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小山田圭吾の息子・小山田米呂さん、父のいじめ問題によりSNSのコメント欄が大荒れに
https://quick-timez.com/2021/07/19/oyamadamusuko9202/
まず前提として小山田圭吾氏の過去のいじめと、それに関する言及が炎上している。
イジメっ子「小山田圭吾」の謝罪に不可解な点 当時の学校運営に不満だったという証言
https://news.yahoo.co.jp/articles/2610688114c5564b44563778306c88002519ecc3?page=2
>「全裸にしてグルグルにひもを巻いてオナニーさしてさ。ウンコ喰わしたりさ。ウンコ喰わした上にバックドロップしたりさ」(「ロッキング・オン・ジャパン」)
特に障がい者に対してのイジメであり、私は弁護するつもりはない。
ここで私が述べたいのは被害者が「障がいという本人には責任がなく、改善不能なことを理由に、理不尽な暴力」に晒されていた点である。
本人にとって改善不能な障がいを理由に、理不尽な暴力を与えたことは正当化されるべきではない。
しかしそれを小山田氏はそれを行い、さらに過去のヤンチャ自慢の感覚で広く公言してしまった。
次に息子氏についてである。
彼にとって「小山田圭吾の息子」というラベルは本人の努力で外せるものではない。
今後は「「あの五輪の小山田圭吾」の息子」というラベルになるかもしれないが。
そして息子米呂氏は現在進行形で「父親の過去の所業という、本人には責任がなく、改善不能なことを理由に、理不尽な暴力」に晒されている。
彼は20歳の大学生で、将来もある存在である。いや存在「だった」。
もうすぐ就職活動のシーズンのはずだが、世間が忘れるには時間が足りないだろう。
まあ米呂氏は米呂氏なりに、親のコネを活かして活躍するという選択肢もあるだろうが、とにかく選択肢は狭まってしまった。
今の小山田圭吾氏は地位も名誉も金銭も持っている人間であり、「既に持っている人間」であるから今更世間の庶民に何を言われようと答えないかもしれない。
叩かれたところでしばらくおとなしくしていればいいと考えているかもしれない。
しかし血縁関係にある息子が理不尽な暴力にさらされればまた別の心の痛みを感じるかもしれない。
ぜひその点から、自分がいじめた障がい者の親御さんの気持ちに立って考えてほしい。
学生時代のことで、52歳の小山田氏にとっては「とっくに終わったこと」だと思っていたかもしれないが、現在20歳の息子米呂氏のことならまた違う感覚で見られるかもしれない。
米呂氏への仕打ちのことも、米呂氏への加害者側がもしかしたら炎上して30年以上経った後に「直接会って謝罪したい」「謝罪して撤回する」と言ってくれるかもしれない。
30年経ったら小山田圭吾氏は87歳。米呂氏は50歳になるわけだが。
小山田圭吾氏は30年以上経ってから謝ってもセーフだと思っていたのだから、自分がそうされてもきっと許してくれるだろう。でないと筋が通らないわけだし。
小山田圭吾問題について、中高のいじめで完全に自信喪失および人間恐怖症になって中年ニートになった自分にとって、思うところがありすぎたので、自分自身の整理のために書いてみた。
今回の問題の核心は、どれだけひどいいじめ(というか暴行や拷問と表現すべきだが)を行って、それを公の場で自慢げに語っても、学校の内外で処罰されることもなければ、反省一つ促されることもなく、当然謝罪もなく、その後の人生とキャリアに傷がつくことも全くなかったということである。例のインタビュー記事で小山田と絶交した、という人もおそらくいないであろうことは、あの後も変わらず精力的に仕事をし続けていることからも理解できる。逆に小山田圭吾は、ひどいいじめをおこなった側の方こそが、社会的に大成功を収めるというモデルケースになってしまっている。
