はてなキーワード: 無神論者とは
つまりだな、世俗化っていうのは、宗教を信じる理由そのものが減じたことによるものだと思う。
多くの人は親から宗教を受け継ぐ。だから今でもキリスト教徒がいるし、子だくさんの国のイスラム教徒は増える。
しかし、例えば、宇宙の真理が知りたいから新たに教会に入門しましたっていう人たちはどう考えても中世頃と比べると減るよね。むしろ宇宙の真理を知りたいと考えた宗教者が無神論者に転向するルートもある。
そこまでいかなくても、親が宗教に熱心すぎるのに引くから子は軽い宗教者になり、孫は全く宗教を信じなくなる、とかね。
ミーム的な意味での世代交代が明らかにうまく行かなくなっているはずである。
これは科学に触れた人が信仰を失う、という話とは全く別なので、実感が得にくいかもしれないが。200年ってスパンにしてみたのは、世代交代を含めた長いスパンを経れば、という意味だ。
新型コロナ感染症が世界を分断し、不確実な情報とデマの横行による人種差別が引き起こされる最中、アメリカ西部に総本山を構えるキリスト教のリーダーが1つの提案をおこなった、イエスキリストの復活を祝う復活祭の前の金曜日、すなわち、イエスが十字架で命を失った受難日を思い起こす「聖金曜日」にあたる4月10日に、「新型コロナ感染症の世界的蔓延のさらなる爆発を防ぐこと」のために「祈りの断食」をすることを提案したのだ。これに対し、同教会の人々が早々に動きだし、Facebookに「Worldwide Fast April10」というコミュニティをつくりあげ、同じ教会の人のみならず、世界中の人たちにこの招きに答えるように呼びかけた。その結果、前述の宗派に加え、プロテスタント、カトリックといったその他のキリスト教派のひとたち イスラム教、ユダヤ教、 サイエントロジー、ヒンドゥー教、シク教、ウイッカ、仏教、ペイガニズム、そして無神論者など多数の宗教を信仰している人、総勢53万人がこのコミュニティに参加した。もちろんこれはFacebookのコミュニティへの登録者のみのカウントだけあり、登録者の家族も多数断食に参加しているため、実際に断食をした人たちは登録者数を上回ると考えられる。参加者には緊急対策チームで参加している医療関係者、ニューオリンズで、新型コロナ対応のためにボランティアとして参加している看護師、このために家族とともにはじめて断食をした子供たち(親とともに親のアカウントからアクセス)など様々な人たち、以前、集団で祈りの断食をしていた際に、新型コロナと闘病中で参加出来なかったものの、今回、回復し、感謝の意を込めて参加表明した人、タイの自宅で家族とともに自身の礼拝についてリポートするひと、この期間中に、無事出産を終え、その報告をする家族など様々な人たちの模様が伝えられている。
現段階でこの世界規模、多数の宗派が参加した「祈りの断食」が本当に功を奏したかを
示すのは難しい。だが、そこが論点ではないようだ。
この経験を経て宗派や人種を超えた一体感と精神的な安寧を感じたとのコメントが多数あったことを踏まえると、全世界的な外出自粛とソーシャル・ディスタンシングにともなう精神的な苦痛を救うムーブメントであったことは間違いないだろう。日本では「ZOOM飲み会」といった新たな取り組みが行われているが、キリスト教や、イスラム教、そしてユダヤ教といった宗派のように、特別な機会に祈りの一環(行ではない)として断食をする習慣があるひとたちにとっては、これは新たな「交流」の手法であるとも言える。いずれにしても、分断されつつある社会を改めて統合するきっかけとなるものは歓迎するべきだろう。
仰りたいことがよくわかりませんが、「神を信じない人間というのは、人間として全く信頼に値しないと判断される可能性が高い」と言っているのは飯山氏ですし、私としてもその飯山氏の見解は妥当なんだろうと思っています。
私がどのような信仰をもっているあるいはもっていないかは、特に述べていませんし、ここではそれは重要ではありません。あえて言うのであれば、この本で飯山氏が言うように、私もいわゆるリベラルな価値観の方がましだと考えています。
これもよくわかりませんが、鳥居をくぐらないというのは十分宗教的な行為に思えます。ある人が真に無神主義(無宗教あるいは無神論者の方が日本では一般的な言い方かと思いますが。)なのであれば、鳥居は単なる木でできた門のようなもの、ではないでしょうか?
