さず適切な形で表現するのは良いことではあるが、感情に論がくっつくと
途端に一気にタチの悪い一揆を巻き起こして塗炭の苦しみに見舞われてしまう、と述べたね。ここで1つ感情的にならないコツを教えよう。こと人間関係になると多くの負の感情は恐れからやって来る。
怒りも恐れ、恥ずかしさも恐れ、不安も恐れ、いろんなことが恐れから来ている。そしてそのことをみんな自認したがらない。だからビビり先輩ちーっすwな煽りが万国共通に通用すると。
だから恐れを常に認めないといけない。認めるためには心の余裕が必要なの。心に空きスペースがないと駄目なの。ワーキングメモリが一杯になると他の事考えられなくなるでしょう。
実は人間は生きる心構え次第で必要な余裕が雲泥の差なんです。一般には精子いや生死をかけた闘いを日々繰り広げる人ほど沢山の余裕が必要と考えられている。しかし実際は彼らの95%は忙しいの字は心を亡くすと
書くとの格言どおり忙しさのあまり心が狭くなっていますから、それでもなんとかやっていけてるということは実は大して彼らのような生き方のためには別に特段余裕が必要なわけではないんですよ。
ただしそれは「毎日をなんとかやり過ごす上では」不必要ということであり、「日々をよりよく生きるためには」あるいは「今後の人生のためには」もっと余裕が必要ですよ。狭い心のままではいつかSAN値がピンチになります。
そう、「よりよく生きるためには」もっともっと余裕が必要なんだよそこの君。倫理(ethics)とは本来は儒教的な処世術ではなく日々をよりよく生きる方法を追求する学問であった。
自分のことばっかり考えてガンガン心を狭めていては結局のところ苦しい境遇に追い込まれていくようにうまく世の中はできている。天網恢々疎にして漏らさずとは至言なり。
『オデッセウスの鎖―適応プログラムとしての感情』の紹介文を見てごらんなさい。「感情はなぜ存在するのか。感情がその場限りの自己利益を越えてより合理的に行動を方向づける働きがあることに着目し、
今まで十分に理解されていなかった利他行動など、一見非合理的にも見える行動のメカニズムを鮮やかに解き明かす」。この問題意識と解決の試みに非常に高い知性を感じざるを得ません。
実は感情は我ら人間の誇る高級な機構であったという発見が続々と為されている。そういった感情を捨象してロボットのように正論を言ったり感情を捏造して論理で塗り固めたりするのはもう今年で卒業しよう。
来年からはきっぱりケジメをつけて全く新しい人間に生まれ変わるつもりでいこう。ただしだイチローの「変わらなきゃも変わらなきゃ」の精神は忘れちゃならんぞ。必死に変わろうとする人間がよく陥る罠。
変わろうと歯を食いしばることは現状を強く否定することになるが、実は否定すればするほど暗に弥が上にも強く肯定してしまう結果になるのだから、決して無理に変わろうとしてはいけない。
これも人間関係と同じで根底には恐怖がある。忙しさを好む精神の奥底にはしばしば恐怖があるのだ。一般に強くコミットしようとする性向の背後には恐怖があるということ。
だから強くコミットしようとするのではなく、ソフトなアプローチ。これが大原則なのだが、そのためには実はたくさんの余裕が必要なんです。だから言ったとおりでしょう心構え次第で雲泥の差。
余裕といってもロマンティック・アイロニーのやうな嘲笑や放蕩ではなく、きちんと自分の行い、思考を決める規律を自分で定めないといけない。
クラピカも制約を自ら誓約して力を手にしたのだからこの支配から卒業して賜杯を手にするには規律を自らに課すことが必要不可欠といっても過言ではなかろう。
ぱっと見なめし革のような硬質な立派さを漂わせてはいるもののそれはあくまで虚構で、その内に秘めたる醜さは計り知れない。だから俺はブランドもののバッグが大嫌いなんだ。
