はてなキーワード: 朝鮮人とは
最近話題になってるけど、トンチンカンなブコメが散見されるので書かせて欲しい。
信仰の自由とか信仰の告白とかは一切関係ない。統一教会は「この世に存在してはならないと断言できる数少ないもの」の一つである。
二束三文の壺を高価で売りつける「壺売り(霊感商法)」や、信者になったが最後どこの誰ともわからないやつが決めたどこの誰ともわからないやつと結婚させられる「合同結婚式」くらいはきいたことがあるだろう。
壺は金で片がつく話だからまだマシだろうが、「合同結婚式」はずっと悲惨だ。身内が一人でも信者になってみろ。どこの馬の骨ともわからない親戚がゴキブリのように増えていく。小室家のほうが無限にまともだよ。
いや変な親戚が増えるだけならまだいい。しばしば日本女性が韓国人と結婚し、韓国で一人孤立して生活させられるという被害が起きている。なんで奴らがわざわざこんなトラブルの種になるようなことをしているか知っているか?それは
「日本が朝鮮半島を植民地支配したことは、連帯罪として日本人すべてが背負っているとされる。彼女たちの連帯罪は、夫や夫の家族に尽くすことによって清算されるという。」
(出典:https://core.ac.uk/download/pdf/143633234.pdf cf. https://www.jcp.or.jp/akahata/aik10/2010-05-11/2010051114_01_1.html)
というとんでもない教義を持っているからだ。意味わかるか?何回読み直しても一ミリも理解できない。慰安婦や徴用工の訴訟なんてまだ百万倍も理性的じゃないか。
あなたの兄弟や子供がこんな教えを信じ込んで農村部で言葉も通じない「親戚」にこき使われる生活を送ってもいいのか?そんなことが起きないようにするためには統一教会とその信者共を社会から追放するしかない。
信者とは付き合わない。会話もしない。目も合わせない。これしかない。
もちろん、不幸にもフロント企業と関わりを持ってしまうことはあるかもしれない。奴らは自分たちの反社会性をよく知っていて、社会に溶け込もうとする。しかし、もし関わりを持ってしまったならば弁明の必要があるのは当たり前である。
そこには信仰の自由や信仰の告白などは一切ない。先の慰安婦で例えれば、統一教会関係者は朝鮮半島で年端も行かない子供を親から買った女衒−しかも「朝鮮人の女衒」−であろう。こんなゴキブリ共に与する言説は冗談でもとってはいけない。
確かに日本国憲法は信仰の自由を保証している。一方で社会秩序、「公共の福祉」のために基本的人権が制限されうる可能性も言及している。統一教会は社会にとって存在してはならない団体である。信仰の自由は適用できない。
そもそも、どこの大学でも身元を隠して勧誘するサークルは「革マル派」「中核派」「統一教会」の三種類しかいないと相場が決まっている。「革マル派」「中核派」が社会転覆を企む反社会団体であることはよく知られている。
逆に言えば、統一教会も「革マル派」「中核派」と同じくらい社会転覆を企む反社会団体なのである。奴らはそれを知悉するからこそ身元を隠してサークル勧誘をするのだ。
統一教会を暴力団に例えるブコメもあったが、自分たちが社会の日陰者であるとわかっている暴力団よりもずっとたちが悪い。奴らは真の反社に他ならない。
確かに、元になったノートは根拠薄弱すぎて陰謀論と言われるのは仕方ないだろう。しかし、公人ならば統一教会を擁護するような言説を少しでも公の場でしてはならない。
壺三と揶揄される安倍晋三ですらここまで統一教会に言及したことはない。あそこまでの発言をしたなんとか氏はとんでもない世間知らず、あるいは反社会団体統一教会の信者であると言われても仕方がない。
KKKメンバー「私の不快感に配慮して、黒人を公的機関の広報に使うことを止めてください」
ネオナチ「私の不快感に配慮して、ユダヤ人を公的機関の広報に使うことを止めてください」
在特会「私の不快感に配慮して、朝鮮人を公的機関の広報に使うことを止めてください」
東京在住の阪神ファン「私の不快感に配慮して、読売ジャイアンツの選手を公的機関の広報に使うことを止めてください」
カルト教団「我々は全ての人が我々の宗教を信仰するべきだと考えているため、異教徒を見るだけで不快になります。なので異教徒を公的機関の広報に使うのを止めてください」
