はてなキーワード: 斬首とは
「【京アニ放火殺人】凶悪事件が起こると死刑廃止論者は困る?」
http://vergil.hateblo.jp/entry/2019/07/26/191304
自分は必ずしも死刑存置派ではない。現行の死刑制度を必ずしも支持する立場ではない。だがそれでも、この人の議論にはさまざまな穴があるように見える。
犯罪は社会が生み出すもので、凶悪犯を処刑して社会から排除しても、そのような犯罪を生み出した社会の歪みを正さないかぎり、また同じような犯罪が繰り返される。死刑は、犯罪の原因を除去できたかのような幻想を与えるものでしかない。
「凶悪犯を処刑して社会から排除すること」と「そのような犯罪を生み出した社会の歪みを正すこと」は両立する。死刑執行を見て「ああ、これで犯罪の原因を除去できたぞ」と喜ぶ人もいるのかもしれないが、自分個人は見たことがない。
他者の権利を侵した者が同じことをされるのは仕方がない。懲役刑や禁錮刑も基本的人権(自由権)の侵害だが、まさかこの人は懲役刑や禁錮刑にも反対するわけではないだろう。
絶対に謝罪しない死刑囚もいる。宅間守や植松聖など。仮に謝罪してもらっても殺人の罪とは全く釣り合わないから、謝罪させることには根本的に意味がない。
神ならぬ人間が裁判を行う限り、誤審の発生は避けられない。冤罪で被告人を死刑にしてしまったら、その過ちは取り返しがつかない。
絶対に冤罪ではないと断言できる事件も多い。むしろ、その方が多い。また、誤審で取り返しのつかない結果が生じるのは終身刑でも同じこと。取り返しがつくのは罰金刑ぐらいである。誤審に対して判事・検事・警官などに個人的責任をとらせる方法については制度改革が必要であり、また別途考えなければならない。
死刑は、それを執行する人間を必要とする。刑務官は、凶悪犯といっても個人的には何の恨みもない無抵抗の相手を殺すという辛い行為を、職務として行わなければならなくなる。
ロボットにやらせればよい。ロボットの作動ボタンを押す役目は被害者の遺族に任せることにすればよい。遺族が望むなら執行の無期延期もありだろう。
凶悪犯ほど死を恐れないので死刑には抑止効果がないという問題もある。それどころか、死刑になりたくて人を殺した者さえいたではないか(土浦連続殺傷事件など)。
殺し方の残虐さに応じた方法で処刑すればよい。薬殺犯には薬殺刑。斬首犯には斬首刑。焼殺犯には焼殺刑。その他もろもろ。
34回に分けて執行するという方法がある。寸止めを33回繰り返し、34回目で絶命させる。永山基準では3人殺害で死刑相当だから、34を3で割り、寸止めは11回でもいいかも。
この規定にも疑問がある。拷問はともかく、残虐な犯罪に対して残虐な刑罰はあって当然ではないか。死刑囚の中には筧千佐子のような薬殺犯もいれば池田容之のような斬首犯もいる。本当に同じ絞首刑でいいのか。
哲学じゃないけど、佐藤優の神学本(こんなものを読んでるとしれたらうちの助祭先生からバカにされそうだがナカナカ面白いのだ)に書いてる話を思い出した。
彼がロシアの大学神学部に派遣されていたときにアフガン帰りの元兵士の学生から、「かつて戦場で負傷した戦友をその場で射殺してしまったことが、今でも正しかったのか苦しんでる」と相談されたとかそういう話だったかな。
曰く、ムジャヒディンの捕虜になったら想像を絶する拷問の末に斬首されると分かってたから、帰投する見込みの無い重傷兵はその場で射殺してあげたほうがマシだと。
どっちがよかったんだろうね、どちらにせよ死ぬのなら、自分が楽に殺したほうがいいのか?でもいざその場に居合わせたら、自分はとても引き金を引ける自信はない…
わかる、わかるぞー俺もにじさんじは嫌いだわ
ただ、それとこれとは別で、「バーチャル蠱毒」は純粋にグロテスクな企画だと思う。この間「バーチャルだから斬首を体験できる!→ヤバい…常人はやらないほうがいい…」みたいなのが少しバズったけど、これも面白いけどなかなかグロい話だった
