はてなキーワード: 社会改良とは
過去・最近を問わず、日本のネット上の論争や(不法行為が原因ではない・議論を呼ぶタイプの)炎上の行き着く所や教訓って「お互いの不快感や迷惑を程よく受け入れあいましょう」でしかないよね
出羽守だったら「外国ではそうしている!」だし、ネトウヨなら「日本はそうしてきた!orそうするのが日本人!」だし
そしていろいろな論争すら、一億二千万人分の精々ネットに噛り付いている数十万人(ひろゆきとかが取り上げてこのレベル)に薄っすらと響くレベルでしょ
西欧のmetooみたいな「成功事例」って日本にそもそもあるの?いや何をもって成功とするかも上手く説明できないけど
でも「ネットでそういうのを騒ぐ方が間違い」「誰かの養分になってお終い」みたいな教訓ばかり積み重なってるようにしかみえないし(政治的かつ因習的な問題だったmetooですら単純な、「社会改良成功」みたいな結果になってないわけで)
それ自体がみんなわかって来てるから老婆心でも相対主義でも何でも良いけど、最近はそもそも最初から冒頭の「お互いの不快や迷惑を程よく受け入れあいましょう」みたいなことしか言わない・言えない人も増えてるんでしょ
時々「正義疲れ」「ポリコレ疲れ」とか言われてリベラルがそれに反発する風景もあるけど、もうネット上の議論のスピードが人間に元々備わった進歩の速度から乖離しすぎていること・それがほとんど何ももたらせてないことが
控えめに見ても2ch以来の数々の事例でわかってしまった以上、「お前はお前の結論を出せ」みたいに言われても「お互いの不快や迷惑を程よく受け入れあいましょう」しか出ないよ
もし建設的な何かをそれでもひねり出せと言われても、最初からネトウヨもネトリベもフェミもアンチフェミもインターネットを電子メール以上に利用しないほうが良いんじゃないのみたいな意見しか出ない
ネットで何かの論争を仕掛けたりあるいは巻き込まれたうえで参加したりしている人がいたら、どんな感覚?でそれに加わってるのか教えてほしい
人格攻撃するなら、自称弱者男性って独逸もこいつも卑屈で攻撃的で必死でつまらなくてキモイから嫌いなんだけど
しかし案外…いややはりと言うべきか自分を掴むカギはそこにあるのでもうちょっと言語化してみる
弱者男性の定義は色々あるけど、社会的に不遇な男性ってのは共通認識ではあるまいかアルルメイヤ
どっちもありうる…そんだけだ
じゃあ、社会に不満があるから自分を変えよう。それが嫌なら耳と目を閉じ、口をつぐんで孤独に暮らそう、とシコシコ自分磨きするでもなく
自分こそが弱者なんだから、女性や老人や障害者ではなく、俺のような弱者男性こそが救われるべきだと主張する、こいつが悪い、弱者男性でございます
個人的には、弱者男性は新自由主義の犠牲になったのだ…犠牲の犠牲…その犠牲になとは思うけど
君ら機会均等じゃなくて俺だけ優先して救えって主張してるじゃん。君らこそリベラルの敵じゃん。社会改良の邪魔ァすんなら、死ね!って感じDEATH
つーわけで、弱者男性が悲嘆してても、責任甜花すんな、甘えん奈、としか思えんが
植松は人間と非人間の線引きの意識があり、第三者が同意なく(意思表示できなければ)殺して良いとする優生思想だが、
大久保山本は腐っても医師なので「全ての医療行為は患者の同意がいる」としており、終末医療の在り方と医療経済学的な問題意識だと思う。
欧米で合法化されている終末期の安楽死・尊厳死は、"命の選別"とか"優生思想"ではないのだが
マスメディアや政治家がその辺りを混同してるのは意図的なのかバカなのか。
優生学(ゆうせいがく、英: eugenics)は、応用科学に分類される学問の一種で、一般に「生物の遺伝構造を改良する事で人類の進歩を促そうとする科学的社会改良運動」と定義される[2]。
優生学とは,「人類の遺伝的素質を改善することを目的とし,悪質の遺伝的形質を淘汰し,優良なものを保存することを研究する学問」である(『広辞苑 第6版』岩波書店,2008)。
先週、ラジオで宮台が、ラディカルフェミニズムに必要なのは「教育の方法」みたいな論理を紹介してたよ。うろ覚え。全然ちがうかも。
生物的性差と、社会的性差への理解とか、教育と理解のためのアプローチがおかしいのがいて
フェミ側も反フェミも、「陣取り合戦」として捉えちゃってる残念なのがいるから、社会改良じゃなくてコミュニケーション断絶になってるのかねーとか。
陣取り合戦を仕掛けられたという憤りを感じるなら、それはまぁある程度は理解できるしね。まぁ、個人的には真ん中ちかくまでは文句言うなしとは思うけどさ
あと、陣取られた!って思う人の世界の狭さが個人的にはすごく嫌だ。元のものを取り返そうと思うより、ニューワールドを開拓したほうが風通し良いと感じる。
本当はそうなんだろうと、私も思うけどね。
現実を見ると、社会運動家では飯は食えなくて、扇動家になった方が美味しいごはんが食べられたりするんだろうなと邪推したりもするね
実際に公共施設をバリアフリーにするには金も時間もかかるのは、バカじゃなきゃ分かるだろうし、本当に社会改良がしたいのなら、それぞれの公共施設のバリアフリー設備の整備計画ぐらい調べておけよとも思ったりするし。
個人的には、点で活動しようとしがちな人は「扇動家」だと思うし、ベクトルを描こうという意思を感じる人は応援したりはしているけれど。
今のところ、木島氏も乙武氏に対しても、彼らの主張や活動を応援したいとは積極的には思えないんだよね。「点」にどれだけリソースを割いても社会にとっての意味があるようには思えなくて。
準備が整う間は乗れないから我慢しろっていうのが、自分達には行きたい時に行けないのか?という憤りになってしまったのだろうか。
善意に取ればそう取れるけど、当該の彼の他の言動を見てると、「プロ」なんだろうね、と考える方が現実的かな。
「プロ」というのは当たり屋ということではなく、社会運動家として活動しているという意味で。
一方で、当該の木島氏も乙武の記事もそうだが、「現実に今起きている齟齬に対し、より良い未来に進んでいけそうなベクトルの一点を見出そう」という態度ではないからなぁ。
社会運動家としては、今の方法ではB級でしかないよなと思う。理想を言うだけパフォーマンスするだけってホント簡単なんだ。社会運動家というよりも扇動家に近い結果になってしまっているしね。
個人的に理想としているのは、社会運動家の働きによって社会改良が実現することなんだけど、アジテーションとパフォーマンスではそれは無理だと思うよ。