同性愛者「私はキリスト教徒やムスリム(イスラーム教徒)を見ると『この人たちは時代が変わるとまた同性愛者の弾圧を始めるのではないか』と恐怖を感じて不快になるのでキリスト教徒やムスリムを公的機関の広報に使うのを止めてください」
謎の人「ブサイクを見ると『この人は将来、海外のインセルみたいに無差別殺人事件を起こすかもしれない』と不安になって私が安心して生活できる権利が侵害され不快になるからブサイクな男を公的機関の広報に使うのを止めてください」
はてな匿名ダイアリーで、私が枝野幸男を批判したところ、私のことを自民党支持者と決めつけて喧嘩腰で食って掛かる人間が現れた。
この理不尽な決めつけのせいで、私は追記して「自民党支持者ではない。普段は共産党に投票している」と、本来は不要な告白をする羽目になった。この追記を不本意に強いられたと考えたことから、私は先方の決めつけに対して苦言を呈した。ところが驚くことに先方は、私を自民党支持者と決めつけたことにより、私には反論の必要が生じ、結果的に私の無実も証明できて議論が深まったのだと言うのである。目が点になったというか、開いた口が塞がらなかったというか。
どうも野党を批判することが気にくわないらしいと思ったので「野党への批判を控えろということか?」と尋ねたら「別に野党を批判することを、控える必要は無い」と言う。ならば何故、いきなり私のことを「自民党に投票している人間」と決めつけて罵倒し始めたのか?最初から、私の投稿を無視すれば済んだ話ではないか。野党批判を控える必要は無いのだから。
私を自民党支持者と判断するような、何らかの根拠は有ったのか?何も無かった。単なる先方の思い込みである。「何か最近、自民党の回し者っぽい奴らの発言が目につくように"思える"」という、彼もしくは彼女の個人的な主観に基づいていたに過ぎない。「正当な野党批判ではなく、単なる野党叩きと思ったからだ」と言う。野党への批判が正当なものか否かをどのように判断するかといえば、私が自民党の支持者であるか否かに掛かっており、私が自民党の支持者か否かは、彼らの主観で判断される。堪ったものではない。彼もしくは彼女が私にしていることは、ネトウヨがやってるザイニチ認定といったい何が違うのか?
彼もしくは彼女、あるいは似たようなことをしている人間たちは、関東大震災発生当時、通りすがりの人間に対して「お前は朝鮮人か?"十円五十銭"と言ってみろ」と迫った、自警団の人間たちと何ら差は無いと私は思う。この文章を読んでいる貴方は、どう思うだろうか?
しかも、私が"十円五十銭"と問題無く発音できたのを見て「俺が因縁をつけてその言葉を言わせたお蔭で、お前は労力を割いて自分の無実を証明できたのだ」と、まるで恩を着せるかのようなことまで言ってくるのである。おまけに「お前は自民党を支持していないと書いているが、本当にお前が自民党支持者ではないかどうかは分からない」と言う。それを言われれば最早お手上げである。最初から「こいつは自民党の回し者である」という結論が先にあるのだから。
「野党を批判している人間は、与党を批判していないに違いない」と勝手に決めつけて、いきなり喧嘩腰で食って掛かる彼らは、私の目には正常な精神状態ではないように見える。もしも、彼らにご家族やご友人がいるならば、付き添ってもらって然るべき医療機関を受診することを願う。
政治的な思想や選挙の投票先を公の場で告白するか否かは、本人の自発的な意志に基づくべきである。同調圧力によって強いられるものではない。私のように不本意な告白を迫られる人間が、少しでも減ることを願ってやまない。
「別に野党を批判することを控える必要は無い」と言うぐらいならば、何故あなたは、いきなり私のことを「自民党に投票している人間」と決めつけて、罵倒し始めたのですか?貴方が最初から、私の投稿を無視すれば済んだ話じゃないですか?
私を自民党支持者と判断するような、何らかの根拠は有りましたか?無かったでしょう?単なる貴方個人の思い込みだったんじゃないですか?
貴方がしたことは、ネトウヨがやってるザイニチ認定と何が違うんですか?
重ねて質問しますが、貴方が私にしたことは、関東大震災発生当時、通りすがりの人間に対して「お前は朝鮮人か?"十円五十銭"と言ってみろ」と迫った自警団の人間たちと何ら差は無いと私は思いますが、貴方はどう思いますか?