ともあれ人の心にハリボテエレジーのような哀愁があり、それを我々は他者や社会との関係の中で再現しているに過ぎない。しあわせに小石をなげて。
その修正を試みるのがサイコドラマの主旨である。ともあれ正論という古い規律を捨てて感性的であろうとすると俺たちはいとも簡単に自己否定のワナにかかってしまう。だから新しいマイルールが必要なのだ。
マイルーラ見かけなくなったなと思ってたら2001年3月製造中止。 テレビCMや大学の文化祭で宣伝しだしてから、若者の間で非常に人気が出て世論の批判を浴びたことが原因とな。
同期で1番か2番目ぐらいに出来の良かった奴が辞めるそうだ。厳密に1番目か2番目かってことは今となってはどうでも良くて、もう片方の奴は既に辞めた。結局、同期で出来の良い奴が上から2人辞めることになる。やれやれ。離職率は低い会社だが、出来の良い奴だけは歯抜けみたいに消えていく。転職、結婚、まぁどちらにしても、結局のところ仕事がまともに出来る奴はここ以外に居るべき場所があるんだろうなと思う。
俺も適当に見切りをつけるべきかなと考えることもあるが、別に仕事としてやりたいことなど何も無いし、何もやりたくないならここで引き続きゆっくりやるのがまぁ無難かなーと考え直す。40歳ぐらいになって路頭に迷うかもしれないね。まぁ路頭に迷う時は迷うわけだし、それならば目先だけを見てダラダラ生きるのも1つの手かなーと。そもそも考えるのが面倒臭い。中学ぐらいの知り合いの面と、今そいつがどんな感じで生きてるかを思い浮かべてみれば大体そうだと思うんだけど、考えてない奴の方が根底的に幸せそうなんだよね。幸せになりたい。本当に?そうでもないかもしれない。
月曜になったら会社が爆発してないかなってのは日本のサラリーマンの8割ぐらいが考えてるらしいけど、どうせ爆発するなら中に居るときに爆発してくれた方が後腐れが無いし、もっと言えば日本列島ごと沈んでくれるとわかりやすい。地球が割れるとかでも良いけども。もう面倒なんだよな何もかも。あと40年だか50年だか紆余曲折しながら生きていく事自体が面倒だし、誰かがこっそり後ろに回りこんでスイッチを切ってくれないかと何処かで期待している。
http://george743.blog39.fc2.com/blog-entry-1642.html
これ自体、まあなんてことのない記事なんだけど
その中の一部引用
自民党、安倍批判をツイートした方に対し、数時間のリツイート、メンション、リプライ機能の停止(ジョージが2013/7/21に経験)、アカウント凍結(本日も複数の方から報告あり)などの被害が出ています。
これをさして、
自民党安倍政権で既に始まっている言論統制の現実を目の当たりにして、今後の日本の行く末に大変な恐怖を感じます。
とは言うが、インターネットで、(多くはtwitterで)この手の事例は枚挙に暇がなく
有名人が信者を誘導してメンション爆撃+スパブロ、罵詈雑言で相手をアカウント停止に追い込む
巨大掲示板上で個人を特定、SNS上で爆撃、現実世界でストーカー等々
もはや個人が言論統制を行うことの出来る仕組みが出来上がっている。
こっちのほうが俺は明確に怖い。
だってネット上の誰かの権力を取り上げる仕組みって日本にはないもんね。
こわいねぇ
すごいのな、人のことはさんざんバカにしたあげく、自分の新しい経歴を作ってくるのな。
だがまず
投票して満足感を得るのもいいだろう。
これをバカにするのは辞めろ。
それだけ満足して普段仕事もせず何も役に立たないならまだしも、
投票に行った人間をバカにするのがどれだけひどいことか位は分かるだろ。
それさえ分からず、選挙行くのがただの暇人の戯れで行かない方が偉いってんならいいけどな。
結局、うるさい、面倒なんだから黙ってろ、ってだけの話じゃないか?
少なくとも教育過程で選挙に行くようには教育されるが、それば間違ってる、もしくは無視して良いものだということか?
