はてなキーワード: 心の問題とは
全盲でありながら耳も全く聞こえないし話すことも全く出来ない知的障害まで負っている。
そのため親に介助して生きていたという人が親に先立たれたも、まず親の死を認識できないかもしれない。どこかに出て行ってしまったと思うかもしれない。
ここから弱り目に祟り目としてこの障害者に待ち受ける悲劇は三つ。
これがシングルマザーの子供(5歳)という立場でその母親が亡くなったという場合なら、その子供は十分な哀れみのもとで保護されることはあっても「被疑者として」事情聴取を受けることはありえないだろうし、実名報道されたり被疑者として自由を奪われることもないだろう。
見た目で子供と判断して被疑者扱いしないのであれば、同じように見た目で到底親の死が認識できないレベルの障害者と判断するなら被疑者扱いするべきではない。
子供かどうかも結局は戸籍等書類と照会しないと確かなことはわからないのだろう。小人症かもしれないし。
でも引きこもりで親が死んで死体遺棄で逮捕されている事例が多数ある。なかには障害者ゆえに引きこもりというカテゴリーに収まるしかない人もいるだろう。
それでも見た目で子供と分かる場合以外では逮捕してしまう。日本は逮捕されると即報道機関にFAXが送られるシステムになっているため逮捕とは同時に報道対象になるということである。
子供に見える場合と同じように「逮捕前に」障害者手帳の有無とか調べてあげるべきなんじゃないの?
八尾市母子餓死事件は別に子供が犯罪者として報道されてはいない。死んでるからかもしれない。
しかしそうだとすると、親の死後即座に通報できないような障害者に与えられている選択肢は、死ぬ代わりに犯罪者の誹りを受けないか、生き延びる代わりに一瞬でも実名や顔写真を報道されて一生近隣等に陰口を叩かれるような立場に立たされるかの二つに一つであるということになる。
つまり逆にいえば八尾市事件の子供がもし餓死する前に発見されていたら普通に犯罪者として実名報道されていたかもしれないのだ。理不尽このうえない。
なんか事件があったら近隣住民でも事情聴取を受けることはある。事情聴取イコール被疑者であることを前提として事情を聴いているのではない。
しかし死体遺棄に関する同居人に対する事情聴取というのはまずはなから著しくこいつは被疑者である可能性が高いと見積もってきてるわけだろう。
個人個人に犯罪者と疑われることに対してまで問題視してはきりがない。それはもう単なる内心の問題なのだから。
しかし打ち切った事件に対して一捜査官に本当は犯人なんじゃないかとか思われるようなことじゃなくて、こういった事例に対して警察組織の正式な意思として捜査官たちに疑われるようなことがあるならば、それはそういう仕組みに問題があるものとして糾弾や改善がされるべきだと思う。
たとえば10月13日に静岡県で死体遺棄事件として引きこもりが逮捕されている。
8日に引きこもり自ら119番に通報し、発覚しているということで、逮捕までに5日の期間がある。
死後4日経っているという報道内容があったので、これはその5日間の間に調べたことなのだろう。
つまり警察ははなからこの引きこもりを疑ってかかり、検死の結果4日経っていたということがわかったので放置とみなし逮捕したということだろう。
しかし4日程度逡巡としてありえるものとして見逃してくれてもいいものではないだろうか。もう弱い者いじめして実績あげたいだけなんじゃないの。
だいたい死体遺棄のお題目というのがまず「国民の一般的な宗教的感情」の社会秩序としての保護とかいうのであるのだが…
世の中でどれぐらい引きこもりの死体遺棄があるのか、報道されたもの以外については調べること自体できていない。
つまり報道されてはじめて国民に存在を認知されるようなものでしかないのに、その国民の感情を保護するとはどういう論理なのだろう。
保護したいのならば報道しないようにする、つまり埋葬義務者が死体を放置していたということについて警察発表を行わないようにするだけでよい。
わざわざ犯罪として定義したり裁かなくても保護することはできるわけだ。
それ以前に感情と秩序を結びつけてるのも引っかかる。何かについて人々がどう思うかというのは時の経過で自ずと変わってくるものだ。
保護するというのはそういった変質に対して人為的に介入して防ぐということである。「保護」してなければ死体遺棄に対する国民感情はとっくにポジティブになっていたかもわからない。少なくとも火葬や散骨以外の埋葬方法(剥製にするとか)にも許容するような気質になっていたかもしれない。
感情を秩序として保護、という名で管理するから、いたずらに旧守され何も考えない人や老害ばかりが居心地よくそうでない人が息苦しさを感じる世の中になるのではないか。感情を保護するから、罰するべき基準となる感情自体が変わらない。これは、その時代時代に応じて多くの人が不快に感じるものを罰するというのとは訳が違う。多様性に対する強い規制に他ならない。(規制の仕方の構造が刑法175条と似たところがある)
価値観の多様性を理解できない独裁者の法律なのである。タイムスリップできるならばこんな条項作った人に文句言いたい。
衛生上の意義もあるという学説もあるが、それだったらまずごみ屋敷を煽り運転とかと同じく法制化して罰するようにしないと公平じゃないと思う。
死体遺棄も罰してごみ屋敷の罰するならまだ筋が通るというわけである。しかしそもそも死体を放置して具体的にどんな病気のもとになるというのだろう。別にコロナ並みの感染症が流行るとかでもないんじゃないのか。悪臭が不快になるという話ならまず豚とか育ててる農家の近くに住んでる人はみんなその農家を罰してほしいと思ってもおかしくないな。ようは何が言いたいかというと衛生面でみても死体遺棄は罰するほどのことじゃないと思うわけ。
短気のくせに我慢しまくり問題(我慢してないor我慢できないときもあるけどね
我慢のはじまりが早いってのは、短気ゆえに「怒り」を抱くのがとても早いことが原因の大きなところ。とはいえ、短気というのはコミュニケーションを妨げる分かりやすい「害悪」であるので、短気だからといって即なんでも表に出して怒っているわけではない(これは良識ある人類ならみんながそうしてるよね案件)。