バーチャルだから全部許されるわけじゃないと思うぞ。倫理観というか、感情的な部分だから変わってくものなのかもしれないけどな。
とりあえず、あの界隈このままじゃ増田の思ってるとおり、先がないだろうし、増田みたいな考えの人材は必要だと思う。モチベーションがあるならぜひ何かやってほしい。俺はやらんけどな。
とある欄http://b.hatena.ne.jp/entry/s/blogos.com/article/335449/のやり取りが気になったのでちょっと。
それに対する反論(☆がたくさんついてる)
トップコメ。だから、どこにそれをバカにする女がいんの?まともな女で草食系をバカにしてる奴なんていないよ。強引が好きとかAVかよ。そうやってなんでもかんでも「だから女が悪い」に持ってくなよ。
ちょっと待って。
この反論さあ、これでいいならなんでも言えない?
だって「まとも」の定義が不明で、「まとも」の割合も不明なんだもん。
ブコメの例で言うなら、
「確認男をバカにしてる女」の実物を提示されても「これはまともな女じゃない」と言えばオッケーになっちゃう。
「草食系はイヤ」という回答が40%の統計資料を提示されても「これはまともな女じゃない」で終わり。
自分の主張に都合の悪いサンプルは実在しようが少なくない割合が確認されようが
「まともな○○じゃない」の一言でノーカンになっちゃうわけじゃん。
そのうえで
「どこにそれをバカにする女がいんの?」って、
これでいいなら無敵じゃん。
どんな滅茶苦茶だって言えるよ。
たとえば
「どこにブラをする女がいんの?まともな女でブラしてる奴なんていないよ。」
「どこにブサメンを嫌う女がいんの?まともな女で顔で嫌う奴なんていないよ。」
「どこに人質殺害してない女がいんの?まともな女で斬首したことない奴なんていないよ。」
「どこに男の収入気にする女がいんの?まともな女で男のカネ気にしてる奴なんていないよ。」
これ全部ぱっと見で嘘なのはわかるけど
論理的には間違いを指摘できないわけ。
こういう実は何も言ってない(それゆえに反論されない)発言は詭弁論法というよ。
「どこにレイシストのアメリカ人がいんの?まともなアメリカ人で人種差別してる奴なんていないよ。」
元の話で言えばたとえば、
「トップブコメは40%の女をもって女全体がそうであるかのように摩り替えようとしている印象操作。残り60%の女を無視する暴挙。」
のような批判を展開していくならこれは中身の有る論理になってる。
確実に意味の有ることを言ってるし、
それでもなお疑う人はソースを調べて反論することも可能になる。
例に挙げた2者がどうこうということではなく、
本日、断頭台のワールドにて合意の上で斬首されてきました。その結果、しばらく動くこともできないほどの精神的な衝撃を受けました。全身から冷や汗が吹き出して、手足が痺れ、力は入らず、意識は遠のき、首に違和感が現れました。VRに魂が引っ張られている人たちは注意です。— narihara@VRC(晶葉に声を) (@Benishoga_2) 2018年10月22日
想像妊娠やら、目隠しされて「熱々の鉄をお前の身体に当てる」といってただの鉄をあてたら焼けどみたいになるとか
人間の想像力が身体に影響を及ぼすことは多々あると思っている。
豪華客船「酒鬼薔薇王国」号は氷山にぶっかって沈没した。乗客が次々とボートで逃げ出すなか、くそ餓鬼はこの船と運命をともにしようと思った。
もともとくそ餓鬼はこの客船で世界をまわりながら元少年Aを探すつもりだった。旅行会社によってさまざまなツアーが組まれたが、すべては徒労に終わった。ツアー客が元少年Aに会うことよりも船内で酒を飲んで騒ぎたいだけと知ったときの怒りは大きかった。
上海に寄港したとき、お土産に鶴の掛け軸を買った。鑑定書を見せようとする店主に落書きして捨てるつもりだからそんなものはいらないと言うと殴打された。店主の怒りは激しく、何をしにきたか白状するまで日本には帰さないと言う。
