はてなキーワード: 尊厳死とは
先進国って一つとでも思ってるんだろうか
Flag of Oregon.svg オレゴン州 - 1994年「尊厳死法 (Death with Dignity Act)」成立
Flag of Oregon.svg ワシントン州 – 2009年
Flag of Montana.svg モンタナ州 - 2009年
Flag of Vermont.svg バーモント州 - 2013年
Flag of New Mexico.svg ニューメキシコ州 - 2014年
Flag of California.svg カリフォルニア州 - 2015年[8]
ルクセンブルクの旗 ルクセンブルク - 2008年「安楽死法」可決。
故意に患者の死期を早める目的をもって行う処置。日本では以下の4要件を満たしていなければ患者自身の希望があったとしても違法行為とされる
・死が避けられず死期が迫っている
死ぬと分かっていながら救命・延命に必要な処置をとらないこと。
日本においてもDNAR等、生前に本人や家族の意向を聴取して急変時に挿管や心肺蘇生、補助循環などどのような処置を行うか・行わないかを決めておくことがある。
これは患者や患者家族が説明を聞いたうえで医療を選択する権利でもある。
生命短縮の危険を伴う苦痛緩和の処置を行うこと。モルヒネやドルミカムなどの投与。ただしこれらの処置が本当に生命短縮を伴うかは議論が定まっていない
不治で末期に至った患者が、本人の意思に基づいて、死期を単に引き延ばすためだけの延命措置を断わり、自然の経過のまま受け入れる死のこと(日本尊厳死協会)
尊厳死について決まった定義がないので日本尊厳死協会の言う尊厳死を載せる。
意識がない状態でもリビングウィル(終末期医療における事前指示書)を残しておくことで自分の意思を表明することができる。
消極的安楽死と似ているが、国によっては積極的安楽死を含むことがある
尊厳死=消極的安楽死は日本では罰せられず、厚労省から終末医療の決定プロセスとしてガイドラインも出てるぞ。医師が応じないならそいつがガイドラインに反してるし戦え。
今回のニュースで有名になってるけど、要件満たせば積極的安楽死でも医師は罪に問われない。
それで十分だろ。
安楽死尊厳死を認めてしまうと、あまり死にたくはないが状況的に尊厳死もできる人が、強制的に尊厳死を選ばされてしまう恐れがある。
もっともです。
ただ、だから尊厳死はダメ、ということで止まって欲しくありません。死にたくても自分の力では簡単に死ねない人が「死にたい」と願った時、死ぬ権利はないのでしょうか。
難病が発覚したが、まだ辛うじて自由がきくうちに死んでおくべきなのでしょうか。それこそ、将来死にたい時に死ねないことを防ぐためにできるうちにやっておくと、死を助長することにはならないでしょうか。
生きたいと望む人が生きられる制度や環境は当然整って然るべきです。ただ、全ての人が難病や障害を抱えてまで生きたいと思っている訳では無いことをわかって欲しい。いっその事死んでしまいたいと心の底から思っている人の気持ちは犠牲にされてもいいのでしょうか。
難病をかかえればどうしたって家族や周囲に迷惑をかけます。自分の時間を犠牲にして看病してくれる人を前に、軽々しく死にたいとは言えない。ましてや殺してくれなんて言えない。でももう生きたくない。終わりにしたい。
健康な人には分からないでしょうし、なにより健康な人は周りを見る余裕があります。「尊厳死は分かるけど、死を強要される人がいてはいけないよね」と。でも病気にかかれば見知らぬ他人のことより今苦しい自分を優先したくなります。とにかく辛さから開放されたい。
安楽死なんてない
安楽に他殺してほしいんだろ その手をかしてくれた人に一緒に死刑になって死んでほしいとか甘ったれにもほどがある
制度化を望むなよという話に過ぎない
それにお前が言う底辺とやらに対する嘱託殺人の権利(安楽死や尊厳死とは全く違う概念だということを強調しておく)はこの世界のどこでも認められてないです
植松は人間と非人間の線引きの意識があり、第三者が同意なく(意思表示できなければ)殺して良いとする優生思想だが、
大久保山本は腐っても医師なので「全ての医療行為は患者の同意がいる」としており、終末医療の在り方と医療経済学的な問題意識だと思う。
欧米で合法化されている終末期の安楽死・尊厳死は、"命の選別"とか"優生思想"ではないのだが
マスメディアや政治家がその辺りを混同してるのは意図的なのかバカなのか。
優生学(ゆうせいがく、英: eugenics)は、応用科学に分類される学問の一種で、一般に「生物の遺伝構造を改良する事で人類の進歩を促そうとする科学的社会改良運動」と定義される[2]。
優生学とは,「人類の遺伝的素質を改善することを目的とし,悪質の遺伝的形質を淘汰し,優良なものを保存することを研究する学問」である(『広辞苑 第6版』岩波書店,2008)。
もしも、国会議員が国会審議中に殺害事件を起こすとどうなるの?
