はてなキーワード: 芸者とは
1990年1月の3位。わざとらしく東北弁を効かせたデュエットソング。90万枚の大ヒットだったらしい。
地方出身のアーティストが真面目に歌っている…というわけではなく一種のコミックソングの扱いだったようだ。
1990年2月の8位。90年代前半に活躍した女性アイドルグループらしい。
おニャン子とモー娘のあいだの「アイドル冬の時代」において気を吐いていたアイドルの一つという感じか。
パッと聴いた感じは徳永英明や稲垣潤一と似たような印象を受けた。
1990年3月の16位。ホコ天で人気のあったロックバンドらしい。
当時のヴィジュアル系ってだいたいメタルやパンク由来の「硬派」「尖ってる」感じを出してるイメージだけど、
このAURAは、ヘビメタ色の薄いコスプレ的な見た目、コミカルなほど明るい曲調など、後年のヴィジュアル系にかなり近いと思った。
いかにもプリプリの影響を受けて出てきましたという感じ。時代を感じる。
1990年8月の19位。CoCoと同じテレビ番組から登場したアイドルグループらしい。
1990年9月の18位。レベッカのNOKKOが、NORMA JEANの元ギタリストと組んで、レベッカの解散直前に一曲だけ出したもの。
ギタリストの人がNOKKOのヘアメイクを担当していた繋がりらしい。
1990年11月の19位。正統派な感じのヴィジュアル系ロックバンド。
Wikipediaによると「日本一下手なバンド」として有名だったらしい。
1990年11月の20位。テレビドラマ「スクールウォーズ2」の主題歌ということで、1の主題歌「ヒーロー」を意識した洋楽カバーにしたんだろうか。
他の曲を聴いてみると、もっと大人しいアイドル然とした曲を歌っていたようだ。
1991年1月の18位。NHK「みんなのうた」からヒットしたという演歌調の曲。歌手は当時16歳。
消費税導入で(端数を支払うための)1円玉に注目が集まっていたという背景もあるらしい。
学校に提出するぞうきんのことを歌った明るいユーモラスな曲。
先日亡くなった俳優・宝田明の娘らしいが、宝田明もあんまりピンと来ないな…。
1991年5月の6位。爽やかで癖のない男性シンガー。ビーイング系っぽい(ビーイングではない)。
1991年6月の13位。松任谷正隆のプロデュースでデビューした女性シンガーソングライター。
歌唱力で売っていた感じなんかな。ちょっと広瀬香美を思い出した(デビューは障子久美のほうが先)。
1991年8月の19位。楽曲を聴いただけではあんまり引っかかりのない普通の曲だという印象。
当時からいろんな歌手に楽曲提供して実績のあった人らしい。その中でいちばん有名なのは今井美樹の「PIECE OF MY WISH」か。
昨年亡くなったらしい。
1991年10月の7位。ヒップホップ系。まだヒップホップが広くは定着してない頃だよねたぶん。
テレビの企画「高校生制服対抗ダンス甲子園」で優勝してデビューしたらしい。
1991年10月の15位。何だと思ったらサザンオールスターズの桑田佳祐だった。
1991年10月の20位。何だと思ったらウッチャンナンチャンの南原清隆だった。
1991年12月の7位。ピアノを弾きながら歌ってる映像を見て「愛は勝つ」のKANかと思った。
ピアノ弾きながら歌う系男性シンガーがちょいちょい出ていた時代だったのかな。
1991年12月の16位。名前で女性かと思ったら男性シンガーだった。
「X'mas in the Blue」と「Christmas in the Blue」とがあって発売時期も違うみたいだが何が違うかよくわからない。
1992年2月の13位。声のいいおっちゃんが歌ってるソウルっぽい楽曲。
ZOOの「Choo Choo TRAIN」とブラックビスケッツの「Timing」の作曲者なのか。そう聞くとなんかすごい。
1992年2月の19位。アーティスト名も楽曲名も歌詞も英語で洋楽かと思った。
妖しげでトリップ感のあるサイケな楽曲。時代を感じさせない。個人的にいちばん気に入った。
1992年3月の12位。これは洋楽カバーなのか。ミュージカルっぽい発声…と言われたらそうかも。
エリート一家に生まれて英才教育を受けて子供の頃から現在まで芸歴を重ねているらしい。すごい(小並感)。
1992年7月の10位。性別不詳の歌手っていうコンセプトがすごいな。確かに見ても性別がわからん。
1992年7月の17位。当時としてもオールドスタイルだったのではないかと思われる正統派のロックバンドっぽい感じ。
1992年8月の8位。B'zの女性版として企画されたらしい。
ビジュアルはまさに女性版B'z。こういうタイプの女性デュオって他にあんまり思い浮かばないし新鮮だな。
でも楽曲はあんまりそれっぽくないな。VガンのEDテーマ歌ってる人なのか。そっちの曲は知ってた。
1992年8月の16位。じんのうちたいぞう。すごい名前だ。本名らしい。なんかネットリした歌い方をしてる。
