はてなキーワード: 優越感ゲームとは
しろくまセンセが、そのジレンマを解消するために「愛好家たるもの」って語ってたなw
http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20130410/p1
好きなら良い、だが愛好家を名乗るなら、とw
これも微妙でさ、「愛好家」ってなによ?って思わんのかね、あの界隈の人間は。(しろくまセンセの当該記事を「わが意を得たり」と賛同してる層)
ファンのことも、愛好家って言うんだけどな。
結局のところ、「○○も知らないのか?」とか、「最低限××は語れ」とか、「△△も持ってないなんて」とかの優越感ゲームをしたいんだけど、それやると自分が攻撃対象になるの知ってるから、「愛好家だというなら」とするわけ。
「愛好家」であるなら、物の良し悪しを絶対的に評価すべし、と。
http://anond.hatelabo.jp/20130320200411
「本当は誰も作画を語れないのに、あえて語らないのだというポーズをする優越感ゲーム」気持ち悪いです。
ま、でも、難しいですよね作画語り。
演出語りをそこそこ「それっぽく」する人は多いですけど、その語彙は基本、映画批評からの輸入ですし。
アニメしか見ずに、アニメの演出を語れるようになった人っていないんじゃないですかね。
作画語りの語彙不足についても、結局は実写作品(映画や演劇)の批評から「役者の演技を語る語彙」を引っ張ってくるのが一番手っ取り早い気がします。
「そんなお勉強したくねーよ」「映画だの演劇だの、お高くとまりやがって」
と言いたくもなるでしょうが。
しかし、昔の作画オタクって、その辺の教養を身につけてる人が多かったような気もするのですが(特撮オタクは間違いなく多かった)。
今はそうでもないのかな。
http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20130318/1363707421#c1363722838
Gl17さんは「作画を語るスレ」を全スレ読み直す所から初めてはいかがでしょうか。でないとお話にもなりませんので。
我々は「きてる」「たまんね」で全ての意思疎通が行えるんですよ。歴史と訓練の積み重ねでここまでやってきたんですよ。あなた出来ないでしょ?あなただけですよ。そんなの。
http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20130318/1363707421#c1363738926
>>我々は「きてる」「たまんね」で全ての意思疎通が行えるんですよ
悪い。オレもそれはつきあいきれない。
http://b.hatena.ne.jp/kowyoshi/20130320#bookmark-137280062
kowyoshi コメント欄
コメント欄の「きてる」という捨てハンの主張…えーと、ディープな作画オタクってそういうものなの?いやまあ、なんJもそうだけどディープなコミュには特定のジャーゴンってありますが… 2013/03/20
このへんの。
我々作画オタクは、自称アニメオタクさんとアニメを語り合ったときに作画の話題が通じず歯痒い思いをした、という経験をおそらくみな一様に持っています。
友人知人関係はもちろん、アニ研・漫研・mixi・Twitter。リアルでもネットでもこの悲劇を何度も繰り返しています。
それを端的に表しているのがこち亀のこれ。
http://livedoor.blogimg.jp/shake1728/imgs/0/5/052c46a0.jpg
もちろん作画スレには作画オタクしかいないので当たり前なんですが、この作画オタクというのが非常に少ない。
作画スレは1日1スレを消費するので人が多いのかもと思いがちですが、アップローダのダウンロードカウントを見る限りROM含めて100人もいません。
Twitterにはアニメーターすら上回る知識を持つガチな方から、にわかと呼ばれるカジュアル勢までいますがこれですら数百程度。
ただTwitterは3〜4年前の移住時から既にコミュニティが成熟してしまっています。