確か、国会議員には不逮捕特権というものがある。国会議員にはこの特権があるから逮捕されないと聞いた。
医師がALS患者を殺害したとして嘱託殺人容疑で逮捕される事件が起きた。これをきっかけに、尊厳死についての議論が政治家を巻き込んで起きているけど、いずれ国会審議中にリンチ殺人事件が起こる気がする。実際、国会審議を学級崩壊と揶揄している人がいるわけで。それに、弱い人に当たり散らしそうな人も多数いる気がする。
いいや忘れてないよ
木村花とこいつの自殺の時は死んだらイケナイ連呼しているくせに
健常者だったら自殺したらいけないし安楽死を進めるのもNGなのにALS患者だったら「なんでお前死なないんだ?安楽死する権利があるだろ?」とやっていいのでしょ
恐ろしい差別だ
なぜ一足跳びに「安楽死」とか「尊厳死」とかの技術的な問題を議論しようとするのだろう。
まず「死ぬ権利」についての議論が全く進んでいないのに、「死ぬ権利」を保障する制度として妥当かどうかもわからない「安楽死」や「尊厳死」の是非について議論しても答えなんて出るわけないと思うのだが。
個人的に、「死ぬ権利」は認められるべきだと思うけど、それが「安楽死」や「尊厳死」によって保障されるものかどうかには幾らか懐疑的でもある。人は無理矢理生かされているわけではないはず。「死ぬ権利」があるからこそ、「生きる権利」は「義務」ではなく「権利」足り得ると思う。
私は安楽死を支持する。その早急な法制化を望む。それへの抵抗勢力は徹底的に粉砕されるべきだ。
そう考えるに至った経緯を、以下に書く。
何年か前、某所で尊厳死・安楽死に関する議論をしたことがある。私が安楽死について肯定的なことを書いたところ、反対派から反論されたのだ。私の書き方もあまり良くなかったので、議論を挑まれたこと自体は構わない。だがその議論で、私は安楽死に対する信念を強化することになった。
議論の中で、私は自分の家系について触れた。私の家系はがん患者が多く、しかも体中を蝕まれて苦しみながら死んでいった者が何人もいる。私もそうなることはほぼ確実で、だから私は苦痛に満ちた死よりも慈悲の一撃による安らかな死を望む、それを邪魔する安楽死反対派のことは支持できない、という趣旨のことを書いた。すると議論相手は、次のように書き込んだ。
「それでも、自殺することは禁じられていません」
唖然とした。私はさっきまで、体中がボロボロになってひどい苦痛に苛まれていた親族の話をしていたのだが。「自殺できるでしょ」って、苦しまない自殺を自力で遂行できるのは健康な人間だけだという程度の想像力も彼にはないのだろうか? そりゃ自分一人で自殺する分には法によるお咎めなどないことは私だって知っている。私はただ死にたいのではなく安らかに死にたいのだ。
さらに彼は、私の自由主義的な主張にも反駁を加えてきた。私は、同性婚や選択的夫婦別姓と同じく選択の権利を求めているだけなのに、同性婚や別姓の問題では同じ側にいたはずの人たちからなぜここまで否定されるのかが理解できない、と書いたのだが、彼は言った。同性婚や別姓を主張する運動は同性婚や別姓を選んだ人たちが幸福に生きるための運動をしてきたが、安楽死推進派は病に苦しむ人びとが幸せに生きられるための運動をしてこなかった、だからそれらは同列には論じられない、というのだ。
他人の幸福のための運動をしなければ、私には安らかに死ぬ権利すらないと言いたいのだろうか?
