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はてなキーワード: 連休とは

2022-12-28

助けて!

連休初日なのにやることがない!

やだ!

なんかやることちょうだい!

2022-12-27

[]12月26日

ご飯

朝:なし。昼:なし。夜:ワインソーセージサラダグラタンスープ

調子

むきゅーはややー。お仕事仕事納め

あと飲酒今日で一区切り来年健康診断まで飲まないと誓う。禁酒

明日から連休満喫するぞー。

なんか二日酔いでイキナリあれだど。

グランブルーファンタジー

ラー斧作ったりしてた。いやなんか風でバイキングする時の斧がなくて困ってたんだよね。

2022-12-25

データベーススペシャリスト合格体験記@アラフィフ事務

https://anond.hatelabo.jp/20220625110515

の続きです。秋のデスペ受けて、午前I免除、午前II88、午後I62、午後II64で合格しました。ぎりぎりで人にお見せするようなものではありませんが、現場経験なしでもなんとかなった例として役立てていただければ幸いです。

1 やったこと(~9月連休

ネスペの次はデスペと決めていたものの、結果が出る前から新しいモノに手を出す気にならず、ネスペの合否発表を待って放送大学データベース教科書を購入。2回通して読んだ後、ネットで評判のよい『情報処理教科書』を買って1回通して読みました。

この頃、paizaで新しいSQL講座が始まり期間限定無料で視聴できたので、一通り視聴。並行して、午前II対策定番過去問道場に着手しました。道場掲載されているのは325問、13年分です。

2 やったこと(9月連休~)

ネスペまでは午後の過去問は読むだけでしたが、デスペは分野が少なく(わたくしの場合物理設計は捨てたので論理設計SQLだけ)、実戦練習として過去問を解くコスパがいいと判断して、午後Iは10年分(H24~R3)、午後IIは6年分(H28~R3)解きました。時間を計って本番さながらに、とすると面倒になって挫折する可能性大なので、時間にこだわらず、わからないところはすぐあきらめて、とゆるゆるな形で。ちなみに、『情報処理教科書』はH14から過去問ダウンロードできると謳ってますが、過去問自体IPAサイト過去問ページへのリンクで、H20以前はデッドリンクダウンロードできませんでした。

最初は午後IIがしんどくて、2時間(本番の制限時間です)かけても解けないし、そもそも時間ぶっ通すのが無理で1問を2回に分けたりしていたのですが、2年分やったら(なお、R3から順に遡って進めました)慣れてきて、中断なく通しでできるようになりましたし、正答率も上がってきました。量が多いのが最大のハードルであって、年が異なってもやることに違いは少ないので、コツがつかめると楽になってきます

逆に、午後IIより易しいと舐めていた午後Iがヤバかったです。午後IIと違って出題のバリエーションが多く、相性が悪い問題だと合格ラインである6割に届きそうな気がしません。そんな相性の悪い年が10年中3年もあれば焦りもするというものです。まあ本番でそうなったら諦めるしかないのですが。

午後過去問時間を割いたので、午前過去問は、本番の前々日になってようやく二巡目終了。ネスペまでの経験で、そこまで根を詰めなくても合格ラインには届くな、という割りきりがあり、想定より少しだけ遅れたペースでした(なお、正答率は一巡目が約7割、二巡目が約9割)。前日は二巡目で間違えた問題を一通り復習しながら要チェック問題を絞りこみ、当日朝にそれを2周して午前対策は終了です。

3 試験の思い出

午前は楽勝でしたが、午後Iで愕然。捨てた物理設計ガチの1問は想定してましたが、もう1問にもそこそこ入ってきてるじゃないですか(3問中2問選択)。100点満点で60点とらなきゃいけませんが、物理設計を捨ててる時点で満点が70~80点ぐらいまで下がっちゃうわけでして。逆に言えば、論理設計SQLは正答率80%ぐらいが必要に、とハードルがずいぶん上がってしまいました。まあ、物理設計を捨てたのが判断ミスだったんですけどね。ついでに、タイムアップ後の回収を待つ間に、アホみたいなケアレスミス複数項目を回答するもののうち、特定の条件に当てはまるもの(わかる人向けに書くと「主キー」)には下線を引かなければならないのに、引き忘れた)を見つけてしまい、これが決め手で落ちるんじゃないかと気が重くなりました。