周知のようにいじめ問題では、現在でもいじめ被害者の側が転校させられるというケースが多く、客に加害者の側が転校したり推薦を取り消されたりというケースは寡聞にして聞かない。超名門校を出場辞退に追い込むほどの暴行を後輩に行った高校球児手が普通にドラフトで指名されていたように、大人はいじめ加害者を逆に高く評価しているのではと感じさせるケースもしばしばある。自分のクラスでもいじめ自殺が発生したことがあるが、加害者は何も咎められることもなく、普通に一流とされる大学に(記憶が曖昧だが多分推薦で)進学した。小山田圭吾は、こうした「いじめたもの勝ち」になっている社会の象徴的な存在である。
「1990年代もあのようなことは許されていなかった、時代の問題で相対化するな」という批判がある。それは正しいが、やはり同時代の空気を鮮明に記憶している人間としては、批判として非常に浅く感じてしまう。
あの時代のバラエティ番組は、若手芸人などに嫌がることをさせて、「痛い」「熱い」と泣き叫ぶのを見てMC側の人間がゲラゲラ笑うというものが本当に多かった(逆にそういう笑いをしない志村けんがテレビから一時期消えていた)。既にいじめは社会問題化してはいたものの、「あれは相手も納得済みだからいじめではない」というテンプレ論法で許容されていた時代だった。ネットも黎明期でテレビがほぼメディアの全てだった時代、いじめを受けていた側にとっては、当時のバラエティは見ているのも辛かった。
そういう時代の雰囲気のなかで、ましてや悪趣味がかっこいいものとしてはびこるサブカル雑誌のインタビューという場所で、たとえいま小山田と五輪組織委を口を極めて非難している人たちがそこに居合わせたとしても、おそらく一緒に笑うしかなかったと思う。特に、空気の変わり目を読んで同調して小山田を非難しはじめているような、ワイドショーのコメンテータータイプの人間は、そこにいたら一生懸命に面白がるアクションをしていたはずである。
申し訳ないが、中高時代をいじめ被害者として過ごしてきた人間には、いくら現在小山田を非難しているように見えても、時代の空気に同調しているだけで、こいつは本質的にはいじめっ子の側の人間だろうというのは直感的にわかってしまう。その意味で、たとえばカズレーザーなどはあまり信用できないし、逆に一見いじめを時代の問題として相対化していることを言っている爆笑太田のほうが信用できる気がする。ほかにも、五輪批判や政権批判の文脈でしかこの問題に興味のない人も、およそ信用できない。
やあ、今回の一件で、また東京五輪がより高い理想に近づいたよ。これもみんなの高い倫理観にもとづいた活動の成果だと思う。まずはお祝いをいうよ。おめでとう。
ところで、実をいうと僕は五輪にはそれほど興味はないんだ。むしろ小山田圭吾のこれまでの音楽活動のほうに関心を持ってきた。いま現在でもそうだよ。もちろん例の雑誌インタビューの件は(リアルタイムでもないし、現物も読んでないけど)知ったうえで、ずっとコーネリアスとその関連の音楽を好んで聴いてきた。つもり僕もクズが好きなクズさ。
そこでみんなの意見を聞かせてほしいんだが、これから先、小山田圭吾がやってもいい音楽活動はなんだと思う?
公共イベントの音楽がダメなのはわかった。民間イベントの音楽もダメなのか?
NHKの仕事についてはまだ不透明だけど、民放のTV音楽はやってもいいのか?映画音楽は?
「当時は知らなかった」なんて通用するか。ブコメでいじめの事指摘してる奴なんて何人もいたぞ
お前らはいじめを見て見ぬふりしていた人間なんだよ。いくら今になって小山田を糾弾しても許さないからな
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/blog.imalive7799.com/entry/Design-A-201808
id:Panthera_uncia 行きたいけど混雑ぶりに引いた / これは次のクズ発言が出てくるフラグ…!