この時点で確信した。安楽死に反対する連中には人の心がない。彼らは私が苦しんで死ぬことを望んでいる。
もちろん彼にそんな意図はないのだろう。でも、彼は私の安らかな死を、よくわからない運動の都合とか、見ず知らずの他人の選択とか、そういったものの下に置いたのだから、結果としてはそういうことになる。私にとって見ず知らずの誰かが望まぬ死を強制されないかわりに、私は苦しんで死ねというわけだ。
優生学は間違っている。高齢者やALS患者や知的障害者が「社会のお荷物」だからというとんでもない理由で意に反した死を強制されるなんてことがあってはいけない。だから、安楽死を認めるが、その際には厳格な手続きを導入すべきだ、強制を排せる仕組みを構築しなければ、という議論なら私は賛成していた(というか、そういう施策を私は支持していた)。私は彼らに死んでほしいわけじゃなく、自分が安らかに死にたいだけだから。選択の自由を認めてほしいだけだから。
でも彼らは、意に反した死を強制されるかもしれない人たちを守るために、私が安らかに死ぬ権利は認めないのだという。
見ず知らずのやつらが自分の意志を貫けないという恐れのせいで、なんで私が苦しんで死ななきゃならないんだ?
それ、私には関係ないよね?
苦しまずに死にたいというのは、そんなに強く否定されるほど、他人の都合で却下されなければいけないほど身勝手な望みなのか?
安楽死に反対する人たちの書いたものを色々読んだ。彼らの書いたものの中には、苦痛のない死を迎える権利についてはほとんど書かれていなかった。彼らにとってそれはどうでもいいことらしい。
私の苦痛があなたたちにとってどうでもいいなら、あなたたちに死が強制されることも私にとってどうでもいいことになってしまうのだが。
あの議論を経て、私の考え方は変わった。安楽死反対派は本質的に、私が苦しみに満ちた死ではなく安らいだ死を迎えることはたいしたことではないと思っているということが理解できたからだ。だったら、ALS患者や高齢者が死ねという圧力に抗しきれず安楽死の書類にサインしてしまうことだって、私にとってはどうでもいい。見ず知らずの他人が意志薄弱すぎて死ねと言われて死んでしまうことは私には何も関係ない。私はただ、ひたすらに安楽死を支持すればいい。自分の権利を強く主張すればいい。
私は、私の苦痛を切り捨てる冷血漢どもよりは、私に苦痛のない死を保証してくれる人たちを支持する。結果として死を強制される人が出てきたところで知ったこっちゃない。だって安楽死反対派は、私に苦痛を強制しようとしてきたのだから。そんなやつらが死を強制されることを、なんで私が心配しなきゃならないんだ? あの冷血漢どもが私の苦痛を心配しないなら、私にもあいつらの死を心配する義理なんてない。
だから私は、たとえそれが新自由主義者であろうが、安楽死を推進する側を支持することを決めている。私が苦しんで死ぬことを望んでいる側にはつかない、そんなやつらには徹底的に立ち向かって自分の選択の権利を守ると、反対派との議論の中で決意したのだ。
安楽死は早急に実現されるべきだ。反対派に屈してはならない。彼らは人の心がない冷血漢で、他人の苦しみを座視する連中なのだから。
ところで、医者には応召義務があるのだから、安楽死を認めることは医者に殺人を強要することになりかねない、という主張もあり、これはもっともだと思う。だから、安楽死に際しては応召義務を解除しうる法整備をすればいいと思う。それはブラックリスト方式で、デフォルトは安楽死を認めるものとし、安楽死を拒否する医者は役所に届け出た上でそのことを周知する看板かなにかを設置しておき、そういう看板が予め設置されている病院では安楽死を断れる、としておけばよいのではないか。これなら死ぬ権利と殺したくない権利を両立できるかと思う。死にたい患者はその病院を避けて別の病院にかかればいいのだ。
