はてなキーワード: 宗教戦争とは
私は今漫画業界の末席にいて、且つ今の日本の漫画業界のあり方は好きなほうです。
だから外圧に感じる外国からの意見というのは煩わしく感じているし過ぎた意見は文化衝突で
それにあまりちゃんと知識もないのでいろいろ間違ってたら申し訳ないです。
今回はそんな自分のしごとである漫画とポリコレについての話というか、愚痴です。
上記の通りそういう立場ではありますが私はポリティカル・コレクトネスの考えは支持する立場でいます。
だからポリティカルコレクトネスを腐しすぎるオタクは私も大嫌いです
今は変革の過渡期であり厳しいのも当然でそれでも私達の次世代の子どもたちが差別や偏見に苦しまないために
自分の愛してたものをあえて手放す時期なのかもなとも考え直したりもしました。
だけど今その考えがかなり揺らいでいます。
海外や国内の、アメリカなどに精通している方からは日本の漫画は海外に比べて
ポリティカル・コレクトネスの意識もエンパワメントもエクイティも欠いてるというのは本当散々言われ続けたことです。
(これに関しては半分その通りでなぜなら日本の漫画は消費者第一主義だからです。
読者の読みたいものを描くのが仕事です。千差万別有り人権を無視したようなポルノから
フェミニズムやエンパワメントなどを主題とした漫画もあり一括りで言えない部分があります。
そしてどれだけ過激に思える漫画でも配慮というのは確実にされていますしチェックは入ります。
その作品がどれだけポリコレに配慮するか、エンパワメントを含むかなどは作者個人の思想によると
いったところが大きくほとんどの編集部は作家の思想を尊重してくれます。)
それだけ海外から日本の漫画は遅れていて海外の常識や思想をアップデートしなければ
取り残されて業界は死んでいくし次世代の子どもたちに禍根も残していくのではとおもうところもありました。
でも結果がこれで、結局海外が標榜する政治的配慮に日本は入ってないんだなとわかりました。
本来ならこれを打ち壊すための考えがポリティカル・コレクトネスなんだけど
これのために愛してる物を手放そうとしてたのにこんなんじゃまるで
搾取されてるのに気づかずに権力者に阿ってるみたいで馬鹿みたいだなと思ったし
結局これはただのムーブメントでしかなくてこれに乗って次世代の子達は本当に幸せになれるのかなって
疑問を抱くようになってしまった
ミームつくったり乗っかってはしゃいでるのはアメリカ人全体じゃなくて馬鹿でポリコレに無頓着な人種差別的人間かもしれないけど
多様性やエンパワメントとフェミニズム、それにトキシック・マスキュリニティからの解放の点で
褒めそやれてた映画の広報の人間はそれに見合うきっとそれなりの大学をでた教養ある人間なんじゃないんですか?
そんなひとって国の代表的存在だと思うけどそんな人があの意識なら海外にとって
虐殺行為って多様性の否定よりずっと罪が軽いんだなと思ったしそんな国から発祥した考えに私は説得力も感じられなくなりました。
爆弾の下には惨たらしく亡くなる方がいるって戦争たくさんしてる国だったら容易に
向こうの言う正義って本質はからっぽなんだなってガッカリしてもいいじゃんという気持ちです
バービーが無邪気にはしゃいだピンクのキノコ雲の下には無差別に殺害された
日本人の子どもたちの命はバービーにとって羽より軽いんだなあと思いました。
それでもポリティカル・コレクトネスについてはこれからも必要だと思っていますし
そしてオタク共は皆人権意識が低くてポリコレが嫌いって思ってる他人を見下す意識高い人間も嫌い
1stの戦いでジオンは敗戦?休戦?したから、 Zは連邦の内ゲバの話。
1stと打って変わって、主人公はスペースノイド寄りリベラルのエゥーゴ側で、アースノイドタカ派のティターンズが「敵」。だからシャアも「味方」についてる。
ティターンズは、アニメ的に「敵」のアイコンとして分かりやすいからジオンでお馴染みモノアイ機体に乗るけど、アースノイド寄りという皮肉。
紛らわしいな。
アムロは強すぎるし反NT的な思想から身内の連邦から危険認定を受けて軟禁されて、ティターンズにちょっと手を貸したけど宇宙には上がらずフェードアウトだったかな。
シロッコはティターンズのなんか優生思想のやべー奴。アクシズはジオウヨが集まったネオナチみたいな集団で、リーダーのハマーンはシャアの元カノでなんか痴情のもつれがあったらしい。ってイメージ。
百式がキュベレイとジ・Oにボコボコにされてたのは、シロッコはティターンズだからまあ分かるけど、アクシズからもなんか反感を買ったのかな。ハマーンの私怨なのかな。
詳細も結末もあんまり覚えてないから、そもそも連 邦同士で争うったって、MSでドンパチやって揉め事の種になる資源豊かな地球を解放したい/守りたいのか、降参させて言い分を飲ませたい宗教戦争なのか、何を争ってんのかがよく分からん。
カミーユは他者の気持ちに敏感だけど自分自身も繊細すぎるから、感度3000倍でシロッコの最後っ屁の悪意を受けて発狂したのは覚えてる。