https://b.hatena.ne.jp/entry/4705572458623620962/comment/Panthera_uncia
id:anus3710223 "障害者手帳をお持ちの方および付き添いの方1名まで無料"行くしかない / 世の中にはいじめをしておいて何食わぬ顔で生きてる奴がたくさんいるのを私は知ってる。そうした奴らを私は絶対に許さない。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4705575524158258402/comment/anus3710223
id:mricopp ぼくも好きすぎて富山の行ってきたんだけど正解だったなあ。こんなに混んでなかったし、じっくり楽しめた。 / 五輪の音楽受けている時点で、本人にはまったく自覚がないし反省してないんだろうなあ。さようなら。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4705482826364922498/comment/mricopp
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/natalie.mu/music/pp/cornelius03
id:mats3003 CD買おう。こういうのをロングエディットして、12インチで出すくらいの体力が日本のレコード会社にあればなあ。 / 日本のお家芸のCDの販売や配信の停止、Eテレの降板はしないの? 攻殻機動隊も。いじめられてた方々やかっていじめられてた人々のPTSDにつながるし、永遠に封印すらおかしくないと思うんだけど。ねえみんな。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4705683160393044738/comment/mats3003
五輪専用レーンとやら、東京都民が一致団結して無視して利用してやったらどうだい。
五輪関係者が渋滞に巻き込まれる? そんなの知らんがな。渋滞を見越して早めに出発しろよ、としか言えない。
警察が出動して反則切符を切り出すかもしれないが、数万台の単位で全員が無視したとき、反則切符を切る余力が警察にあるだろうか。
そもそも一般車が専用レーンに数珠繋ぎになっている状態で、特定の1台だけに対してのみ反則切符を切ることが可能なのか、法的に有効なのかも実に怪しいわけだが。
もし反則切符を切られたとき、反則金の納付は義務ではないのだから、サインを拒否するか、「違反を認めない。五輪を開催することのほうが違法だ」とでも書いて否認してやればいい。
反則金の支払いを拒否する違反者を検察に送るには調書が必要だ。交通課の連中が総出で頑張って一日に何枚書けるか知らんけど、検察とて処理できる事案に限界があり、広島の買収事件さえも不起訴にしてしまうくらいで、軽微な道交法に付き合ってる暇は検察にはないし、もし万一にも事案をいちいち起訴してると、今度は裁判所がパンクする。
小山田圭吾がイジメ記事で五輪作曲を辞退することになったのをTwitterとかで「20年近く拡散続けた人の成果」みたいに褒め称える言説が拡散している。
いや、コピペ拡散の成果ならもっと前に謝罪させることができているし、NHKも教育番組のメインに起用することもなかった。
どんだけ内容が拡散しようとも、公の謝罪はなかったし、人前に出る仕事も尽きなかったからこその五輪起用である。
コピペ記事だけで五輪開会式直前にメインスタッフ変更ということは日本社会的にあり得ない。
なぜ今になって小山田圭吾にイジメ記事で謝罪させ、五輪辞任させることができたかといえば、#MeToo以降に世界の常識が変わったからだ。
#MeToo運動では、どんなに過去のことであろうとも被害者は傷ついていることを表面化した。昔のことでも告発して加害者に制裁を加えられる風潮ができた。
BLM運動を通じても、差別に正面から反対し、弱者が自分の人権を堂々と訴えられるようになった。
そうした世界的ブームに、日本を含めて多くの政府、企業が賛同する社会に、ここ数年で劇的に変わった。
アメリカでは何十年も前のハラスメントや差別行為で多くの大物有名人が失脚した。
韓国でも今年五輪代表選手に昔のイジメ行為が発覚し代表剥奪となった。
そうした流れで小山田圭吾の五輪起用が発表され、炎上し、失脚した。
だから東浩紀のような普段からポリコレ批判をしていた者は早々に逆張り意見を投稿したのである。
一方で昔からのコピペ自体は2chを中心に拡散していたこともありネット右翼、反フェミとも親和性は高く、彼らが小山田批判を投稿しているように、アンチ・ポリコレたちでも騒動に対する見方は分かれている。
組織委員会の話ね
https://mainichi.jp/articles/20210719/k00/00m/050/325000c
呪われてるってからには、組織委員会を呪う人がいるはずなんだけど、だれ?