4 次

ITストラテジスト受けるつもりです。事務屋の領分にずいぶんと近づくので、ネスペやデスペよりハードルが低いんじゃないかと期待。

2022-12-19

今週が終わったら連休だぁぁぁぁぁぁ!!!

2022-12-17

『あの時好きだった子の結婚式』のダメージ、でか過ぎて息ができん

時間は止まらない。ハレルヤ・チャンスは来なかった。一度だけスポットライトを眩しく感じて、もしかして、と、一縷の希望を抱いてみたりしたけれど、キザなシルクハットの初老妖精が私の前に現れることも、テーブル芽キャベツを摘んで飲み込み、私の過ちを揶揄することも、「後悔しているか」、と問われてどうしようもなく狼狽える瞬間も、ついに空想のままで終わった。当たり前だ。

彼女は数少ない私の貴重な友達の内の一人だった。そしてそんな私とは反対に、彼女にはたくさんの友達がいた。学生時代というのはこの世で最も尊く煌めいて、同時に最も残酷な数年である特に女の人生にとって。

女の子は可愛ければ自然友達ができる。綺麗な女は同性の好意さえ簡単に集める。綺麗でなくては、女の子特別にはなれないのだ。というのは、私が散々惨めな高校生活を経て脳裏に刻み込んだ偏屈極まる私見である。器量が悪くても幸せな女など無限存在していることに薄々いや割合はっきり勘付きながら、私はなんとブスであることに諦めがつかないとんと哀れなブスだった。要するに学校で一番痛ましい存在である悲劇はブスに生まれた所からではなく私だって美人になりたいと望み始めたところから始まる。一軍になりたい二軍、美人になりたいブス、男にモテたい喪女、目立ちたい陰キャ…………。

そんな救いようのない私の目前に彼女はまるで天使のごとく現れた。今で言う「たぬき顔」みたいな甘たれた顔立ちで、柔らかく日焼けしたセミロングの髪を緩やかに編んで両耳の下から下げ、私より背が高かった。本当にかわいい子だと思った。入学と同時にバスケ部に入部し、放課後はいつも臙脂色ハーフパンツを履いていた。

私の何を気に入ったのか知らないが、彼女は私に本当に良くしてくれた。二人で写真を撮ってくれたし、連絡もマメに取り合った。ビタミンカラーペンケースは色違いでお揃いだった。勉強で多数の上に立つことにしか一生懸命になれない私だったが、彼女に誘われればテスト前だろうと遊びに出かけた。

当時の私は所謂一軍グループに属することしか考えていなかった。そしてその野望は結論から言えば5割方は達成されていた。要するに、キラキラグループには入れたが当然自分自身キラキラにはなれず、なぜか一軍にいるぱっとしない子、という塩梅にそれでも自分立ち位置にそれこそしがみつくようにして生きていた。自分自身の最も忌むべき点は、身の程知らずに一軍になりたいと望んだことより、そこにいる友人たちをステータスしか捉えていなかったことにある。

7人グループは8年の時を経て解体し、彼女の式に呼ばれたのは私を入れて3人だった。

彼女と遊ぶとき、私はいつも憂鬱だった。

何人かで約束した日は良かった。でも二人きりの日は不安だった。なんのために私と二人で会い、何を求められているのかまったく不明だったからだ。私にとって、彼女かわいいというだけで彼女を好く理由は有り余るほどにあった。だからその逆が本当にわからなかった。けれど、顔を見れば不安は消えた。彼女はいつも本当に楽しそうに笑う。

