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はてなキーワード: 仏教とは

2018-01-18

anond:20180118220801

キリスト教価値観としては、人間を含むすべての生物は神の創造なのだから、神の意志に背いて人間意志で殺めることは許されない、というロジック

イスラムについてもほぼ同じであり、「全てはアラーの御目示し」という考え方らしい。

仏教日本神道については、よくわからない。

2018-01-17

おじいちゃんの葬式

通夜の式の前にお線香あげて顔を見た。すごい綺麗だった。血の気がなくて真っ白で安らかに目を瞑ってた。

私がおじいちゃんの顔見てたら横で母が、今にも起きてきそうだよねって言った。でもおじいちゃんの眠ってる時の顔はもっと眉間にシワが寄ってるし、これはなんか違う。それで、この人は本当に死んだんだなって感じた。

棺桶にはおじいちゃんが出かける時にいつも被っていたハンチング帽が入っていた。ここ数年は透析をしていて、遠出もできなかったから被っている姿を見たことはあまりなかったけれど、おじいちゃんのトレードマークのようなもので、とても懐かしいものだ。

おじいちゃんに最後に会ったのは、おじいちゃんが死ぬ2日前だった。おじいちゃんの体調が急に悪くなり、父の表情や会話が険しくなって、家族内にそろそろダメかもって空気も漂い始めていた。

病院に行ったらおじいちゃんは、私をしっかりと見て、私の進学先の話をしてくれた。細々としてはいたがちゃんと会話をしてくれた。でも、ご飯はほとんど食べれず、腕は骨だった。もう少しでおじいちゃんの誕生日だったけれど、正直これは間に合わないかもなって思った。

別れる時はまた来週来るから、って言って別れた。本当に来週なにがあってもまた来るつもりだった。でもおじいちゃんは2日後の深夜に亡くなった。

死んだと聞いても、涙も出なかったし、二度と会えない悲しさなんて湧いてこなかった。葬儀までずっといつもと同じように過ごしていた。

昔おじいちゃんが死んだなんて聞いたら悲しくて泣いちゃうだろうなと思っていたけれど、いざその時がきてみても泣かなかった。そんな自分になんだか大人になったなと思ったりもしたし、でも死んだおじいちゃんの姿みたら泣くかもなって思ったりもした。

けれど実際におじいちゃんの顔を見ても涙は出てこなかった。

式が始まると、仏教の式はひたすら聞くばかりでつまらないなと思い始めた(キリスト教みたいに参列者が歌を歌ったりしないので)。初めて聞いたお経と木魚リズム感も面白くて悲しみに浸るどころではなかった。

そのまま式は終わって、兄弟と先に帰宅した。帰りの電車の中でも、ぼんやりスマホを見てて、いつもの日常と変わらなかった。

家に帰って翌日の朝のお米を研いでいる時、ふと、おじいちゃんが買ってくれた卓上クリーナーのお礼を言っていなかったことを思い出した。

電動式で、消しゴムカスとか吸ってくれるただの卓上クリーナー。

おじいちゃんがこれをくれたのは1年程前という割と最近の話だ。けれど私がこれを欲しがったのはもう15年以上も前の小学一年生の時である夏休みの宿題をやっている時におじいちゃんが自分の卓上クリーナーを貸してくれて、自分もこれが欲しいと、なんとなく言ったような気がする。けれどその後15年以上の間、おじいちゃんの卓上クリーナーを見ることはあっても、そんなこと言ったのはすっかり忘れていた。それで、ついこの間父親を通してクリーナーを貰った時に初めて思い出したのだ。

それを貰った時、私はとても嬉しかった。物よりもなによりも、私が忘れていた発言を私より忘れっぽいはずのおじいちゃんが覚えていて、果たしてくれたことが。

父は、「これは親父の気まぐれで、それを覚えていたわけじゃないと思うけどな」と言っていたけれど、私は覚えていてくれたのだと思った。父が今度お礼言うときに確かめてみればいいと言ってくれたので私もそうしようと思っていた。

でもその後、私はおじいちゃんになかなか会うことができず、結局お礼は言えなかった。おじいちゃんが覚えていたかも確かめることはできなかった。

卓上クリーナーのことを思い出すと、それまでなんともなかったのに、急に泣けてきた。泣いているうちに、おじいちゃんがいつもあの帽子を被って私に会いに来てくれたことを思い出して、涙が止まらなくなってしまった。私のピアノの発表会をおじいちゃんが新品のビデオレコーダーで録画して、テレビで一緒に見たことも思い出した。一人で泊まりにきた私がおじいちゃんとおばあちゃんの間で寝るために、ベッドに渡す板を作ってくれたことも思い出した。