ブロガー連中は萌え豚と売り豚がほとんどで、真面目にアニメを観ているのは宮台東宇野かぶれの前島くずればかりという悲惨な状況。
新たに参加しようとしても冒頭の悲劇が繰り返される恐れがあるのです。
このような背景があり、我々作豚はお互いにシンパシーを感じ、馴れ合いの感情を抑え切れないことが多くあります。
「なあ」「つれえよ;;」「すげえわかる・・・」
作画スレの会話はこんなのばかりです。
「きてる」「たまんね」はお互いの存在を確かめ合う言葉なんです。
今まで書いたのもネタとかではないのですが、それとは別の視点から。
作画オタクが少ないというのを書きましたが、たまに「戦闘シーンがすごいアニメを挙げるスレ」みたいなまとめを目にすることがあると思います。
わりとカジュアルに色んな人が語り合っていて、ブクマも結構ついたりします。
これはつまり作画がすごいということを話しているスレなんですが、そのスレで語っている人たちにそういう意識はあんまりないです。
原画と動画とかレイアウトと原図、ひどいときにはコンテと原画の区別すらついてません。
そんな人たちでもある意味作画を語れているんですよね、戦闘シーンに限っては。
具体的にどんな作画が好まれるかについては御先祖様万々歳全部やゴールデンボーイの紀ちゃん、
最近のだとあの花2話の焼肉とかザムド最終話の大人ヤンゴと船長、
みんなが観てそうなのだとけいおんクリスマス回のプレゼント交換を思い出してください。(だいぶ系統違うけど丁寧ではあるということで)
こういう芝居にスゲェ!と目を見開いてしまうのは作画オタクだけなんです。
そして芝居というのは語るのが非常に面倒くさい。
そのうえ下手なこと言うと突っ込まれて優越感ゲームが始まってしまう。
でもお互い共通認識は持っている。
もう「たまんね」でいいでしょ、だってたまんねえんだもん、となります。
最近羽生善治が演技だ演技じゃないって盛り上がってましたよね。
増田で貼られてた動画観ましたがプロ2人の解説でもすごい素晴らしい天才だくらいしか言ってないんです。
のblogへ、というわけではないんだが、そのblogを含む周辺文化への違和感をメモる。
色々かんがえたんだが、その違和感の中心はどうも
「お前らはもっと労働を減らして人間らしい生活をしようといっているが、そもそも日本(他の国へ置換も可能)はそれを許容できるのか?」――という感覚のようだ。
「月に10日くらいはたらいて、手取り18万で良いです」というのは簡単だし、そんな事言いたいヤツは沢山いるだろうが、それはなかなか現実とマッチングしない。なぜか?
「月にx時間くらいはたらいて、手取りy円で良いです」というような希望を国民全員に述べてもらい、その希望を合計したときに、日本はその希望を叶えられるほどの豊かさを持っていないのではないか? と思うのだ。
十分な豊かさを持っていないのだから、その本人の望む待遇と本人の能力でバランスの良い人間からポストにアサインしていくのは当たり前の事象だろう。
つまり、冷酷な言い方をすれば「自分のポストに不満を持っていて、それが現在かなえられていない人間は、全員野心が不相応にでかい無能だ」と言うことに他ならないのではないか?
「日本はその希望を叶えられるほどの豊かさを持っていないのではないか?」が真であるならば、個人の待遇というのは所属する企業の、ひいては日本の生産性および豊かさと密接に関わっていることになる。むしろ原理的な意味では、個人の豊かさの総体が国の豊かさであろう。脱社畜系blogにたいして感じる違和感の源泉はそれだ。
「社畜脱出、格差是正を訴える」割にそれは個人の願望にとどまっていて、周囲を豊かにしようとはまったくしないところだ。「周囲を豊かにしよう」とかいうと「社畜根性」などとうそぶいて逃げるけれど、人間は社会的動物なので、豊かな社会がないと豊かな個人生活がおくれないのだ。そもそも「周囲を豊かにしよう=企業への滅私奉公=社畜」みたいな論をふりかざすなら、滅私奉公しなきゃ周囲に貢献できないような程度の生産性が低い人間は無能なのだ。そんな無能なヤツが脱社畜でフリーランスになって食っていけるかどうかなんてかんがえればすぐわかるだろ?