ちょっとしたことで「は?」となるものの、それをすぐに外には出さない(ようにしている)けど、すでに「怒り」は感じているので、「ちょっとしたこと発生→は?→我慢開始!」がマジで人より早いんだろうなという自己への解釈がある。
少し話はそれるけど「気になることはその場で指摘」っていうのが人間関係を円滑に進めるために大事だなぁと思うところなんだけど、その、自分の「気になること」っていうのが他人にとって「それは別に気にしなくてもよくない?」という案件だったとき、そう返されるのって不愉快になっちゃいますよねって話で、これはまぁ、
「気になることその場で指摘」に対して「それを言い出すこと自体が気になることなのでその場で反論」という構図が出来上がると、いや〜これはもうね、ここで短気なところが出るんだけど「私が不快だと思ったので不快なのですが?」という気持ちになっちゃって、「それセクハラですよ!やめてください!」つった相手が「別にこれはセクハラじゃなくない?」って返してくるのと同じじゃない?って話。
「お前ガッツリ、ケツ揉んできたやん」ってこっちは思ってるわけ、でも相手は「腰の下の柔らかい脂肪を掴むことくらい、コミュニケーションの一環では?」って返してきたらもう社会的地位抹殺でしょこんなのって話なんだけど。
すみません、いま「怒り」出て、自分がさも「正しいこと」を言っているかのような、極論を出して正当性を異常にアピールしていたきらいがありますねこれは。
いやこれねぇ「被害者意識」高いってのも、あるのかもって感じましたね、「いま胸…見てましたよね?…ドコミテンノヨォ〜〜〜〜〜!!!!!!!」みたいな所が自分にはある、あると思いつつ、「そういうところ、人とコミュニケーションを取る上で邪魔になることがあるから、我慢しようね」って言い聞かせてるところもある。
なんなら「他人も自分に対して我慢をしているところがあるのだから、自分も何かしら我慢をすべきなのだ」とも、言い聞かせています。
地球上でみたら自分の怒りはまぁまぁだよ、何者かに故郷の村を焼かれた少女とかの怒りに比べたらさ、こんなん「イチャモン」レベルなんだわ、と自分をしつけている節はとってもあります。
でも半径10㎝以内で1番怒ってんのはアタシなの!!!!!!!!!!!!
アタシが!アタシの感じた不快で!アタシが怒ることを!何と比べる必要がある!?という「アタシだってつらいんだから」理論も、まぁ持ち合わせています、悲しいことに。
コロナが跋扈する昨今、ウイルスへの恐怖よりも「コロナ禍なのに【そぐわない行動】をしている人間」を見る「とても我慢をしている人間の目」の方が怖い。
自分が「我慢」というものを知っている(と思い込んでいる可能性もあるけど)からこそ、他人の我慢へ配慮というか、気を使わなくてはいけないのでは?という強迫を自分で自分にしている。
自分が「怒りにつながる事象」50で「我慢できネェ〜!コイツ、殺っちゃっていいッスよねぇ〜?」ってなってるとして、「怒りにつながる事象」150でさえ「我慢我慢、気持ちを落ち着けて…」って深呼吸してる人もいるかもしれないと思うと、その150を自分が与えている場面もあるのでは?と思うと、自分は我慢が足りてないのではないか?と疑ってしまう。「実はこの人は、我慢をとってもしているのでは?」と他人を疑う上で、自分はどうか?と自分を審査してしまう。
短気かつ繊細ゆえに、ものすごく生きづらい人生なのかも、と自分で自分を憐れむようなきらいもあり、「自分は我慢をいっぱいしているからえらい」と勝手に思い込んでるようなところもあり、「短気じゃなければ我慢自体をしなくていいのでは?」という気持ちも、あり…
何か大きなバックボーンがあれば、いちいちクヨクヨしなくていいのにな〜と思うので、「毎月口座に10億円振り込まれる人生」とかだったら「まぁ毎月口座に10億円振り込まれるからアタシはその程度じゃ怒らないけど〜♪」みたいな人生になりたい気持ちがフツフツと湧いてきましたね。
繊細な心の問題!と思いつつも、毎月10億円が心の余裕につながるんじゃね!?と思ってしまうところは、きっと私が俗物だからなのだろうと思うと、解脱ってぇモンをしてみてェ〜!!!!!!!!!!!!!!!!!と感じました。おわり。
考えていることを文字にするのは大切だとわかっているけど、自分で自分の思考が幼いとか、いわゆる中二病くさいとか、そういう恥ずかしさもあって、なかなか実行できないでいる。それでさらに心理的なストレスというか心理的な状況が悪化して、手がつけられないような状況になることを繰り返している。今も悪い。
外形的な環境は関係なく心理状態が悪いんだ、と自分で自分に言い聞かせているが、けっしてそんなことはないことは自分が一番良くわかっている。もし今とてもたくさんお金を稼いでいて、しかも人から尊敬されるようなことをしていたら、もし今文句のつけようのないような奥さんとか家族なんかがいて、幸せに暮らしていたら、自分の心は決してこのような文章を書くような状態には陥っていないと思う。
オリンピックを見ていても何をしていても、結局は現実逃避をしていて、その結果現実はさらに悪くなるということを何回も繰り返している。なんとかならないかなーと思いつつ、自分がアクションを起こさないことにはなんともならないことはよくわかっている。それができないでこの一年間、心は一時期に比べてストレスが少ない状態であったにもかかわらず、やはり一定のうつ状態からは抜け出せずにひたすら苦しんでいた。
人と会っていないし人の情報を得てもいないのに、嫉妬し、執着し、落ち込むことばかり繰り返していた。人と劣等感と優越感で勝負しても必ず負けて心がとんでもなく傷つく。そしてそれをわかっていながら何もできず、やはりうまく生きられない。
極度の人に対する気の遣いようというか、臆病さがあり、それによって配慮をすることで得をしてきた面ももちろんあるが、自分に余裕がない状況になるたびに人からの連絡を無視したり、不義理をしてすべき連絡をできなかったりという面で損のほうがよほど多い。もっとしぶとくならなければ生きていけないとわかっているが、自分の性質なのでなかなか治すことができない。