葬式では誰一人泣いていなかった。みんな悲しんでいるのだろうけど、おじいちゃんは長生きだったし、死んだとしても泣くほど悲しいことではないんだなと思った。だから私も泣かなくてもおかしくないと思っていた。

でも、やっぱり、本当はすごく悲しかったんだな。一人でぼろぼろ泣いてしまった。

これも打ちながら思い出したらまた涙が出てきた。

しばらく経てばまた悲しみを忘れて、普通に生きていくのだろう。でもまた一回忌とかで思い出して、泣いてしまうのだろうか。悲しいな。

おじいちゃん、お礼言えなくてごめんね。

2018-01-15

anond:20180115025048

共感しかない。

自分もお坊さんに言われたことあるアドラー嫌われる勇気仏教の教えって似てるよね。

執着を手放せってやつとか。

自分場合は、「でもつらいって自分が思ったら誰かと比較するでもなくつらいんだよ」とも言ってくれる人もいた。

やぁ、しかしつらいね

つらいのでひと段落した死ぬ準備をする方に行こうと思ってる。元増田さんが生きて足掻くほうを選ぶなら尊敬の念を持って片隅から応援してるし、少しでも幸せなことが多いように、気持ちが楽になれる選択をできるように心から祈ってる。

2018-01-11

anond:20180111075336

キリスト教仏教って出発地点から教祖言葉裏切ってるし今さらだ

信者が納得するかどうかに全てが掛かってる

anond:20180111014336

仏教の「十牛図」ってのがある。それを思い出した。

もし暇だったら解説などネットにも転がってるので目を通すのをおすすめしたい。

あなたと同じテーマに挑んだ先輩の体験談のようなものだ。

よい旅を。

幸せについて本気出して考えてみた

幸せについて本気出して考えてみた

幸せ」とそれに関係する「怒り」「哀しみ」について書いてます

本気で考えたから長くなったし、読みにくいと思う。

生きる目的は「幸せであること」で、その先はない。

生活が豊かになっても、富を得ても、幸せでなければ意味はない。

「人より生活が豊かである」ことに幸せを感じる人もいるだろうが、 「あらゆる人より」は世界に1人しかいないので、「誰かより」と人と比べることになるだろう。

どんな環境であっても、自分幸せだと思う人もいれば、常に自分は不幸だと思っている人もいる。

自分が何のために行動しているのかを、もっと掘り下げて自問しなければ、自分自分理解できない。

自分理解できない自分」を他人理解してもえることはほとんどないが、稀にあり、その出会い幸せであるので感謝する。

自分が何のために働いているのか」「何のために怒っているのか」「何のために勉強をするのか」「何のためにそこに住んでいるのか」

「何のために」を達成する手段は、それ1つしかないのか。

幸せのカタチは結局人それぞれ。

何が自分幸せなのかは、自分で見つけるしかない。

幸せになる方法は、あらゆる選択肢の中から自分の「好き」を選ぶこと。

付き合う人や孤独であること、仕事仕事でない生きる方法、住む国や場所、食べるもの、着る服、宗教無宗教など、すべてを「自分の」幸せと照らし合わせて選んぶ。

自分幸せと、人の選択を照らしあわせて、自分に合わせようとする人のことを「傲慢」と呼ぶ。

傲慢は誰も幸せにしない。傲慢であることに幸せを感じる人もいると思うが、私はそういう人とは付き合わない。

「正しいこと」や「正義」はない。それはただの1つの方法

幸せを実現する手段を教えることはいいことだが、その選択自体は、他人にとやかく言われることじゃないし、他人に口出しするものでもない。

みんな幸せのカタチが違うし、選ぶ手段が違う。

「人それぞれ」という言葉不安を覚える人は、宗教学問を選ぶと、自分以外の場所に確かな指標や信じるものが出来ていいと思う。

それを信じている間は、幸せのカタチを変えられないというデメリットも分かっていたほうがいい。

宗教だって学問だって、信じられなければ変えればいいと思うけど。

人の好みに共感できなくても、理解はできるから、「同じ幸せ」を感じられなくても、「一緒に幸せ」になることはできる。
人が幸せになる、人を幸せにすることに幸せを感じる人は、そういう仕事活動をすればいいし、しているだけ。