根本的な所が間違ってることをいい加減認めなよ。
こんなところで言ってれば同じレベルが沢山いるから勝ち誇れるかもしれないが、
それが社会でまともな人間の発言として認められてるのか、ということだが。
周りは皆面倒なら行かない、ってのに何も言わない人しか居ない、って言うならかわいそうだというだけだけどな。
がなければどうなるかを考えてみてください。
たとえばあなたの家族がその国に旅行していてちょうど事故のあった飛行機や電車に乗っていたかもしれない。
ならばと旅行会社なり外務省なりに問い合わせるかもしれません。
旅行代理店は100人のお客さんがその国に旅行してたら一人ひとりについて外務省に問い合わせて安否確認するでしょう。
関係者は夜寝られないでしょう。心配でストレスもたまります。他の予定も全部キャンセルする必要が出てくるかもしれません。
このたった一言で、このような無用な混乱、心配、不安を与えることなく関係者数百人が安心できるのです。
それを信用していいの?との不安はもっともですが、現地日本大使館なり当該国の関連機関なりが責務として提供している情報ですので、まずは一次情報として信用するに足るものであると言っていいかと思います。
少なくとも「本人の連絡がない限り100%の安心はないのだからこんな報道は価値ゼロだ」というのは暴論というものです。
無関係の人にはさして意味のない情報とも思えるがゆえに、イエモンのJAMの歌詞のように、日本人とそれ以外とで命の価値に軽重をつけるのか?けしからん!という批判もときになされるようですが、そういう意図での「乗客に日本人はいませんでした」ではないことを知っておいてください。
なお余談ですが「ニュースキャスターが嬉しそうに」言っているのを私は見たことがありません。
今の日本からは改革(左派)も保守(右派)もいなくなって(最初からいなかったのかもしれないが)今では劣化コピーの出来損ないもどきにも達してないような「サヨク」と「ウヨク」が日々、言論をぶつけ合っている。
それを最も観察しやすいのはココ、ネットの世界だが、はたから見てもサヨクとウヨクがまともに議論をしている所を「ほとんど」見たことない。(あえて「全く」とは言わないでおく)
文字通り意見の「ぶつけ合い」をしているだけだ。言葉のドッヂボールという言葉はまさにサヨクとウヨクの議論(という名のプロパガンダ合戦、にすら達しないただの罵り合い)にこそ最もふさわしい言葉だろう。
じゃあなぜ議論が成立しないのかという話だが、単純な理由で「議論する気が無い」からである。
まぁそんなことはいちいち指摘するまでもないが、なぜああもぶつかり合う者同士でいまだに両者の間に少しは議論をしようという機運が見られないのかというとそれはサヨクとウヨクのメンタリティの相違に起因する。
サヨクとウヨクの間で議論が成立していないこと指摘をされるたびにどちらも「相手がバカすぎて議論にならない」的なことを言ってる当たりまったくどうにもならないくらい事態は深刻化しているが鹿児島知事選でサヨクが見せたリアクションと、先の衆議院選で自民党候補が落ちた選挙区に対するウヨクのリアクションを見る限り、まったくこの両者のメンタリティは精神的双子と言っても差し支えないほどに凄惨なまでに酷似しているのである。
ただし、ここまで酷似したメンタリティを有する両者にも異質な点はある。その一つが「自分が気に食わない意見に対するリアクション」である。
とりあえず、最初の段階ではサヨクもウヨクもとる行動は同じである。すなわち
とかくサヨクとウヨクには共通のガイドラインでも制定されているのかと疑ってしまうほど、この行動をとる。
相手の言った内容に対する批判と相手個人に対する罵倒の区別がつかないのがサヨクとウヨクがいつまでたってもまともな左派右派になりえない重大な理由の一つだが。それについては今回はあまり関係ない話である上、正直もう救いようがないと思っているのでこれ以上言及はしない。
さてひとしきり相手を罵倒しきった後で彼らがとる行動がサヨクとウヨクで全く異なってくる。
端的に言えば、サヨクの人間はもはや相手をいなかったものとして扱う(自分の気に食わない意見を相手ごと無視する態度を是としている時点でサヨクの人間に論理的態度の育成が不可能であるということは間違いない)
自らの意見に対する反論の類に対して一切触れることなく、ひたすら自らの意見を押し通すさまは、醜悪だ。仮にその意見が正しかったとしても、正しさに腰かけて意見ごと相手をいないものとする傲慢さは到底万人に受け入れられるものではない。(とはいえこの傲慢さは昨今のサヨクのマイノリティぶりを鑑みてみるとどこか滑稽ですらある。)
次にウヨクと言えば、こちらは苛烈でその意見を徹底的に叩き潰す方向に動く。