好きな人がいるの、と、仲良くなってすぐ彼女は私に打ち明けた。あいつに可愛いって思ってもらえたら、他の誰に思われなくても構わない。校外学習に行くバスの中でひっそりと告げられた声の温度も、一緒に口ずさんだ阿部真央の曲も、午後3時半頃のあつい夕日も全部はっきり憶えている。

私も気になる人がいる、と、口から出まかせのように呟いた。そうしないと彼女がどこかに行ってしまう気がした。彼女好きな人がいたから、私にも男の子必要だった。彼女と恋話をするために必要だった。クラスメイト脳内で全員スキャンして一人の名字を口にした。彼女のくりくりしたタレ目がおおきく見開いて、絶対いいよ、とひどく嬉しそうに笑った。

咄嗟名前を上げた男の子ホームベースのような顔の形がバスの前の方に見えていた。彼女の「絶対いいよ」、を聞いて、私もなんか、そんな気になった。

同じ教室で過ごしたのはたった一年のことだったが、その後の文理選択教室棟ごとクラスが離れたあとも、彼女と私の友人関係は変わらず続いた。休みの日には二人でカラオケに行ったし、相変わらず毎日のようにラインも続けた。何でも話せるふたりだった。けれども、いつまでたっても彼氏ができない私に気を遣ってか、いつしか恋愛の話だけはしなくなった。

高校3年生の頃、私が隣町から通っていたその市で一番のお祭りに一緒に行こうと誘われた。テレビ取材もくる大きなお祭りで、5月連休という時期的条件もあり、受験の年を迎えた同級生たちが最後の楽しみにと、こぞって一番の関心を寄せるお祭りだった。その高校生にとって特別な1日に、彼女はどうしてか私を選んだ。彼氏でも気になる人でも他の多くの華やかな友人たちでもなく、私を。やはり意味がわからなかった。

彼女がお揃いにしようと言ったから、一緒に服を買いにいった。その頃の私は醜形コンプのまさにピークにいて、服屋の商品に触れるときすら手が震えた。それでも、明るい彼女に悟られたくなくて我慢してひょうきんに振る舞った。

当日のことはよく覚えていない。彼女が知り合いとすれ違って挨拶するたび居た堪れない気持ちになっていた気がする。その日もやはり最後まで、彼女がどうして私なんかといたかったのか、ほんの少しもわからなかった。ただ、群衆を避け、駅前の寂れかけのイオン屋上で見た小さな花火だけはなんとなく覚えている。幼い日の名残りか、彼女はいつまでもその建物ダイエーと呼んでいた。いつ行っても盛れないプリクラ機のある小さなショッピングモールだった。

いいのか、と問うと、いいのだと答えた。疲れたからいいよと。彼女にとっては、十数年住んだ街での最後祭りだった。それなのに、小さな花火でいいと言った。暗がりの中の少し眺めの顎先まで好きだった。

長く続いた私達の友情がぷつりと途切れたのは大学入学してすぐのことだった。互いに遠く地元を離れたあとも私達はまめに連絡を取り合っていたと思う。夏休みに私が彼女の家まで行き、二人で遊園地に行った。例のごとくおそろいのワンピースを着て、髪を染めてまた綺麗になった彼女はとても目立っていて、キャストによく声をかけられた。それっきりだった。

その後私は整形をし、地元に顔を出さなくなった。加えて、正しくいなくても済む大学での人間関係に夢中だった。何より、また性懲りもなくその内の一人のことをしごく特別に感じていた。その子もまた、私には釣り合わないくら可愛い子だった。

たまにインスタで見る彼女はやはりあの本当に楽しそうな顔で笑っていた。気がつけば同じ高校の別の友人とおそろいの服を着て旅行していることもあった。もしかしたらそこにいたのは私だったかもしれない。そういう写真を見るとき、私はいつもそういうことを未練がましく考えた。自分から手を離しておいて全く自分本意な話である。けれども横に写っているのは私達の高校で一番かわいかった女の子で、その方がずっと彼女釣り合っている気がした。

