はてなキーワード: 浅利慶太とは
オリ・パラの音楽担当者がいろいろ騒動になったのを見ながら、なんとなく思い出した。
長野五輪の開会式は劇団四季の創設者にして自民党のブレーンだった浅利慶太が演出したんだけど、まあ評判が悪かった。
アメリカのテレビ局の圧力に屈して向こうのゴールデンタイムに時間をあわせ、日本時間の真っ昼間にやったので光を使った演出が使えなかったのはハンデだったと思うけど、それを差し引いてもダサくて。
まず横綱の土俵入りから始まって(同時はまだ相撲が国民的スポーツだった)、諏訪御柱でゲートたてて、なぜか力士が各国のプラカードもつ、という、分かりやすい“スシ・テンプラ”的なニッポンを散りばめて。二十年以上前だけど、当時でも相当ダサかった。
聖火の点灯はフィギュアスケート日本人初の銀メダリスト、伊藤みどりがやったんだけど、これがねえ。
ネット検索すれば動画あると思うが、なんかコテコテの豪華な巫女さんみたいな衣装を着させて、で、BGMに流れたのが、なんとプッチーニのオペラ「蝶々夫人」のアリア「ある晴れた日に」なのである。
これは酷い。
なにが酷いって、なんで日本のオリンピックで西洋のクラシック?とかそういうレベルの話ではない。
蝶々夫人が、まあ国辱モノ(好きな言葉じゃないけど)の話なのである。
そこに現れたのが、軽薄なアメリカの海軍士官ピンカートン。(なお、フルネームはベンジャミン・フランクリン・ピンカートン。このオペラ、アメリカ人も小馬鹿にしてると思う)。
ピンカートンは蝶々さんに結婚を申し込む。もちろん現地妻としてテキトーにあしらって国に帰るつもりなのだが、“軍人=武士”と思っている蝶々さんは、この求婚を「名誉なこと」と思って受けてしまうのである。周りには反対する人が沢山いたのに。
で、ピンカートンは「すぐに帰ってくるよ」なんつって航海に出てしまう。
蝶々さんは待ちつづける。あの娘はアメリカ人にもてあそばれたのよ、なんて周りに言われても、彼を信じて待ち続ける。
そして歌うのだ。
「ある晴れた日に、港に船が入ってくるのよ。あの人を載せた船が!」
彼女にはどうしても信じたい理由があった。だって、彼の子供と二人で帰ってくるのを待っているのだから。
そして彼は帰って来たのである。アメリカ人の妻を連れて。そして、息子を引き取ってアメリカで育てるという。蝶々さんは息子の幸せを願って息子を父のもとに送り出し、武士の家の伝わる刀で自刃し、ピンカートンは自分の犯した罪を初めて自覚するのである・・・。
オペラのあらすじが長くなったけど、まあ、昔の欧米人が“ゲイシャ・ハラキリ”を取り入れたエンターテインメントなのはよくわかるだろう。
これ、日本のオリンピック開会式の、1番の見せ場でつかうかね?と個人的には思った。
一部には批判的な論調もあったように記憶するが、そんなのはなんでも批判したい面倒くさいインテリのやり口と思われてて、一般的な報道では問題点と触れられることはなかったように記憶する。
あれからもうすぐ四半世紀。
リオ・オリンピックの閉会式での東京のアピールは、長野五輪の開閉開式とは比較にならないほど洗練されていて、もしかして東京五輪の開会式は素晴らしいものが見られるんじゃないかと期待していた。
しかし、なんかあんなことやこんなことがあって、グタグタ感がすごい。開会式をめぐるゴタゴタは必ずしもコロナのせいとは思えない。
ただ、ちゃんと“あんなやつ”が開会式からきちんと排除されたのは良かったと思う。日本は少しずつ良くなってるんだとすら思う。
冒頭の4分間? 適当に有りものあてがっても、誰かに突貫工事で作らせてもなんとかなるだろう。今の日本には素晴らしいクリエイターたくさんいるよ。
http://sports.nhk.or.jp/video/element/video=28114.html
http://togetter.com/li/1015110
いやぁ、素晴らしかった。
「こういうのでいいんだよ、こういうので。」と呟いてしまった。
ようやく求められているものが分かってる奴が責任者になってくれたようだ。
間延びしがちな君が代が、厳かな雰囲気を持って観客を一気に引き込んだ。
プロジェクションマッピングも素晴らしい。
AR、VRが4年後にどこまでウケるかわからんが、ぜひ取り入れてほしい。
ロボット、渋谷スクランブル交差点、地平線まで続く都市の夜景、
昔の東京五輪のポスターっぽい構図、新幹線と「日本」の分かりやすいイメージをPRしてる。
そこから屋形船、浅草寺、スカイツリーともってきて、キャプテン翼、ドラえもん、キティちゃんにつなげる。
日本に求められてる、伝統とハイテクとポップカルチャーの融合ってやつだ。
浅利慶太なんかいらんかったんや!食い倒れ人形のコスプレとかアホか!