当時、ユニコーンのメンバーが連続でソロシングルをリリースするという企画があったらしく、この曲はその一環ということのようで。
なぜこの曲だけランクインしたのだろう…。
1993年2月の11位。女性ロックシンガーの草分けとしていくつかのヒットを飛ばした人らしい。
雰囲気としては大黒摩季っぽいかもしれない(もちろん浜田麻里のほうがデビューは先である)。
なんか系譜を感じるな。もうちょっと後に相川七瀬とかが出てくるのか。
1993年3月の6位。出生率低下を受けた厚生省の「ウェルカムベビー」キャンペーンの一環として結成されたチャリティーグループらしい。
メンツは小田和正、チャゲアスの飛鳥、カールスモーキー石井、玉置浩二、徳永英明、浜田麻里、山本潤子となかなか豪華。
1993年4月の17位。こちらはチャゲアスのチャゲを中心としたユニットらしい。
1993年5月の13位。これはサッカーの「オーレーオレオレオレー」か。Jリーグ開幕だなあ。
1993年6月の3位。グループ名と曲名でビーイング系っぽいと思ったらビーイング系だった。
デビュー時は二人組、曲調はロック色が強い感じで、ちょっとB'z的なコンセプトだったのだろうか。
1993年6月の20位。ちょっと古くさいロックバンドという感じ。いまでもメンバー変わらず活動しているらしい。
1993年7月の6位。テレビドラマ「チャンス!」の企画として、久保田利伸の同名の曲を、主演の三上博史が役名でカバーしたもののようだ。
1993年9月の6位。サザンオールスターズ絡みの企画らしい。よくわからん。
1993年9月の17位。男性二人組ユニット。双子らしい。ちょっとフォークっぽい曲調。
1993年10月の13位。女性目線で男を扱き下ろす歌詞がおもしろい。ちゃんと本人の作詞なのも良い。
もともとZYYGのベースの人と二人で組む予定だったのが音楽性の違いにより決裂してソロユニットになったらしい。
ちなみにZYYGのベースの人は音楽性の違いによりZYYGからも早々に脱退しているらしい。
1993年12月の16位。ほのかに90年代後半っぽさが混じってきた気がする。
何も知らずに「実は小室ファミリーですよ」と言われたら信じるかもしれん。
1993年12月の19位。こっちはド昭和だなあ。分類としては演歌になるのか。
1994年2月の19位。爽やかな感じの男性シンガー。いかにも90年代っぽいバラード調の曲。
いまは「支那ソバ玉龍」というラーメン屋をやっているらしい。音楽情報とラーメン情報が入り交じるTwitterアカウントがおもしろい。
1994年3月の12位。松任谷正隆に見いだされて他のアーティストへの楽曲提供も多数。「第二のユーミン」という異名もあったらしい。
この曲は明るい前向きな感じだけど、他の曲を聴いてみると郷愁を誘うような独特な曲調でちょっとジブリっぽいかもしれない。
1994年3月の19位。80年代ぽさもある哀愁の漂う歌謡曲という感じ。
1994年3月の20位。しっとりとして高音が綺麗な曲。曲調だけならビーイング系のDEENとかFIELD OF VIEWっぽいかもしれない。
1994年4月の7位。楽曲としてはあまり癖のない感じ。ボーカルの岡田浩暉は俳優としてよく見かける(名前は知らなかったけど)。
1994年5月の12位。こういう氷菓子あったよな、と思ったらガチで森永の「ICE BOX」の企画で結成されたグループらしい。
しかもボーカルの女性以外のメンバーは、中西圭三・池田聡・(久宝留理子「男」を作曲した)伊秩弘将という、この記事で取り上げた人たちばかり。
点と点が線でつながった感覚やね。なんかこの曲の「令和バージョン」もあるらしいよ。
暗めの歌詞をパワフルに歌う女性シンガーっていうとあいみょんあたりの先祖なのかもしれんね。
1994年8月の17位。お笑い芸人のダウンタウンが白塗りで芸者のコスプレして歌うという企画らしい。作曲は坂本龍一。
見た目はかっこいいんだけど歌は意外にポップというか可愛らしい。ちょっとリンドバーグっぽいか。
少しまえに「家、ついて行ってイイですか?」に出演していたらしい。
1994年11月の18位。80年代から活躍しているアイドル(?)らしい。
この頃には30代半ばのはずだけどコロコロとした可愛らしい声だな。
Wikipediaによると「胸キュン」という言葉を最初に発した人物だとか。マジかよ。
※以下はあくまで、セクシービデオの話で、リアルなプレイではこんなことはしてない。
①アナル舐め
・一番好きなジャンル。
・結婚の時に誓いのキスをするわけで、それを汚いおっさんにしているという部分に興奮する。神聖なものが汚れて、一生塗り替えられない真っ黒な感じ。
・イケメンと結婚しても、その結婚を誓い合う舞台での愛の証明になるはずのキス自体が、オッサンのアナルを舐めたものとなれば汚されてしまう気分。将来子供ができて子供にキスをする時にも汚れた唇でやってるわけ。つまり、美人で自分が手が届かない存在の尊厳を汚してしまって自分のものにできるんだという支配欲が満たされる。