相手が「改心」するか(仮に改心したとしても、ウヨクの脳内に存在するヒエラルキーの一番下の階層から一つ上の階層に固定されるだけだが)、文字どおり消えるまで続く。
「日本から出ていけ」というのはアノニマス的に発言できるネットの場で、よく見ることが出来る文言だが。「自分の気に食わない意見」を言うならこの国から出ていけ。とはなかなか苛烈である。
仮にその人物の述べる意見が間違っていたとしても、その苛烈さはいささかも減ずることは無い。「間違った意見を述べる人間は日本から出ていけ」とは冷静に考えれば中々にエキセントリックな言説である。
サヨクは自分の意見を押し通すために、ウヨクはサヨクを排除するために、言葉を発している。
そう、サヨクとウヨクが議論にならないのは当然だ。議論は議論をする気のある人間が2人以上いなければ成立しない。
自分の意見を叫びたいだけの人間がたまたま同じ場所にいただけでは、議論になるはずもない。
先ほどはプロパガンダ合戦にすら達しないただの罵り合いと表現したが、サヨクとウヨクの自慰的な声の張り合いは、もはや罵り合いにすらなっていないのだ。
「まとめブログ」独特の形式は、単純にPVが稼げるだけな仕組みになってるから
・記事リンクをクリックしたら、記事リンクがずらずら書いてあるページをクッション
民主党よりも自民党のほうが政治や政策に対してやる気があった。
民主党の支持者よりも自民党の支持者のほうが根気があって熱意があった。
日本は無党派層や無投票の人がとにかく多い。そんな中で選挙に勝とうとおもったら、やっぱり、結束力があってやる気があるほうが勝つに決まっている。政治もやる気の問題である。
だいたい、過去の新党ブームや小泉旋風や民主党による政権交代や橋下ブームなどは大半の日本国民がちゃんと政策の中身を考えて投票して躍進させたものには思えない。今回の安倍政権の政策も多くの国民はよく中身もしらないのではないだろうか…。
熱心さだけならば日本において公明党や共産党の支持者には敵わないかもしれない。
http://anond.hatelabo.jp/20130727001044
まあ、自分が海外で仕事した経験とかつらつら語ってもいいんだが(というかつい最近のことなんだが…)
それを言っても「今日本で仕事してるお前がまた海外出てって仕事できるかは別だろ?」みたいな話になるだろうしな。
わかってて言ってるとは思うが、海外で仕事して暮らしていくのに別にそこまで特別な技術はいらないし、また、極めて特別な技術を持ってないと雇ってもらえないわけじゃない。外で仕事した事あるってんなら大体わかるだろ?
なんだか躍起になって話の前提条件を摩り替えようとしてるが(もう二度目だ…。)、別に、日本での生活も海外での生活も選び放題な超技術を保持した超エリート野郎の話をしてるってわけじゃあないからな? 別に海外で超豪勢な暮らしができるご身分だって言ってるわけじゃない。 飯を食っていく程度には色々な事が出来る、って奴の話だぞ?
で、改めて話をするんだが。
あのな。
海外の人と日本人の働きぶりを比較した時によく「日本人はその身に負う責任感が強い」みたいな事言われるけどな。(失笑混じりでな)
それ、違うからな?
これをより具体的に言い換えるとだ。
日本人は、海外の人に比べ、与えられた権利を勝手に“義務化”して、しかもそれを人に押し付ける傾向がある。
本当に、その傾向が強いんだ。
それがモラルの高さとか、民度の高さと呼ばれているものの正体と言ってもいいだろう。
日本人は大災害に遭っても暴徒化せず大人しく救助を待つ「善良な民族」なんかじゃないんだ。
実際はちゃんとおとなしくしているかどうかをお互いに監視し合い、そして無言のうちに強制する民族なんだ。
もちろんそっちの方が集団秩序の統制の上では非常に都合がいいが…、招かれた結果が社会や全体にとって都合のいいものであっても、個人にとって都合のいいものであるとは限らない。
何も災害下で暴徒が略奪する自由を許せって言ってんじゃないぞ? 全員に等しく強要された沈黙の為に、自らの命を失う事すら余儀なくさせられた不運な奴もいる、って話だ。
で、改めて言うぞ?
“人の権利の行使に口を出すな”。
お前が、お前に与えられた権利を大切に思うのは構わない。
それを社会の一員に課せられた重責と考えるのも自由だ。
投票して満足感を得るのもいいだろう。
だが、
人の選挙権の使い方に口を出すな。
それはお前のものじゃない。
もちろんお前は「人の権利に口を出すつもりはなくて、ただ自分の考えを言ってるだけだ」と言い張るだろうし、「こんな当たり前の意見を言っただけなのに反論してくるなんて」と周囲の同情を引きもするのだろうが…、そのやり口こそが、いかにも日本人的だ。
狡猾で、執拗だ。
「何も感じないのか」「何も感じないのか」とお前は言うが、お前こそ、たくさんの横記事で膨らんだこのツリーを見て何も感じないのか?
