はてなキーワード: 仏教とは
その上で「大和魂」を持ちつつ外国の良いものは取り入れようということ
いわゆる「和魂洋才」。
なお衆道は維新で実権を握った薩摩武士のほとんどが経験してることなので生き残った模様
いやよく読めって、本題はそこじゃなくてその次
「自分が信仰もしていない宗教やその信者に一応敬意を払うのはなぜか?」って部分な
「自分も一応仏教とか神道とか信じてるから」とかであっさり済むような問題じゃねーぞ
イスラームで言ったら、世界的に信者も多いからあまりバカにするとまずいし、
最悪、悪魔の詩のアレみたいに、イランあたりから暗殺者が送り込まれたらマジでヤバいからだろ?
あるいは欧米で白人がそう決めたから、それに乗っかってただ無批判に従ってるだけというのもあるな
いずれにせよ重要なのは、決してあらゆる宗教に無条件で敬意が払われるわけではないという点だ
実際、これがマイナーな新興宗教だと、必ずしもそうじゃなくなる
例えば幸福の科学だったら、イタコ芸とか言って、みんな割と堂々とバカにしてるよね?
でも創価学会はタブーがあって、集団ストーキングしてくるかわからんからほどほどにしておくのか?
昔のオウム真理教みたいに、対立する人間をガチで殺しに来るような奴らだったら黙るのか?
もしアニメにもそんな狂信者がゴロゴロいて、ちょっとバカにしようものなら即炎上させて回り、
万一住所が漏れたら何されるかわかんなかったらどうする?
仏教には三毒六煩悩と言って、これがあると苦しむというのがある。
貪瞋痴慢疑邪見、怒り、欲望、迷い、自惚れ、疑い、刺激物を見る
不安は「疑」だね。毒までいかないが、過剰になるとやっぱり苦しめる。
苦しむと、それにとらわれて、事実を見れなくなる。
不安に囚われまくってる奴は、それが故に不幸になる。
ポジティブな人とネガティブな人に、新聞中の画像の数をカウントしろというテストをさせた。
だけど、実は、その途中のページにでかでかと「テストをやめてください。画像の数は何枚です。試験官に報告してください」と書いてあった。
ポジティブな人のほうがそれを見つけて報告しに行く率が高かった。ネガティブな人はそれに気づかなかった。
過度な不安は眼を曇らせ、チャンスに気づかなくさせる。
だけど、新興宗教は霊感商法であることが非常に多く、それはありもしない不安を煽るものであることが多い。
でも、不安にまみれているのは快感でもあるんだよね。だから、不幸な自分に酔って、依存させる。それが霊感商法。
身内にいるんだわ。
誰々の先祖の霊障がーみたいなものなんざ有りもしないと断言していいが。
新興宗教って大概霊がどうのこのうのの話だろ?
その前にお前捨てるものちゃんと捨てろ、片付けろ。そのための時間をとれと思うな。
だけど、それは当人ができないからさせない。それより、先祖の霊障のせいにして、あなたは頑張ってる。だが、もっと金を出して払わなくというのが霊感商法。
そいつへの反発でむしろ既存宗教(とくに仏教)に詳しくなったな。
もちろん、その上で形骸化している既存宗教と、書物はいっぱいあることがわかったから、今の時代宗教の教えは大量の本を読むのがいいという結論になってる。
今の時代でも正しい教えをとく人はいるが、それは大々的な宗教設備を構えている人ではなく淡々と書物を書く僧侶だと思う。
金も安いし。
それから、仏教儒教は初めから神など超自然的存在を前提としとりません。
ただ、自分の頭で考えろ、という教えだ。(仏教「自灯明法灯明」)
それは今にも通じるものはあるよ。
と言っても、葬式仏教徒化したお寺では教えてもらえないが、書物としてはきちんと伝わってる。
ただ、一般化と検証が取り上げられてないから欧米でも宗教担当だ。
人間とは、生きる意味は→「世の中は、起きて稼いで食って寝て、あとは死ぬのを待つばかりなり」(それ以外は些細なこと)
幸福とは→「貪瞋痴(怒り、迷い、欲望)にとらわれている時が地獄なり、それを滅した時が浄土なり」
(双方一休宗純)
あと、イノベーションが起きないのはこの30年ほどの、新自由主義による金回りと景気を悪く、設備投資をしなくなった失われた30年。