彼女から招待状が届いたのは、それから数年後、すっかり社会に出て2年が経つ頃だった。

式は、まったく素晴らしいものだった。

私のイメージにあるステレオタイプな挙式とは全く違って、カジュアルで、愛に溢れ、来てくれるすべての人に楽しんでもらおうという新郎新婦の人柄がこれでもかというくらい詰め込まれた温かな数時間だった。遊び心とホスピタリティに溢れ、ほんのひと時も漏らさず楽しめる、本当にいい式だった、と、思う。円卓に集められた同じ高校の友人たちは皆美しく、ドレスの中で綺麗だった。

数名の友人代表が立ち上がり、彼女のために手紙を読んだ。どの子もとても綺麗で、どの子も同じように泣いていた。泣いていたのだ。チャペルのドアが開いた瞬間、披露宴に現れた瞬間、新郎が亡き父親手紙を読む瞬間に、その場にいる大勢が泣いていた。

ついに私は親友にもなれず、それでもなぜかここに呼ばれて、のこのこ顔を出しては無理に笑って突っ立っていた。

ありえないほど似合わないドレスに妙な頭に、他の友人達とはとてもじゃないが釣り合わない不器量な面構えで、たった一度も笑顔で手を振る花嫁の目を見れないまま。

久しぶりに会いたくて、と、彼女電子招待状と一緒に添えてきた。思い切って招待状を送ったのだと、だから、こ断ってくれても構わないのだよ、と。

そういうところが好きだった、私の臆病も偏屈も一息に飛び越えてなんでもないような顔で笑うあなたの、正しいところが好きだった。数年言葉をかわさない友人を、同窓会キャンセルするような私を、逢いたいと言う一言で誘ってくれるような貴方のその身軽さが、屈託のなさが、あなたのことが好きだった。

"嬉しいときは私より喜んで、悲しいとき自分の事のように泣いてくれる"

名前も知らない友人代表は立ち上がってそう読んだ。

知っている、と思った。

知っている、そんなこと。だから好きになったのだ。そういうあなたから、私はあなたを好きになった。

もしも私が男だったら、と、百万回近く考えた。もしも私が男なら、私はあなたと付き合いたい。

本当は違った。本当は、女のままでも、私のままで、私はあなたと添い遂げたかった。真っ白なドレスを着たあなたの、あなたの立っているのは私が良かった。スポットライトの当たるソファに私と一緒に腰掛けて、私の物語に泣いて欲しかった。

名前の知らないたくさんの参列者が、かつて同じ制服を着ていた友人達が、あなた幸せを願って涙する中でたった一人わたしが、私だけが、私のためだけに泣いていた。あなたのことが好きだった。たった一つ、その気持ちだけで泣いていた。ピンクグレーのカクテルドレスに身を包んで笑う、彼女世界一綺麗だった。

性格の悪い私は、あわよくばこれを読んでくれないだろうかとさえ思っている。ほんの小さな爪痕でも残せたら。

それでも、正しい彼女ははてぶなんて見ない。だからこのまま私の恋はここでゆっくり死んでいく。

祝儀袋に手紙を入れた。マナー違反かもしれないが、知るかと思ってぶち込んだ。「あなたのことが大好きだった」「今も、そしてこれからも」

大好きだよ、愛してるよ。

高校時代彼女はよくハグをしながらそう言った。大好きだよ、愛してるよ。

何でもないことのように付け加えた、大好きの意味はきっと伝わらない。それでも、私はあなたが好きだった。今も変わらず、好きだった。

2022-12-16

anond:20221216142221

連休とかラヴホ予約しないと、

埋まってて入れなく

なっちゃうよね。わかりみ

2022-12-12

早く連休になって欲しいけど、

始まったら終わってしまうから連休になって欲しくない

2022-12-03

anond:20221203151046

この、「土曜日休みで当たり前。土・日の2連休は当たり前。」って風潮、なんとかならねえかなあ。

こうやって土曜日に働いてる人もいるんですよ!!