この世に対して深い恨み、無力感、絶望感を抱いているのに、死ぬこともしない。
死ぬことができないのには2つ理由があって、1つ目には家族が気の毒ということと、2つ目には一度自殺しようとしてできなかった経験から少し自分の自殺能力に疑問があること。自分が死んだあとには自分にとっての世界が存在しないから家族のことなんて考えても仕方ない、と頭ではわかっているが、やはり自分が死んだことを知らされる親、姉、祖父母、おばのことを考えると、さすがに申し訳ないと思ってしまい、極限のストレス状況ではない今の状況ではなかなか踏み切るところまでいかない。家族はみんな、自分が東京で出世することやお金持ちになることを望んでいるわけではなくて、単に元気で暮らしてくれたらいいと思っているだろう、ということもある。もし出世やお金持ちになることを希望しているのであれば、それは明らかに自分の能力では不可能なことなので自殺したほうがいいということになるが、そうではないのであれば、生きていたほうがいいということになる。自分としてはもちろん、生きていることそれ自体が本当につらく、耐え難い苦しみの連続でしかないので、死ぬほうが百倍楽なのだが。家族が、自分に対して元気に暮らしてくれればいいと期待すればするほど、自分は自殺に踏み切れず元気がなくなり、不幸が重なっていくという一種のパラドックスというか皮肉的状況にある。
常に強い劣等感に苛まれ、かつ何をしても絶対にうまくいくことはないという強力な固定観念があるので、生きることはただ辛い。どれだけ辛いかは本当に筆舌に尽くしがたい。生きているだけで、針の山を無理やり歩かされているような気持ちがする。自分としては、生きるのに向いていない遺伝子や個体というのもやはり一定割合のエラーの一つとして生物群の中に出てくることはまったく不自然ではないし、それが自然淘汰として自殺することも合理的と思う。それができないからつらいのだ。毎秒毎秒、塗炭の苦しみ。それも何にもつながらない苦しみだから余計に苦しいと感じる。何か成功に向けての苦痛とか終りが見えている苦痛ではなくて、ただ出口のない、無駄な、理解もされない苦痛。
高校のときに倫理の授業で「絶望は死に至る病」という本を習ったが、自分はそれを聞いて、机に落書きで「死に至らない病」と書いた。そうかんたんに死ねないから絶望というのは更に強いのだ。もし死ねるなら、絶望はそこまでひどくはない。元の本の趣旨は、絶望というのは人を死に追いやるほどの強力なもの、という意味が込められていると習った。しかし自分の感覚としては、死ねないからこそ絶望は更に深まり、もっと強力に襲ってくる。夜が明ける前が一番暗いし、日が沈む前が一番太陽が輝いているように、死を手前にしたところが一番しんどいのではないかと思う。勇気があって飛び込んでしまえる人はいい。その度胸もなく、かつ自分をうつ状態から引き戻す力もなく、絶望的なリンボーで永遠に苦しみ続ける感覚。それが16歳か17歳のときだっただろうから、少なくとも12,13年以上、自分は絶望にかこまれ、死ぬより苦しい思いを毎日、これでもかというほど味わって生きてきたことになる。もちろんそんなことは自分だけではないからそれを美化するつもりはない。また、幼い心で何か死ぬことを美化していたという面があったのか、と今振り返って反省してみるが、けっしてそんなことはなかった。死ぬことは当時から最悪の選択肢であり、人生における敗北であり、弱者の逃げでしかないことはよく理解していた。それでもなお、あまりに人生は辛く、とにかく敗北でも弱者でも逃げでもなんでもいいから死にたい。考えというよりも、感覚として死ぬことを求めている。のどが渇いたり、性欲がたかまったりするのと同じように、本当にもう無理でつらすぎるから死にたい、なんでもいいから死にたい、という強い希死念慮。それが間断なく、24時間365日襲ってくる。もしそれが抑うつ状態や軽度のうつ病の症状であったとするなら、12歳頃の子供の時から今まで、人生の大半、3分の2程度まではうつ状態であったということになる。自分としてはこれがうつ状態とは思っていない。それが平常。
主に外形的な要因で、時折、希死念慮が薄くなる躁状態のときがあったが、これがまともな人間の普通の状態にあたるのだと思う。自分にとってはそれは本当に数少ない異常状態で、絶対に長続きすることはなかった。神様が慌てて帳尻を合わせてきて、その小さな成功を取り消して、その後には2倍、3倍の失敗と苦しみを必ず与えてきた。
心の問題から離れて、外形的なほうで、なぜ人生は常にうまくいかないのかという点について。人生がうまくいきさえすれば、外形的になにもかもが思い通りに行けば、自分の心の問題はかんたんに解決すると思う。劣等感でひどく歪んだ性格や強い希死念慮、うつ状態が平常状態というおかしな心理的な特性を考えてもやはり、希死念慮に至るきっかけは常に外形的なことだったと思う。例えば部活でもっと活躍できれば、体育で体がもっと動けば、受験がもっとうまくいけば、就職が失敗しなければ、もっと女の子にモテていれば、もっと友人に恵まれていれば。外形的な、というのはそういうことを指している。
もともと自分は能力も低く、外面から見てもさほど恵まれていないし、それらを磨くという努力も怠ってきた。それが一つの原因としてなにもうまくいかない、という無力感や絶望感をコツコツと毎日休みなく蓄積してきた。そもそも自分は長期的な努力が苦手だ。かんたんに言えば怠惰だ。それにもともと持っている才能や外見やスキルもないから、当然うまくいくはずがない。世の中は持って生まれたもので勝負しないといけないという意味で公平で、結果においては公平公正ではないから、当然勝者は常に勝ち続け、敗者は常に負け続ける。有るところにはなんでもあるが、ないところには、本当に、徹頭徹尾、なにもない。本当に何もない。もちろんそれが世の中のあり方だし、みんなそれを前提に生きている。それに文句をつけるのは筋違いだ。
