はてなキーワード: ラッキーとは
>酷く恥かかせるスキルに長けた奴が格好いい!的な価値観は中学までで捨てないと後戻りできなくなるよ。
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これ大チャンスなんだぞ?
Twitterでまた流産したと嘆く人にFF外から「ずいぶん殺しましたね」とツイートするアニメアイコンの人いたじゃん?
正直、俺もその手の「とにかく通り魔的でめちゃくちゃ酷い発言しちゃう人」をかっけー!とか思ってた時期あったけど、
それがいかに恥ずかしいことであるかかなり時間かけて気づけてようやく改善できた過去がある。
あんたに関しては俺という他者から今この場でズバッと指摘されるラッキーに恵まれたんだから、もうこの瞬間から
「あー俺ダサかったな。せめてこの価値観は捨てよう」
って思うようになるだけでいいのに。
なんも困ることないんだぞ?
自分で気づくより楽だし早いんだぞ?
いたれりつくせりやん。
300ブルマ前後なら頑張れば出せるけどそこから先に進めなくなった。
次のステージを目指すには力不足を感じ、かといってこのままブルマを続けていたとして意味があるのかは分からない。
もしもある日ラッキーパンチラで1000ブルマや2000ブルマを取れたとしてそこに喜びを感じられるのか。
次はどこか別の場所に行くべきなのやも知れぬ。
抽選の応募をしようと思ったのですよ。
なんでそこまでしなきゃならんのかと。
「本当に行きたい人が行けない」とかまったく意味がわからない。
大金を出せる人のほうがよほど「本当に行きたい人」であり、
定価以上出したくない人と何十万と払ってでも行きたい人、
どちらが「本当に行きたい人なのか」って考えれば
「本当に行きたい人」は運だけでなく「お金」という担保を用意してもいい。
個人的には「転売屋のせいで買えない」とわめく人間は努力不足だと思っている。
買うための最大限の工夫と労力を尽くせばある程度のものは手に入る。
WiiやDSLiteを買うために発売日にはビックカメラに徹夜で並んだ。
とまぁ、転売の是非についてはともかくとして。
ちょっと行きすぎでしょう。
なんで消費者がそこまでしなきゃならんのですか。
買うのにも入場するのにもめちゃくちゃ面倒なことになっている。
何か月も前から売り出しているくせに、
正規のルートで手に入れている人にはマイナスしかないわけですよ。
転売を撲滅するために「ちゃんと買っている人」がどんどん虐げられていく。
「転売屋がいるせいで買えない」なんて人間は転売屋を撲滅してもどうせ買えない。
なぜユーザーばかりが不利益を負担する世の中に疑問を感じないのか。
あぁ、本当にバカバカしい。
監督基準で映画を観に行くこともあれば役者基準で行くこともある。
予告を見て、面白そうかどうか、この映画に交通費と1800円払う価値があるか、2時間を払う価値があるか?
大体の映画はつまらん〜うーんまあまあだったかな、という位置に収まる。
めちゃくちゃ面白かった!演出が最高だった!脚本良かった!画面もカメラも色味も雰囲気も良い!となることはほぼほぼない。
そのレアな作品を求めて映画館には行くけど。賭け。その体験が出来るかどうか、高揚を得られるかどうかはギャンブル。
もしこれが役者が好きor監督(の演出・脚本)が好きだと最初から勝利が確定している。
監督基準だと物によってはあれ?今回イマイチだな?ということもある。
ので、結局1800円+交通費+2時間を支払う価値が確実に、絶対、100%あるものは「好きな役者が出ている」のみである。
それでも現実問題映画館で上映しているのだから、映画館に金を払うしかない。
BDのみで発売してくれればそっちに金を払うだけだ。
賭けというけど、これは映画全体のレベルが上がれば解消される問題である。
なんで金払ってギャンブルしないといけないんだ?
多少感性や好みから外れていてもめちゃくちゃに良いものを作りまくってほしい。
そのためには役者基準だけでない、マイナー映画にもばんばん金を落とすことが必要である。
地下鉄にて
(お、角の席が空いてる、座っとこ)
数分後、次の駅
(若い女の二人組が来た、あ、二人並んで俺の隣に座った。おい二人組の右側の方、こんなキモいおっさんの隣でいいのか? ま、スマホの画面と女同士でおしゃべりに夢中で俺のこと一切気にしてねえみたいだな……)
(おい女、お前のひじと上腕が俺のひじと上腕に当たってるよ! こんなキモいおっさんと腕の生肌同士が接触していいのかよ? お、俺は何も自分から隣の女に触れてないぞ! 俺の両手はさっきからずっと講談社現代新書を開いてて、自分のひじは自分の脇腹に密着させててこれ以上引っ込められないぞ!)