ギャングではないが「転職したい」「脱社畜したい」「脱社畜しようぜ」と言ってる時点でダメなのだ。そんな事を言ってる時点で逆説的に社畜以外出来ないという自己紹介になってる。
それを皿に敷衍すれば、脱社畜blogというのは、脱社畜に成功した人間が、未だ成功していない同胞に向かって優越感ゲームで高射砲をうってるだけだということになる。
上記の疑問が、俺があの界隈に感じている違和感のすべてだ。
「連帯責任」取らせるのが大好きな人達多いよね、その癖自分や周囲の関係者に害が降りかかると「連帯責任」は可笑しいと言い出す人達も
「匿名」disる実名主義者達に自戒と他戒を込めて(にっこり微笑みながら)
実在の人物が把握できるような紐付けの強制はそれもはや「匿名」ではなく「実名」の強制
『1984年』のビック・ブラザー気取りは空想の中に留めてほしい
あなた方が『陰界』に迷い込んで『鬼律』の『邪気』を浴びて『妄人』になりかけていようが構わないが、『匿名』の世界には『匿名』を使った
ネットで陥れられた人を助ける方法がいくつもある。ちょっと考えるか検索すれば分かる方法だけど
それすら思いつかない人はネットを不特定多数とのコミュの場所として使うまでにはまだ「成長」できてない
分かるまで大人しくROMっておくのが無難
十数年前からこれまで過去に3回ぐらいネットの世界で他人を陥れる陰謀を事前に察知して「ネット炎上」する前に「匿名」かつ「無料」で消化してきたけど
困っている人たちからお金を貰って有料で人助けしようという人達が「正義」を気取るのは腹が立つ ただの営利活動だよ それは
増田はあるよ 正体を隠し 移動販売でお金を稼ぎながら 善い事している地域に根ざした正義のヒーローを
「実名」で「優越感ゲーム」しながら「匿名」の個人情報の脆弱性を漁りdisろうとする そこには「相互理解」「寛容」「慈悲」の心は無い
悲しいニュースが多すぎてもう「悲しい」という共感さえ無くしてしまった
スレ数やRT数はてブ数でしか「悲しさ」を図ることができなくなった
何日で「誰かがいじめられて自殺した」というニュースを忘れてしまうのだろう
もうね、誰かが「SOS」発していてもその人数が多すぎて「フーン」としか思えなく
なってしまっているのです
悲惨な追い詰められ方をした子どもは少しは記憶に残るけど、大人はまず記憶に
すら残らない
生きてる内にSOSを発してもスルーか罵倒が返ってくるだけ、自殺してやっとコンテンツとして
注目される
「人権、人権」と呪文をつぶやき続ける人たちは自殺した子どもがマイノリティで差別的言動が
いじめの過程にあったら憤ってくれそうな気がするけど、亡くなったらのが日本人ならスルー
して、加害者の人権を守れという方に向かうんだろうな そっちの方が人権運動には都合が良いから
日本では「他の皆と違う」ということは「面倒臭くて手間がかかって皆に迷惑をかけるから強者が優越感ゲームの
的にしても良い」という暗黙のコンセンサスがある
かといって長期不登校にでもなったら内申響いてレールから外れ、優越感ゲームの的にますますなるだけだし
大人は「我慢しろ」「同じレベルになるな」「時が経てば忘れる」「いじめている側は将来不幸になる」「見返してやれ」といってるけど
要は「めんどくさい事起こすな、泣き寝入りしろ」と言ってるだけ
いじめてる側は公務員などになって結婚して子どももできて一人前と世間に認められる社会人になり
いじめられる側は程度によっては「お空キレイ」と空を見続ける廃人となるか、コミュ障となってろくな
夜中に憎しみで歯軋りして起きて寝汗をかいている自分に気づくことさえあるのに
悲しみはすぐに消えるけど怒りや憎しみは年月が経っても死ぬまで消えないものです
散り積もった皆のストレスを引き受けて誰にもぶつけずられず死ぬ人それはいつも
敗者です
一人に集団で長期間に渡って石を投げないならばそれは許されるべき
皆少しづつ心の弱さを他人に押し付け日々の辛さを支えあいながら暮らしている
それが駄目だというのはポジティブ教信者と左翼教師と人権屋かいじめられている人に反抗されるのが嫌な
「怒り」に立ち向かわずひたすら我慢させ目を背けさせる日本の事なかれ主義がどれだけ卑屈さに甘んじる事を
いじめられる側に強いてきたことか