また、2つ目の理由として、何かしらの才能のかけらとか持って生まれたものがあって、そこの上にきちんと努力をして、成功確率を5割とか、ある程度のところまで高めても、運によってそれが左右されることももちろんわきまえている。運というのはなかなかくせもので、見た目上の確率が5割でも、実際には10割負け続ける、いわゆる持っていない人も世の中にはたくさんいる。そしてこれまでの人生から統計的に考えて、自分がその一人であることも疑いようがない。絶対に、何をしても、うまくいくことは有り得ない。少しでもうまくいきかけると、神様が慌ててやってきて失敗にする。それだけを繰り返してきた。でも、もちろんこれも同様に世のあり方だから、それに文句を言っても仕方ない。それはつまるところ天に唾するということであって、この世そのもの、というのは変えようがない。世の中すべて、というのはそれを感覚で捉え、見ている自分自身そのものだから、この世のあり方に文句をつけるのは自分の命に対して文句をつけるのと一緒。
そして自分は、何をしても、決してうまくいくことは絶対にない、ということを何度も味わった失敗からかんたんに学び取り、また世の中のあり方に文句をつけることは自分自身に対して文句をつけることと同じであることもまたかんたんに学び、その場合、死ぬことが唯一の正解だということも学んだ。死ぬことが一番の正解という考えに最終的に至ったのが16歳か17歳のときだったはず。その時の絶望は今でもよく覚えているし、また残念ながら今でも考えはなんら進歩しておらず、その後何回もの挫折や失敗を繰り返して、むしろ確信は深まっている。
死んだ人だけが良い人間で、生きている人間はみんなどこかおかしい。頭がとても悪いか、人のことをなんとも思っていないか、とにかく人の心を持っていない人間。本当に良い人間はみんな自殺してしまった。狂ったような響きだが本気でそう信じている。
自分のような人間は生きていても何も為すことはないのだから、さらっと死んでしまうのが一番なのだ。本生まれてきたのが不幸だったと割り切るしかない。なにかうまいことや響きのいい言葉を言おうという意図ではなく、本心から、生まれてきていいことは何一つなかった。
人生で得たもの。毎日のようにやってくる鈍くて絶対に消えない心理的苦痛と、死ぬことが唯一の解決なのに死ねない無力感、というか絶望感。
随分とキツい状況のようだ。
何度も不満や気持ちを思い切って伝えているにも関わらず、相手がそれに対して対応してくれておらず、根本解決に至っていない。
夫自身も優しさからくるものか、相手にも不快感を与えたかもしれないと若干自己嫌悪に陥っているようだ。
見てみると段階がある。
第一段階は、なぜセックスができないのかの疑問だ。これは解決している。
第一段階。
客観的に見ればセックスに応じない妻に対して夫の不機嫌は当然の反応なのだが、
夫が思い切って客観的に妻がセックスに応じられない明らかな理由を問いただしたところ、
「もう、セックスをする気になれない」との回答が得られた。
これをちゃんと伝えない妻も世の中にはいて、ここで拗れることは多々あるのだが、
しかも数次にわたり「する気になれない」との回答が得られている。
ここで、夫がセックスを諦められたのなら一件落着だ。
だが夫は、夫婦生活においてセックスは欠くべからざる要素であるという認識だ。
「妻がなぜセックスに応じてくれないか」については「もう、セックスをする気になれない」の回答が得られており、これは妻の偽りのない状況である。
今度は、夫が「それでもセックスがしたい」という次のコンフリクトの対処に焦点が当たる。
第二段階。
妻側も、「セックス以外は」夫側に譲歩しようとする姿勢が見て取れる。
夫は、それに対して感謝はあるものの、一番の目的であるセックスが慎重にかつ確実に逸らされていることがわかるため、満足に至ることはなく、むしろ不満が鬱積し抑圧されている状況だ。
夫は自分が最も大事にしたいセックスが蔑ろにされており、妻はセックス以外は夫に何とか対応しようとしてくれているため、感謝と怒りが綯い交ぜとなっており、混乱している。
「セックス以外は」順調であるがため、なおさらセックスが満たされない焦燥が肥大化しているように見受ける。
そして困ったことに、夫側の主張によればそのセックスは単純な性欲ではないため、性風俗産業の利用といったいわゆる外注では解決できない。
妻その人とセックスできなければ満たされないのだ。
まあ浮気や不倫といったリスクが排除されるためこの観点からは良いことだが、
妻側の意思の変更以外には解決がなく、現状打破の解決策の狭隘という意味ではむしろ手詰まり感は更に強い。
(余談だが、「お前だけを愛している」という感情は、無条件の愛ではなく、むしろこうしたコンフリクトを生じることがままあることを社会は知る必要があると感じた)
気になるのは「大事な話だからまた話そうね」という妻側のセリフである。
気休めならこんなセリフは言わない方が良い。
本当にしたくないなら「する気になれない」を繰り返せば良いだけである。
或いは妻側も、「大事な話を繰り返せばセックスの要求を諦めてくれる」ことを暗に期待しているのかもしれない。
それであるなら大事な話はすればするだけ亀裂を深めるだけである。(両者の気持ちが不変であることを前提)
心の奥底では、これ以上踏み込んだら「破綻」も覚悟するような賭けに出なくてはならないかもしれない予感を無意識に感じているのかもしれない。
お互いに。
…夫婦生活にはセックスが前提であり、これに応えない場合は応えない方に責任があるというのが、法的側面も含めた我が国の社会の解釈である。
だが責任問題として争いをすることも夫の望むところではないだろう。
だが、一番求めているものが、お互いの間ですれ違い、もつれていく。
もし妻が浮気しているのならここまでダラダラ書いたことは完全にムダだが、
そんな片鱗すらないというのなら、
お互いの最も望むものが噛み合わず、つらく、くるしいという人間関係のコミュニケーションそのものなのかもしれない。
吐き出してスッキリしないのなら、
このままの現状を維持することが夫側の目的ではないと思われる。
行くところまで行かなければこのすっきり感は得られないだろう。
そしてこれは心の問題であり、
形式的に「夫が諦める」を選択しても「妻がセックスに応じる」を選択しても、
そこに心が本当に存在していなければ、どちらにしてもどちらの「スッキリ」も得られないだろう。
上辺だけ、形だけ、その場しのぎのことをやったとしたって、