やまゆり園の大量殺人を引き合いに出して非難している人がいて、犯人達は「高齢者を『枯らす』技術」などという本を匿名で書いているそうなので、その気持ちはわかるし、今回の犯人達の人間性はやまゆり園の犯人とそう遠いところにはないはずだと俺も思う。
ただ、やまゆり園の犯人よりもずっと教養と知性に恵まれているであろう現役の医師が犯人なので「お前らは植松と同じだ!」って言われたら、
「アレは単なる大量殺人で安楽死でも尊厳死でもない。我々と同じにされては困るww」
とか、平然と言いそうな気がする。
安楽死反対派の人間は「それは優生思想につながるんだッ!」「過去の凄惨な歴史に学ぶつもりはないのかッ?」「人は皆生きる権利を持っているッ!」なんて言いまくってるじゃん
ご立派ですけどね、ホンマか?それ
俺はこのごろ弱者の包摂ってなんやかんや無理なんじゃねえかと思うよ 人間はそんなことができるほど強くないっていうかさ
動ける弱者をみたら搾取し、動けない弱者をみたら無視する 他人の目があったら嫌々助けるが、嫌そうな態度はことさら隠さない それが普通の人間なんじゃないか?
だからさ、搾取されんのも嫌だし、放置されて餓死するのも嫌だし、かと言って嫌々助けられるのも嫌だ、いっそ殺してくれよと言ってるわけですよ
それがなんだ 「生きる権利がある」じゃねんだよ 生きるってなんだよ?クソみたいな人生だ早く死にたいどうして生まれないといけなかったんだもう最悪だ誰か殺してくれと思い続けながら生命をつなぐことか?「それでも生きていればいつかいいことがある」とでも言うんですかね なにかひとつでもそれに根拠はあるのか?
殺せよ!
殺せつってんだよ
クソみたいな暮らしを無理矢理送らせて、生は素晴らしい、生きられてよかったねと思って、それで金なんかは一切よこさねえでてめえの人生を楽しく生きてんだろうが
せめて殺せよ
雑魚を切り捨てて死体の上に生きるのは嫌だから殺すな!でも面倒見るのは嫌です そりゃねえだろ
社会は支え合いじゃないですか 俺は死にたい、皆さんは俺みたいなゴミを排除したい ほらWIN-WINじゃないですか
劣ったものの生は死より辛いよ
もしかして人生は等しく無意味だってことから目を逸らしたいのか?だから生きることそのものを過剰に美化してさあ、そこから外れるような安楽死尊厳死をぶっ叩こうって気になるんですかね
アンタの人生観なんて知らねえよお こっちは40年クソみたいな労働するかわりに多少金払ったら殺してくれねえかつってるの
奴隷労働させんのと殺すのどっちが人道的だよ
殺してくれよお
手を汚せよ 偽善者
年寄りが嫌い…自分の冷酷さにゾッとするという52歳女性に、鴻上尚史が「それは逆では?」と思ったこととは (1/5) 〈dot.〉|AERA dot. (アエラドット)
「老い」は、間違いなくいろんな意味での「劣化」だと思います。それも「死へとつながる劣化」です。
その冷厳な事実をどう受け止めるのか。
(中略)
そして、やがて自分がそうなった時には、どうするのかという問いかけに移りました。
(中略)
この世に生み出されたらそこから死に向かって一直線なのは避けられないのに、老いは避けられず老いを恐れる人は多いのに、尊厳死(自殺幇助)が日本では全然議論されないのはなぜだろうか…。
安楽死/尊厳死トピックについてワイのアンテナが低いのはまあそうなんだけど、でも例えば日本で、いわゆる死ぬ権利¹が夫婦別姓や同性婚の是非ほど広く議論されてるか? と言われればそこまでされてないと思うんだよな。人間全員回避不可能なイベントにも関わらず。
もしかしたら回避できてるやつが大半で黙っているのか…? サイレントマジョリティーというやつで、ワイや議論してる人間たちやメンタルを病んだ民が苦悩しているのを見て笑っているのか…?(ついでにメンタル安定して薬も出なくなったし! とコロナこわくて通院中断してから数ヶ月たってることにもいま気づいた)
それでも世界を見ればだんだんこの辺の話も進んでるとは思うけどね。この自殺マシーンを作った博士へのインタビューは興味深い。
どのような反論が多いですか?