その手段相手に対して間違っていることがあるかもしれないが、それを「偽善者」の罵る人は、想像力が足りない。

お金はただの手段目的あくま幸せ

お金があること自体幸せを感じる人は、自分をまだあまりわかっていない。

お金あっていいな」とは思うけど「お金あればアレができるのに」はみんな違う。

自分が何を幸せに感じるか」を知って、それを人に伝えれば、コミュニケーションはうまくいく。

「そのために何をしている、何をする」が近い人とは過ごしやすいし、「その手段もあるのか」「こういう手段もありますよ」がお互いを幸せにする可能性を広げる。

わたしはこっちがいいんです」と言われても、それはその人の幸せのカタチなのだから、落ち込む必要も怒る必要もない。

目的を1つに絞る」という考え方自体は、たぶん禅の考え方。

こういう考えが自分に合ってるというだけで、それこそ個人個人もっと合う考え方があると思う。

数多の国・宗教文化があり、法律戒律は違えども、すべての目的は「幸せになること」で、根っこの部分は本当によく似ている。

人の行動原理は大きく分類すれば「幸せ」「怒り」「哀しみ」「恐怖」

幸せのカタチはみんな違うけど、皆自分生活をより良くしたくて、または今の良い生活を維持したくて、行動している。

怒りは分析すれば、ある程度抑えられる。

怒りを感じる事自体は悪いことではなく、あたりまえの本能なのだけれど、それで幸せが遠のくのであれば、感じすぎないほうがいい。

怒りの成分は大きく分けると「自分幸せへの危害」と「嫉妬」くらいだろうか。

嫉妬について

嫉妬とは「相手幸福により、相対的自分が不幸になること」に対する怒りであり、あんまり自分幸せがなんなのか分かってない時にあふれだす。

嫉妬は人と比べて幸せを感じる人が持つ感情

自分幸せ手段である何かを持っている人に対して湧く感情なので、消し去ることはできない。

「今嫉妬してるってことは、自分もああなりたいんだなぁ」と言い聞かせて、「羨ましい」と言葉にすることで、少しは解放されるかも。

「それを持っていることでなぜ幸せなんだろう」と掘り下げることで、「元から嫉妬するようなことでもない」と気づけるかも。

自分幸せへの危害による怒りについて

直接自分幸せに害があるときは、怒って当然。

「怒り」は「幸せ」を守っている。

ただ、必要以上の怒りは、怒っている本人を含めて誰も幸せにしない。

「何に怒っているのか」を自分理解して、それ以外のことにぶつけてはいけない。

怒りの多くは、その原因を取り除けば解決できる。

「その手段しか幸せになれない」と思っているから怒るのであって、他の方法を探すことで、かなりの怒りから開放される。

他人に対して怒りが湧くときも、お互いが「相手幸せになりたくて、その行動をとっているんだ」と思えば、多少軽減できるし、「じゃあどちらも幸せになるように新しい手段を探そう」と原因の解決に迎える。

あらゆることに対しても怒りが湧くときは「眠い」か「疲れている」か「お腹が空いている」。怒っても解決しないので、うまいもの食って休もう。

「怒り」から遠ざかることで、「怒り」から遠い存在である幸せ」に近づくことができるのではないだろうか。

「哀しみ」の解決方法は、模索中。多分見つからない。

哀しみを感じる事自体も悪いことではなく、あたりまえに持ってる本能だけど、それで幸せが遠のくようであれば、感じすぎないほうがいい。

幸せも怒りもわりとすぐに忘れてしまうけれど、哀しみはなかなか慣れない。

怒りと違って、死や離別など、原因を解決できないことがほとんど。向き合って鎮めるか、逃げるしかない。

哀しみから逃げる第一候補は、宗教

仏壇に手を合わたり、十字を切ることで、寂しさから解放される人もいるだろう。一種ルーティーン。

大事な人やモノを失うと寂しい。いつもの幸せな日々が終わってしまうから幸せときにいつもやっていたルーティーンによって「大切なものの1つを失ったが、今も幸せである」と思い出す。