夫も妻もそれは必ずわかってしまうだろう。
現に夫は形式上諦めようと試みたが、あらゆる心の反応が嵐のように起き、諦めることは(今のところ)できないことは証明済みである。
「夫が本心から心の底からセックスを諦めてくれた」とは到底言えない状況だったからだ。
同じように、妻がたとえセックスに応じてくれたとしても、そのセックスの反応、満足度等々から、
「妻が本心から心の底からセックスに応じてくれたとは到底言えない状況」がセックス最中・セックス後に感じて取れてしまったら、
妻がたとえ何百回セックスに応じてくれてもこの問題は解決しない。
「わかった、セックスは諦める」
これは言葉だけでは、形だけでは、そして実際にそうしてみただけでは、どれほど意味がないかがわかるだろう。
たとえ他人からはどれほど幸せに溢れた夫婦生活や家族生活が営めたとしても、
『自らが本心から望む人生』において永遠の飢渇に苛まれることは疑いがない。
………或いは、この世界において、心の底から望むものなど決して叶うことはないのだと思い知ることも必要なのかもしれない。
周囲を見回してみれば、そうした選択をしている大人は数限りなく数え切れないほどおおぜいいる。
どちらを選ぶのかは夫の選択であり、
そして、妻もこの選択に参加しなくてはならないだろう。
ネット上では弱者男性と比較対象となるはずの、未婚貧困女性の発言が、ジェンダーに関する論争の中で少なすぎるように思う。
ネット上で女性差別を訴える人の大部分は、既婚女性の「旦那が家事育児を自分のこととして考えない」とか、正社員女性の「体育会系男性基準の仕事のやりかた」や「女性というだけで重要な仕事を任されない」ことだったりする。kutooについても、ヒールやパンプスを履く機会の多い正規労働者が中心の問題であり、その機会すらほとんどない非正規貧困女性とは無関係である。それはそれで切実な問題だけど、「非正規or無職未婚」(あくまで自称だが)の「弱者男性」とは社会階層的には明確に上位であり、お互いに話がすれ違うのは当たり前である。
統計的には多くいるはずの、年収100万円台の非正規未婚貧困女性の声がもう少し上がれば、「弱者男性」側も共闘することも可能なはずだが、そうした女性の声はなぜかあまり出てこない。この理由は何故だろうか。
(追記)
自分の仮説は、男の場合は「モテない、金がない」ことが笑える自虐になるのに対して、女性の場合は「モテない、金がない」が全く笑えないというジェンダー差の存在だと考えている(なぜ笑えないのかはまた難しい問題だが)。「弱者男性」問題というのは「弱者女性」に比べて「笑える」という優位性があることは、「弱者男性」界隈の人たちも自覚した方がいいように思う。
昔、二次創作のサイトを持ってた。サイトって言うなれば自分の城で、好きなように色を変えて、好きなようにコンテンツを置いて、好きなようにデザインできる。嫌な事言う奴はアクセス禁止にして、強制的に排除だって出来る。
好きな二次創作のテキストサイトの管理人に感想を送ったり、「尊敬してるサイト様」としてリンクを貼ると、相手がアクセス履歴から辿って、私のサイトにたどり着いて、相手に認知される事がある。そこからTwitterで繋がったり、感想を送り合う仲になったら、個人的には友達になれたと思ってた。相手がどう思ってるかは知らないけど、少なくとも私はね。
それが大体10年前。
10年経てば好きなジャンル・流行りのジャンルだってかわるし、個人サイトよりもpixivが主流になる。
サイトだと自分にしか可視化されなかったいいね数と、ブックマーク数がpixivだと一気に大っぴらになる。
流行りのジャンルを渡り歩くその人のブックマーク数がどの話も1000users10000usersを超えていて、いつのまにかTwitterのフォロワーは4桁になっていた。文章しか書かない人なのに。
ああ、すごいなあ、旬だからなあ、話は万人受けする訳ではないけれども豊富な語彙量と話の運び方でねじ伏せてるし、ブックマーク数が伸びるのも当然だよ、くらいに思ってたんだけど、対して私は……と考えると、自分がちょっとみじめになった。対等だと思ってた相手は対等じゃなくて、自分が思っていた以上に雲の上の存在だったらしい。
数字で"好き"を計ってるみたいで、ちょっと嫌になって、pixivにはあまり近寄れなかった。なのでサイトをやめてからはあんまり書いてない。二次創作は突き詰めても趣味以上のものにはならなくて、続けたところで何かがある訳でもないし、その人が数字を鼻にかけて特別変わった訳でもない。ただ私が一人でその人と比較して、勝手にみじめになってるだけで、私の心の問題だから。
その人には私の心のモヤモヤを伝えた事ないし、これからも伝えるつもりもない。
それとはまた別に、半年前、ハマったジャンルでpixivにお話をあげた。好きなジャンルだったから、自分が読んでて、いいな、好きだな、と思ったお話には返信不要で積極的に感想も送った。
感想を送ったうちの一人から、返信がきた。私が書いたお話の感想まで含まれていて、既に何度も読み返しており、すごい好きなお話なのだという。嬉しかった。
私が友達ほしくてTwitterアカウントをそのジャンル用に取得した事を、新しくあげたお話のキャプションで書いたら、この人もTwitterを始めてくれた。嬉しかった。三ヶ月くらい、毎日DMで話してた。既に完結したジャンルなのに、こんなに話すことあるんだ…!ってびっくりするくらい楽しかった。
Twitter、はじめは私の方がフォロワーが多かった。ちょっとだけね。
今は新書ページメーカーで書いた話をTwitterにあげるのが主流らしく、閲覧垢が多く存在する事をそこで知った。
もちろんこの人の書くお話は私も好きだし、とても上質で、話のつくりも描写も丁寧で、豊富な語彙量から繰り広げられる世界はこの人の目にはどんな風に世界が映っているんだろう、って思えるくらい、素敵なお話ばかりだった。もし一次創作をしていたなら、賞だって取れるんじゃないかな。
どこまでいったって、私は自分に自信がなくて、人と比較してしまって、勝手に自滅するだけなんだな、って今回気づいた。
みんなどうやって友達になるんだろう。
俺を信じるか?