ケインズ主義時代の日本では日本初のイノベーションはバンバン起きていた。1980年代末は一人あたり国民総生産世界一位で、
資本主義陣営、社会陣営双方から「日本は最も成功した資本主義」「日本は最も成功した社会主義」と言われた時代。
新自由主義で金回りを悪くしたのが悪い。
仏教系の住民が多い国でイスラム系マイノリティを迫害しつづけたのは政治的な話だよね
http://toyokeizai.net/articles/-/191070?display=b
どうなるか、今後も注目です。
アイマスの記事を例に書いてしまったのため、アイドル増田ーだと思われているのがシャクなので書き直します。
今回はあえて「マウント」について書きませんので前回の記事と主張する部分は変わります。
私が言いたいことはフランクにいって「オタクは老害みたいな事して新規をいじめんな」です。
オタクには「にわかは嫌い」という傾向があります。これは当然、私にも有ります。公共の場でオタ話をするな、オタクアピールをするな。こんな具合で。
まず、オタクがなぜこんなことを感じるかということに「日本の人間はコンプリート癖がある」という話からする必要があります。
例えば、漫画なんかが分かりやすいと思います。1巻買ったら飽きるか嫌いになるかまでは捨てずに全巻揃えようとします。一般的な漫画棚って整っているのが当たり前ではありませんか?1~全巻、または1~ハマっていたであろう巻数までがあり、例えば「巻数もバラバラな本棚」って想像出来ないと思います。本はシリーズであれば揃えるべきなのだと感じるのです。ナゼそう考えてしまうのかは研究者ではないからわかりませんが。
オタクという人達はこの「コンプリート癖」の究極の姿だと私は思います。人に隠すこともなく、このコンプリートを誇ることこそがまさしくオタクの証明になります。
そして、悲しいかな、日本の人間のもう一つの性があります。それが「老害化」です。
「年長者は敬うべき」「空気を読むべき・団体行動すべき」「苦労は買ってでもするべき」「マナーを徹底するべき」「下のものは掃除等の雑務をするべき。代表的な同調圧力はこんなところでしょうか。
海外の事情は知りませんが、これは多分、日本の人間であればどの年代にもあると思います。
言ってしまえば、この2つの組み合わせが「オタクの同調圧力」なのです。
「先人を敬うべき」。まさか常々こんなことを思っているオタクの皆さんはいらっしゃらないと私は信じていますが、残念ながら根底にはあります。ニコニコ動画でプレイ動画でも見ればわかるでしょうが、初見実況なんかでは必ずと行ってある「指示コメ」。うざがられますが、してしまう人はいるんです。本人にとってはちょっとしたアドバイスのつもりなんですが。これが迷ってる人間に対してのアドバイスならばいいんですが、なんにも迷ってない人間に対してのアドバイスはただの「おせっかい」なわけです。
「自分と同レベルを求める」。これは若干感じてる人がいるかもしれませんね。自分と話が合う人とだけ話していたい。知識レベルをあわせたい。ゲームのギルドなんかだと、自分と同じぐらいのプレイ頻度のプレイヤーを望みますし、または自分よりも強い人を望みますし、ついでに初心者も望みます。オタク風にいえば「同士」を求めます。つまり、コンプリート癖と合わせると「同じ巻数まで読んでいる人間と話をしたい」なんて感じるのは当たり前の話です。むしろ1巻しか読んでないって人に「実は○○3巻で死ぬで」なんていったら殺されますよ。
この2つが「にわか」を許せない心の大本だと私は考えています。
自分のほうが先にこのコンテンツにアクセスしたんだという気持ちと浅い知識を語るなという気持ちの2つがあり、にわかを許せない。
このことを私は悪だとは考えていません。必要な選別でしょう。言ってしまえば「自分の周りは自分と同レベルかソレ以上のプレイヤーか自分の話を聞いてくれる人」以外で固めたくないと思うのは当然です。その選別を持って自分のコミュニティを作っていくわけですから。