助けて!

連休1日目がもう終わっちゃう!

やだ!

何かやることちょうだい!

2022-11-29

anond:20221129073705

吐きそうになるし、なんなら吐くし、食欲なくなるし、腹の具合が良くないし、終わるの嫌だから連休になって欲しくないし、楽しかった事も楽しくなくなって興味がなくなったし、人生楽しく感じないし、それどころか早く終わらせたいし、死に方考えてる時はちょっと楽になるし、早く死にたい

2022-11-28

anond:20221128101701

一時期4勤1休で勤務してたけど、なんだかんだ連休ないとしんどい

 

連休あると1日目で休日からやらなきゃいけないことをガッと片付けて2日目を完全オフにできるけど

ないと休日休日にやるべきことをやらなきゃいけない日になっちゃ

1週間7日

5連勤2連休 vs 3連勤1休2連勤1休

どっちが勝つ?

2022-11-16

父ちゃんコロナ持って帰ってきて地獄になった話

11月初旬に、自営業社長同士の飲み会父ちゃんコロナお持ち帰り。

二、三日ずつズレて家族全員かかる。


家族構成は父、母、私、祖母

祖母は90代なのに介護不要奇跡身体が自慢だったのに、

陽性期間を過ぎてみたら、自力ご飯風呂トイレ出来なくなってた。


私はコロナ感染する前は

ブラック思考父ちゃんのせいで2ヶ月休み無しで働いてた。

いざ強制連休になって、明けたら身体がズタボロなのね。

分心能力がすごく落ちてる。後遺症


さあ、どうなる。

田舎とある老舗農家が潰れそうです(笑)

2022-11-05

週末土日連休だし旅行したいと思っても、新幹線でも飛行機でも往復3万4万かかると思うと結局どこも行けなくなる

近所はもう飽きたし

転勤族とかその辺は楽しいんじゃないかなと思っている。

2022-11-04

anond:20221104183146

ワイは昨日から4連休始まったやでという話

anond:20221104183146

俺もう7連休目だが?ちな連休はいつでもやめていい

いえ~~い! 明日から9連休~~!!

祝日の振り替えと有給の消化で今日から9連休!!

今夜は前祝いだ! な~~に食べちゃおっかな~~~???

連休の前日の帰り道がいっちばんたのしい~~~~!!

[]