増田はネットにネガティブなこと書くなというポジティブ教信者たちはこれまでの人生で弱者をさぞかし踏みにじってきたことを思い出したくなくて後ろ暗いんだろうなと思ってる
よく言われることだけど「人生のハンドルを自分で握る」感はすごくある。
生まれ持ったカードを必死こいてやりくりして「これが俺だ」という一手を切るわけだ。
楽しくないわけがない。ああ俺生きてるなって感じることができる。
優越感云々についても、30くらいになるとレールに乗ってる連中も(糞な社会に)疲れてきて
レールに乗った結果得られるものだけが人生じゃないということに気づき始めるから、
変な優越感ゲームとかなくなってくるよ。
まぁ、見栄っ張りで社会的地位が高くないと満足できない、という価値観の奴はレールに乗っておくべきだけどね。
http://anond.hatelabo.jp/20120612111321
素質と運に恵まれて何かを成し遂げてしまった人の中には
素質はともかく、運については、「運が回ってくるまで何度も挑戦する」のがポイントだ。
ブクマに答えておこう。
アラサー既婚年収600万くらい。独立とか言われてるが自営はしてない。
運転手云々というのは完全に意図を理解してなくて、別に運転手がいてもいなくてもどっちでもいいんだけど、車の行き先を自分で決められるかどうかの問題を言っている。
社会だか会社だかのレールという名の行き先が決まった車に乗ってるなら、運転手がいようとつまらんという話。
大学行って正社員で就職して結婚して子ども作らなきゃ駄目なんだ。
そうでなければ「世間」は「普通の大人」として扱ってくれない。それがレールなんだ。
大学新卒正社員というのは労働者や人してまともな待遇で取り扱ってもらえる可能性の高い最強のカードなんだ。
レール外れて時給650円でバイトはじめてコンビニの店長や飲食店のフランチャイズチェーンか雇われ店長までしか
夢の持てない人生で満足か?
非正規同士で将来性も資金計画も無く結婚して子どもが産まれてリストラされ一家心中のニュースとか見たくないぞ。
人と同じでなければ、誰かのストレス解消に「優越感ゲーム」の的にされるんだ。
「皆と同じではない」ということはそのネタでdisったりいじったりされても仕方の無い罪なんだ。
「足が遅くて真っ直ぐに歩けない」「一重」「薄毛」「眼鏡」「黒髪」「頭が悪い」「あうあう」
「頭が悪い」「アニメアイコン」「匿名」「ブサ」「ニート」「フリーター」
すべてリア充からみれば、いじって遊べる優越感ゲームの要素なんだ。
だからあまり頭が良くない人は周りに怖がられるDQNになるんだ。そうすれば、裏ではともかく表では「優越感ゲーム」
の的にされにくいから。舐められていじめられるのはいつだって要領の悪い大人しい真面目系クズなんだ。
学校の廊下を歩いていると毎日のように不特定多数の男子達に笑いながら後ろから蹴りを入れられた事があるかい?
他人にナメられるということは多かれ少なかれ底辺扱いを受けるようになる。
それに反撃しても良識のある人々は「自己責任」という言葉で取り合ってくれない。
私が弱くて容姿も能力が低いのが悪いんだ。底辺にいる限りこの扱いは大人になっても死ぬまで変わらないんだ。
カーストが低いからしかたない。実名で発言しても正社員ではないフリーターやニートの戯言などリア充によって
笑われるだけ。
レールから外れるということは舐められてリア充から「優越感ゲーム」の的にされるということだ。
「劣っている」と思われたらリア充にどんなことを言われても周りは見ているだけ。そんな一生だ。
それでもレールから外れたいならどうぞ。
つまりは夢破れたなら、優越感ゲームの敗者の立場に一生耐えるのを受け入れなければならないけど
夢破れてレールからドロップアウトして人生駄目駄目な底辺増田は言います。
「普通の大人」という夢に向かって努力を続け能力の至らなさで叶わなかったとしても
他人がいかに見下そうとも、これまで積み重ねてきたスキルや蓄積したデータはボケるまで消えずに
生きる糧になっていきます。皆の嘆き、怨嗟、失敗、炎上、ノウハウから私が得たものは大きい。
いつか私も「優越感ゲーム」の犠牲者に街で突然理由も無しに刺される日が来るかもしれない。
その時は足も極端に遅いし逃げられないだろうから狙われたら命ある限り闘うしかないか。
少なくともただでこの命くれてやる気は無い。