でも、私はこの行為によって「にわかヘイト」を撒き散らすことはコンテンツにとって駄目だと思うんですよね。自分の中でグッとこらえて消化する事が大切なのではと思います。あなたが「自分の気分が良ければいい」という人間ではない限りは。
コンテンツというのは放って置いたら絶対に衰退があります。よく見る「コミュニティの一生」とかですね。衰退がないと思われているコンテンツは地道な努力により人を増やし時代に合わせていったコンテンツなんです。言ってしまえば仏教やキリスト教なんていう宗教とかですね。ただ、衰退が見えていないだけかもしれませんが。
そうなんです、衰退を招いているのは「入出のバランスを悪くしている」からなんです。宗教なんかが永遠に続いているようにみえるのは、出て行く人よりも入れている人が多いからですよね。
もうおわかりですよね。続いているコンテンツは「にわか歓迎」なんです。だって宗教の場合は「にわかを導いてやろう」ってコンテンツの中の人が思ってるんですから。
宗教って言うとちょっと聞こえが悪いですが、マラソンなんてまさに長年続くスポーツじゃないですか。いろいろな敷居の大会があって気軽に参加できるわけです。
ガチャゲームなんてスマホあればアクセスができます。学生からおっさんまで、貧乏人から金持ちまでいろいろな人がアクセスします。
その中で厄介なことに「自分レベルのプレイヤー」を探してしまいがちです。
そして、残念なことに「自分と同じ程度の人間を作ろう」とにわかバッシングをしてしまうわけです。それがオタクコンテンツの「にわかは来るな」につながります。多分。
これは多分どうやっても直すことはできません。直すことが出来るんだったら日本はもっと過ごしやすい国になっているでしょうし。
なので意識を変える事、そう「寛容」になることが大切なのだと思います。
極論を言えばキリスト教における「黄金律」なんです。他人にしてほしいことは、自分もしなさいとかそういう感じの。
つまり「自分がオタクとして認められたいのなら、相手もオタクとして認める」簡単なことですよね。
にわかも認めてあげる。自分には理解できないけどそういうスタイルなんだと。
それを認めずに「理想のオタク像」を作り上げてしまうから「マウント合戦」が起きるわけですよね。
ゲームで言う「ガチ勢」「エンジョイ勢」の対立なんてまさにそんな感じです。まぁ、ガチ勢エンジョイ勢はレアドロがどうたらこうたら、ランクがどうたらこうたらで「寛容になればおk」で済ませれる話題ではありませんが。
なので、自分は「同調圧力をかけている」と一度意識して、ソレをかけないように意識していくってのも寛容さにつながっていくのではと思い、例のエントリーではあんなこと書きました。言ってることブレブレですみません。
鑑真や聖徳太子は思想家として評価だけるだけの史料が残ってないだろ。伝説ばっかりで。
鎌倉新仏教あたりは書いたものもたくさん残ってるのでOKかな。
あとは室町あたり。思想家と言っていいかどうかわからんけど、観阿弥・世阿弥あたりは影響力でかいか。
江戸ぐらいになると、各学派から代表出すだけで席が埋まるだろ。本居宣長と安藤昌益は外せないと思うけど。
どう?
sangping “私には手紙が来なかった。” 骨髄提供したからといって、相手が100%助かったとは限らんのでは?
2017/11/10 リンク Add Starteruwyilavandingekitanucroissant2003nekonuma
最終的に助からなかったとしても手術中に急死したのでもないかぎり手紙ぐらい書けるのでは?
手術中に急死or手が見かけるほど体調戻らないまま亡くなってしまったとしても家族が書けるのでは?
まあ元増田含めてあんまりそういうことは考えないほうが心の健康のためだと思うけど
結局こういうことって、
社会システムとしては貢献感に繋がるフィードバックをもっとちゃんとすべきだし
個人のメンタルの問題としては仏教をするべしってことになるんだよね
慈悲と智慧が現れてきていれば相手の手紙があるかないかはどうでも良くなる