はてなキーワード: 教養とは
元ツイの意図からいけば、リベラルアーツっていうのは要するに「既説や自説を疑い確認しながら広範に学ぶスキル」のことだから、別にそこまでカッチリした話じゃあないだろう。
何が必要かでいえば全部必要だし、同時にどれも必須ではないと言えないこともない。
この話、ツイートだから一方的な主張みたいになってるけど、もし議論の形で展開するなら「リベラルアーツ」の有用性の有無から始めないといけないとこだと思うわ。
もしくは、これは大学側の「リベラルアーツ」の解釈が元ツイの人の解釈(旧来の解釈)と相いれなかっただけなので。池上彰がやるのが、リベラルアーツではなくて教養特別講義とかジャーナリズム論とかなら問題はなかっただろう。
ウイルス感染を恐れているのではなく、正確には「自分が理解できていないもの」がおそろしいのだ。
教養がある者であれば今できることが標準的な予防策に尽きることなどすぐに理解できるはずだが、そうでないものは必要以上に未知の感染症を恐れる。
感染症をまじめに学べばいいものを、どれが正しいソースで、どうすれば正しい知識を得られるのかということ自体、相当数の人々が知らない。
勘、うわさ、陰謀、果ては妄想まで、到底マトモとは考えられない情報源で知ったような気になったり、震え上がったり、俺には到底正気とは思えない。
新規の感染症の流行で俺が恐ろしくなったのは、学んだり考えたりできない人間がごろごろとSNS等の媒体を介して現れたことだ。
枕草子とか源氏平家あたりはまだしも、受験期に読まされた有象無象の大半はマジでウンコみたいな内容だった記憶がある
いちいち和歌詠むのもウザいし、そんなにうまくないし、ストーリーが色恋ばっかりでウンザリする
教養ある貴族階級ですらこんなんで喜んでたなんて人間って昔からアホだったんだなあと思うばかりで、伝統を尊重しようなんて気持ちは欠片もわいてこない
まあ現代になってわざわざ娯楽として読まれるのが源氏物語くらいしかない時点でお察しではあるんだけど、とにかくレベルが低くて嫌だった
昔書かれたっていう補正抜きに純粋な話の面白さで戦える古文はマジで皆無だったと思う あるんならせめてそういう文を受験生に読ますべき
もう本も飽きてたら申し訳ないんだけど、人文的な教養ガチ勢目指すのとかどう?飽きたら他の分野について読んだりしてみればいいわけだし、幅広くやるのが得意ならちょっと向いてるかもよ。言うて俺は教養なんて全くないし、元増田みたいな社会的成功者でもないけどさ。
友人が貧乏すぎる。
アラフォーのおっさんなのに教養がなさすぎて子供みたいなことしか言えないことも辛い。
仕事はどちらかといえばアートっぽいことをやっていたが時代背景の変化から淘汰され、今じゃド底辺職のウーバーの配達員だ。
金がなさすぎて趣味も持てない。
金がなさすぎて飲みにもいけない。
そのくせ見栄っ張りでバレバレの見えを張るのだが、最近は底辺化が激しくして見栄を張ってもそれがしょぼくて苦笑いしかできない。
結婚したいなとか言うのだが、この教養と、経済力の無さ、計画性の無さ、努力のできなさ、見栄っ張りなだけでイケてない性格、何をとっても無理だ。
努力して自分磨きなんて微塵もしないくせに、人一倍傷付きやすいからもちろんそんなことは言わないが。
長年友人をやっていたが、なんか最近見ているのも辛い。
別の意味で金の切れ目が縁の切れ目になりそう。
病気で10年寝込んでる間に23歳になった。学歴はない。職歴もない。とにかく何かしなければいけない。
そう思って半年ほどあちこちの見学に行って専門学校を決めた。増田さんの年齢ですとITか医療事務ですねとあちこちで言われて、ITにした。
大学に行きたい気持ちもあったが、大学という場所は教養を身につける場所であって企業の即戦力にならない。22歳の新卒ならじっくり育てていこうと思う会社でも27歳は要らないと思う。
年齢がダメならせめて手に職つけようと思ってITの専門学校に願書を出した。あとはお金を振り込むだけになった。
