はてなキーワード: 合憲とは
上の増田だけど「制度やルールそのものに欠陥がある」という事態がどういうことか理解できていないのだな。君は。
だれかがやりとりしててくれてたみたいだけど。
もっと平易に言ってあげよう。
これは現行憲法ではもうどうしようもない。
ただし、9条以外での違憲の立法を合法的に制定することも可能だし今後もありえる(これは人間の限界)が、最高裁で違憲判決が出て法令を廃止することになり社会に大混乱を招くことになるので、立法府は今後も違憲の立法は避けるように試みるであろう。(違憲かどうかは立法の時点ではわからないので違憲立法が行われる可能性があるのはどうしようもない。自民党公明党の国会議員はすべて安保法制の合憲性を信じているであろうし、それは俺からみれば正しい)
巷ではケンポーガクシャサマガーってのが流行しているようだが、大体、憲法学者の多数決がどうして、内閣や法制局の行動を拘束できるのだ。そんなものだけで違憲になるなら、憲法学者が立法府や最高裁の権威を上回ることになる。
一体、憲法学者にそんな権力があると如何なる憲法の条文、如何なる法令に書いてあるのかぜひ教えてほしい。
憲法を守れといいながら、憲法に書いていない手順を要求したり憲法に書いていない権威を借りて憲法を蔑ろにしているのは滑稽なばかりだ。
主観は人によって違うのでやむをえないが俺の立場は以下のとおり。
俺:今までの解釈の延長線上にあるから、少なくとも新たな問題はない。(9条の改憲するときにかかる時間やコストに言及したのは、君の主張のデメリットや矛盾をつくためにすぎない。俺は先の解釈変更や今般の安保法制のための程度なら9条の改正は不要との考え)
少し付け加える。
今までの解釈が憲法の範囲内だというなら今般の法制もすでに枠にはまっている。
時の政権に特に9条に関する限り、事実上ほぼ無制限の解釈の自由があることになると見ることが可能なのは事実だ。
しかしそれは、現在の制度自体がもつ欠陥(統治行為論により9条に関する限り行政府の一部門が合憲性を事実上最終的に判断する制度)に起因している。制度の欠陥を安部首相がついたとみてもよい。
これが9条だけの話ならばまだしも、他の条文にまで援用されると確かに恐るべきことになる。
補足)
原語がデモクラティズムではないことにそれは現れている。したがってデモクラシーによって守られるべき価値がデモクラシーそのものによって毀損されるのはゆるされず、その価値とは「国民の幸福」である。
なお、侵略が許されないのは、それによって得られたなにかをわれわれ日本国民はもはや「幸福」とは呼ばないからである。
また、近代のデモクラシー以前から国家は存在している。デモクラシーを採用しない国民国家はありえるが、国民国家の基盤がないところに近代デモクラシーは不可能。さらに国民国家は国家の一種に過ぎず、国家は領域、人民、暴力によってなる。(つまりよりもっとも野蛮な国家すら、領土や人民の防衛はその責務である。ましてや現代日本においてをや)
より下部にあるより基礎的な層への脅威はそのままわれわれのデモクラシーへのより根源的な攻撃でもある。これへの防御を表層の制度の字義的解釈に拘泥して阻害したり、それをもってデモクラシーの破壊と叫ぶのは本末転倒。むしろ表層にある制度の欠陥が露呈したとみて、制度の改善をこころみるべきである。
制度の改善が著しく困難な時には、より基礎的な価値を防衛するために統治機構はさまざまな方便を考え出す。
今回の解釈変更も、そもそも安保と自衛隊を黙認するための統治行為論もそれだ。
これについては、まあ、君にはそう見えるかもしれんという感じか。
俺にとって外国の侵略が君が考えるよりは重大な危機と考える理由の一部は「論点の背景にある価値観の相違」の補足に述べたつもりである。多少分かりにくいかも知れないが、筋道はおえるのではと思う。
ところで君は先に大戦の惨禍を縷縷述べ、その原因を国家の暴走にもとめた。