・奥さんや彼女にはできないことをしているという感覚に強く興奮する。女性をもの扱いできるような強い立場を得たような感覚。
・特に、女性が天井をむいて寝てるところに、まるで便器に座るように男性が腰を落とすタイプが好き。女性は奥まで舌を突っ込んで欲しいね。適度にキスを挟んで。好きなイケメンとキスする時に貪るようにアナルを舐めて欲しい。
・高橋○子みたいな元芸能人とか、制服ものみたいな、プレミア女性のやつも大好き。プレミア女性の価値を汚した感じが。
②足コキ
・女性側が余裕を持っているが、足こきの体制から射精した場合、ちん○の角度的に、女性のパンツあたりに精液が飛ぶ。すると、ノーパンだった場合、精液がマン○にホールインワンして妊娠してしまうかもしれない。つまり、女性側が余裕ぶっ子いているのに妊娠してしまって大変だ。そのギャップというか、一発逆転感覚が興奮する。パチンコで穴に入れてリーチかかったみたいな気分。
・そもそも足こきの時に、視覚でマン○を楽しめる。穴に入れてしまったらマン○の見た目を楽しめない。手コキやクンニでは刺激か視覚を選ばないといけない。同時に刺激と視覚を満たせるのは足コキ。
③首絞め
・柔道を経験している時に、何回か落とされて気持ちよかった。昼寝して起きたらめっちゃスッキリしてる時あるけど、あんな感じでしかも夢で頭がグチャグチャになったような気分。
・女性にやっているときは、相手の生殺与奪を握ってる感じや、相手がオチるギリギリな感じで意識を保たせるのがゲーム性がある。
・生セックスは怖いが、口なら妊娠しないから気兼ねなく腰を振れる。
・喉がゴボゴボいうのが面白い
・喉頭蓋に当てると反射で嘔吐しそうになるのがゲーム性があって面白い
・男のチン○なんて自分は絶対舐められないし、静液なんて絶対飲めないのに、それをやらせてるというのが興奮する。
⑥チンカス舐め
・湊りくがホームレス相手にチンカス食べるやつで目覚めた。(チンカス作品自体がほぼなくて残念)
・ロリコン心が刺激される
・モンゴル人(チンギスハン)は昔、征服した土地の男性を皆殺しにして若い女性を孕ませたらしいが。その中で白人もたくさんそうした制裁を受けたらしい。ワールシュタットの戦いとか、タタールのくびきとかっていうらしいが。そういう場面を考えるとめちゃくちゃ興奮する。村の女性たちの憧れの英雄イケメン男性を殺しまくって、絶望して屈服させて白人女性たちが孕まされまくったのだなあと。
・自分がブサイクチビなのでハーフの可愛い子供ができて遺伝子一発逆転できないかという劣等感。日本社会の中での負け組たる自分が日本社会の中で逆転した感覚。
・パワーと気品のぶつかり合い
・肌の対比が美しい
・最強のセック○プレイヤーと長身白人女性のプレイはもはやプロレスみたいな圧倒。
・白人女性側がアナル舐めするの見ると、「歴史的に冷遇した権力者が、屈服した」みたいな感覚が興奮する。
⑩ハーフ
・風俗でなかなかうまくできない「本番交渉」が好き。JKリフレとかオッパブみたいな。あと花魁芸者系。
・ソープは捻りがないと厳しい。危険日だけとか、絶対的下から目線旅館とか、制服着たままとか。ヤンキー女性やバレーの服装のままマットプレイしてくれないかな。
・自分がブサメンだから、この世に救いがあるような感じがする。
・女性側がブサメンとのセックスにマジになってくれると本当に救われた気がする。
・ホス狂いの星○あいが、「おっさんに中出しされて、アフターピル飲むから、中に出して」とかいうラインが流出したのに大興奮。アフターピルの避妊は100%じゃない。好きな人がいるのに、おっさんの精子で妊娠してしまうのかという一発逆転感が大興奮。
⑬M男もの
・虐められているのに、相手に復讐で中出しして妊娠させてやる一発逆転要素が面白い。
⑭膣鏡(クスコ)
・美女の膣内を見て、「これだけの美人の全てを知ったんだなあ」という気分
・子宮口からダラダラと液が出てくると、「興奮してる証拠」だとわかる。女性の場合は演技とかスペ(擬似愛液)とか嘘ばかりだから
⑮すっぴん
・化粧で調子にのれず、おしとやかになったカースト落ち女性に対してオラつくのが面白い
・顔をベロベロ舐められるのが面白い
・自信が持てないところを虐めるように顔をカメラでとるのが、好きな子に意地悪する小学生みたいな童心に帰って面白い。
・そもそもトイレ自体が自分は好きで、いろんな建物とかのトイレを必ずチェックしている。
・本当にやばいことをしている感
⑰セミの声
・僕の夏休みのほのぼの感を感じながら楽しめる
・悪いことしてる感が楽しい
・若い子の未来を老害が搾取しているみたいで楽しい。自分が搾取される側の世代だからこそ、搾取できる側に回ることに興奮を覚える。
・未来のない彼女いないれき年齢のオッサンが、世の勝ち組ハイスペイケメンが狩ってる若い子を得られる興奮
・ホスト狂いだから、こんな美女が落ちてきてくれたんだなと興奮
・自分も昔歌舞伎町でホストをやったことがあって、その時は本当にホストって頭悪い幼稚園児レベルの知能だと知っていたので、「こんなくだらない人間に男を感じて人生捨ててる馬鹿女」を拝めるのが面白い。