いちばんよく聞くのが、〈理性的自殺〉などありえない、精神病が原因で死を望むようになるのだ、という意見です。しかし、私は断固否定します。死を望む気持ちは、治療すべき疾患ではありません。また、他の反論として、人生はギフトなのだから、敬意を払うべきだ、という意見もあります。それに対してはこういえます。もし生命がギフトだとしたら、それを捨てるのも自分の勝手だ、と。さもなくば、それはギフトとはいえません。ただの重荷です。
尊厳死を選ぶのは、〈権利〉だと信じています。例えば、今この瞬間、あなたが外へ出て自殺をする、と表明したら、私は阻止すべきでしょうか? そうじゃないでしょう。あなたは自立した個人であり、あなたがどう決断しようと自由です。もちろん喜びはしませんよ。でも、あなたの決断ですから。その場合、私にできるのは、安らかな死を迎えられるよう協力することです。
昨今のお気持ち表明から、自己肯定感について語られているブログを読んだので自分なりに考えてみた。
昔少し学校で勉強はしたけど、概念的な部分のみなので知識が不足していることを前提に、そこから自分なりの考えで述べているので正しくはない。
自己肯定感とは、ざっくり言うと自分を存在価値を認知できること。
自分生きててごめんという思考が存在しない状態で、メンタルについてひどく悩まない状態で、人類を滅ぼしたいとか破壊したいという発想にならず、基本生きることに前向きでとても健康な精神を指すのだと思う。
では自己肯定感がないと
1.褒められても素直に受け取れない
2.人類はほぼ敵
多分もっとあるけど思いつくところだけ。
とても生き辛いのではやく尊厳死を認めてほしい。
1.褒められても素直に受け取れない
服可愛いね!と言われても、
いやこれ安かったし。と、なり、何故か自らを貶す方向に走る。
お世辞もわかんねーのかよクズ、と心の中で思われたくないことからの防衛反応から言うのだろう。
そこは「ありがとう!ショップで見つけて一目惚れしたんだー可愛いよねこれ!」
と返せば、ハッピー以下にはならないのに…
2.人類ほぼ敵
他人は自分を傷つけて楽しむ存在で、自分を無い物として扱うか、自身を高める為の踏み台、ヒトではなく物以下、と考えてしまう。
そのため自分を守るために他人を敵として認知するし、仲良くなった人でもいつか裏切る…と信用しきれない。
人を信じることができない自分自身にもドン引きし、自分も敵と認知してとことんメンタルを貶める。
自分さえ信じることができれば、他人が本当に敵でもワンパンで倒せるのに….
他人を評価すると自分がショボく感じる、自分の順位が下がると思い、素直に評価できない。
全て自己防衛のため。そして他人と自分が同一線上にいると思っているから起きるギミックなのだが、基本的に平行線上の話なので褒めたところでこちらが下がるとかはない。しかし脳みそが勘違いをするのだ。
以上3つのことで悩まされて心はぐちゃぐちゃ、脳は回線が入り乱れ、次から次へと自己嫌悪が積み重なり、更にはこれを抑えて日常を生きねばならないので、人間の外殻をもった祟り神状態。
はやく死にたいけど、ハッピーに成らずに死ぬのは悔しいけど、糸口が見つからない…となり救いはゼロ。
人を信用して頼ったり気持ちを吐露できれば少しは落ち着くのに…
自己肯定感がないと、人の皮を被った祟り神状態で生きねばならないと言うことだと私は思っている。
じゃあ自己肯定感とやらを高めればいい、努力が足りない と自己責任論者は言うだろう。
うるせぇ。やれたらやってるわ。
こんなに苦しいのに自己肯定感を高められないのはなぜか?
幼少期の大人との関わりで自己肯定感が芽生える、というより与えられるのだ。
幼少期に安全を感じられる環境、すべてを受け止めてくれる環境があることで、
帰る場所がある!ここなら守ってもらえるから少し怖いけど冒険にいける!