そして、それへの反省あるいは対策として、立憲主義の厳格なる遵守を要求していたように見える。わたしの考えもまた私の主観では立憲主義を厳格に遵守するものであるがそれはともかくとして以下の点を指摘する。
天皇親政により立憲政治を絶命させようとした二・二六事件は立憲主義を逸脱した昭和天皇の勅命によって頓挫させられた。先の大戦はやはり立憲主義を逸脱した昭和天皇の聖断によって収拾された。
デモクラシーが前提とする立憲主義の手続きを墨守することによる不利益はデモクラシーのコストとして甘んじて受けるべきだというなら、昭和天皇は指をくわえて見ているべきだったということになる。
もし本当にそう歴史が推移したならば、前者についてはより早く大戦に突入する結果を招いたことであろうし、後者については惨禍がどれほど拡大したかはまったく俺の想像を越える。
こうした歴史をどう考えているのか。
そろそろ意見の相違は出尽くしたような気がする。必要だったら訂正してくれ。
君:今は緊急事態だからできるだけ憲法を拡大解釈すべき。改憲大変すぎ。
私:民主主義大事。そのためには狭義の「国益」を多少犠牲にしてもやむを得ない
君:民主主義は大事だが、国民の幸福の前にはある程度の手続きのショートカットは許される
価値観を作る根っこにある、もっとも恐れている事態(たぶんこの部分のリスク計算が一番違う)
最後のリスク計算が根っこの違いだけど、中国の侵略のリスクと日本の全体主義化のリスクを比べるのは、君と私が同意できる形でできるような気はしないな。最終的には議論した上で多数決か。個人的には、ここで議論が尽くされていないで、安部首相の信念で物事が回っているのは、大きな問題だと思っている。
一応私の立場を改めて説明しておくと、現在の情勢では、日本は十分に大きい国だ、というのが基本認識になる。大国は国内事情を気にすべきで、小国は外国の侵略リスクが相対的に大きくなる。日本国の存続を第一に考えると、一番のリスクは中国ではなく、自国政府の暴走に見える。
え、なんで正当化を試みるの?
ずるいと思われるかもしれないけど、国際社会では主要国は大なり小なり、どこかでこういう恣意的なずるい運用をしているもんだ。日本も利用できる立場は利用すべき。
日本政府が日本政府の行動に制約をかけていると理解してきたわけでしょ。日本政府が日本政府みずからに掛けた制約をみずからの判断で変えるのはありえることじゃない?
憲法は日本政府が制定したものではないよ。主権者たる日本国民が制定し、日本政府に与えたもの。制約をかけているのは日本国民。だから、政府は自由に制約を外すことはできない。このフィクションが「立憲主義」の意味するところ。そういう意味で、今の安倍政権の行動は「立憲主義の危機」なわけ。だからで憲法学者が口をそろえて反対している。もちろん「日本国民」という主体はないから、実際は政府が政府に制約をかけていることになるけど。
「中国を含め、どこの国とも、誠意を持って話しあえば戦争は避けられる。自衛隊は災害とかで役に立つから存在して良い。」とか?日本が西ヨーロッパとか北アメリカにあったら、実現不可能な理想、というわけではないと思うし。私個人の中国に対する意見とは違うけど。
あとは、真性の人かな。「殺しても殺したくない」っていうプラカードを掲げている人もいるしね。
あ、そうかもね。私は9条の議論はもううんざりだから、個人的には消したいんだけど、二項を削除すれば盲腸的な存在になるから、それでいいかなー。
日本政府が日本政府の行動に制約をかけていると理解してきたわけでしょ。
日本政府が日本政府みずからに掛けた制約をみずからの判断で変えるのはありえることじゃない?
そんなこと、当然だと思うんだけど。
権力を縛る憲法の存在意義が無くなるって言うけど、こんなことが許されるのは統治行為論があるからで、統治行為論を最高裁が使ったことがあるのは9条だけじゃない?