マチルダとかランバ・ラルとか大人の背中を見てナイーブさに折り合いをつけたアムロと違って、カミーユは周りも余裕がなかったって印象。ランバ・ラルに相当するポジションもヤザンとかいうやべー奴だし。でもアポリーとロベルトみたいな有能中堅キャラ好き。
この問題は何度も世に出てきていると思うが、法治国家のことを勘違いしている人がけっこういる。
表現の自由界隈からも「法律を超えたら表現の自由はない」ってのが無邪気に言われまくってるけどさ、じゃあ、「本日から漫画を描いてはいけない」って法律ができた瞬間、漫画を描く表現の自由はなくなるの?逆なんだよ。表現の自由が先にあって、それを侵さない範囲で規制が許されるだけ。
これに対して
自由を侵害する法律が作られたら法の手続きに基づいて侵害されないように法改正をするのが法治国家の自由の行使なのだ。
法治国家原理は、法律の法規創造力の原則(国民の権利を新たに制限し、義務を課す法規範は国民代表議会のみが作ることができ、行政が立法してはならない※)、法律の優位の原則(行政活動は議会制定法に反してはならない)、法律の留保の原則(国民の権利を新たに制限し、義務を課す行政活動は、法律によって授権されていなければならない)から成り立つ。これらのどこにも、自由を侵害する法律が作られたら、法改正を待つべきであり、あえて規制に逆らうべきではない、という議論は含まれない。
※これは行政に関する原理であるというのがミソで、私人同士で新たな義務を課すのは、原則として自由である。たとえば、100万円を借りるという金銭消費貸借契約を結べば、あなたはカネを返す義務を課されることになる。それに先だって国民代表議会の授権規範が必要であるというのは馬鹿げている。しかし、原則が自由だからこそ、社会における事実上の力関係によって一方的に立場が弱い契約を結ばされるということが起きる。そこで、契約の自由を制限する法律が制定されたり(例えば借地借家法を思い浮かべよ)、裁判所の判例法理によって調整が図られることがある。
二番目のツイートは、法治国家を(古代中国の法治国家の伝統もあって)遵法義務の問題と取り違えているだけで、些末な揚げ足取りではないかと思われるかもしれない。しかし、遵法義務の問題として考えてもおかしい。もちろん、国法は自らに従わない者に対して制裁の仕組みを用意することが多い。刑法にせよ、行政上の何らかの義務履行確保の手法にしても。刑罰という結果を避けるために従った方がベターであるというプラクティカルな議論としては意味があるだろう(事実としての強制秩序の問題)。しかし、それと服従義務とを混同するべきではない。たいていの法学者は、不正な法に対して服従する義務はないと考えているのではないか(例:ラートブルフ「法律による不法と法律を超える法」)。ラズなんかは、それを超えて、一般論としては国法への服従義務などない、と言っているようだ。
ただ、これは難しい問題で、誰が不正かどうかを判断するのかという問題がある。万人が自らに都合の悪い法を不正であると判断すれば、アナーキーとなり、宗教戦争の再来である※。しかし、実定法にただただ服従するべしと言えば、ナチスの法にも服従する義務があるのか(事実として強制されるからやむなく従うのではなく)と言われてしまう。結局、個々の法規範に則して個別的に判断する他あるまい。上記のツイートでいえば、一般論として漫画という出版様式の禁止を無視したからといってアナーキーに陥ると考えるのは馬鹿げているであろう。
現代の違憲審査制は、こういった正義と実定法のジレンマをなるべく起こさないようにするためにある。憲法に人権という形で示された一般的正義の原則に照らして裁判官が実定法を審査し、不正な法と認定した法規範の適用を拒否するという仕組みが我々の社会には導入されている。ただ、裁判官の目をすり抜けてどうしようもない実定法が作られることがないとは言えない。立法者と裁判官にさしあたって頼らずに正邪を判断する視点を持つことは、自由な民主的社会の市民であり続けるために必要なことである。・・・自分の頭で考えた結果、おかしな結論に到達する人もいるかもしれないのが頭の痛いところだが、それが自由であるということである。
悪法といえども国法に従う義務があり、悪法をただすには法改正に賭けるべきという態度は、肉屋を支持する豚と言われてもやむを得ない※。
※ひょっとすると熱烈なホッブズ主義者なのかもしれないが、ホッブズ主義者なら、本当に当該禁止によってアナーキーが避けられるのかをもうちょっと真面目に検討するのではないか。
参考文献
長谷部恭男『法とは何か[増補新版]』河出書房新社、2015年
おまけ:
それに反する法律は作れません。
こうした見解に対する批判は本文中にも書いた通りだが、この人の中では、薬事法(古い名前だ)の薬局距離制限規定が作られたことはなかったのだろう。薬事法は、自分に関連する分野ではないのか(薬剤師ではないから、違うかな・・・)。