日本とブラジルが地球の真裏で、土管で地球の裏までひとっ飛びってのは誰もが分かるユーモアだ。
ダンスも良かった。
4年後もライゾマである必要はないし、できればさらなる若手が出てきてほしいけど、ようやくホッとした。
ということで、「こんな東京オリンピックのキャスティングは嫌だ!」というのを今から挙げておこう。
総合プロデューサー | 秋元康 |
公式応援ソング | EXILE with AKB48 |
アートディレクター | 村上隆 |
総合司会 | 嵐 |
応援団長 | 中居正広(裏でナイナイの岡村がコソコソやってる) |
実況 | 古館伊知郎 |
現地インタビュアー | 藤原紀香 |
バレーボール応援団 | ジャニーズJr. |
演出 | 小山薫堂 (友情出演:くまモン) |
デザイン監修 | 佐藤可士和 |
キャッチコピー | 糸井重里 |
翻訳監修 | 戸田奈津子 |
普段テレビでやってるバラエティみたいなノリで内輪ウケを狙うのだけはやめてくれ。
今回のリオでさえ、安倍首相にわざわざ「PRIME MINISTER」って字幕つけなきゃいけないくらいなんだから。
国内で顔が売れてようが、世界からみたら「誰だコイツ?」なんだよ。
頼むぜ。
見ているのは世界なんだ。
期待しているぜ。
東京オリンピック、楽しみになってきた。
はてな界隈だと、東京オリンピックなんてさっさと返上しろというのが意見の主流だけれど、
なんだかんだいって、4年後の夏には、それなりに盛り上がるだろうし、
選手が活躍さえしてくれれば、「やっぱり東京オリンピックをやって良かった」というのが、世論の主流になると思う。
なぜ、そう思うかといえば、長野オリンピックの時のことを思い出すからだ。
長野オリンピックの招致が決定したとき、今回の東京とは比べ物にならないくらい、盛り上がってはいなかった。
1991年のことだから、すでに、バブルは崩壊の兆しが見えていて、
まあ「失われた20年」がそのあとやってくるとは思っていなかったけれど、
不景気の入り口で、あんな土建屋がもうかるだけのプロジェクトやって大丈夫なんかという雰囲気があったし、
西武鉄道のグループ総帥、堤義明を中心にした政財界の利権のためだと、みんな思っていたからだ。
しかも当時、ウインタースポーツのスターといえば、フィギュアスケートの伊藤みどりくらいで、
(実際、92年のアルベールビルで銀メダルは取ったが、長野には出てない)、
日本で冬季オリンピックを見たい、という需用自体が、それほどなかったんではなかろうか?
それでも、東北・上越以来、久しぶりの開通となる長野新幹線の工事が進んだり、
志賀高原では、難易度が高く見せ場のあるコースをつくりたいスキー連盟と、コース設営が自然破壊だとする地元環境団体がもめて
そもそも、長野というのは、当時、冬季オリンピックの開催地としては最南端で、
年によっては、十分に雪が降らないこともあったりしたもんで
「利権のためにオリンピックなんか呼びやがって、まったく、今からでもやめられないのかね?」という世論は
それなりに蓄積されていた気がする。
当時は今ほどネットが成熟してなかったから、今ほどそれが顕在化することもなかったけれど。
そうこうするうちに開会式の日を迎えたのだが、それでもまだ、盛り上がりには欠けていた。
放映時間の時差の関係で真昼間に開会式を挙行しなければならなかったので
花火や照明をつかった鮮やかな演出が使えなかったというのは、確かに気の毒なのだが、
大体、浅利慶太がなぜ総合演出を手掛けることになったかといえば、
自民党の御用文化人だったから、というのはみんな分かっていたことで、
そもそも、あの人は、確かに政治権力に近づきつつ、日本においてミュージカルを「ビジネスとして成立する」ものにまで育て上げたのは
物凄い功績だと思うけれど、まあ、芸術家(演出家)としての評価は推して知るべしである。
ちなみに、先ごろ亡くなった蜷川幸雄は、すでに80年代には「世界のNINAGAWA」の名声を得ていたんだけれど。
これも、「オリンピックなんて、偉い人の利権とコネで進められている」ことの一つの証拠と思われていた。
開会式当日、なぜか、現代風にアレンジした巫女風の衣装をきて聖火台に点火する伊藤みどりの姿は、
なんだか、見てるこっちが恥ずかしくって、
日本女子フィギュア初の銀メダルをとった偉大な選手に、なんてことをさせるのかと憤ったものだ。
なぜかBGMにはプッチーニのオペラ、「蝶々夫人」のアリア「ある晴れた日に」が流れていたが、
あれは、かつて政治力を駆使して、イタリアでこのオペラを演出したことのある浅利慶太の自己顕示欲とコンプレックスがないまぜになった
選曲だったと信じている。
当時、伊福部昭は存命だったし、坂本龍一も、今ほど政治的な色もなくて純粋に「教授」として尊敬されていたし、