1週間まいにち1個は、カロリーメイトの白を食え。そしたら、すこし体調が変わる。
そしたら、神社で祈れ、そうだな、シャネルのルージュをちょっと禊をしてから、厚めに引いて、祈ってこい。デパートで、いいやつが売ってる。事情を話せば初めてでも特別に分けてくれると思う。
不安ならカロリーメイトをくって禊をしてから、神社でかるくいのってから、シャネルに言ってこい。そしたら、いいルージュを選んでくれる。
それで、神社でがっつりいのってこい。祈りは、大事だ。思いのちからってあるからよ。朱だぞ。色は大事。カロリーメイトの白、みそぎ、シャネルの赤い新品のルージュ。キーワードをチャント揃えて心の問題だけでもまず解決しとけ。
ゲイが祝福されない云々はともかく、
資本主義はキリスト教のプロテスタンティズムから生まれたとも考えられている
宗教改革におけるカルヴァンの思想は、より徹底した聖書中心主義であり、神は絶対的な権威をもち、人間の原罪はキリストの福音によってのみ救われるというものであった。その神による救済は「予(あらかじ)め定められている」であり、それを定めるのは絶対の権限を持つ神だけである、したがって「人間はすべて平等に創られてはいない。永遠の生命にあずかるもの、永遠の劫罰に喘ぐのも、すべて前もって定められている」とした。そのような人間がどのようにして神への絶対的服従を示すことができるかというと、現世の天職を与えられたものとして務めることでしかできない、と説いた。このようなカルヴァン派の信仰は西ヨーロッパの商工業者(中産階級)に支持されていった。そしてこの西ヨーロッパの商工業者の中から、近代社会を出現させる資本主義が生まれてきた。→『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』
いずれにせよ、神は最初から私を救うか救わないかという正解を持っているが、それは私が死んで答え合わせがあるのであって、
私が死ぬまで正解は分からない、正解はCMのあとではなく死んだあとである
だからこそ、目の前の仕事を全うするしかないし、仕事がないとしても人生を謳歌するしかないとさえ私は考えている
その、仕事を全うする、人生を楽しむ、といったことも神は最初から計画されていることだし、
もっと広く考えるならば、この世界のすべてが神が計画されていることである
つまり、自由意志があるようで自由意志がないわけであるが、個々人にとってそれはどうでもいいことなのである
なぜなら、我々人は、神様が何をお考えになっているのか、知りようがないからである
そして、それを知ることができるのはイエス・キリストのみであり、それ以外の預言者は偽の預言者である
人は神様が何をお考えになり、これからどうされようとしているのか、知る方法はないはずだからである
だから、別にキリスト教を信仰しろ、信心深くあれ、不信心は許さん、とはまったく私は思わないが、
人は機械ではなく、ロジックのみで動作するわけではなく、必ずしも論理的、科学的思考が正しいとも言えない存在であり、
特別な信仰はなくても、頭のどこかに神というか、なにか見えないものを信じる必要性さえあるように私は考える
水木しげる氏の、見えないものを信じる、にも似ているように私は思っている
キリスト教や宗教を悪と考える人たちがこの世界に多く存在することも事実である
しかし、本当に宗教が必要ないのか、人の心に平安を与える唯物論的ではない何かが必要ないのか、
個々人がそれぞれ考えておく必要があるように思う
そういえば庵野氏の昔のインタビューの中に、今の庵野氏の心情とは大きく異なっている可能性はあるが、
「飽食の時代だから心の問題を描いた」みたいな発言があったが、
たしかにそれはある側面では正しく、それがオウム真理教のような終末思想のカルトを多く生み出した
しかし、当時の庵野氏が言う、飽食の時代でなければ明日食べるもののことだけ考えるから心は問題にならない、
これは本当だろうか
もちろん、明日食べるもののことだけしか考えられなくはなるだろう、自分もそうなるだろう
しかし、エヴァで例えるなら、その極限的な状態でシンジにとってのゲンドウが死ぬ、シンジにとっての周囲の人たちが死ぬ、
でも、自分が生きてるからそれでいいや、みたいに思えるものだろうか
たしかに他人に対して思い入れがない、思い入れがない他人であればそうかもしれない
極限的な状態であれば、食料のために親が子を食べる、子が親を食べる、人が人を食べる、殺し合い奪い合う、
そういうことが起こっても不思議はない
しかし、人であるならば、どこかで我に返ったとき考えてしまうのではないだろうか
これでいいのか、何か間違っていないか、
そういった考えが人にあるからこそ、道具を発明したり、農業を発明してきたのではなかったのか
もし、人がそうでないのであれば、今でも殺し合い奪い合っているはずである
しかし、そうならなかったのはなぜなのか?