・そんな馬鹿にしている馬鹿女に相手されない自分の惨めさを一発逆転できている感覚
・自分を虐めていたDQNや、女をとっていくハイスペが、こうやってセクシー女優を世界に作ってくれて、世界に感謝できる。
⑳耳なめ
・舐められると脳味噌が侵される気分だし、舐めると脳味噌を犯す気分。
・耳元で囁かれるとゾクゾクするし、相手も同じだろうし。もしここで大声で叫んだら女性側の鼓膜破れるだろうなと、ギリギリの音量で音量を上げていくのが楽しい。
・ささやくのや、息をハァーとかけたり、耳を噛んだりと変化をつけて楽しめる。
・片方の耳がよだれで満たされたら、指でよだれがヌトヌトの耳の穴をいじりながら、もう片方の耳を舐めるのが最高。
㉑飲尿
・朝起きた時、トイレにいくのが面倒で、「誰か飲んでくれないかなー」と毎朝思うから
㉒男女でやってるブラジリアン柔術、アブダビコンバット、子供柔術(一般的な大会)
㉓顔面踏み
・世の中の女性はオッサンを汚い臭いと思っているだろうが、その汚いオッサンに顔面を踏まれて「上下関係」を叩きこんでる感じが面白い。
・可愛い顔を見ながら、チン○は入っていつでも射精したら子供できてしまうかもというのが楽しい。
・中出しされることになるアナル舐めでオッサンを興奮させて精子作らせた女性側の失策感が面白い
・白人女性が本能で愛している世界、生きている世界に興味がある。外人が日本のオタク文化やそのリアルな生活に興味があるのと同じような感覚だと思われる。
・白人さん美しい。インド人やイスラエルの意思の強い目が好き。スラブ人はモンゴル人の遺伝子注入されまくった歴史あるんだよなとアジア人ワンチャンな感覚。
㉗高身長
・女性は自分より高身長を求めるから、絶対に自分は相手にされないから、そこを逆転できるのが好き
・オラついてるいけてるギャルは絶対に自分のようなチビデブハゲブサイクオッサンを相手にしないから、一発逆転した感覚がある。
・イケメン大好きそうなユルフワオッサン大嫌い女子に成敗。俺はバットバツ丸だ!みたいな気分
・最近これは叩かれるけど、アスリート 女性は美しい。競技が人体に刻まれており、そこを劣等精子でケガしてやりたい気分。
・オッサンの夢
・まだ分からない女なら騙せるかも感
㉜ハーレム
・複数人種付け
・ブスの扱いが本当に困るのでブスがいると点数がかなり下がるジャンル。
㉝玉なめ、玉食べ
・急所が女性の口の中、食われてしまう、子供できなくなっちゃう、噛まれたら気絶してしまう痛み。でも、精子を作るぞという気分。
・「ママですよ〜お姉ちゃんが妊娠してあげますからね〜」と精子をあやされてる感覚
<逆に嫌いなジャンル>
①ネトラレ
・つまらない。単なる虐められてきた底辺の自分の人生と同じじゃん。女は自分のものにしたい。
・透けてるから何??
③スカトロ
・面白い時は面白いけど、つまらないとか女優がブスだと途端汚い
④ラブラブ
⑤ブス
・ブスに金が流れるのがむかつく。ブスはブサメンと同じで底辺にいてくれ。
・ブスに金が流れてしまうと、世の女性が美人を目指すインセンティブが失われてしまうような気がする。女性に圧力をかけるためにもブスは恵まれて欲しくない。
⑥熟女
・35歳くらいの女性の体が一番好きなんだけど、20代熟女とかやられて損した気分になる。
・むかつく。
・自分が手に入れられない恋人という経験が世の中に普通にあるのが心底むかつく。
・美女のセクシー映像を世に出してくれるから本当はそこは感謝なんだけどさ。
⑨男たくさん
・ブサメンものなら納得できるけど(どの精子で妊娠したか分からないから、責任取らないでブサメンが美女にカースト逆転できる感覚がある)
・単なる複数男性だと、どの精子が妊娠させているか不明になりつまらない。制服感が薄れる。
・どうせ複数なら、一人一人を回る感じで、同時はやめてほしい。一人一人回るのなら風俗と同じだから、「女性を金や権力で屈服させた」感がある。
オリ・パラの音楽担当者がいろいろ騒動になったのを見ながら、なんとなく思い出した。
長野五輪の開会式は劇団四季の創設者にして自民党のブレーンだった浅利慶太が演出したんだけど、まあ評判が悪かった。
アメリカのテレビ局の圧力に屈して向こうのゴールデンタイムに時間をあわせ、日本時間の真っ昼間にやったので光を使った演出が使えなかったのはハンデだったと思うけど、それを差し引いてもダサくて。
まず横綱の土俵入りから始まって(同時はまだ相撲が国民的スポーツだった)、諏訪御柱でゲートたてて、なぜか力士が各国のプラカードもつ、という、分かりやすい“スシ・テンプラ”的なニッポンを散りばめて。二十年以上前だけど、当時でも相当ダサかった。
聖火の点灯はフィギュアスケート日本人初の銀メダリスト、伊藤みどりがやったんだけど、これがねえ。
ネット検索すれば動画あると思うが、なんかコテコテの豪華な巫女さんみたいな衣装を着させて、で、BGMに流れたのが、なんとプッチーニのオペラ「蝶々夫人」のアリア「ある晴れた日に」なのである。
