はてなキーワード: 無神論者とは
仰りたいことがよくわかりませんが、「神を信じない人間というのは、人間として全く信頼に値しないと判断される可能性が高い」と言っているのは飯山氏ですし、私としてもその飯山氏の見解は妥当なんだろうと思っています。
私がどのような信仰をもっているあるいはもっていないかは、特に述べていませんし、ここではそれは重要ではありません。あえて言うのであれば、この本で飯山氏が言うように、私もいわゆるリベラルな価値観の方がましだと考えています。
これもよくわかりませんが、鳥居をくぐらないというのは十分宗教的な行為に思えます。ある人が真に無神主義(無宗教あるいは無神論者の方が日本では一般的な言い方かと思いますが。)なのであれば、鳥居は単なる木でできた門のようなもの、ではないでしょうか?
もし、無神主義という言い方で積極的に神の存在を否定するような人であればという意味なら、同意します。
一方、無宗教、つまり、特別積極的に信仰をもたない人にとっては、鳥居は単なる門でしょうね。
私にとっては、「本当に無宗教だというのなら鳥居をくぐることすら拒否するはず」という推測の方が不誠実に思えますが、いろいろな解釈がありますね。少なくとも、あなたに信頼していただく必要は全くありません。
君、日本国憲法知ってる?神戸高専剣道実技拒否事件の判例を知ってる?のであれば?少くともキリスト教(異端とはいえ)についてはその信仰を尊重するべきであるという憲法判断が既にあることは明かだ。
送り仮名もあやしい人に日本国憲法を知っているかと問われるのは少々心外ですが、日本国憲法第20条のことを仰っていますか?一応、引用しておくと以下の通りですね。
信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
ここで、「信教」あるいは「宗教」は一般的に「宗教」と見なされているものだけでなく、個人の信条にも適用されるべきというのが私の考えです。例えば、日本国憲法施行後に新たに生まれた宗教についても第20条の「信教」あるいは「宗教」に当たるとお考えですか?
あと、もしかするとイスラム教徒の方なのかもしれませんが、憲法のような人の作った法を持ち出してくるのは少々意外に思いました。
いずれも単なる感想です。
例の、死に瀕した少女と無神論者(?)のピエロのあれを読んでから、考えている
“優しい嘘”が許容される条件は何だろうか
① 後でそれが嘘だったとばれる事がない
② その嘘によって相手にマイナスのことが起きたり、選択肢を奪ったりしない
たとえば癌患者に、謎の水を万能薬のように言って渡すことは、結局治らなくて後で①に反するようになるし
その上もし病院での治療を妨げるような言葉もついていたら、②にも反するからダメ
(ただし、実は患者本人が薄々事実に気づいていながら、それでも安寧のために謎水を求めるような場合はあって、そういうケースでは完全否定はしがたい)
サンタがいるという嘘も、①に反するので個人的にはナシなのだが、
あれはあまりにも普及しすぎて一種の通過儀礼みたいになっており、嘘がばれた後のフォロー体制がそれなりに世の中で出来上がっているとも感じる
で、死に行く子供の話だ
この場合、あの世が本当は存在せず、死んだら意識が消えるだけと思っている者にとっては、迷う余地はほとんどない
だが、あの世が実在すると信じていたら? 適当なことを言ったら死後に嘘だとばれて、①に反することになるのではないか?
さらに加えて、間違ったあの世像を信じたら地獄に落ちる、というような教義を信じていたら? 嘘を教えるのは②にも反する
つまり、神や死後の世界を心から信じる者にとっては、死に瀕した子供と言えども(自らの信じる)本当のことを伝えるのが、最も親切ということになるのかもしれない
自宅で行われたそれは途中までは基本の葬式の形と同じだと思っていた。
しかし坊さんがこない。増田はああいう宗教の通夜に出るのは初めてだったので戸惑った。
司会は儀典長というスーツの人がとりしきった。地区ごとに割り振られているらしい。
その人は故人が亡くなった日から通夜、葬儀までちょいちょい顔を見せに来ていた。
増田は故人家族とは距離を置いていたので、少し離れたところからその様子を見守った。
故人のことをよく知ら無さそうな人が死んだばかりの顔を見に来る。
故人の兄が、その人から守るように故人の側にずっといた。
増田は故人が学会員ということも知らなかったのだが、どうやら故人は結婚してしばらくたってから嫁家に学会員にさせられたらしい。
熱心なのは嫁ということになる。家の中には池田の本がずらりとそろっている。本屋に売っているようなものでは無いぞ。広辞苑みたいにな分厚さだ。
流れは普通の葬儀と同じだが、儀典長(おっさん)が坊さんがすることをする。
勿論お坊さんと比べればお粗末なものである。正座で足がしびれていたくらいだ。
しかし始まってから、決定的に違うことが起きる。儀典長のお経読みが始まってすぐのことだ。
「なんみょーほーれんげーきょー!なんみょーほーれんげーきょー!!」