そしたら憲法全体の存在意義がなくなるってのは、君の主観ではそうなのかもしれないけど、言い過ぎってことになると思う。
とりあえず君が改憲を前提としたうえで、安保法案に反対し、かつ日本国民の幸福追求の権利と矛盾しない見解を持っていることは分かった。
僕とは見解が違うが、それは一理あると思う。
でも、俺が見る限り、安保法制に反対してる人の多くってそうじゃないと見えるんだよ。
で、議論は発展し、新たな質問をしなければならなくなった。あるいは新たな質問ができるようになった。
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ちなみに9条を改正するなら2項を削除するだけでいいと思う。そもそも個別的自衛権の行使が可能なことすら憲法にはかいてないんだから。
そして1項はごく一般論でしかない「国家の政策としての戦争を禁じている」と解すればよいんじゃないのかな。
ま、もはやこれは脇道で、いつか君と別の機会があれば、そのときに話をすればいいと思う。
自衛隊と日米安保は合憲で、なおかつ今回の安保法制で認められる範囲の集団的自衛権の行使が違憲だって言う議論って、おだやかに言ったとしても恣意的に聞こえるじゃない?
これがあなたにとって恣意的かどうかは関係ない。日本政府と日本国民はそのように合意してきた。1954年から2014年まで、日本政府は
と言い続けてきた。それを聞いた日本国民は、憲法9条によって政府の行動に制約をかけていると理解してきた。
でも、突然、政府が自分にかけられた憲法上の制約を外した。そういうことされると、権力を縛る憲法の存在意義がなくなる。それがしたいのなら、9条の現代的意義について国民的な議論を行い、改憲するのが筋だ。安倍自民党は確かに先の衆議院総選挙に勝ったけど、総選挙に勝っただけでは、政府に課せられた憲法上の制約を外す権利はない。
法的安定性が崩れたら、安倍さんよりもクレイジーな人が出てきた時にとんでもない国に日本がなりそうになっても、歯止めがなくなる。実際日本には70年前に絶対勝てない戦争を始めるクレイジーな人たちが出てきたわけだし、それに、自民党の憲法草案おぞましいと思わない?あんな国に日本がなったらと思うとゾッとする。自民党はもっとまともな党だと思ってた。
ということで、私は安保法案に、反対。ちなみに9条を変更して軍隊の保有と集団的自衛権を明記することには賛成。
ちなみに、1954年に憲法上の制約外してるじゃん、という話については、1953年に一番近い隣国が2つに分割された、ということを指摘しておきます。そのくらい現在の情勢が切羽詰まっているなら、法的安定性よりも目先の国の安定を取るのはわからなくもない。でも、たとえば現在の中国の脅威って、そのときのソビエト&中国に比べたら、全然ヌルいと思うけど。予見しうる将来に日本が分割統治される可能性なんて、ほぼゼロでしょう。
でも俺みたいなふつーの人は毎日の生活が変わるとこまるじゃない?
つーかなくされるほうが怖いわけじゃない?
だとするとこれは合憲じゃないとこまるじゃない?
自衛隊と日米安保は合憲で、なおかつ今回の安保法制で認められる範囲の集団的自衛権の行使が違憲だって言う議論って、おだやかに言ったとしても恣意的に聞こえるじゃない?