久石譲だって、すでに「宮崎アニメの作曲家」として評価を得つつあったのに、なんでそういう人たちに作曲させないで、
そんなこんなで、開会式を迎えても盛り上がらなかった(当社調べ)長野オリンピックだが、
日程を重ねるにしたがって、日本中の人々をテレビにくぎ付けにすることになった。
それは、日の丸飛行隊の、活躍であったり、キング・オブ・スキー荻原の雄姿であったりの、素晴らしいドラマがあったからだ。
スキージャンプ団体で、大雪が降りしきる中、原田雅彦が大ジャンプを決め、後続の船木選手を、
今にも泣きそうな顔で「ふなき~! ふなき~!」と見守っていた映像をご記憶の方も多かろう。
このとき、団体メンバーから外されメダルを取れなかった悔しさが、
結果としてレジェンド葛西紀明を生んだ、ともいえる。
閉会式の司会が萩本欽一、というのも、当時、「オリンピックについて決めている偉い人たち」のずれ具合を
如実に示す出来事だと思われていて、
すでに萩本欽一は「テレビ的に過去の人になるつつあるタレント」だったし、
欽ちゃん的なボケとかツッコミっていうのは、日本人同士で通じるもので、
あのノリを世界に向けて発信したら壮大に滑るんじゃないかと、自分の周りの人たちはみな心配していたが、
なにしろ、競技自体が盛り上がって、会場に集った選手たちが盛り上がってくれたせいか、
萩本欽一も、さすがに、わきまえた人なのか、
いわゆる「欽ちゃん節」は抑えて進行していたし。
かくて、無事、オリンピックは無事終了し、ウインタースポーツに新たなスターと伝説が生まれ、
テレビには「感動のオリンピック総集編」みたいな番組が溢れることになったのである。
その後、長野の財政がオリンピックのせいで、けっこう苦しいことになったらしいとか、
西武の株式をめぐるごたごたで有罪となり、表舞台から退場したはずの堤義明は、
いつの間にか日本オリンピック委員会の最高顧問になっていたらしいとか、
いろいろあるのだけれど、
選手さえ、頑張ってくれれば。
エンブレムとかメインスタジアムとか、いろいろゴタゴタしているけれど、
それはそれとして、開会式がどんな感じになるのか、勝手に心配している。
個人的に、ああいうパフォーマンスを見るのが嫌いなほうじゃないのだが、
ここ最近の、北京とかロンドンとかソチとかの開会式は、それぞれの国柄が出ていたと思う。
まあ、好みはあるだろうし、長すぎじゃね、とか意見はあるだろうが。
ソチなんか、ああ、ロシアって作曲家とか文豪とか、バレエとかサーカスとか、ああ、自国の文化がいろいろあるんだなあってのを
ここぞとばかりに見せつけた感じである。
で、どうしても思い出さざるを得ないのは、長野オリンピックだよ。
いま思い出しても、恥ずかしい。
善光寺の鐘と、土俵入りと、御柱で始まって、なぜか森山良子が歌うたったりして。
全般的に「役所の人たちが考えた、外国人の喜びそうな日本的演出」が随所にあふれてた。
で、恥ずかしさのハイライトが聖火の点火だよ。
なぜか、十二単を安っぽく現代アレンジしたような衣装をきた伊藤みどりが、なぜか、イタリアオペラ「蝶々夫人」のアリア「ある晴れた日に」をBGMにして、点火してやんの。
なぜ、蝶々夫人? あれ、「ゲイシャのハラキリ」をエンターテイメントにしたオペラだよね?
今だったら、ネトウヨに怒られんじゃね?
で、ベートーベンの第9でフィナーレ。
もうね、アホか、バカかと。
ロス・オリンピックでジョン・ウイリアムスが作曲した伝説的なファンファーレとまではいかないまでも、
総合プロデューサーは、劇団四季の浅利慶太だったわけだが、もうほんと、政治的な力学でああいう仕事をやらせないでほしい。
パラリンピックのほうは、久石譲が仕切っていて、オリンピックよりはよっぽどましだったけど。
で、今回の東京オリンピックだが、まあ、まさか本気で秋元康にやらせるようなことはないとは思うが、
日本的意思決定方式で、誰からも文句が出しにくく、森喜朗でも名前を知っているような大御所、とかに任せることになると、
確実に時代からずれたジジイが仕切ることになるのは必定だ。となると、もう絶望しかない。
あと、ジャニーズとかAKBとかEXILEとかは、どうしても出したければ、大量に出てくるダンサーの「その他大勢」として出しとけばいいと思う。
まあ「クールジャパン」っぽいことやりたければ、BABYMETALとか呼んで来ればいいかな?
あと、ケン・ワタナベあたりに何かやってもらって。
ロンドン・オリンピックの「女王陛下の007」的な演出をやるのなら、ドラえもんが皇居にお迎えに上がって、どこでもドア開けたら両陛下登場ってのをやってほしいが、
まあ、難しいだろうな。
熊本訪問のときに、事前打ち合わせで「くまモンには会えるのですか」とお尋ねになって、実際にお会いになった皇后陛下は、けっこうお喜びになると思うんだけど、そういう演出。