地響きがするように大きな声でほぼ全員が読経しはじめたのだ。しかも暗唱だ。
10分くらいだと思うのだが1時間くらいにも思えたその時間、増田はパニックだった。
増田の周りに宇宙人が居る気がした。知っている親戚たちじゃなかった。
増田は、彼らのことを何も知らなかった。
思えば父親に守られて遠ざけられていたのだろう。
どちらかといえば無神論者の増田は、故人の写真を見つめながら「どうしてこうなったんだ故人」と語りかけた。
勿論返事は返ってこない。気付けば泣いていた。怖さよりも、悲しさが優っていた。
儀典長が正座でしびれた足をほぐして立ち上がり、池田大作の生死論を語る。
そして贈られていた盾の話と、「創価学会名誉本部長」の称号を与えることを伝えてきた。
ぐったり疲れたのだが、ここでさっきまで居た親戚たちのパートナーが式自体に参列していないことに気付いた。
逃げたのだ。それは正しい選択だった。しかしきっと自分たちも故人のようにされてしまうかもしれない。
今は逃げていても、もし死ぬと分かった時、彼、彼女たちは果たして学会から逃げることができるのだろうか…。
まぁ…そこでなぜあの一家が揃いも揃って離婚と再婚を繰り返しているのか納得いったのだが…。
翌日行われた葬儀もほぼ同じメンツだった。違うのは南無妙法蓮華経を暗唱する子供たちが居たくらいか。
相変わらず弔問に来る人たちは故人を知っているわけではない。
それもそのはずだ。故人が弱っていくときに無理やり嫁が引っ越したのだ。
地元なら、どれだけ多くの人が来てくれたのだろうと言う話を後々した。可哀想でたまらなかった。
小さな家では足りなかっただろう。大きな会場を借りて、みんなが知っている人で、惜しまれてもらうことができたのではないか。
良い人だったから。口をそろえて言う。優しい人だったと。
増田も故人が好きだった。好きだったけど、もう故人の事が分からない。
どこにお金が行ったのかと考えたが、お金お金とうるさかった嫁が絡んでいるとしか思えない。とすると、そのお金はどこへ消えたのか…?
考えるだけで頭が痛い。
今日ゲノムに関する本を読んでいて初めて知ったのだが、生物のゲノムでちゃんとした役割があるのはたった3%で残りの97%は何のためにあるのかわかっていないらしい。しかもその部分は自然言語に類似しているという。と聞くと僕は、この部分が生物を創造した高次生命体からのメッセージなのではないかという突飛な(と同時に陳腐な)発想に至ってしまう。そしてここまで考えてふと、星新一先生の「宿命」というssを思い出した。話の筋書きはこうである。
ある星にいつからか一体のロボットがいて、「本能」に従って原油や材料を集め、自分のクローンを作っていた。それを繰り返してどんどん数を増やしていき、その後ロケットの製作を始めた。ロボットたちは満身創痍でロケットを作り、一番壊れていないロボットが「ある星」を目指しロケットで出発した。その星に辿り着くのだが着陸に失敗してしまうロボット。そこに人間たちがやってきて、ロボットの体の番号を確認した。人間たちは地球に帰ってくるよう「プログラム」されたロボットを宇宙各地にばら撒き、どこが一番早く地球に帰ってくるか賭けをしていたのだった。
ここからは完全な想像だが、星新一先生はこのssを通じて、人間もこのロボットと同じように、あるゴールに向かって向かうよう高次生命体、つまり神によってゲノムに「プログラム」されているかもしれないと言いたかったのではないか。それが素数分布の完全解析か、ゲノムに隠されたメッセージの読解か、外宇宙への有人飛行か、はたまた神が読んでも感動できる文学作品かはわからないけど。もしかしたら神がいて、全然進化が進まないから隕石を落としてみたり、氷河期を起こして海を渡らせたり、神の使いを遣ったり、ラマヌジャンが決闘で死んで発狂したりしたのかなってふと考えた。今日の今日まで無神論者だったけどわからなくなってしまった。神について存在するにしろ、しないにしろ確信を持っている人がいればその理由を教えてほしい。もちろん聖書に書いてあるとかは無しで。
そうなんだよね。政治運動に心を奪われた人の発言はネットでも見てられない。アーティストでそういうタイプの人が何人もいるけど、残念な感じしかしない。
異なる立場の日本人同士が政治的な話を議論すると建設的にならない事が多いってのも事実だとは思うけど、他の国では政治的立場の違う人同士の議論が広く成立しているとは思えない部分もある。
出羽守的な人の話は、外国でも日本人と仲良くやっていこうという気のある意識高い人としか交流してないことが多いので、あんまり国民全体の傾向とは言えない話が多いと思う。古い話だけど「アメリカで無神論者だって言うと人じゃないみたいに扱われるので面倒だからブッディストだって言ってる」って大島渚も言ってたし。
神道が折衷教だって話もありますけど、キリスト教(と言うかアブラハム系)もそうらしいですしね。
現人神定義と三位一体論に共通点があったり、"神" そのものの定義に矛盾が有るのも "人" が原因だ、とすると解決できる面は多い気がします。