だから聞きたい。
追記)
その後、ある増田が憲法九条の改正を前提とすれば、納得できる説明が可能なことを示してくれた。
しかし、安保法制違憲論者の多くは、むしろ憲法九条の改正を拒んでいる人々と見受けられる。
そこでアウフヘーベン(というのか?)された新たな問いが生まれた。
後者には完全に同意なんだけど、前者には意義はあると思ってる。
というのも、その議論の末に導かれるのは俺が一番最初に書いた4つのパターンのうちの③と④だからです。コレ↓ね。
「違憲だから議論しなくていいよね」という考えで議論が進まなかった場合、その法案が③なのか④なのかが明らかにならない。
④であった場合(立法が不要だった場合)は何も対応する必要が無いので問題ないけど、③である事が明らかになった場合には問題が発生してしまう。
本来であれば③のケースでは「憲法改正⇒立法」という2つのステップでの対応をする必要がある。
でも、そもそも議論がされていなければ③・④のどちらかであるかが明らかにされずに、③であった場合に必要な対策が取れなくなってしまう。
その結果、日本は必要な法案が作られておらず、なんらかのデメリットを被る事になってしまう。
なので、「集団的自衛権が合憲か違憲か」と「集団的自衛権の必要性」については両者同時に議論する必要があると思っています。
で、今現在、そういう動きがされていないにも関わらずヒステリックな人々の声ばかり聞こえてくるのでバカバカしさを感じているのです。
→いや、実際「戦争法案」だと思うし、、閣議決定で解釈改憲できちゃうなら、(現政府は違憲だと否定している)「徴兵制」だって閣議決定で解釈改憲できちゃうだろ、という意味だろ。別に「国民」を馬鹿にしているとは思わんし、煽りとは思わんよ。
横からで申し訳ないんだが、これさぁ、なんで「戦争法案」だと思ってるの? 煽りとかじゃなくて単純に疑問として。
個人的には自民党が出した「新3要件」が厳密に守られる限りにおいては今回の法案は専守防衛に合致すると思ってるので合憲であり「戦争法案」という呼び名は不適切だと思っているのだけれど。
今回の法案が「戦争法案」だと思ってるという事は「新3要件」が守られても、それは違憲であり専守防衛に合致しないと思ってるってこと? なんとなくこの理由だと集団的自衛権どころか個別的自衛権すら違憲である…という意見になっていないと論理の一貫性が保たれていない様に思えるんだけど。
それとも集団的自衛権の行使時に「新3要件」が厳密に守られる事が現実的にあり得ない…と思ってるってこと? もしくは他の理由?
元増田だけど俺の頭の中では憲法学者は今回の安保関連法案が「合憲」か「違憲」かを判断しているだけであって、集団的自衛権の行使の是非に関しては判断していない…という認識だよ。
だから俺の中では憲法学者は「喚いている人々」の中には入っていない。(集団的自衛権の行使の是非に関して意見を述べてる憲法学者がいたら後学のために教えてくれると助かります)
俺が「喚いている人々」と表現したのはザックリいうと政治家・マスコミ・政治団体…あたりの世論に大きな影響を与えそうな声の大きな人々の事を指してる。
特に与党と野党。どっちも話し合う気ないだろ、あいつら。この辺りの人々がもっと理性的に話し合ってくれないと俺の感じてるバカバカしさは解消されないんだよなぁ。
集団的自衛権関連のお話に関しては賛成派・反対派共に意見が全然、食い違ってて議論が出来るレベルに到ってないので、本当にバカらしい。
とりあえず賛成派・反対派共に自分の主張と理由のリスト化でもしてお互いが何を言い合ってて何をどうしたいのかを明白にする努力から始めたらどうかと思う。
手始めに賛成派・反対派共に「集団的自衛権が合憲 or 違憲だと考える理由」と「集団的自衛権の行使の必要性」の説明から初めてみたらいいんじゃないか。
ここら辺の議論が詰められれば集団的自衛権に関して以下の4つのパターンが導き出せる様になるはずだ。
①:集団的自衛権は合憲であり、必要である ⇒ 現行憲法のまま通常の法律と同様に立法すればよい
②:集団的自衛権は合憲であるが、不要である ⇒ 現行憲法のまま立法しなければよい