きのうのよる、のみすぎたみたい。そんでもって、けさ、下痢しちゃった。下痢といえば安倍

職場いきたくないなぁ。子どもが突如ねつだしたことにするか?UQとるか?今日UQにしたら四連休だったのになぁ。

ゆうがた、オンライン会議だなぁ。ウザイ

2022-10-31

サボり魔の先輩を追い出したら無能が来た話

社会人3年目の愚痴をどうか聞いて欲しい。


インフラ系の企業で恐らく先50年は余程の事がないと潰れないと思う企業に勤めている。

このご時世にもかかわらずありがたい話でボーナスは年3回あるし、毎年昇給とは別でベースアップもあるから、辞めるにはもったいないとおもっているが、

心が壊れそうになっているからどうしたものかと悩んでいる。


とりあえず1年目からの流れを話そうと思う。


1年目

今の部署に配属となり右も左も分からない状態でその先輩と一緒の場所仕事をしてきた。

この時から俺と先輩は同じ部署ながら別の仕事をそれぞれの上司に従いながらやってた。

俺の配属に伴っての玉突き異動があったため、先輩は前任者から仕事を受けながら、俺は先輩から仕事を引き継ぎながら仕事をこなす


この時点から俺の上司からはその先輩の尻拭きからスタートだと聞かされていて、実際残していた業務は多々あったが、なんとかこなしていた。

また上司は俺にとって初めての直属の上司だったため、色んなことが新鮮で、なんでもそういうものなんだろうと思って受け入れてきた。

無茶苦茶な指示にもある程度応えていたし、言われた仕事は全力を尽くしていた。

先輩からは「あんまり言う事聞きすぎるなよ」と言われていたが、尻拭きさせられていた時点で「なんだこいつ」しか思わなかった。


2年目

この辺りから少しずつ「この会社おかしいぞ?」と思う事が増え始めた。

まず最初上司同士の仲が悪い事を理由に同じ部署の癖に業務がちぐはぐで指示が右往左往する。

仮に俺の上司をA、先輩の上司をBとすると同じ部署なのにAとBでルールが異なるし、お互いに「あいつのいう事は適当から」と俺に吹き込んでくる。

またAは機嫌に左右されやす露骨に態度に表すことが多いのと、俺に対して「同年代のやつらはこれぐらいやってる」と言って業務死ぬほど投げてくる。

基本的自分が正しいと思うタイプこちらが指摘しようもんなら逆ギレかましてくる。あと小心者。

逆にBは自分仕事を抱え込む癖があって、Bが休みの日に引継ぎが何もなくて困ることが多かった。

基本的他人仕事を任せられないタイプだが、今思うと先輩が糞すぎて任せられないのではないかとも思う。

加えて先輩はどっちの上司にも嫌われており、俺は全員から全員の愚痴を聞く役になっていた。

ここに派遣や得意先、協力会社との絡みがあり、2年目ぐらいから徐々に心が壊れていたのだと思う。


ちなみに2年目で派遣が2回入れ替わった。理由はいずれも「ここの上司(A/B)には付き合ってられない(意訳)」だった。

1回目の派遣交代時には俺の上司(A)が「俺も教えるから!」と意気込み、結果2カ月で派遣から「あの人は実務を何もわかってない」と烙印を押される残念っぷり。

2回目は先輩の方の派遣だったが、その時は先輩側の上司(B)が使い物にならず結局先輩が教えていた。


2年目ぐらいから先輩が席を離れることが多いことに疑問を感じ始めていたが、別の仕事だったため「まぁそんなこともあるだろう」と流していた。

実際は既にめちゃくちゃサボっていたし、上司(A/B)はそれを黙認していたわけだが・・・


3年目

いよいよ3年目となった時に上司(B)が昇進し、今の部署は俺の直属の上司(A)が全て取り仕切ることとなった。

当時はやっと楽になるかと思ったが実際は地獄の始まりだった。

まず先輩のサボリが凄く激しくなった。何かあれば「得意先でトラブルが起きたから行って対応してくるわ!」と言って昼から直帰する。

じゃあその間先輩の仕事はというと止めるわけには行かないので、俺が肩代わりせざるを得ない。

またその間に発生するトラブルも先輩が居なければ言えないので、全部俺に回ってくる。


この状況を上司(A)は見ておきながら「あいつは叱ると拗ねて余計に仕事しなくなるから、褒めて乗り気にさせて仕事をさせる」とサボリを容認同然の発言をすると同時に「お前には期待しているから𠮟る」と抜かす。

はっきり言って、教員免許持ってる俺ですらそれが通じるのは教育現場ぐらいで給料貰ってる職場何言ってんだこいつとは思ってた。

次に上司(B)の仕事がほぼ全て上司(A)に行ったので、上司(A)の仕事が俺に降ってきた。

まり今の俺の仕事は①今までの仕事②先輩がサボった分の仕事上司(A)の仕事と3つ抱えることとなる。

そうなると残業必然的に発生するわけだが、これについては「お前の業務管理が悪い」「残業は出来る限り減らせ」という。

コントじゃないんだからちょっと何言ってるかわからない。


そして夏の連休我慢限界となり、人事に直訴してようやく先輩が異動することとなった。

この時人事には「3年目なんだから人事じゃなくてちゃん上司(A/B)に相談しようと」と言われたが「上司(A/B)には何度も言ってるんですがどうしたらいいですか?」とは流石に言えなかった。