②周期…麻生さんの説 1940年東京五輪と1980年のモスクワ五輪ボイコットを「40年ごとに問題が起きた、呪われたオリンピック」と発言 当たり過ぎて怖い
40年周期を1年ずらした程度では呪いから逃げられなかった(2年ずらしが正解?)
③ザハ・ハディッド…競技場コンペ案でお馴染み 呪う資格がある
インポッシブル・アーキテクチャー展 https://bijutsutecho.com/exhibitions/5030 で展示された競技場実施設計図集には、設計チームの巨大な情熱(もしくは呪い)がたしかに込められていた
いや、辞任求めてるでしょ。むしろ、小山田はスケープゴートとして差し出された感じはあるけどね。
五輪での感染拡大が広がってる以上、小山田がすぐにやめちゃったから、あとしばらくして政権への非難が収まらなかったら、次また誰か五輪関係で生贄に出されるよ。
コロナ対処第一だったのに、五輪第一になっちゃってるからこそ支持が落ちてる。
本来民間機関より政府が強いんだから「五輪中止の緊急事態宣言+文句あるなら日本の裁判所に来い」とするべきだった。しかしお友達の損得につながるから五輪第一にしてしまった。
私は主張したい。
決してメインストリームになれない「陰キャ」上がりの当時の業界人がメディアを介して間接的なマウンティングを行い「陰キャ」の聴衆が受け入れた結果なのである。
実際のところ、小山田が過去に障害を持つ同級生を虐めたか否かは大した問題では無い、何故なら日本全国で小山田の行為に類似したいじめはどの年代でもどの地域でも珍しいとは言えない内容だからである。
だが、普通はそんないじめの経験は、武勇伝としても自慢話としても公の場で話す類の内容では無い。
何故、小山田は25年前に積極的に悪質な虐めを全国誌で語り、その内容がそのまま出版され、多くの読者が受け入れたのだろうか?
その雰囲気を醸成したのが体育会系文化の下位互換としての90年代サブカル文化だったのである。90年代サブカル文化は、00年代以降のオタク文化とは似て非なるものであった。
00年代オタク文化はハレとケの、褻に当たる存在であることを自認しており、また、それは属性ではなく役割である。つまり、普段は「陽キャ」として振る舞う一般的な大学生が熱烈なオタク文化のファンになることも、役割であるが故に成立するのである。
90年代サブカル文化においては、これは成立しない、何故ならサブカル文化は属性であるが故に、メインストリームになり得ない存在であることが所属と同時に確定するからである。
多くの者が成長と共に就職等で、サブカル文化という属性から自然に離脱することにはなるが、留まり続ける者もいる。それが、メディアを牛耳る業界人だ。
今でこそ高収入で社会的地位が高いイメージだが、当時、サブカル文化属性の業界人はメインストリームに対して劣等感を抱いていた (※ ハリウッドでも似た話があるので、これは珍しいことでは無い)。
この劣等感は金銭的な収入では満たされない感情だったのだろう。社会的な地位が上がるにつれてサブカル属性の業界人は、メインストリームの体育会系の強者に匹敵するようなエピソードが欲しくなる。
しかし、人間は正直な生き物なので、完全に空想の嘘は付けない。結果生み出されるのが、90年代に公放送や出版物で繰り広げられた下劣ないじめ体験談につながった。
これは、小山田だけの問題ではない、小山田の経験を自らと同じサブカル属性の強者の武勇伝と位置づけ誇示するように掲載した雑誌関係者、自らと同じサブカル属性の英雄の功績として希望を感じた読者は、皆等しく文化を醸成した因子なのである。
陽と陰が協調し一つの目的に向かう初めての機会は、学生時代の文化祭である。(※ 24時間テレビが近いと思うかもしれないが、24時間テレビは、テレビ業界に所属している者が中心であるためにサンプリングに偏りが生じている)。
五輪はこの文化祭以来の、初の世代を跨ぐメインストリームと非メインストリームの協同作業だったのである。
この機会に、90年代サブカル文化の代表的な負の象徴である、小山田の過去が全国規模で炙り出されたことは決して偶然では無い。