③:集団的自衛権は違憲であるが、必要である ⇒ 憲法改正の後に立法すればよい
④:集団的自衛権は違憲であり、不要である ⇒ 現行憲法のまま立法しなければよい
今はこの様な結論を導き出すための議論の席にすら付けていない状態だ。
にも関わらず賛成派・反対派共にヒステリックに自分の意見を(根拠と理由を提示する事なく)喚き続けている。本当にアホらしい。
今般の安保法制そのものが、合憲かどうかといった議論はひとまず脇におく。
すくなくとも今までの憲法解釈はなんだったんだ、という気持ちにさせるのは確かだ。
が、落ち着いて考えればそれに対する批判の程度の低さがあまりに目に余る。
これでは、本気で法制化を阻もうとなど誰もしてないのでは、野党は論理的な反対などできないと割り切って政権攻撃のプロレスをやってるだけなのではと勘ぐりたくもなる。
以下、いくつか例をあげる。
数に訴える論証。もっとも基本的な詭弁のテクニック。「これこれこういう理由で違憲だ」という論理に説得力があれば大多数かどうかなんて関係ない。
しかし新聞紙面やその他報道で焦点があたるのはもっぱら数だ。読者もそれにしか注目していない。
こんなものを根拠にしたら国会議事堂の議員たちの数に訴える論証に反対できないことになる。
恐怖に訴える論証。もっとも安全保障というものは恐怖から逃れるためにあるのだから、安保法制自体が恐怖に訴えることによってなりたっているのではないか、という反論はありえる。
だが、まあホルムズ海峡が機雷封鎖されたら困るしそういうときに自衛艦が能力としては掃海できるのに法的にできないのは困るよねとかってのはわかるけど、安保法制を通したら徴兵制になるってのは論理のつながりが俺にはわからない。
ということになるのだが、一体どんな成り行きでそんなことになるか想像がつかない。
まずは、かつてソ連の着上陸侵攻が差し迫った危機として語られていたころにも徴兵制などまじめに議論されていなかったことを思い出すべきだ。
こんな軍事情勢の根本的変化がわが国の国内法制ごときが原因で起こせると本気で思っているのか?本気で信じている人がいるとしたら、日本ってそんなにえらいんだっけ?それこそ日本が中心に世界が回っていると思い込む誇大妄想というものだろうといいたいところだ。
むしろ、そんな種類の軍事的情勢の変化は日本人を守ろうとした米軍を自衛隊が見殺しにして、米国国民が日本など知るかとなったときにこそ起きるんじゃないかと思われてしかたないところだ。
こうしたことを踏まえると、より不合理でより悪質な詭弁は「安保法制→徴兵制→怖いヨー」論だと少なくとも個人的には思う。
(( 時代錯誤というか懐古趣味のじいさんが「近頃の若いモンは軍隊にいかないからしつけができとらん」とか言っていたのが今では懐かしいが、そんなものはまじめな議論とは呼べない。そう思うんだったら自分の孫を自衛隊に入れればいいだけの話だ ))
感情に訴える論証。大体、どういう状態だったら日本は米国の植民地でない、属国でないと言えるのだろう?
国際政治というものは相互の関係や力の大小があってあるときは言い分がとおり、あるときは通らないこともあるのは当然ではないか。より大きな力があればより多くの言い分を通せるだろう。わけても特別におおきな力を持っているのが覇権国家や超大国と呼ばれる国なわけだ。そうした超大国さえ、政権がふらついていたりすると時としてわが方の要求を飲まされたりする。
我が方の言い分が通らない場合や相手の言い分を受け入れる場合、相手に協力する場合のことだけをことさらに取り上げてやれ属国だ植民地だだのと言い張っていては、国際関係など成り立たない。どうしてもそういう主張をしたいのなら、どういう点でどのように我が国の主権がそこなわれ不当に不利な条件を強いられているか論証すべきだろう。その論証に納得がいくならば俺も安倍総理を売国奴と罵ろうでは無いか。
確かに日本は覇権国家でないし、核武装もしていない。そりゃまあそういうことをしたら胸をはって独立独歩と言えるのかもしれない。
でも、そうなりたいの?やっていいの?