そもそも、唯一という言葉が人の感覚であって、他の方の言うように全能性や量子性を持ち込むと意味のない事かもしれないんですよね。
数の概念を超越していれば "1" であると同時に "0" でも "八百万" でもある神の定義も有り得ますし、全能であるのなら寧ろそれが当然。
全能の神でも持ち上げられない石を云々、もそうですが、人の意思と時制の概念を持ち込むと解決できそうに思います。
「人は自分の意志を持つ」のが神に作られた人の条件であるとすれば、全能であるはずの神は人の意思に介入できないわけです。
持ち上げられない石を出現させろ、も、それを持ち上げろ、も、人の意志であって、同じ石であるのに人の意志の時間的なずれによって前提条件が変わっているから起こる矛盾とも言え、矛盾しているのは人であって神ではないという解釈も可能です。(人と神が同じであればそれにも何も問題はないですが)
もっと言えば意志とは何か、という話もあり、我々が常に意志を持っているかと言えばそうではないわけで、神は存在すると同時に存在しない、と言うような定義も可能かもしれません。時間すら超越するのが神の条件だとすれば、何ら問題はありません。
ですから、神は唯一であってどこにでも存在し、自分と同じであって我々でもあり、同時にどこにも存在せず、全能であると同時に無能であり、全てを知っていながら何も知らない、宇宙の終焉すらも知りながら数秒後に我々が何を考えているかすら知り得ない存在(するかどうかもどーでもいい)である、とw
要は本当に全能なら宗教の定義ごときは超越するのが当たり前で、無神論者すら包摂すべきじゃないか、と。
しかし定義も論も "我々" が決める事なので神(々)ごときが介入する事でもなく――、
話が循環してるのでやめます
→自殺を肯定的に語るフレーズも、断固否定するフレーズも、びっくりするほど画一的ですよね。自分の人生という超個人的な話なのに。
これ、覚えやすくて使いやすいフレーズだから流行ってますけど、根拠がなんにもない上に論理的に破綻してますよね。
いや、文字通りに自殺って人を殺すことですよね、という話ならそのとおりですけど。でもだから他人を殺すのと同様罪深いですよ、って詭弁ですよね。普通に。殺人が罪なのは人が他者の生存権を侵害しているからでしょ。自分の生存権を放棄することでしょ。なんでわざわざ大変な思いしてる人をあえて傷つけるような言葉の暴力振るうんだろう。無神経だな。
これも詭弁ですよね。あなたの家族が死んだ、だからあなたは傷付いた、だから自殺はすべきじゃない。
交通事故でも、他殺でも自殺でも家族の死は悲しい。当たり前です。それなのに自殺のときだけことさらに「だから自殺は良くない」それがどうしてか。他の死因と自殺の差は「自分の命を立つほど思いつめた気持ち」。それが辛いからことさら自殺は辛いというのなら、その辛さのぶんは、本人が生きている間耐えた重みとイコールでしょ。じゃ、その間にできなかったことの方を悲しむべきでは?
死者の家族に文句言ってるわけではもちろんありません。本人を救うことなんてだいたい周囲の人間にできない。でも、死因が自殺であることの辛さイコール死ぬくらいの辛さが死因であること、ということをすっとばしてあっけらかんと「家族はこんなに辛いから自殺するな」って、それ思考停止も甚だしく、まさしく死者を鞭打ってないですか。
○私も昔は死にたかった。けど、年をとったら...
これも、意味がない。自殺の理由は年齢、持って生まれた性質、社会状況によって様々で、私も、十代、二十代、三十代、各タイミングで全く別の質の死ぬしかないという確信を持ってた。
そんなのファッション雑誌の「この服はこのカラーがおすすめ」程度にしか一般性のある話でしかない。いやいや、ひとそれぞれ何色かは違うだろうよ。
本人か周囲が宗教を持ってたらその説明で納得かもしれないけど、無神論者の人がそれ言ってもお笑いです。いやいや、大体の宗教、信者じゃなきゃ救われない、って設定だから、自殺しなくてもあんた自身が地獄行きだよ?人のこと言ってる場合じゃないだろう。
自殺はよくない、を既存の論理で説明するのは無理なので、上記反論をしたとしても、結局「だめなものはだめだ」「そんなの理屈でどうこういう話じゃない」ってセリフになり、しかも言った方が正義。いや、さっきまで理屈で論破しようとうだうだ言ってたの自分でしょうが。なんでこんな時だけ、子供を言いくるめられると信じ込んで無茶な理屈を振りかざすカーチャン状態になるんだ。あなたは普段からそんな失礼な議論をしてるの?仮にも生きるか死ぬかっていう本人にとって一番大事な決断を本気でしようとしてる相手に対して。ちょっと顧みてほしい。でもこんなセリフを厚顔にもいっちゃう人は多分人を自殺に追い込むことに抵抗がない人なんだなとは思うから、自分を顧みてはなんて言ったとて、何言われてるかさっぱりわからないんだろうなとは思う。
世の中にはびっくりするほど、自殺は良くない、この理由からだ、的な議論にあふれていて、それが、しかもでたらめな論理構成なのに、そしてそれを言われてわけもわからず傷つけられている人がたくさんいるのに、ノストラダムスの大予言みたく市民権を得ている。