「元少年Aを探している」と言うと、元少年Aの屋敷は海底にあるので船旅では見つけられないという。おそらく旅行会社に騙されたのだろう、軍に頼んで潜水艦を用意してもらうといい、とりあえず二度と来るなと言われた。さっそく自衛隊に連絡を取り、潜水艦を手配してもらうことになった。「酒鬼薔薇王国」号の船旅は今回で最後、そう思った矢先の出来事だった。
救命ボートの奪いあいなどは起こらなかった。かといって整然としていたわけではない。泥酔したまま海に落ちる乗客が多数いた。ひどいのになるとドラッグをキメて「鶴に襲われている」とうめきながら海に落ちるのもいた。これが二十余年にわたって行われてきたツアーの最後か、と思った。
柊は潜水服を着て「元少年Aに会いに行ってくる」と言って海に飛び込んだ。愛子は「海のなかにも都はございます」と言って夫と一緒に飛び込んだ。くそ餓鬼は金庫のある部屋で最後を迎えようと思った。金庫のなかには元少年Aに送ったラブレターが入っている。
金庫のある部屋に行くと、天野がいた。天野は金庫から元少年Aからのラブレターを取り出し、一枚一枚丁寧に燃やしていた。天野は金庫破りのプロだった。くそ餓鬼はなんでこんなことをするんだと怒鳴った。天野は柊に対する嫌がらせだという。くそ餓鬼は柊が燃やせと言ったらしいということは理解できたが、それが柊に対する嫌がらせになるという理屈がさっぱり分からない。
結論を先に述べると、人にとって分け隔てなく愛するということは不可能で、愛することはすなわち差別することにつながる。
それでもなお、それを理想として追いつづけていくしかない。それが神を捨てた人の宿命。
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愛には、対象を特定せずに広く与える愛と、対象を選り好みして特定のものにだけ注ぐ愛とがあるという。
前者の愛は、一神教における全知全能の神が人々に与えるものであるし、日本においては万物に宿る神が織りなす世界からの加護、あるいはお天道様が見て下さるという感覚が近いものだろう。
前者の愛をもたらす対象が人ならざるものであることからも分かるように、物事の如何に区別なく愛情を注ぐというのは、人にとって不可能にも近い不得手なことがらである。
人が織りなす愛というのは、何かと何かを区別する、あるいは誰かと誰かを差別することで特定のものに注ぐものである。それは肉欲によるようなものばかりではなく、優れたもの・素晴らしいものを愛でるときにも当てはまる。なぜなら、そのとき人は、劣ったもの・醜いものを選り好みして差別しているからだ。勿論、その選り好みは外見だけの評価とは限らず、内面や行動などで判断される場合もある。
美術が美術として評価されるのは、他のものと比べて美しさが秀でているからであって、誰か素人が作った作品よりも他人からの愛を受けているからだ。平等に愛を注ぐのなら、そうした素人作品と美術品すら区別なく差別なく、愛を注いでしかるべきだ。残念ながら、選り好みをしてしまうということ自体が、平等に愛を注ぐということに反しており、結果としてそのように世界を愛するというのは一般の人には到底不可能なことなのである。
それが不可能で、それでいてなおかつ愛を受ける身としては理想的であったからこそ、全知全能の神という概念を人々は作り出したとも言える。なにしろ、どんな存在であっても愛を受ける資格はあるのだから。たとえどんな悪事を働いていたとしても、無為な存在であったとしても、そんなことは関係ないというのだから。人々が与える愛は、相対的な肯定はあっても、絶対的な肯定はありえない。それは秀でたものがより愛され、劣ったものがより愛されないという状態であり、その基準は各々異なっていても、対象によって愛を与える程度が異なるというのは変わらない。その優劣は非常に恣意的で、単に身近にいるかそうでないかという差異であったりもする。親が子を無条件で愛すると言っても、子として存在しているからこそ他人より差別して愛するのであって、どんな人であっても同様に愛するというのとは全く異なっている。そうした相対的な愛ではなく、絶対的な愛を誰も分け隔てなく与えてくれる存在、それこそが理想でなくてなんなのだろうか。