こういう主張は、日本よ21世紀の覇権国家たるべし、とか核武装なくして独立なしといった危険な主張と紙一重と知るべき。
どうせ「あそこの国はこうだ、こうしてる」といったことを言い出すのだろうが、日本は日本なのだから、どこそこの国を真似しなければならんということになるならその国の属国か植民地ということになるだろうに。
ソ連があった時代からの論法だけど、カビ臭すぎる。愚民をアジるにしてももっと洗練された技法を勉強するべきではないか。
以下、追記。
軍事力だけで中国の脅威を食い止めることができないということと、中国の脅威から日本国の権益を防衛するには軍事力が不可欠なことは矛盾しない。
要するに反論になっていない。
前提が変われば、結論も変わる場合があるのは当然というものだろう。
この論理はソクラテスが人間である場合に限り有効なのであり、ソクラテスが犬のぬいぐるみのことだったり、不死の神だったなら異なる結論が導かれえるのは当然では無いか。
要するにこれも反論になっていない。
たとえ話というのは、抽象的な議論を身近な物事との類推で理解を深めるために用いる技術である。
「軽い」のは当然であって、それを「軽すぎる」などと非難するのは、要するに理解が深まってはこまる。国民の理解が進んだら自分たちの言い分のばかばかしさが明らかになると思っているのだろうか。
あるたとえ話が不適切だと難ずるのならば「軍部隊を個人になぞらえると、こういう場合の類推がうまくない。誤解を導く虞がある。けしからん」とやればいいのであって「軽すぎる」などというのは首相のたとえが「わかりやすすぎる」と賞賛しているのに等しい。
なんといえばいいのだろうか。どれもこれもため息がでるとでも評する他ない。こんなレベルの反論しか本当にできないのだろうか?
仮に憲法学が学問の名に値し、科学的な態度を尊ぶならば、安保法制を違憲と唱える憲法学者は安倍首相に感謝するべきだろう。
実験や観測で得られた「観察された事実」を説明するのが「理論」。
現在、受け入れられている理論(定説・通説)で説明できない事象が観察されたとき、それは学問が発展する大きな機会だ。
惑星の動きを説明するために天動説が唱えられていて長い間人々はそれに疑問を持たなかった。
ガリレオの地動説によればより簡単な理論で惑星の運行は説明できたが、その精度は天動説の周転円による理論と同じだった。
だが、ティコ・ブラーエにより観測された火星の運行を天動説の周転円理論で説明するのは困難を極めた。
そしてケプラーは、惑星の運行は惑星が太陽のまわりの楕円をたどるとする新たな世代の地動説を唱えた。
さらにニュートンは万有引力の法則を導入し、これに数学的根拠を与えた。これが新たな世代の理論となった。
さらに時代を下ると、地球の自転する方向である東西方向と南北方向で光速度が同じになることが発見された。
これは物体の運動速度には加法(足し算)が成り立つとするニュートン力学の前提を揺るがす観察だった。
これを説明する新たな世代の理論はアインシュタインの特殊相対性理論だった。
さて、憲法学者たちが今日、持っている理論で安保法制の合憲性を証明できないとしよう。
しかし、安保法制自体は現実の政治のなかで必要であるし(そのことは民主党すらも類似の法案を対案として出さざるを得なかったことで分かる)、成立の暁に最高裁に100回持ち込まれても100回合憲判決が出るであろう。
今後、現実の政治制度のなかで安保法制は合憲・合法のものとして扱われることになるのだが、それを現在の憲法学の理論は説明できないことになる。
すばらしいことではないか。
君らは今次の安保法制の合憲性を説明する新理論構築という新たな大事業に取り組むことができる。
憲法学は現状を追認するだけのつまらん学問もどきだという烙印を世間から押されることになるかもしれない。
しかしそれは憲法とは何か、憲法がなんのためにあるかを考えるふりをして実は考えてこなかった報いだ。
甘んじて受けてほしい。
大きな声では言わないが、自衛隊を合憲とした例の判決は連中にとっては「屈辱の極み」という事になってるらしい
あと個人的に思うが、憲法学者ってのはぶっちゃけ「後から発見されたり発掘されたりした物によって定説が覆る心配が絶対にない考古学」みたいなもんで、数年で業界のルールがガラリと変わるような世界の人間には完全に異次元の世界だよ
プログラマーに分かりやすく例えるなら、「COBOLだけが業界唯一のプログラム言語として誕生当初からずーっと存在し続けている世界」みたいな感じ