転職エージェント経由で15社程申し込んでそのうち8割から一次選考の案内が来た。
緊張しすぎて食欲無くなって体重減った。
活動始めて1週間経たない木曜日の夜、水曜日に3社面接を受けたうちの1社から内定を貰った。
しかし本命は月曜日に最終面接。感触からすればほぼ内定出そうな感じ。
某ドイツ車に乗ってる。(発売当時ワールドカーオブザイヤーをとったりして完成度高いって評判の車だった)
乗り始めて1年くらい、ある日走行中に突然アクセルが効かなくなって走れなくなり、慌てて路肩に止めた。
今回の痛ましい死傷事故のニュースを見ていてそれを思い出した。
走行中にいきなり車が止まると、すごく焦る。
自分はまだ片側1車線の国道だったので難を逃れたけど、高速の3車線の真ん中を走ってるときにエンジンが止まり、左に寄ろうにも走行車で埋まってて車線変更できないままレーン上に停車してしまった(らしい)この家族の運命というものを思うと、言葉が出ない。
http://anond.hatelabo.jp/20130726150418
どうも現在の社会では2chまとめを卑下する風潮があるらしい。
「2chの管理人はアフィ野郎で気持ち悪い」
こんなイメージが先行してるわな
はてなの勘違い達は自分たちの技術力()のほうが高いと自惚れてたりもする
2chまとめなんてデザインもゴミ。俺たちの方がWEB屋に相応しいぜ!みたいなね
そこで聞きたいんだけど、馬鹿にしてる人達って1日当たりのPVどのくらいあるの?
はてなの自称知識人、1日に10000PVあたりの人がこんなこと言ってるのかと思うと笑える
2chまとめの世界では1日に10万PVでも雑魚、50万PVでやっと上位として認めてもらえる。
持ってる人が正義
「ラストワンマイル」というのは、社会資本の整備などで、最後のネックとなる部分。
「主要道路までは光ファイバー引いたが、最後の各戸引き込み部分が、どうしても整備できない」と嘆いてた、アレである。
しかし、社会啓蒙は、いわゆる「情報弱者」に届けなきゃならない。
情報弱者は、情報を受け取る資力に乏しい(例:新聞を取るカネがない)し、
情報を理解する能力に乏しい(例:新聞に書いてあることがわからない)し、
情報を取得しようと言う意欲もない(例:新聞を読もうとも思わない、新聞嫌い)。
ひどい場合には、情報を否定しようとする(例」「新聞に書いてあることは陰謀だ」)
ということで、情報弱者を啓蒙する活動は、まさに「ラストワンマイル」である。
先日、「消えた年金対策費、3,000億円が余った」というニュースがあった。
一見、喜ばしいニュースだが、よくよく見たら、実はとんでもないニュースである。
つまり、本来年金を受け取れる受給権者が、総額3,000億円分受け取れなくて、国の元に宙ぶらりんになっている、ということ。
しかし、国としても、必死になって、年金受給権者に「年金記録を確認して下さい」と啓蒙活動を行ってる。
国の啓蒙活動で「気付く」人は、あらかた気付き終わっている。
この段階で、「受給権あるのに、まだ気付かない人」というのは、国が啓蒙活動を10倍行ったところで、
恐らく気付きもしないだろう。
あるいは、石油ストーブの欠陥品のリコール・回収活動も、これに似ている。
ラストワンマイルの難しさを知らずに、女性手帳批判するのは筋違い。
高齢者の介護需要急増が問題になっていて、自治体は高齢者に対し
「要介護にならないように、筋トレしましょう」と介護予防事業を行っている。
介護予備軍、介護にならないように介護予防事業を受けなきゃならないのは、「運動嫌いの高齢者」
運動嫌いだから、自治体主催の筋トレ大会なんて、死んでも行きたがらない。
なので、各自治体の介護予防事業予算は大幅に余りまくり、民主党政権下では「仕分け対象」に指定される始末。
これなんかはラストワンマイルの典型で、消えた年金対策費3,000億円に近似。
わかっちゃいるが、暴飲暴食、タバコはやめられない。
最近はやりの「脱法ハウス問題」も、実は啓蒙のラストワンマイルの罠なんじゃないか?と思うようになった。
住宅難民、ネカフェ難民に対し、行政やNPOも無策なのではない。
様々な救済措置を用意してるし、或いは「地方だと、住むところも確保されます」てのもある。
仮にネットカフェ内に「住まいの相談窓口」の冊子を用意してあげても、彼らは手に取らないのでは?
現地に知り合いが行っている人?現地のお役所情報をただ流してるだけのニュースが「いませんでした」ってだけで本当に安心していいの?ってか「いました」だったらどうするの?
本当に現地に家族や友人が行っていたら、本人からの連絡等の確実な情報がないとどうにもならないだろ。つまり実は誰の役にも立たない、価値ゼロの余計な情報だと思う。
言の葉の庭を見て、雨が嫌いになりそうだ。
雨っていいものだと思っていた。なによりも外にでなくていい、というのがいい。布団に横になって、窓の外の雨の音を聞きながら本を読んだり、ゲームしたり、最高じゃないか、と。
何かが好き/嫌いというのは、それへの思い出とか印象なんかで左右されるもので、片方から片方へのタイミングは意外に唐突に来るものなのだろう。
はみ出してる