これは酷い。
なにが酷いって、なんで日本のオリンピックで西洋のクラシック?とかそういうレベルの話ではない。
蝶々夫人が、まあ国辱モノ(好きな言葉じゃないけど)の話なのである。
そこに現れたのが、軽薄なアメリカの海軍士官ピンカートン。(なお、フルネームはベンジャミン・フランクリン・ピンカートン。このオペラ、アメリカ人も小馬鹿にしてると思う)。
ピンカートンは蝶々さんに結婚を申し込む。もちろん現地妻としてテキトーにあしらって国に帰るつもりなのだが、“軍人=武士”と思っている蝶々さんは、この求婚を「名誉なこと」と思って受けてしまうのである。周りには反対する人が沢山いたのに。
で、ピンカートンは「すぐに帰ってくるよ」なんつって航海に出てしまう。
蝶々さんは待ちつづける。あの娘はアメリカ人にもてあそばれたのよ、なんて周りに言われても、彼を信じて待ち続ける。
そして歌うのだ。
「ある晴れた日に、港に船が入ってくるのよ。あの人を載せた船が!」
彼女にはどうしても信じたい理由があった。だって、彼の子供と二人で帰ってくるのを待っているのだから。
そして彼は帰って来たのである。アメリカ人の妻を連れて。そして、息子を引き取ってアメリカで育てるという。蝶々さんは息子の幸せを願って息子を父のもとに送り出し、武士の家の伝わる刀で自刃し、ピンカートンは自分の犯した罪を初めて自覚するのである・・・。
オペラのあらすじが長くなったけど、まあ、昔の欧米人が“ゲイシャ・ハラキリ”を取り入れたエンターテインメントなのはよくわかるだろう。
これ、日本のオリンピック開会式の、1番の見せ場でつかうかね?と個人的には思った。
一部には批判的な論調もあったように記憶するが、そんなのはなんでも批判したい面倒くさいインテリのやり口と思われてて、一般的な報道では問題点と触れられることはなかったように記憶する。
あれからもうすぐ四半世紀。
リオ・オリンピックの閉会式での東京のアピールは、長野五輪の開閉開式とは比較にならないほど洗練されていて、もしかして東京五輪の開会式は素晴らしいものが見られるんじゃないかと期待していた。
しかし、なんかあんなことやこんなことがあって、グタグタ感がすごい。開会式をめぐるゴタゴタは必ずしもコロナのせいとは思えない。
ただ、ちゃんと“あんなやつ”が開会式からきちんと排除されたのは良かったと思う。日本は少しずつ良くなってるんだとすら思う。
冒頭の4分間? 適当に有りものあてがっても、誰かに突貫工事で作らせてもなんとかなるだろう。今の日本には素晴らしいクリエイターたくさんいるよ。
PS. スパチャ読み上げ配信を見ていてナイスパ(ナイススーパーチャット)という他人の投げ銭に視聴者が感謝するという意味のコメントを見かけることがあるが、あれをどういった感情で入力しているのかを当事者に教えていただきたい。
演者は結局スパチャで生計立ててんだから、スパチャを投げるというのは演者の生活を豊かなものにする行為なわけであって、そこにナイスと言ってるわけだ。
配信なんていつ引退してもいいわけで、だから活動を継続する「うまみ」を提供できなければすぐにでも引退するんじゃないかという思いはある。
まあ、世界で一番稼いだVが引退表明したから、金だけが引退を引き留める絶対的な要素というのも違うんだけど、こちらにできることは金を投げることくらいしかないんだわな
さらには、ホロライブの場合はオリジナル曲などの製作費は演者が手出ししてるので、まわりまわってオリジナル曲やグッズとしてこちらに還元されるというのもある。
結局はdonationつまり寄付であって、様々なプロジェクトに寄付してもポストカードくらいしかもらえないのになんで身銭切ってんだ?と言われても、そのプロジェクトに共感したからとしかいいようがない
https://sn-jp.com/archives/32334
この記事、タイトルすごい悪意あるように見えるのと、反応を見ていると差別が理解できていない人が多すぎて変な感じになる。
ポイントはここだ
まず、日本を「寿司の国」ということがなんで差別なんだ、という点だが、「別に日本は寿司でできていないのにそのように言うことはステレオタイプだ」というのがポイントだ。そしてこの時点では誰も損害を被っていないか軽微だ。燃やす側には燃やすための燃料が必要だ。ここで火消ししてれば軽微だっただろう。
「私は日本に行った時に食べた寿司のあまりの旨さが忘れられず、それ以来日本のことを寿司の国と読んでいる、行ったららもう寿司しか食べない」というのは理解できる、個人的な経験に基づいた意見だからね。
こういう文脈なら寿司がラーメンでもいいし、モスチキンでも別に構わない。
だけどこのコンテクストはあの発言にはないので日本のことを単に「寿司の国」と呼んでいると言うように理解できる。なので、ステレオタイプに基づいた発言は差別だ、というのが基本的なポイント。同時に彼の日本に対する見識の狭さとか、公の場で物を言うプロにもかかわらず、発言に対する警戒心のなさなんかも露呈している。