私、これでいいんだろうか。進路の決め方についての本を読んでも、書かれているのは18歳の高校生か、もしくは職歴のある社会人を対象にしたもの。
23歳の中卒を対象にした情報は無い。あるのは、専門学校の「23歳入学ならITか医療事務」だけ。
世の中一般に出回っている普通の情報が役に立たなくて、自分に合った情報をひとつずつ拾っていくしかない、そういう状況は10年間やってきた。10年かけて何か身についていると思いたかった。でもあまり身についていなかった。
増田に書けば、どこかの博識な人が、情報くれるかなって思った。貧乏で進学を諦めた女の子に、寮付きの大学奨学金を教えている人をネットで見て、私にも誰か教えてくれって思った。
どうすればいいのかな。誰か教えて。
研究でも国際開発でも音楽でも映画でも凄い人は現れるのは諸外国と同じなのに、なぜか広まらない。
聴衆に良いものを良いと見れる教養とエッセイ力が足りないのだ。
つまり、社会をより良くするために、良い活動をしている人を「賞賛する」という行為が、注意啓発するような情報発信するという行為が根付いてない。自分の周りで優秀な人がいたら無名の時代に応援しておく、という行為に慣れてない人が多い。自分の価値判断に自信がない、または、他人が褒めたものでないと安心できないから。
よって、筋の良い政治判断を出来そうな人をよく見ることが出来ず、諦める人が多い結果、政治への参加意識も低くなる。自分のことでも精一杯だし。悪循環。
パリピの嫌いなところはそういうとこ。身内以外の頑張ってる人に関心がない。
文春オンラインの”オリラジ中田敦彦を「フェイク問題に警鐘を鳴らす芸能人」扱いしたNHKの罪 「YouTube大学」問題の核心は、内容の誤りではない”という石動竜仁の記事を読んだのだが、江戸の仇を長崎で討とうとしてる感じが否めない。
それは世の中に責任ある立場でフェイクやデマを垂れ流してきた人があまりにも多く、Youtuberとして教養バラエティやってるだけの中田の間違いを殊更にあげつらうことの正当性を主張することの難しさにようやく気づいたからだと思われる。
NHKはマスメディアそのものであるので誤報に対する責任はただの芸能人やYoutuberとは比較にならないほど重い。
中田敦彦自身をダイレクトに批判することはためらわれても中田敦彦を発言に責任を持つ人であるかのように報じたNHKに対してならば堂々と批判を展開することができる。
あわよくば今後中田敦彦をNHKに出演させないことで自分にとって腹立たしい誤りを垂れ流した中田敦彦に対する意趣返しとしたいという意図が透けて見える。
2018年の関空孤立時の悪意なきフェイクの拡散が一人の外交官の命を奪ったというようなことを石動は書いているが、ネット世論の暴走や中国側の情報操作の可能性などさまざまな要因がからみあうこの事件自体を教養バラエティでの誤りをフェイクは人命に関わる問題だと短絡させるのはかなり無理があるし、誰であってもそういうニュースに対してコメントを求められればそういうしかない無難なコメントをあげつらって、あのときに「責任をもって発信することが大事」といったのに発信に責任をもっていないというのも少々大人げない。
大人げないからといってNHKに対しておまえがあの番組で中田を持ち上げた責任を取れというのも筋の違う話だろう。
多数の中田敦彦ファンからの(理不尽な)批判を浴びてついかっとなって勢いで書いてしまったのかもしれないが、進んで誤りを訂正する気にすらならない人命に関わるでもない問題に他人の金儲けに対するやっかみから中途半端に首を突っ込んだ自身の不明こそ反省してもらいたいと私は思う。
もうひとついえば発信の責任には発信者の身元を明らかにするというものがある。
増田の私は発信者としての責任を放棄している(責任を追求することも可能だろうが)、筆名だけで顔も出さない自称”ヴァーチャルネット売文業者”の石動竜仁(dragoner)はリスタートできる退路を残している点でやや無責任、低品質な教養バラエティも自分の顔と名前で発信している中田敦彦は自身のブランド毀損についてそれなりの責任とリスクを負ってやっているということもできるだろう。