それで私が"十円五十銭"と問題無く発音できたら「俺のお蔭で、お前は労力を割いて無実を証明できたんだ」と、まるで恩を着せるかのようなことを仰られる。
野党を批判している人間は与党を批判していないに違いないと勝手に決めつけて、いきなり喧嘩腰で食って掛かる今の貴方は、私の目には正常な精神状態ではないと見えます。もしも、貴方にご家族やご友人がいらっしゃるならば、付き添ってもらって然るべき医療機関を受診することをおすすめします。
お前ら朝鮮人どもは、他所の国で悪さをしすぎた。北朝鮮拉致問題や金大中事件や統一教会、街宣右翼に朝鮮ヤクザ、パチスロといった警察との癒着は「バレなきゃセーフの精神」を体現した結果じゃないか。だから、お前たちの「上にトラップを仕掛けたら勝ちの精神」は両班制度の劣化コピーを日本に持ち込み、そして日本社会の上級国民(マスコミ、政治家、財閥、東京、早稲田、新卒一括採用)といったシステムを悪用してきた前科がある以上は、養護ができぬのだ。マスコミ共が、どう考えても「金をもらって」韓流ヘビーローテーションをやっているのに、それを明示することなく、あまつさえネトウヨという「社会的な負け組」というレッテルをはられて、哀れな「消して救済されることのない、被差別階級にされ」てなお、ネトウヨは消えないのは、あきらかに朝鮮人が日本を利用とする『用日』をしてきた過去があるからだろ。朝鮮戦争で「金儲け」したことを韓国に文句を言われる筋合いはない。なぜなら、日本が努力しなければ韓国は存在してないからだ。そして、原爆で日本を揶揄するのは、許せない。なぜなら、ヒロシマ・ナガサキがなければ、朝鮮半島に原爆を落とされていたからだ。その歴史を誤認して、アメリカを味方につけ、日本を貶めるという手法で、美味しい思いをするという手法を昨今まで続けることができたのは、両班メソッドを駆使できた環境にあるからじゃないか。そう「インターネットができる」まではな。インターネットが、朝鮮人の夢を殺してくれた。
id:arrow1953 のまんだらけの「禁書房」はオタクのキモさを周囲に知らしめる絶好の機会 - サブカル 語る。について批判する。
「若い女の子の多く集まるお店の前。」というのを考えてみた時に「そもそも、自らの性癖を周囲(しかも女性)に晒すことになる店なんぞに客はやってくるのだろうか?」という考えはなかったのだろうか?いやいや、おそらくあったのでしょう。ということはむしろ「女性たちに自分の性癖を晒すことになる」のが大前提であり、それこそこのお店の最大の「ウリ」と判断したのだと考えるほうが自然。
いや、それは不自然だw
まず、中野ブロードウェイはテナント部分も区分所有であり、以下のような理由が考えられる。
で、客が来るか来ないかでいえば、もともと周辺はまんだらけや、他のアダルトショップもあり、回遊性という意味では特に支障が無い。
つまり、目の前のファンシーショップのことを気にしていなかっただけ、と考える方が明らかに自然だろう。気に入らないものに対して、無理に悪意を見出そうとするのは人の心理ですが、書いていて気づかないのは、はっきり言ってかなり重症である。
一般的な形で社会にコミットしているエロ好きオタクや非オタクな社会人の皆さんはそんな環境を「キモい」と思うでしょう。社会にコミットできているエロ好きオタクにとって迷惑このうえありません。
社会というものについて深く考えることもできず、ただ性欲をダラダラと人目を憚らず周囲に垂れ流すだけの節度のない「オタク」ははっきりいって「ジャマ」。
しかし、そもそも「社会」とは何だろうか。単に、"いかがわしいものは排除する"程度の話であれば、それは、「社会」の話ではなく「世間」の話に過ぎないと増田は考える。これが、もし「社会」の問題であれば、ファンシーショップやその客側の利害や権利、まんだらけやその客側の利害や権利を洗い出して具体的に特定し、それを比較衡量し、なおかつ人権といった普遍的とされる概念に照らして判断する必要があるし、もし規制するとしても、最小限度の範囲で利益を考慮したかたちで行われる必要があるだろう。
id:arrow1953 の言い分を要約すると「"キモイ""節度のない""社会に対応できない非常識なオタク"は"ジャマ""迷惑"だから"駆除"すべき」といったことを言っていると思われる。ここで、注目すべきは「駆除」の条件である。