もし、無神主義という言い方で積極的に神の存在を否定するような人であればという意味なら、同意します。
一方、無宗教、つまり、特別積極的に信仰をもたない人にとっては、鳥居は単なる門でしょうね。
私にとっては、「本当に無宗教だというのなら鳥居をくぐることすら拒否するはず」という推測の方が不誠実に思えますが、いろいろな解釈がありますね。少なくとも、あなたに信頼していただく必要は全くありません。
君、日本国憲法知ってる?神戸高専剣道実技拒否事件の判例を知ってる?のであれば?少くともキリスト教(異端とはいえ)についてはその信仰を尊重するべきであるという憲法判断が既にあることは明かだ。
送り仮名もあやしい人に日本国憲法を知っているかと問われるのは少々心外ですが、日本国憲法第20条のことを仰っていますか?一応、引用しておくと以下の通りですね。
信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
ここで、「信教」あるいは「宗教」は一般的に「宗教」と見なされているものだけでなく、個人の信条にも適用されるべきというのが私の考えです。例えば、日本国憲法施行後に新たに生まれた宗教についても第20条の「信教」あるいは「宗教」に当たるとお考えですか?
あと、もしかするとイスラム教徒の方なのかもしれませんが、憲法のような人の作った法を持ち出してくるのは少々意外に思いました。
いずれも単なる感想です。
例の、死に瀕した少女と無神論者(?)のピエロのあれを読んでから、考えている
“優しい嘘”が許容される条件は何だろうか
① 後でそれが嘘だったとばれる事がない
② その嘘によって相手にマイナスのことが起きたり、選択肢を奪ったりしない
たとえば癌患者に、謎の水を万能薬のように言って渡すことは、結局治らなくて後で①に反するようになるし
その上もし病院での治療を妨げるような言葉もついていたら、②にも反するからダメ
(ただし、実は患者本人が薄々事実に気づいていながら、それでも安寧のために謎水を求めるような場合はあって、そういうケースでは完全否定はしがたい)
サンタがいるという嘘も、①に反するので個人的にはナシなのだが、
あれはあまりにも普及しすぎて一種の通過儀礼みたいになっており、嘘がばれた後のフォロー体制がそれなりに世の中で出来上がっているとも感じる
で、死に行く子供の話だ
この場合、あの世が本当は存在せず、死んだら意識が消えるだけと思っている者にとっては、迷う余地はほとんどない
だが、あの世が実在すると信じていたら? 適当なことを言ったら死後に嘘だとばれて、①に反することになるのではないか?
さらに加えて、間違ったあの世像を信じたら地獄に落ちる、というような教義を信じていたら? 嘘を教えるのは②にも反する
つまり、神や死後の世界を心から信じる者にとっては、死に瀕した子供と言えども(自らの信じる)本当のことを伝えるのが、最も親切ということになるのかもしれない
自宅で行われたそれは途中までは基本の葬式の形と同じだと思っていた。
しかし坊さんがこない。増田はああいう宗教の通夜に出るのは初めてだったので戸惑った。
司会は儀典長というスーツの人がとりしきった。地区ごとに割り振られているらしい。
その人は故人が亡くなった日から通夜、葬儀までちょいちょい顔を見せに来ていた。
増田は故人家族とは距離を置いていたので、少し離れたところからその様子を見守った。
故人のことをよく知ら無さそうな人が死んだばかりの顔を見に来る。
故人の兄が、その人から守るように故人の側にずっといた。
増田は故人が学会員ということも知らなかったのだが、どうやら故人は結婚してしばらくたってから嫁家に学会員にさせられたらしい。
熱心なのは嫁ということになる。家の中には池田の本がずらりとそろっている。本屋に売っているようなものでは無いぞ。広辞苑みたいにな分厚さだ。
流れは普通の葬儀と同じだが、儀典長(おっさん)が坊さんがすることをする。
勿論お坊さんと比べればお粗末なものである。正座で足がしびれていたくらいだ。
しかし始まってから、決定的に違うことが起きる。儀典長のお経読みが始まってすぐのことだ。