かような神という概念を創出したことで、人々は平等に愛を得ることが可能になった。その愛が空想上のものであったとしても、構わない。重要なのは、当人が愛を受けていることを感じているかどうかであって、実体として誰かが愛を与えているかどうかではないのだから。
このように考えてみると、万物に対する差別なく区別ない愛というのは、人々の空想上のものに過ぎないと分かる。ただ、それは空想の産物であったとしても、非常に賢い発明であったことは確かだ。それに、実体がなかったとしても何の問題があるだろうか。愛を与える存在がいるかいないかに関わらず、愛を受けているという感覚があるということこそが重要なのだから。
いずれにせよ、これまでの議論から導き出されるのは、人は区別・差別することなしに愛することはできない、ということだろう。言い換えると、区別することで初めて愛することができる、とも言える。それは人種や国籍・身分その他という分け方でなくても、ヒトかヒトでないか、動物かそうでないか、生物かそうでないか、石ころだって特定の、例えば花崗岩や砂岩などと判別することで初めて対象を特定化て愛情を注ぐことができるのではないか。漫然と、自分の子供と野良猫とそのへんの石を全く平等に愛するというのは不可能なのだ。そのへんの石だって、他の石と区別することで初めて愛しうる対象になりうる。区別できなければ、その対象にすらなり得ないのだ。
故に、人を愛するにはその人を他人と区別することが必要となり、集団を愛するにはその集団を他のものと区別する必要があり、地域を愛するには他の地域と区別する必要が、国を愛するには他国と区別する必要が…となっていく。愛国心などと言っても、日本という概念があまり一般的ではなかった江戸時代には、諸藩における郷土愛はあっだだろうけれども日本を愛するという考え方はごく一部の外国を認識している人を除いて存在しなかっただろう。列島を束ねる存在(日本)が当たり前過ぎて、認識するに至らなかったというほうがより正確なのかも知れない。
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左翼のというより、人権思想などの近代思想の出発点は、フランス革命の自由・平等・友愛から始まっている。ここで友愛とは博愛とも同胞愛とも訳され、仲間に対する愛を示しているのだけれども、これも特定の集団に対する愛を唱うことで他の集団を差別している。平等とはあくまでその集団の中だけで適用される概念で、他の集団に対しては平等であることは必要ではないのだ。だからこそ敵であるフランス王家は斬首になったし、信条が異なる集団に対してはリンチが横行した。これは左翼思想を発展させた共産主義に引き継がれ、今なお信条の正統性を主張する形で争われている。
この近代思想は、神が行ってきた(と人々が空想した)分け隔てない愛を与えるという行為を、人が自らの意志で執り行おうとして産み出したものであろう。それは確かに理想ではあるけれども、実態として分け隔てなく愛するということが不可能であるが故に、ときに空想となり、あるいは夢想となって人々を混乱に陥れたようにも思う。
結局、現代人はその理想を、限定して扱うことで現実と妥協しているのではないだろうか。
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人は誰も、差別されることは拒絶するが、他人を区別することなしに過ごすことはできない。
基本的人権として求められるべき最低限の平等を規定しつつ、それ以上の区別は互いに棍棒で殴り合う、もっと文化的に折り合うなどして勝ち取るものではないだろうか。