あれらのブログは今時のゲームの楽しみ方に取り残された人たちのための最後のよりどころみたいなものだからな。身を乗り出して楽しむよりも、上っ面の批判して小馬鹿にしてる方が楽だし。
確かに「上っ面の批判をして小馬鹿にすることで、実際にゲームを作ってる人や楽しんでいる人に対する優越感ゲームに勝ちたい」って人のためのブログではあるわな。
やりたいことが「優越感ゲーム」であって、その目的が「自分は偉い、自分は情強気分を味わう」ことで、そういう人間が簡単に優越感ゲームで勝てそうな手段では
「上っ面の批判で小馬鹿にする」ってのが一番コストパフォーマンスが高い(少なくとも主観的には)。
そういう「優越感ゲームのコストパフォーマンス」を求める人間こそが、ああいうブログに集まるし、そういう人間が多いからこそ、あのブログに人が集まる。
ここらへんについては、言葉の技術(この人のほうが私より断然ウマイ)や対象は違うけれど、私が書いてることとかぶってると自分では思ってる。
俺には同じ人が書いているようにしか見えんかったが。
まぁ、それにしたって、あそこまで自己を他人に投影できるのは、悩みがなさそうで羨ましいね。
他人に投影できるから、インターネットに希望を見出していた有象無象って集団を仕立て上げ、自分をその中に埋没させることが出来る。
個から奪われたのではない、群から奪われたのだと、これは大変な事なんだと、自身の欲望の価値を拡大させる。
これだって一種の自己肯定だ、集団の威を借りた、さもしい自己肯定。
普通の件に関しちゃ、おれは違う考えを持ってる。
それぞれの集団で(田舎で都会で、会社で学校で)トレンドリーダーみたいな人はいて、それらの人が普通を形作る。
その人たちの居る集団が普通になる。
これは、当然そうなる事象で、非難しても仕方がない。そこが皆が属したいレベル帯なのだから。
足りない人はついて行こうと必死になる(似非リア充とか呼ばれる)。
普通ってのは、優越感ゲームの武器であり防具なんだから、当然のように他人を抑圧する。
優れた人が普通を名乗るから、そうでない人が抑圧されるのではなく、ある集団の構成条件を普通である事とするから、そこに留まりたい者にとって抑圧となる。
だから、普通に抑圧を見出す人は、入りたくても入れない集団に憧れてるか、留まることのコストが高すぎる集団に在籍してるだけ。
美しいものに限らず、楽しいもの、嫌らしいもの、何でもいいけれど、形容詞で表すことのできる多種多様なものどもを受け入れられる態度って素敵だと思う。
意味が分からなくても、価値が分からなくても、取り敢えず特定の形で成り立っている物事や出来事や関係性なんかを受け入れてみる。受け入れてから批判なり肯定なりすればいいと思う。
個人的に拒絶って拙い行いだと思う。拒絶してしまう人がいることや、拒絶してしまう対象があることは受け入れるけれど、そういった否定がありうることが少し悲しい。
食わず嫌いだとか偏見持ちだとか、理解出来ないからや理解したくないからって否定するのは、勿体無いことだと思う。
無論、否定と云う行為はその人にとっての社会観を形成する大切な境界線を引く作業に他ならないのだけれど、小さな領域を囲う図形を描いたって勿体無いような気がする。
まあ、その領域内での物事は大いに煮詰まるのだろうけれども。
でも、漠と広がった領域内で薄味の世界観に浸るのもまたいいのではないかなあと思うわけで。
意地の悪い優越感ゲームのような物言いだけれど、受容性だとか許容性って大切にしたいなあと感じるのです。
需要とか許容ばかりしていても駄目だけれどね。
つまりは、みんな違ってみんないいってことなんだな、きっと。
■「女はこんなに男を馬鹿にしている」的な暴露トークをする女子の目的は何?
>【速報】 ついに女子のホンネがばらされる!! - Togetter togetter.com
>http://togetter.com/li/205773
とか。
自称ほど強い人じゃない。
恋愛ではむしろ痛い目を見てる人が多い。
本当に強いヤリチンみたいな人にいいように翻弄されてたり。
だから「いやいや、自分が全てをコントロールしているから!」って言いたがる。
そしてこれが男の方に伝わって
世の中が取引不成立だらけになって、みんなが孤独に死んでいくのを見たい。
これは何か「改心を促すためのへったくそな皮肉」で言ってるんじゃなくて
みんな本音を正面衝突させて死ねばいいのに。