「なんみょーほーれんげーきょー!なんみょーほーれんげーきょー!!」
地響きがするように大きな声でほぼ全員が読経しはじめたのだ。しかも暗唱だ。
10分くらいだと思うのだが1時間くらいにも思えたその時間、増田はパニックだった。
増田の周りに宇宙人が居る気がした。知っている親戚たちじゃなかった。
増田は、彼らのことを何も知らなかった。
思えば父親に守られて遠ざけられていたのだろう。
どちらかといえば無神論者の増田は、故人の写真を見つめながら「どうしてこうなったんだ故人」と語りかけた。
勿論返事は返ってこない。気付けば泣いていた。怖さよりも、悲しさが優っていた。
儀典長が正座でしびれた足をほぐして立ち上がり、池田大作の生死論を語る。
そして贈られていた盾の話と、「創価学会名誉本部長」の称号を与えることを伝えてきた。
ぐったり疲れたのだが、ここでさっきまで居た親戚たちのパートナーが式自体に参列していないことに気付いた。
逃げたのだ。それは正しい選択だった。しかしきっと自分たちも故人のようにされてしまうかもしれない。
今は逃げていても、もし死ぬと分かった時、彼、彼女たちは果たして学会から逃げることができるのだろうか…。
まぁ…そこでなぜあの一家が揃いも揃って離婚と再婚を繰り返しているのか納得いったのだが…。
翌日行われた葬儀もほぼ同じメンツだった。違うのは南無妙法蓮華経を暗唱する子供たちが居たくらいか。
相変わらず弔問に来る人たちは故人を知っているわけではない。
それもそのはずだ。故人が弱っていくときに無理やり嫁が引っ越したのだ。
地元なら、どれだけ多くの人が来てくれたのだろうと言う話を後々した。可哀想でたまらなかった。
小さな家では足りなかっただろう。大きな会場を借りて、みんなが知っている人で、惜しまれてもらうことができたのではないか。
良い人だったから。口をそろえて言う。優しい人だったと。
増田も故人が好きだった。好きだったけど、もう故人の事が分からない。
どこにお金が行ったのかと考えたが、お金お金とうるさかった嫁が絡んでいるとしか思えない。とすると、そのお金はどこへ消えたのか…?
考えるだけで頭が痛い。
今日ゲノムに関する本を読んでいて初めて知ったのだが、生物のゲノムでちゃんとした役割があるのはたった3%で残りの97%は何のためにあるのかわかっていないらしい。しかもその部分は自然言語に類似しているという。と聞くと僕は、この部分が生物を創造した高次生命体からのメッセージなのではないかという突飛な(と同時に陳腐な)発想に至ってしまう。そしてここまで考えてふと、星新一先生の「宿命」というssを思い出した。話の筋書きはこうである。
ある星にいつからか一体のロボットがいて、「本能」に従って原油や材料を集め、自分のクローンを作っていた。それを繰り返してどんどん数を増やしていき、その後ロケットの製作を始めた。ロボットたちは満身創痍でロケットを作り、一番壊れていないロボットが「ある星」を目指しロケットで出発した。その星に辿り着くのだが着陸に失敗してしまうロボット。そこに人間たちがやってきて、ロボットの体の番号を確認した。人間たちは地球に帰ってくるよう「プログラム」されたロボットを宇宙各地にばら撒き、どこが一番早く地球に帰ってくるか賭けをしていたのだった。
ここからは完全な想像だが、星新一先生はこのssを通じて、人間もこのロボットと同じように、あるゴールに向かって向かうよう高次生命体、つまり神によってゲノムに「プログラム」されているかもしれないと言いたかったのではないか。それが素数分布の完全解析か、ゲノムに隠されたメッセージの読解か、外宇宙への有人飛行か、はたまた神が読んでも感動できる文学作品かはわからないけど。もしかしたら神がいて、全然進化が進まないから隕石を落としてみたり、氷河期を起こして海を渡らせたり、神の使いを遣ったり、ラマヌジャンが決闘で死んで発狂したりしたのかなってふと考えた。今日の今日まで無神論者だったけどわからなくなってしまった。神について存在するにしろ、しないにしろ確信を持っている人がいればその理由を教えてほしい。もちろん聖書に書いてあるとかは無しで。