無償の愛を求めないでくれ、と叫ぶ親の増田があったので、それを読んで触発された。
父が嫌いだ。
幼少の頃からまともな会話や相談事ができたことがない。何を話しても自分にはわからない彼なりのユーモアから導かれた軽口を返される。一つも面白くないし、こちらは真剣な話をするつもりでも茶化されるので気分が悪い。
昔ながらの父親、換言すれば情緒サポートをしようとしない人間。母に対しては亭主関白。礼は言わず、家事や育児は全て母任せ。
自分は私立大学文系学部の3年生。高校は公立の全日制だったとはいえ、塾やら予備校やら今の学費やら、自分の教育に多くの金がかかったことは知っている。家族の暮らしに加えてそんな高い金を高卒の父の稼ぎだけでどうにかしてきたのだから、父は頑張ったと思う。
向こうの気持ちもわからなくはないのだ。母に「子供が欲しい」とせがまれたから仕方なく作った子供を愛すのが難しいのだろうとか、彼自身も父からは愛されずに育ったから接し方がわからないのだろうとか、曲がりなりにも半分は彼でできているので、想像するのは簡単なのだ。
しかし、彼を憎む気持ちが日に日に増していてどうしようもない。
昔から、家族仲の良い同級生が妬ましくて仕方なかった。毎年家族旅行に行っている家庭とか、土日の少年野球の練習に父が顔を出す家庭とか、父が購読しているから毎週ジャンプが読める家庭とか。
片やうちの父は、毎日残業で帰ってくるのは22時過ぎ、家を出るのも早いからそもそも顔を合わせることもない。週に一度しかない休みの日曜日、遠くへ遊びに連れて行ってほしいなど言えない。たまに父から誘われて車に乗ったかと思えば連れて行かれたのは中年と爺さんしかいないスーパー銭湯か、興味のない海釣り(しかも自分とは面識のない父の会社のおっさんがいる)。
とにかく喋らない上、叱るときは無言で殴ったり蹴ったりしてきた。小学校低学年の時ショッピングセンターで迷子になって、不安ながらスタッフに呼び出しをお願いしたことがある。30分待ってやっと現れた父は、息子の延髄に回し蹴りを入れた。
とにかく喋らず、自分を愛していると確信が持てない、というか嫌っていないという確信を持つこともできない。機嫌を損ねれば言葉もなく殴られ蹴られる。この記憶のせいで、大人の男性はみんな怖い。幾つになっても苦手意識が抜けない。
父に対する不満を母にぶつけたことがある。母は「父の代わりにならなくてごめんね」と謝った。やるせない気持ちでいっぱいで、その場で死にたかった。
21歳まで育ててもらったことに感謝こそすれ、恨むなど筋違いだと人には言われるだろう。いつまでも無い物ねだりをしていないで、いい加減大人になれと。
けれど、刻まれた恐怖だとか、与えてくれなかった物や気持ちは、如実に自分の発達を阻害している。
大人の男が怖いから話すことができない。柔和な人ならまだしも、父と似た、鋭い目で見据えられると、抑揚のない低い声で語りかけられると、内容をすっ飛ばして体が拒否する。
父は自分を否定はしたが肯定はしなかったから、自分はこれであってるんだろうか、叱られはしないだろうかと、ありもしない視線に怯えて何もすることができない。もう、1年と少ししたら社会人なのに。
不幸を背負われて、呪いをかけて育てるくらいなら、最初から自分のことなど出生させないで欲しかった。
憎い父を今さら殺しても何にもならない。だから殺さないけれど。けれどこの捌け口のない感情はどこへやればいいんだ。
呪いに負けない、強い自分を作りたかった。呪いにかまけて、こんなかわいそうな自分なんだから、少しくらい出来なくても仕方ないじゃないかと、そんな開き直り方をする人間にはなりたくなかった。
もっと金があって、教養があって、心に余裕のある親の元に生まれたかったという気持ちと、生まれた環境ばかり憎んでうずくまっている自分が嫌いだという気持ちにはさまれ、どうしたらいいかわからなくなる。