「単に日本と言っておけばそれで良いのをわざわざ寿司の国というステレオタイプに基づいた呼び方をしたのはなんでだ?こういう言い方は常識として差別になるが、差別なのか?」が最初の論点(そしてこれが日本ではびっくりするほどに抜け落ちた観点でもある)。
次にこのレポーターが、この話に対して「日本を寿司の国と呼んだら、それは本当に人種差別なのだろうか?真面目に捉えていないよな?」という誠意のなさを見せた事が最終的な炎上のきっかけだろう。と言うよりも、可燃性の高いものをわざわざポリコレ側にわざわざ提供したように見える。ポリコレがじっくり燃やそうとしていたところにわざわざガソリンをぶっこんだ形だ。
おそらく初動としては「差別でしたすいません、以後をつけます」とあやまって、二度と公の場ではこれに触れない、が正解に近かったかもしれない。
本人としては、すごい屈辱だと思う、だっておちゃらけて何となく言った程度のことという認識だろうし、そのくらいのつもりで言ったことに対して土下座させられるわけだから(差別であることは変わらないけど)。いきなり返す刀で「あいつは差別主義者だ!今すぐ追放しろ!」というひどい要求が始まるわけだから。そしてこれこそひどい差別だとも思うのだけど、差別をしたやつを攻撃するという大義名分は強い、レポーターをかばえば一瞬で延焼する事間違いなしだし、燃やしたい人がよだれを垂らして欲しがる構図でもある。
差別ではないかという問題提起に対して誠意のない対応をしたことで、雇っている側も守れるポイントがなくなってしまった、もしくは、守るためのコストが解雇するコストを遥かに上回ってしまった。
という構図だと思う。
一方・・・
別の問題は「こういう発言に対して弁明の機会がたったの一回しか無い」という点だ。当然本人は当初「何となく言った一言」でしか無いのだから、それを「差別だ」と言ったら一瞬で「うわああああああ差別でしたあああああああごめええええええん!」とフライング土下座する程は変わらないだろう。こういう人間の本質を全く見ていない、というかこれができなければ追放が常識化しすぎている。下手な言論統制よりやばい。政府がやるんじゃなくて民衆が相互にやるんだから。
「差別かどうか」という議論の末に「どうやら差別らしい」となり、学んで最終的に謝る、または改める、というのがあるべきステップだろう(犯罪とかそこまで重大なことじゃないし)。
という流れは今後の人類にとてつもない影を落としていることは間違いがない。
前半はこちら↓
https://anond.hatelabo.jp/20210306213555
結局のところ、このイシグロ氏のインタビューの浅さ、つまらなさは、インテリ向けの文学芸術業界という自分の属する世界を世界全体であるかのように錯覚して語っているところにある。
その上で、あくまでもそういうインテリ業界や文学芸術業界への提言、また自戒としてイシグロ氏の発言を読むなら、部分的に同意できないこともない。イシグロ氏は「リベラル以外の人たちがどんな感情や考え、世界観を持っているのかを反映する芸術も必要です」と言う。必要かどうかはわからないが、非リベラルの人が思想や感情を表現した芸術があってもいいというのはその通りだろう。リベラルの原則からしても、非リベラルの人の表現の自由を制限するのは筋が通らない。ただしその表現を批判する自由もあり、表現する以上は批判を受けるリスクは負うべきだというだけだ。
しかしここでもやはりイシグロ氏との現状認識の断絶は感じる。イシグロ氏から見ると世界はリベラルが作った芸術ばかりらしいが、少なくとも私は日本に生まれ育って、「リベラル以外の人たちがどんな感情や考え、世界観を持っているのかを反映する芸術」の方を圧倒的に多く目にしてきたと思う。そもそもポリティカルコレクトネスなどが日本で多少とも意識され始めたのはごく最近のことであり、それ以前の言論にせよ芸術にせよ、今の視点で見れば差別と偏見にあふれているものが普通だ。
たとえばイシグロ氏と同じくノーベル文学賞を受賞した川端康成という作家がいて、日本ではいまだに高く評価され、小さな書店にも文庫本の数冊くらいは置いてあるだろう。私も過去にいくつも作品を読んできたが、同時に忘れられない言葉がある。ある時私の母親が言った「若い時に川端康成を読んで、女は芸者しか出てこんのかと思った、芸者にならにゃいけんのかと思った」というものだ。私は芸者という職業は否定しないが、ここで問題なのは芸者の側ではなく、女性を極度に美化しつつあくまでも鑑賞される客体として描きがちだった川端康成の視線の方である。現在の目で見て、こういう川端康成の視線が女性蔑視的要素を含まないということは難しい。