悲しいことだが、大切な人が無残な死を迎えても、これも神様がご計画されていたことである
神様の役割は、お賽銭のような賄賂をもらって人の願いを叶えることではないし、
すべての人類一人一人が不自由なく幸せになることでもないからである
逆に考えても、すべての人が幸福な世界なんてありえないとしか思えないわけで
あくまで個人的な解釈だが、まず聖書は寄せ集めの書物という考え方もあるわけで、
キリスト教の中にも聖書は無謬であり絶対的に正しいという考え方と、
いや、聖書にも間違いがある、本質的には神が絶対であり神を信じることである、という考えもある
だから、あくまで個人的な解釈だが、自分としてはキリスト教的に、
ゲイであれノンケであれ関係なく、すべての人たちが救済されるか救済されないか、という問題を抱えており、
それは神様が最初から決めているわけであるが、我々人は死ぬまでそれは分からないのである
だからこそ、一日一日を大切に生きていくしか、人にはそれぐらいしかできないのである
人は思い上がりやすく、この世界を宇宙をすべて悟ったつもりになりがちである
鋼の錬金術師のフラスコの中の小人ではないが、神に思い上がるな、と言われるまで人は自らの思い上がりに気が付かない
そして、人は基本的に怠惰であり、その思い上がりからも歴史的にも多くの悲劇を生み出してきた
神を信じなくてもいいが、自らが思い上がっていないか、常々肝に銘じておく必要があるように思う
エヴァが、おたく達へのメッセージとして結局、「普通にしてさえいればいいんだよ」ということしか言えなかったのが悲しい。そりゃ俺も、きっとほとんどの大人も、他に何も思いつかないわけで、だからこそおたくは、どうしようも無くおたくな訳だけど。
「あんまり拗らせずに、ただ普通にしていればいい。普通にしていれば、普通の力学がはたらいて、普通に周りの助けを借りて、あるべき所に収まることが出来る。心配しなくても、あなたの出番、あなたにしか出来ない仕事というものも絶対にやって来る。それも、誰の目にも、もちろん、あなたの目にも明白な形で、やって来る。」っていうメッセージは、悩み一般をテーマにした物語の結末としてはよくあるし、実際、ほとんどの”元・拗らせてた”大人は、そういう結論を通って、まともになったんだと思う。
もうそういう結論でしかエヴァを終わりに出来なかったって言うのも分かるし、庵野が新劇場版を始めた意図は全然違うところなのかもしれないけど、やっぱり26年おたくを待たせておいて、最後の最後でいつもの「納得感」をフルスクリーンで叩きつける、っていうのもどうなんだろう。
アスカのケンスケとのあれこれだって、おたくを舐めているとしか思えない。アスカがケンスケと過ごして居心地良いのは納得できるけど、ある一つの言葉がアスカを救ったような描き方をするのは辞めて欲しい。エヴァは「人を劇的に救う、核心的な一言」みたいな安いドラマのアンチテーゼではなかったのか。
安易な「この世界の片隅に」みたいな場面も、本当にエヴァでやる必要があったのか?どんな状況でもしたたかに暮らす人々の力(に触れたアヤナミ)でしか、シンジを立ち直らせることは出来なかったのか?エヴァは「人をやがて救うのは、時の流れと日々の暮らし」みたいな、安いドラマのアンチテーゼではなかったのか?
庵野、結局お前さえ結論を出せなかったせいで、おたくたちは今でも、どこで聞いてきた言葉なのだろうか、”他者の痛み”がどうだとか言ってエヴァを語っているぞ。おい見ろよ、「ガフの扉」だとか「ゴルゴダ・オブジェクト」だとかの話は凄く厳密に考察できるのに、心の問題になるといきなり、曖昧な言葉でなんとなく語ることしか出来ないおたくのありさまを。心の問題は、「絵コンテにはこう書いてある」だとか、「ウルトラマンのオマージュだ」だとか、とにかく情報を集めていけば解明できるような事じゃなく、おたく自身がその”他者の痛み”とやらにしっかり向き合って、「普通に」自分の心を見つめ直していかなければいけないのに、おたくはそれが分からないんだよ。そもそもシンジだって、そういう面倒臭い奴として描かれていたのに、結局、じゃあそんなシンジが(そしておたくが)どうすれば救われるか、庵野、お前にも、結局分からなくて、急遽シンジを一定時間黙らせて、それから別人格にシンジをやらせることにしたんだろ。それであんなに、シンジの心の動きが追えないような造りになってしまったんだろ。庵野。あんまりじゃないか、庵野。ほとんど前田真宏が作ったって言うのは本当なのか、庵野。本当にあれで、シンジをシンジのまま救うことがないままで、いいのか庵野。
敢えてキツいこと書くけど、
と俺は思ってるんだけど
というか、宮崎駿氏にしても坂本龍一氏にしても安易に、原発なくせ、だの「たかが電気」だの、
人類なんか滅びちゃえばいいんです、だの、コンピュータとかゲームは頭がおかしい人が作ったもんなんです、だの、
マクロスやアクエリオンの河森正治氏も地球少女アルジュナみたいなエコでロハスでスピな新興宗教のアニメ?みたいなの作っちゃうし、
例えば、オネアミスとかロケットの話だけど、やっぱり庵野氏というかガイナックスというかアニメーターなわけで、
自分のような理系の視点から見た宇宙やロケットの壮大さに対する感動とは同じようで異なっているのではないか、
つまり、彼らは理系というより文系視点というか、センス・オブ・ワンダーなところに惹かれているのであって、
一からピラミッドのレンガを積み上げるような泥臭い本当の開発現場感が、
アニメーターはアニメ制作に関しては当然あるのだろうけど、別の世界のそういう地に足のついた視点には欠けていて、
というのも、リアルな研究や開発を脚色なく描いてもドラマがないというか物語として面白くなくなる可能性がある
つまり、天才的な科学者とか理系の女性が登場したり、こんなこともあろうかとでミラクルな超兵器がいつの間にか登場したり、
実際の研究や開発は、たしかに歴史的な天才、偉人と呼ぶべき人々も存在するのだけれど、
ほとんどは凡人、サラリーマンの集合であって、地味でつまらない日々の仕事がベースになっていると自分は思っていて、
ちょっとした思いつきや閃きで壮大な宇宙艦隊戦の形勢が逆転したりとか、そんなことはありえないと思うのです