と、世界に一歩踏み出せる。
この行動が自己肯定感の礎となり、成長するごとに積み重なっていき、自己肯定感という言葉すら認知せずとも潜在的に自己を肯定できる人間になるのだと思う。
そう、自己肯定感の正体は、愛。
愛による見えないバリアで守られている状態が自己肯定感があるという状態なのではないか。
最初は関わる大人から与えられるが、次第に貰った愛を帯電できるようになり、それをエネルギーに自家発電ができるようになる。大人からの愛と自家発電した愛で自分を守ることができるようになるのだ。
もう簡単なことで、自己肯定感がないということは、上記の状態の逆を指すのだろう。
愛を帯電したり発電できない状態。
愛による基盤がガタガタで、しかも隙間だらけ。
幼少期に大人から適切な庇護を受けていない、もらえるべき愛が足りないガス欠で、ガスを入れる器に穴が空いた状態なのだろう。
愛のパワーは強いので、自らを守る愛のパワーで相殺しないと、そのエネルギーでふっとばされてしまうので、自己肯定感がない人はシャドーボクシングをするのだろう。
自己肯定感がある人は燃費の良い車で、しかも自家発電まででき、キラキラとした見た目で颯爽と道を走る。
自己肯定感がない人は燃費の悪い車で、常にガス欠、ガソリンを足してもタンクに穴が空いてたり故障している状態なので、動きはするけど速度は遅い。
というわけで、大人になってから自己肯定感を構築するのはとても大変なのだ。礎がガタガタなのだから。そしてもう方法すらわからない。
だから自己肯定感がない人は、外部の評価に依存する。自分で愛を発電できないから、外部で売っている愛に手を出してそれで隙間を埋めようとする。しかしそれは一時的なもの。燃費も悪く、しかも器に穴が空いているので継ぎ足したことろで零れ落ちる。
もうこれは愛ある人から愛をお裾分けしてもらい、それで穴を埋めていくしかない。
運は鍛えられるらしいけど、鍛え方は知らんので、もう神頼みをするしかない。
愛ある人に出会えてもそれに気づかなかったら意味がない。ああ、この人はいい人だ。と気づかなければ、愛のパワーすらただのエネルギーの塊として爆弾になる。
褒めてくれるし励ましてくれる、慰めてくれる(でも下心があったりマウント取られてんのかな)とか考えずにアホになって、その人の愛に浸ろう。
最後にしたたかさ。自己肯定感がない人は愛に飢えているからまぁ騙されやすい。それを自覚し、逆に利用してやる、くらいの気概を持つ必要がある。あまり強気すぎると自己愛性の気質が強くなるので、ほどほどに強気に、いつもの自虐を意識しながらほどほどに愛ある人の善意を利用する。
これで自分の器の穴が塞げるだろう。そうしたらお礼を言う。愛を伝える。優しいよね。素敵だね。いいやつだよ。と、さらっと。
褒めなれてないのに頑張る必要はない。少しずつ、本人を褒めるのが難しいなら持ち物を褒めればいい。そうやって少しずつお礼をしていく。
するとなんだか自分がいい人になった気がして気分がいい。そうなるといい循環ができてくるはず。多分。
最初は自分のために動くように。利用してやる気持ちで。どうせ利用し切れないで潰れる小心者なので悪人になったつもりで愛を持っている人からお裾分けを貰いにいこう。少しくらい貰っても本人にとってはなんのダメージもないだろう。
悪人がいい人の心に触れて改心するアレ。まさにそんなベタな展開に持ち込めればうまくいくのではないか。
自己肯定感がない人がちょっと自己肯定感がある人になるだけで、周りもハッピーになるはず。
周りのために、世界平和のために、できる範囲で愛のお裾分けを拾いに行ってもいいのではないか。
最後に。ここに書いてあることは持論であり、なんの裏付けもない、ただ一個人の言葉でしかないです。
自身の考えをまとめる為に利用したり、憂さ晴らしに非難することに利用してもいいかもしれません。
それにより少しでも救われる、気分が良くなることがあれば私は嬉しいです。