また私は十代の頃に太宰治を読み、貧しく教育のない芸妓を買い取るようにして妻にした挙げ句、その妻が他の男と寝ていたというので絶望し、何やら自分が裏切られたかのように荒れている主人公(これは作者自身の体験に基づく)の思考回路がよくわからないと感じたことがある。しかし当時の私はまだ、そんなものはわからなくていいと突き放すことができなかった。そこであれこれ想像力を駆使しつつ、そういう「苦悩」に何とか共感できないかと努めた記憶がある。ずいぶんと「理解しがたい他者」に耳を傾けようとしたものだ。その後フェミニストの批評に触れたりする中で、共感できなくて当然だったといつしか思うようになったが。『男流文学論』や『妊娠小説』を笑いつつ興奮しつつ読んだ日を思い出す。
私の世代には、そういうフェミニスト批評のように、また女性自身による新しい表現のように、男性作家の視点を相対化してくれるだけの「他者の声」が辛うじてあった。その他の多様なマイノリティの視点から作られる芸術も探せばそれなりにあった。しかし古典とされるようなものは言うまでもなく、世間で人気のあるもの、話題になっているものは多くがリベラルでも何でもなく、機械的に「差別語」を排除したりする他はポリティカルコレクトネスにも多様性にも無配慮なのが普通だった。それにもかかわらず、「逆差別」だの「自虐史観」だのとリベラル側の価値観を攻撃する言説は早々と巷にあふれていた。私は左翼だが、小林よしのりの作品をいくつか読んだことがある。周りで流行っていたからだ。小林よしのりは「じいちゃんの死は無駄だったというのか」といったまさに感情に訴える手法で保守派の戦争観を広め、当時の若い世代にかなり影響を与えた。
イシグロ氏の周りはどうなのか知らないが(と皮肉を込めて言うが)、日本の書店というのはいまだに「嫌韓本」が山積みにされたり、保守論客の歴史本がベストセラーになったりしている。イシグロ氏の小説を読むようなインテリ層の一部はそれに眉をひそめるかもしれないが、現実として、日本にはずっと「リベラル以外の人」の表現があふれ、どこにでもいる「リベラル以外の人」がそれをのびのびと享受している。「ストーリーを語ることはリベラル側の専売特許」である社会などいったいどこにあるのだろうか。私は見た覚えがない。
「小説であれ、大衆向けのエンタメであれ、もっとオープンになってリベラルや進歩的な考えを持つ人たち以外の声も取り上げていかなければいけないと思います。」そう思うのかもしれない。「私は人生の大半を進歩自由主義的な考えのもとで心地よく過ごしてきた」と言えてしまうような人は。この言葉が移民であり民族的マイノリティであるイシグロ氏の口から語られることは、イギリス社会の成熟を示すものでもあるだろう。
しかしあいにく、私の住んでいる世界はイシグロ氏の世界とは違う。イシグロ氏の世界にしても、単にイシグロ氏に見えていないだけで、リベラル的価値観の過剰ではなくその不足に苦しんでいる人がまだたくさんいるだろうと私は思う。私はリベラルとして非リベラルの発言権を奪えとは言わないし、またその声に耳を傾ける人がいてもいいと思うが、私が日本社会でより多く耳を傾けたい声は、やはり非リベラル的社会が長らく抑圧してきた、今も抑圧している声の方である。
ところで、私は川端康成や太宰治の作品に差別的な要素があると言ったが、かれらの本を絶版にしろとも、教材に入れるなとも、子どもに読ませるなとも思わない。差別的要素があるからといって作品全体が否定されるべきだとも思わない。私は川端康成の文章の美しさも、太宰治の小説の面白さも理解することができる。それに価値がないとは言わない。
「キャンセルカルチャー」という言葉が指す状況を私は詳しく知っているわけではないが、作者がある場面で「政治的に正しくない」言動をしたからといってその作品を全否定したり、市場から完全に追放したりすることは私は支持しない。差別思想の公的な表明は批判されるべきだが、芸術表現を直接的に規制したり、作品を抹消したりすることは慎重であるべきだと思っている。
この点はおそらくイシグロ氏の考えと私の考えは近いだろう。芸術を総体として愛するならば、自分の嫌いな作品、理解しがたい作品が生まれてくる可能性も含めて愛さなければならない。私は現在の視点で川端康成や太宰治の表現の一部に批判をもっているが、その批判を表明する方法は作品を焼いたり隠したりすることでは決してなく、批評や新たな作品で相対化していくこと、注釈を書き加えていくことだと思っている。
ただし同時に、かれらの作品にも行動にも現在から見て許しがたい要素があること、それは当時には自覚も変更も難しかったかもしれないが、今後の社会に引き継ぐべきではないこと、そこを否認するつもりもない。作品は消さないが、今後も読まれ続けるのなら、そういう観点からの批判も作品自体と同じくらいに読まれ、語られるべきだと思う。もし川端康成を教室で読むのであれば、教師にはその美しさだけでなく、その女性の描き方が一方的であったり一面的であったりすること、フェミニズムを通過した視点でどう見えるかというようなことにも学生の注意を促してほしいと思う。これが過剰な要求であるとは私は思わない。