でも、リアルすぎる研究や開発、リアルすぎる戦争を描いても面白くならない
だから、ビジュアルとして美しい部分だけを切り取るのはアニメというか映像を作る側としては当然の選択なわけです
しかし、敢えてキツい言い方をするなら、アニメ作ってる人もスタジオの中に閉じ込もって、その世界しか知らないのではないか
恐れ多いのだけど、宮崎駿氏だって朝から晩までスタジオにこもってアニメを作ってる
もちろん、通勤の途中に障害のある人に出会って云々みたいな話もあった気がするのだけど、
電気なくても構わないから原発なくせみたいな主張をされても、電気なければアニメは作れない、作曲や録音もできない、
アルジュナには水中分娩の話があるらしいけど、なんの資格もない助産師が水中分娩をさせて死亡事故が起きたりしてたと思うのだけど、
そういった左翼的というか、極端な自然回帰というか、そういったエコでロハスでスピリチュアルなのに走っていってしまうのは
そういえば最近だと膣にパワーストーンだのジェムリンガだのもあったけど、膣の声に従って、仕事辞めて、孤島に集まってしまうとか、
SFというか、どちらかというとSF寄りのファンタジーを描いてる人たちってオウムみたいなのと親和性がある気がするんだよなあ
SF寄りのファンタジーって何のことを言ってるのかというと、スターウォーズ、そしてガンダムのことだったりするのだけど、
宇宙や宇宙船が登場してるけど、一方で超能力とか、それが宇宙空間で開花するとか、
こういった話はLSDとかアイソレーションタンクとかアルタード・ステーツとか、ジョン・C・リリー、ティモシー・リアリー、
それとジョン・レノンとかヒッピー、メリー・プランクターズ、フラワー・チルドレンとかサマー・オブ・ラブとか、
LSDのような幻覚剤がなにか人類の発展に寄与するのではないか、そういう時代背景だったというのもあるけど、
結局は理系の研究者でさえ幻覚剤に溺れ、なんでか自然を超常的なものとして扱うスピリチュアルな方向へ走ってしまう
人間には何か根源的にそういうところがあるのだろうか
考えてみればユナ・ボマーことセオドア・カジンスキーも天才的な数学の能力がありながら、
世捨て人のように山奥で自給自足の生活を送るようになり、しかしながら当然その生活は長く続かず、
将来的にテクノロジーが人類を破滅的に不幸にすると思ったことから、
だったら将来性がある科学者を爆弾で○せば、悲劇的な未来は回避できるんでないの?と考えたんだかどうなんだか定かでないが、
これはターミネーター2のストーリーのベースになっているが、フィクションなら面白いが、現実なら単なる爆弾魔の犯罪である
話が大幅に脱線したが、エヴァは終わっても就職氷河期が救われない、というのは言い得て妙であって、
エヴァをリアルタイムで放映していたときが就職氷河期近辺ではなかっただろうか
その時期に庵野氏は、今は飽食の時代なので心の問題を描いた、アニメではなく現実を見ろ、みたいに語っていたわけだが、
こちとら現実の就活戦線は異常ありというか悲惨な状況だったわけで、
庵野氏はエヴァを作っているとき、ちゃんとニュースとか新聞とか世相を眺めてましたか?
なんだかんだ、バブル世代の自分の価値観でアニメを作ることしか考えてなかったんじゃないですか?
と恐れ多いながらも思ってしまうのが正直なところであって
まあ、たしかに現実を見ずにアニメだとかフィクションに没入しているだけの人というのもいるのかもしれない
というか、そういう人たちに人生で出会ったこともあるが、自分がいうのもなんだが、たしかにちょっとおかしいというか、
差別的になるけど軽度の知的障害?ケーキを切れない非行少年少女?みたいなタイプも多かったし、
そういうところで昨今のDQNやヤンキーの方がアニメと親和性がある状況というのを理解できる気もする
自分で言うのもなんだが、昔は良かった話みたいになるが、
SFとかサイエンスなフィクションなわけだけど、どちらかというと理系との親和性というか、
理系からするとそのフィクションに野暮なツッコミを入れるのがネタとして話が盛り上がるというか、
自分は大学時代にみんなで誰かの家に集まって、アニメとか映画の上映会というか、
どちらかというと映像を流しっぱなしにして、各自やりたいことを黙々とやるみたいなことをやってたわけだけど、
「このディスクには地球誕生からの全てのことが記録されてます」
とか言うと、「すっげー、どういう原理だよw」みたいにツッコミを入れる奴が現れ、
その後に真面目な記録媒体の話とかネタが続いたりするという、そんな日常だったわけだけど、
多分、大阪芸術大学とか偏差値も低いし、そういう視点では観てない気がするんだよなあ
やっぱり根底にあるのはビジュアルとしてのセンス・オブ・ワンダーであって、それはチャイナさんみたいなもんであって、
電子工学科、情報工学科、機械工学科、バイオなどのオタクが集まって話すツッコミとはちょっと異なるのだと思う
まあ、ストーリーの本質は技術ではなく、結局は人間関係なわけで、
今回のケンケンとアスカではないが、そういうところにツッコミを入れるのは理系文系偏差値関係ないのだけど、
まあ、でも、やっぱりなんか違う世界に生きてるんだなあ、
当たり前だけど、恐れ多いけど、庵野氏と自分の関心の距離感みたいなのがあるとしたら、
リアルタイムでエヴァを観ていたときは近いのかと思っていたのに、
シンエヴァは未見だけど、シンゴジラ観たときでも、意外と遠いというか、同じものを見ているようで違うものを見ていたのではないか、
つまり、庵野氏と自分が同じ赤いバラを見ているのに、互いに赤いと認識しているのに、脳内の赤はまったく異なっていた、
みたいな、まあ、勝手に自分が同じような価値観を持ってるのかな、と思って勘違いしていただけなんだろうけど
そんな感じで、最近の自分はアニメやゲームへの興味が皆無になりつつあるし、
それは東日本大震災だったり、原発事故だったり、コロナだったり、自分の個人的な人生のイベントだったり色々なわけだけど、
そう考えると、シンエヴァは未見だけど、同窓会みたいなもんなんだろうかと思ったり、
自分は死んでも大学、大学院以外の同窓会には出ないと心に決めてるので、