これらの、主観的な悪徳の評価は、おうおうとして少数民族や異端の迫害、村八分を行う理由として使われてきたものである。ちょうど先日9月1日は関東大震災の日だったが、その際に行われた朝鮮人やその他外国人、「アカ」、その他の余所者などの人々に対する虐殺は、このような理由のはっきりしない主観的な悪徳の評価が大きな背景としてあった。id:arrow1953 の主張は、関東大震災で虐殺に及んだ「普通の人々」とほぼ同じである。
なお、ちゃんと人権を学んだ人は「公共の福祉」つまり、権利の衝突から、必要最小限の自由の制約ということを考えるし、仮に自分が不快に思ったとしてもそんな感情はクソどうでもいいものとして棄却しちゃんと合理的な思考をするように訓練されているし、市民(≠大衆)はそう訓練されなければならないと増田は考えている。
ゾーニングを守ってさえいれば
この、「ゾーニングを守る」の一言で済ましてしまうことが、大きな問題である。
まず、完璧なゾーニングというのは不可能である。どんなに隠したところで、そこにそういうものがあることは隠すことができない。なぜならば、ゾーニングは中に何があるかを明示しなければゾーニングにならないからだ。また、厳しいゾーニングで広告宣伝が制約されたり、不便な立地に追いやられれば、当然に、売上や客足に影響するだろう。また、ゾーニングの対象をどのように選ぶかという問題もある。たとえば、ユダヤ人の経営する商店は特定街区にゾーニングするとすれば、それは単なるゲットーだ。
このように、一言で「ゾーニング」といっても、営業の自由やそれによる利益に対して配慮し、合理的に規制しうる最小限度の範囲で行うための子細な検討を要するはずである。それらを抜きに「いかがわしいアダルトショップが悪い!」みたいな雑なお気持ちで「ゾーニングしろ!」と吹き上がるのは、はっきり言って、コリアンタウンでデモをやる在特会の連中とさして変わらない。
本庄署では、前夜(三日夜)から保護していた朝鮮人が四十三名いたが、電話で、デマにおびえた人達から出動要請があって、警官は出はらっていた。
私が、警察に残って外からの電話に出ている時、警察がからっぽであることを見ていった奴がいたのだ。
(略)
本庄署へ引きかえしてきた三台のトラックは、朝鮮人を満載していた。私もそのトラックに乗っていたが、集まってきた群衆のなかに青木紋九郎という
ギュウタロウ(注:遊郭で客引き等を行う男子従業員)がいた。その紋九郎が、「あいつは、朝鮮人の偽巡査だ。あいつからやっちまえ」と煽動した。
それがあいずとなって、一斉に群衆が襲いかかり、あの惨劇がはじまったのだ。
(略)
惨殺の模様は、とうてい口では言いあらわせない。日本人の残虐さを思い知らされたような気がした。
何百人という群衆が暴れまわっているのを、一人や二人の巡査では、とうてい手出しも出来なかった。こういうのを見せられるならいっそ死にたいと考えたほどだ。
子供も沢山居たが、子供達は並べられて、親の見ているまえで首をはねられ、そのあと親達をはりつけにしていた。生きている朝鮮人の腕をのこぎりでひいている奴もいた。
それも、途中までやっちやあ、今度は他の朝鮮人をやるという状態で、その残酷さは見るに耐えなかった。
後でおばあさんと娘がきて、「自分の息子は東京でこのやつらのために殺された」といって、死体の目玉を出刃包刀でくりぬいているのも見た。
おとなしく送られてきた朝鮮人に民衆が集団で襲いかかり、牙をむけたところに熊谷の虐殺の特徴がある。
(略)
中心部入り口における殺戮に加わった民衆は、その昂奮をそのまま市街地へ持ち込んだ。彼らは血がついた刀、竹槍、棍棒を持って逃げた朝鮮人を探し、みつけ出しては殺す。
そこに自警のかけらは少しもない。狂気に支配されたとはいえ、血に飢えた者が獲物を捜し求め、狩りを楽しみ、みつけたら殺戮を楽しむ、というのが実相である。
殺戮は逃げた朝鮮人に向けられるだけではすまなくなった。逃げた者を探して殺すだけでは満足できなくなった殺戮者たちは、おとなしく数珠繋ぎで連行されている、
手を縛られたまま逃げる者、それを追いかける男。おとなしく縛られたままでいる朝鮮人、それを引っ立てて刀の試し斬りにする男。
自分で殺したくて、「こっちへまわせ」と息巻いている男。熊谷の町の中心部は、薄暮そして暗闇の中で殺戮のし放題であった。