最後に、イシグロ氏が述べている「感情」というものについて少し違う角度から見ておきたい。最初に書いたように、私は政策決定などにおいて事実や科学的根拠より感情が優先されるような事態は望まない。この点ではイシグロ氏に同意する。
しかし人間の感情というものが社会のあらゆる場面で抑えられるべきとも、それが可能とも思えない。イシグロ氏の主張を大きくまとめると、現在の世界(実際はイシグロ氏の属するインテリ業界)はリベラル側の感情を優先しすぎるものになっているので、感情優先を抑えると同時に非リベラルにももっと発言の場を与えるべきだ、と読める。私はこれには同意できない。
まず現状認識が違い、芸術の世界がリベラルに席巻されているようには到底見えない、というのが上に書いたことだが、それとはまた別に、文学や芸術の世界でまで政策議論の場合のように感情を排除する必要はないだろうと思う。イシグロ氏は小説家として、感情を重視する文学がトランプ支持のような不合理に加担した可能性を反省しているのかもしれない。しかし思うに、それはそれで文学の買いかぶりというものだ。感情に訴え、感情を揺さぶるものは文学や芸術の他にもいくらでもある。むしろ現実の生活が多様な感情を強く喚起するからこそ、それを芸術に表現し直すことが対象化や客観視の手段になりうるのだ。そして文学芸術は、合理性を追求する世界からこぼれ落ちる感情や思想の避難所としての役割をもっている。人間が完全に「合理的」な存在に変化しない限り、この役割がなくなることはないだろう。科学的エビデンスに基づいてワクチン政策を決めるように自分の人生を生きられる人はいない。そんなことを個人に求めるべきだとも思わない。
また、イシグロ氏の言う「リベラル」に人種的、民族的、性的その他の抑圧されてきたマイノリティが含まれるのだとしたら、かれらが時に強い攻撃性をもってその感情、蓄積されてきた恨みや怒りの感情を表現することを私は一律に非難したくない。被差別者の表現が時に復讐的な攻撃性をもっていたり、「逆差別」と見えるような偏見を含んでいたりすることはある。それ自体はたしかに「良いこと」とは言いがたい。しかしこれもまた現状認識の問題になるが、今の社会でマイノリティがマジョリティを攻撃するような表現を公然と行えば、より危険にさらされるのはマイノリティの方である。だから圧倒的多数のマイノリティはそんなことをせず、むしろ感情の抑制に非常に長けている。
BLMを暴力的だと言って眉をひそめる人を数多く見たが、私が以前から思っているのは、もし黒人たちがその何世代にもわたる奴隷制の怨恨を復讐としてそのまま投げ返したなら、アメリカの白人社会はすでに何度廃墟になっているかわからないということだ。しかし現実はそうなっていない。現実のマイノリティは、時に攻撃的に見えることがあるとしても、総体として恐ろしく理性的で自制的で、そして寛容なのだ。何一つ復讐も、感情を表現することもできずに埋もれていった膨大な被抑圧者の忍耐の上に今の社会は維持されている。多くの被差別者は、深い痛みを抱えながらも、求めるのは復讐ではなく次世代が幸せになることだと穏やかに語る。その中から時に感情的な表現が投げかけられたとして、それを感情的だと単純に排除することを私はためらう。
ずいぶんと長くなってしまったが、ふと書く気になったので書いた。まだいくつか書き残している気もするが、土曜も一日つぶれたことだしこのへんで。
酒もタバコもやらず、食事も質素で論語を愛する真面目な人だったらしいが、女好きだけは生涯直らず、妾を何人も作って子供は20人以上、一説には50人いたとか、いないとか。花柳界ではモテ男として有名で、69歳でもなお子供できたそうな。
あの時代に古希を目前にして現役とは大したもんだ。体力も相当のもんだったんだな。91歳で大往生、晩年までかなりしっかりしてたらしいし。
現代とは考え方が違うから奥さんもそのへんは心得たもので、妾と3人で写ってる写真も現存。
奥さんは「『論語』とは上手いものを見つけなさったよ。あれが『聖書』だったら、てんで守れっこないものね」と語ってたという。
確かに、論語ってそのへんの話が出てくるイメージがない。いやごく一部しか読んだことないけど。
さすがに大河ドラマでは、そういう話はスルーするんだろう…と書いていて思い出したことがある。
その昔、自分が小学生の頃、大河ドラマで「春の波濤」という明治ネタをやったことがある。
主人公は川上貞奴という日本初の女優と言われる人(演じたのは松坂慶子)なのだが、もともとこの人は芸者さんで、伊藤博文(伊丹十三)に水揚げされるシーンがあった。
布団の上で、怯えるように横たわってる着物の松坂慶子の帯を解くところまで映像化されてて、そのシーンを親と見てて気まずかった覚えがある。
今どきの小学生と違ってオクテだったから、その先なにがおこなわれるのかはボンヤリとしか分かってなかったのだけど、これは詳しく親に聞いちゃいけないのは、本能的に感じたものだ。
話がずれたけど、渋沢栄一。
ある程度、女にモテたくらいの話はでてくるんだろうか?