それは幸せなのかと言えば、そうではないと思う。哀しみをごまかしているだけではあるが、他にいい方法がない。

哀しみと向き合うのは、辛すぎる。

そもそも向き合うつもりがなくても直面してくるような感情

どうあがいても哀しいものは哀しい。

今ふと、「哀しみを忘れるのは非情だ」という風潮にちょっとだけ疑問を感じた。

ずっと哀しんでいないといけない雰囲気がある。

それって誰が得するかと考えると、やっぱり宗教なのかなと。

仏教で言えば、初七日四十九日一周忌とかね。

余計に哀しむ必要はない。普通に過ごせば、みんな充分哀しんでると思う。

「哀しく感じていた感情を忘れる哀しさ」があるのも、また真実

哀しく感じなくなったからと言って、愛していた事実がなくなるわけじゃない。それだけを愛情のモノサシにしなくても良いのでは?

はいろんな人に愛されていると思っているから、私が死んだときにはそう考えて欲しい。

恐怖とは

「恐怖」とはなにかを考えると、「幸せを害される」ことに起因する感情

自らの死、病気老い孤独蔑視など、人生においては恐怖も少ない方がいいが、避けようがないものもある。

1つの対処法は準備。

病気にならないように、情報を集めて健康でいる。

孤独にならないように、人に尽くして、人徳を積む。

蔑視されないように、努力して、結果を出す。

結果を変えることで、恐怖から遠ざかる手段

覚悟」も対抗策の1つ。

悪い結果を想定して、余裕を持っておく。

恐怖を乗り越える「覚悟」を持っていれば、もはやそれは恐怖ではない。

そしてもう1つ考えた方がいいのは「そもそもその恐怖の対象は不幸に直結しているのか」

老いたから、即不幸なのか。何ができなくなることが不幸なのか。若いままでいて、何ができることが幸せなのか。

病気孤独蔑視もそう。それ自体が不幸なのではなく、その結果なにかができなくなることが不幸であり、逆に何かしたいことができるままであれば、それ自体は恐怖の対象ではなくなる。

最後に残る恐怖は「死」のみ。

「死」の恐怖はすさまじい。「死」は積み上げた幸せを失う。

死は避けられない。どんな生き物でも100%死ぬ

死んだことがないから、またわからない。わからないものは怖い。

対抗する手段は「人生に満足すること」ではないだろうか。

あれもしたかった、これもしたかったはたくさんあるけど、「この人と一緒に過ごせてよかった」とか「得られるだけの幸せを手に入れた」と満足することこそが、生死の際まで幸せでいられる手段ではないだろうか。

この世との別れは哀しい。それは絶対に避けられない感情だけど、それより人生に対する幸福感が上回れば、受け入れられないものでもないのかも。

うん、やっぱりどう考えても今は死にたくないな。

もっともっと妻や家族や友人と、楽しい時間を過ごしたい。

長生きするのは不幸だという意見だったけど、失う対象が少ない状態死ねると考えれば、今はじめて、少しだけ羨ましくなった。

幸せな死」にこれから出会えることがあれば、そこから学ぼう。

出会う前に死んだら、仕方ないな。

幸せについて、考えられる日は、幸せな日だけだな。

怒りや恐怖について考えられる日も、多分幸せな日だけ。

哀しみについては、哀しい日の方が考えられるかも。

余裕ができたら、余裕がなくなったら、また読み返そう。

2018-01-06

anond:20180106082641

「妻子を抱えて」ってところが味噌なんだと思うよ。

妻がいて、妻が自力で稼げるか、ある程度貧乏暮らしでも耐えれるぐらいの妻子供じゃなかったらそりゃ冒険できんよね。

妻子を抱えなかったら、AIとかディープラーニングに飛び込めると自分で書いてるじゃない。

どんな先端分野も金を大量に集めれる人は、自分アイデアを元に少ない金で右か左かわからんところに飛び込んでいって、

その分野の先駆者になったから、その分野で金を集められる。その裏にはそのアイデアが伸びなかったとかうまくいかなかったってのもいっぱいあろう。

たぶん、AIディープラーニングが花型とはいえ、伸びると飛び込める奴が飛び込んでも、多数は花咲かずにそこそこの研究者まりだとおもう。

まあ、日本科学技術が右か左かわからんところに出すってのがどんどんやりにくくなってるという構造的なものもあるが。

山中教授って、今のIPSのアイデアを持ってた頃、諦めて臨床医に戻ろうかと考えるぐらいうまくいかなくて悩んでたったってのは聞いたことがある?