その後、この話は上司(A)に行ったのかことあるごとに冗談めいて「人事に走られたら困るから~」ということを言われることが増えた。


で、ようやく表題の話。

先輩の後任にもう数年で定年の人が来た。

しかも、これも俺が1年目と同じ流れで先輩の仕事を俺が、俺の仕事を後任が、後任の仕事を先輩がという三角トレード。この定年が無能だった。

まず後任の仕事を先輩に引き継ぐのに2週間以上あったのに異動初日になったのに引継ぎが終わってないという状況。

まり俺の引継ぎ開始時点にて引継ぎが終わってない。結局1週目はそっちの引継ぎを優先し、俺は先輩の仕事と前の仕事ダブルパンチ

ようやく2週目で仕事を引き継げるかと思いきやExcel必須部署Excelが全く使えない上にPCも怪しい。画像の挿入?印刷ファイルの保存?このレベル

加えてメモを取らない、メモの整理しない、わからないことは放置勝手判断

結局、日中は引継ぎに全ての時間を取られ、そいつが帰ってからようやく自分仕事スタート出来る。

何回も心の中で確認したよね。派遣社員や新入社員じゃないよね?正社員だよね?って。


とどのつまりトラブル発生した時に任せた仕事について確認したら「何も覚えてません」と協力会社の目の前で平然と言う、

「Aという部品がなくなりそうです!ないと作業が出来ないんです!」と協力会社に言われて「なくなったら教えてください」と言う脳みそ

正直ここから教えないといけないのかと辟易している。


ちなみにこれらを上司(A)に伝えても「お前の教え方が悪い」「あの人はとても優しいかイライラするのはわかるが叱って委縮させるな。褒めてやる気にさせろ」という始末。

挙句の果てには「早くあの人に仕事を引き継がないとお前の業務が減らないぞ」「お前今月の残業45時間越えてるんだからもっと自分管理しろ」と言い出す。


2年目から来た派遣2人からは「大変なのわかってるし協力したいけど次の更新は諦めて」と言われ、協力会社からは「あの人とはやっていけない」と言われる状況。

この状況でも上司(A)は自分は悪くないとどうやら思っている様子。


ここでようやく先輩も大概だが、実は上司(A)も大概なのでは?と気づくことが出来た。

遅いと言われるかもしれないが、2年目辺りはモラハラ+パワハラ洗脳されていたんじゃないかと思うレベル


正直、会社自体を辞める勇気はまだ持てないが、そろそろ本気で心が折れそうになっている。

年内で全ての引継ぎを終わらせろなんて言われてるけど、一ヵ月経っても日常業務すら出来ていない人間にどうすんだって感じ。


とりあえずこの1カ月の日記は作ったから、何かあったらそれを叩きつけてやろうと思う。

上見ても、下見てもキリがないとは言うけど、八方塞がりすぎてどうしたらいいのかわからない。

社内よりも協力会社と得意先が憐れんで同情してくれてるのが更に辛い。

2022-10-27

今日で30連勤が終わって何十連休取る

本当は明日までだったのだが今日で終いにして残った定期で遊びに行く

んで11月半ばまで働かずに遊んで働きたくなったらまた30連勤する

月収は40万

サイコー

2022-10-21

社員が自室で亡くなっていることが、死後1週間以上経過した時点で確認される

経緯

一人暮らしをする当社社員に対し、

連休明けに上司や協力会社担当者

電話メールで連絡をしたところ応答がなかった。

(いずれも職場毎日顔を合わせる環境ではなかった)

1週間以上が経過した時点で、
急ぎ自宅を訪問したところ、
その場で死亡が確認されました。
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