しかも、最初グラントも少額だったってことも。

それから、なんの苦労もせずにちやほややりたい放題できる立場がいるというのも勘違いしてる感がある。

僕は異分野で、それなりに先人きった研究やって、多少分野の人とか、地元ではちょっと有名になってきたかもな?ぐらいの立ち位置なんだけど、

研究のためにかね続けられるか?とか、何よりも、能力もないのにこちらに勝ってるようにみせたいとかい迷惑なやつとか、

そういう立ち位置に立てばそれはそれで苦労は絶えん。もちろん、女?家族?なにそれ美味しいの?だね。女なんて「そんなことより私を愛して!」だし。

どの立場に立てど苦労は付きん。

それより、「みんなにちやほやされない寂しい」みたいなのは、これまたただ自分を苦しめるだけの感情

仏教で「慢」の感情というらしい。

別にどう思われてもいいやぐらいに思って、できることから少しずつ時間を作って進めていったらいいし、家族に生きるのもひとつの道よ。

嫁さんや子供と仲良くやれてるか?

2018-01-05

anond:20180105192742

歴史というか、例えばアステカだのヒンドゥーだのの神様なんかは実際に人を殺して捧げられてる存在なんだよな。

またインドの神々と仏教天部のように同一の神が複数の名を持つというのは歴史によって実際にそうなったわけだ。

それに比べてクトゥルフの生贄だの千の名前だのは単なる設定でしかない。到底同一に語れる存在ではないわな。

2018-01-03

anond:20180103184248

黒人を滑稽に描いて差別助長したとされるかつての黒塗りショーを非難するのはいいが

それにただ似ているだけのものまで一緒に叩くのはお門違いだと理解してもらえないのかな

欧州人ナチスとそれに付随するイメージを嫌うのは勝手だが

仏教寺院の卍を不快だと言われても配慮する必要なんてないんだよ

2017-12-31

anond:20171231172802

そもそも仏教伝来のあたりで日本文字が入ってきたから、それ以前の古来の文化というのは、「文字が来てからまとめなおした話」しかないのですが。

人生教訓みたいな話(仏教儒教)は日本人が作ったものもあるが、あくまでそれ以降のものしかない。

日本精神性というのは外国由来だよ。

2017-12-30

釈迦様が2500年前くらいに通った道かな?

anond:20171230111228

こういうのに西洋人が嵌まるのは仏教がまだ浸透してないから仕方ないとして、

アジア人がまだこの理解度なのは残念です。

さて、この反出生主義の課題は、

苦痛を無批判に避けるべきものと捕らえるにとどまっている点で

そもそも苦痛とは何か、なぜ存在するのかまで

考察が行き届いていない所にある

仏教によると苦痛の原因は執着にあり、

執着は人が自由意思を持っているという幻想により発生していると解く。

まり反出生主義の問題自由意思問題で、人は何のインプットにも影響されず論理によって最適な行動をすると信じているから発生するのだ。要は本能を全て拭い去ると人は死ぬしかないよね?

因みに仏教におけるこの手の問題点解決策は四諦八正道となる。興味あるかたはこちらも。

2017-12-27

anond:20171227143307

日本仏教なんて鎌倉時代ぐらいから終わってるぞ!

悪人正機説踊念仏なんて釈迦が聞いたら卒倒するレベルだろう。

2017-12-25

クソみたいな人生

友人にはそれなりに恵まれてるし、金にも困ってない。恋人はいないけど、女性関係最近困ることもない。

家族は仲いいし、同僚ともまあまあ円滑だ。

でもいつまで経っても、どこまで努力しても、「人生はクソ」って気持ちが頭から拭えない。

仏教で言う四苦八苦ってやつか?

俺はずっとこんな気持ちで生きてくのか?バカバカしい。

神と宗教の発生しなかった民族ってある?

場合によっては神でなく精霊とか悪魔信仰とかも含むけど

そういった目に見えない超越存在を一切信じなかった民族って存在する?

元々そうでも後からカトリック仏教イスラムに準じただろうけど

 

追記1:

もし交流のない民族同士が自然発生的に超越存在意識したのだとしたら

それは知能指数トリガー

実益としての宗教はよく議論されるけど、発生の原因はあまり語られない

2017-12-24

俺「彼女いるの?

俺「クリスマスイブひとりで増田とか寂しくない?」

俺「俺が良いなら良いんだけどさあ…」

俺「俺仏教徒だもんな。葬式仏教だけど。だったら良いか。」

俺「イブの昼間からオナニーして昼寝とかある意味贅沢だしな。」

2017-12-23

6HP(シックスハートプリンセス)第2話覚え書き

MXの視聴アプリエムキャスで番組フォロー設定すると通知入るようだ。

ただし放送直前、今回は10分前に19時から6HP第二話始まるよ、と入って焦った。

6HPみたいに不定期放送でも、というかだからこそというか、通知がありがたい。


1話は、主人公ピンクHPハルカと、友達タマキが、文化祭の劇のロケハンのために

江ノ島的な島の神社を訪れたところ、神社が突如ガイジュウに変形し暴れだして

はるかが変身するところで終わった。

https://anond.hatelabo.jp/20170925233933


2話アバンタイトル

1話の続きから

神社戦闘で気を失ったたまきを、ピンクハートプリンセスに変身したハルカが抱えて

華麗に空中を飛び逃げる


タイトル表示「日輪の輝きを胸に秘めなんちゃら」とかいうの


シーンが変わって

マッドマックスマージナル・オペレーションを足したような状況

両側を崖に挟まれた荒れ地の隘路を輸送車両群が爆走

トラックの中には中東風の幼い子供たち、肝っ玉母さんみたいなのが外で銃持って護衛

突如世紀末ヒャッハー集団が襲撃する

一人色の違う服を着ている少女ピンチに陥った時、犬族が助けに来る

首のモフモフたてがみの中に人間の顔も持っていた

人間タイプが犬の被り物してるのか何なのか不明

救われた色違い少女は幼いタマキか


さらに場面転換

東南アジア仏教系寺で謎曼荼羅前で祈る子供たち

その中にメガネかけて現在に近いタマキの姿も

おばばさまが、この世は滅ぶ、科学邪悪、我らが祈ればオッケーみたいな説教する


意識をとりもどすタマ

ピンクHP戦闘シーンを目撃する

ザイジュウにピンクステッキで殴りかかったりするがまったく対抗できていない

猫のジンに諭されてステッキを刀のピンク丸に変形させ戦う

鳥居の上の現れた犬族が神社ザイジュウを操っているのだった

ザイジュウに飲み込まれピンクHPピンク丸で華麗に内側から切断

ダメージ与えたかに見えたが敵は武将型に変形してしま

ここの犬族も人の顔を持っている、というか完全に犬の被り物外したりしてる


場面変わって薄暗い倉庫に4,5人の犬族が集まり

あいつがやられたようだな、フフフあいつは犬族でも最弱的な

それっぽい企み話しているシーン


アイキャッチ


変形した武将ザイジュウが足元に木を錬成、さらに刀を高速で振り回して船を形成

海を隔てた街に向かおうとする

街では警報

猫のジンに言われるがまま、誰かを助けたいという思いの力で生み出した滅却牢で

ザイジュウを一時的に封じたがエネルギー切れ

そこへゴールドグリーンパープルの3人のHPが助けに入る

攻撃パープルヘイズ、ゴールデンボンバーグリーンデスティニー

しかし敵の反撃で牢が持たない、よしトドメ

4人の巨大ステッキ連携攻撃破壊

倒され悔しがる犬族「これが台本通りだというのか房之助」

3人のHPから、ザイジュウ現れた現場居合わせたようだが何か気づいたことは無いか

と聞かれるも特に心当たりはなく、ハルカのことを思い出し礼もそこそこに急いで去るピンク


ハルカ、人の姿に戻ってタマキの元に戻る

怖かったけどハートプリンセスの戦い見れてよかった文化祭頑張ろう

さっそく帰ろうかでも橋壊れちゃってる大丈夫大丈夫はるか水落ち


EDCGプリキュアダンス


ギガが減ったモバイル回線ブツ切れで見ていたけど、しっかり見れたとしても

思わせぶりなセリフ理解はすすまなかっただろうし、どうでもいいや感はある

友人タマキは犬族側っぽい、タマキはハルカピンクだとはまだ知らない


村上隆言い訳の方はBOX周回で忙しいので見るのやめました。

仏教は執着しないで集中しろということ

2017-12-21

anond:20171220195315

日本権力層はホント腐ってるよね

そして、それを正そうと行動する人の少なさが権力者層に拍車をかける

自浄作用がクソほどにも見えない

神道精神仏教思想現在を受け入れるっていう国民性でも作ってんのかね

2017-12-18

会社行きたくない

嫌だ

仕事嫌だ

辞めたい

でも辞めたら食いぶちがなくなってしま

死にたくない

でもいずれ死んでしま

ああ、生きるのがつらい

仏教の生老病死というやつだ

生きても苦しいし、死ぬのも苦しい

2017-12-17

anond:20171217000513

宗教でも実は仏教では占い否定されてたりするんだよね。だから神社おみくじはあるけど、寺にはほとんどない。

仏教霊感商法なんかは大好きだけどね。だけど、あそこが偽物だと断言できる理由の一つ。

「師は言われた。瑞兆の占い天変地異占い夢占い、相の占いを完全にやめ、吉凶の判断をともに捨てた修行者は、正しく世の中を遍歴するであろう」

2017-12-16

SMAPの古いVTRみてて

仏教に顔施って言葉があって「ニコニコ楽しいところを周囲に見せるのは良いことで功徳です」みたいな(超ざっくり)意味なんだけど、芸能人存在価値ってそれだよなあって思ったんだよ。幸せそうな様子を見せること。SMAPの古いVTRみててさ。忌野清志郎幸せそうに歌ってた。バックで演奏してるのは全員おっさんばっかりでさ。おっさんのまえでおっさんとまだ若いおっさんSMAPが歌ってんの。

2017-12-09

anond:20171209172159

仏教って肉食妻帯合法だったんだ知らんかったわ

釈迦現代に再来できるのか

タイムマシンで本人引っ張ってきたら仏教国の日本なら科学時代でも聖者になるのか

2017-12-05

祖母のお見舞いに行ったら仏様を見た

祖母がお見舞いに行く前に死んだという話ではない。

祖母はまだ生きてる。

生きてるけど、もう会話もできないくらいに弱ってる。

夏に帰省した時はまだ自分トイレに行ったりできるくらいには元気だったけど、先日倒れてもう長くはないそうだ。

祖母も九十を超えているので大往生だろう。

祖母がなくなること自体覚悟できているつもりだ。

から、倒れたとの報を受けた時も来るべき時が来たって感じで冷静だったと思う。

からできるだけ早くお見舞いに来るようにと言われ、都合をつけてお見舞いに行った。

このとき祖母の状況を詳しく聞いていなかったから、病室で自分で体を起こすこともできず、会話もできない祖母を見たとき大きな衝撃を受けた。

思えば祖父ふたりとも亡くなってるし、伯母も亡くなってるけどどれも子供のころだったり、ぽっくりだったり、事故だったりで、身内が衰弱していく様を見るのは初めてだった。

ともかく大きな衝撃を受けて、衝撃から立ち直るときに仏様を幻視したのだ。

仏様はそっと微笑んで、OKマークを示しておられた。(あのOKマークってどういう意味なんだろう?)

私は一応仏教徒だが世間様と同様ただの葬式仏教だ。

特に信心深くもないし、寺巡りが趣味というわけでもない。

TVを除けば、最後にまともに仏様を見たのは高校日本史資料集かもしれない。

そうした自分がこの状況で仏様を幻視する理由は何だろうか?

一番わかりやすいのは理不尽で無力な状況における八つ当たり対象だ。

仏様はすべてを受け止めてくださる、などと普段から考えているわけではないが、そう考えると一応説明はつく。

でも、なんで仏様だったんだろうか?

イエス様でもなく、ほかの宗教的アイコンのいずれでもなく、仏様だった理由は?

やっぱりなんだかんだいっても身近だからだろうか。

けど、私にとって仏様と言えば立川に住むパチモンが一番身近なのだが。

そもそも私が幻視した仏様のオリジナルはどこにあるのだろうか。

とっさにあの微笑みを思い浮かべられるほど仏様を凝視たことなどないと思うのだけれども。

私の脳が作り出したにしてはあまりにも堂のいった微笑みっぷりだったし。

わからん

私の脳はどのようなシナプスを経てあのイメージを作り出したのか。

機能に詳しい方教えてください、

あと、こういった体験普遍的ものなのか詳しい方教えてください。

まさかこれは特別体験で私には悟りの才能が!?

 

とにもかくにもこのお見舞いを通じてSF体験をして、S信心深くなったのでした。

ちゃんちゃん

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