(うへぇ、俺の上腕に当たってる若い女の上腕の生肌すべすべのぷにぷにだぁ……そうそう、上腕の生肌っておっぱいと同じ感触って言われるんだよなあ……じゃなくて、おい女、腕引っ込めないのかよ? あ、相変わらずスマホの画面と女同士でおしゃべりに夢中で、隣のおっさんがこんなにキモいとか一切気づこうともしてねえな)
(ああ、すべすべのぷにぷにの上腕マジ気持ちいい、お、俺は一切自分から手を触れてねえぞ! 俺の両手はずっと講談社現代新書を持ってるからな! 俺の上腕が偶然、若い女の上腕に当たってるだけだからな!)
「次は~、大手町駅~♪」
(おっと、降りねばならんか、にしても隣の女、最後まで腕も引っ込めず俺のことを一切気にしなかった。うむ、今日はラッキーだったなあ)
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もし心の声が隣に座った女に聞こえてたら、周囲の乗客全員からタコ殴りにされても文句言えんわ
どう考えても痴漢だろ俺?
女性向けジャンルの作品をいろいろ追っかけてるんだけど、最近どこもかしこもブラインド商法を使ってきていてしんどい。特にイベントでそれをやってくるのがしんどい。
アニメイトで売ってるタイプのブラインドグッズは、割り切ってBOX買いしていらないキャラを売りに出せばまあ確実に手に入る。手間と金はかかるけどね。
でもイベントで売られるブラインドグッズはコンプセットが用意されてないことが多い。しかも販売時間が限られてる上に行列が長いから「出なかったからもう1個買おう」が難しい。
だからとりあえず最初に多めに積む。そこで推しが出れば万々歳だけど、出なかったら地獄のスタート。トレーディングエリアで露店を開いてる人達に声をかけて回ることになる。
ここで高レート推しだと
「AくんとBくん交換してくれませんか?」
「すみません、AくんはAくん(の別グッズ)としか交換探してません」
「AくんとBくん交換してくれませんか?」
「Aくんと一緒にここらへん(低レートのキャラ5人くらい)も買い取ってくれるならいいですよ」
なんていう会話がなされる。
「Aくん持ってるんで、Cくんと交換してくれませんか?」
なんて目の前で推しを低く扱われることがある。
長時間列に並んで、安くないお金を払って、イベント開始までの短い間に交換を探して、余った在庫の処分を検討して。これをやっていて欲しい推しが手に入るかわからないしやり取りに精神が削られるし。
500円のブラインドグッズを買うより5000円で確実に1個買うほうがよっぽど楽。つらい。どうにかして。
【追記】
メルカリとかヤフオクとか中古屋とか行けば確かに手に入る。でもそれでは解決できないグッズが偶にある。私が特にしんどさを感じるのはイベント時に使いたいグッズをブラインドにされること。具体的にはラバーバンドとかペンライトとかうちわとか。時間的にも追い詰められるからよりしんどい。
「劇場版ポケットモンスター みんなの物語」を見たので感想。と言うか自分メモ。ネタバレ気にしてないのでそういうの嫌な人は回避推奨。
「まさに千八百円と上映時間分の時間を投資する価値がある映画」を100点だと考えたときの点数は15点位。ひどみ。低評価。なんだこれ。
しかし微塵も揺るがない増田。なぜなら(自分的には大体似たカテゴリに入る)「ドラえもん のび太の宝島」が脅威のマイナス点数の失神級駄作だったので免疫がついたのだった。
シナリオの作りが野心的で100分という尺の中でなんと群像劇をやろうとしていた。
主な人物として「市長の娘ヒロインのラルゴ」「ギャルっぽいヒロインのリサ」「過去を抱えた市長オリバー」「後悔に生きる老婆ヒスイ」「コミュ障のポケモン学者トリト」「口からのでまかせで生きてきた男カガチ」あたりがいて、それぞれが内面に問題を抱えつつ生きている。物語の舞台フウラシティを訪れたサトシは、この街の生命線とも言える「風祭り」に参加。そこで起きる大事件に様々な人間と関わり合いながら立ち向かう……という映画のメインストーリー。
この「群像劇をやりたい」という企画性というか意気込みを、まずは評価する。……んだけど、それはやっぱり難易度は高い。脚本はあちこち駄目ぽだった。大きな問題点としては感情動線の理屈建て不足で、なんか悩みやトラウマがある→でも私の力が必要っぽい→周りが盛り上がってる→感動パワーでうわー解決! というのが群像劇分水平コピーされている。
そこには「今までの悩みやトラウマを超克するための内面的な気付きやきっかけ」みたいなものが不足していて、「今までダメだった理由」「今回は立ち上がった理由」が極めて薄いか、キャラによっては存在すらない。感動的な音楽がかかって背景で大火災とかあるからやらなきゃならないやったでーというわりと雑なほうりなげだった。そんなんだったらそもそもトラウマいらんでしょ。
そのほかにも、山の中で発見された聖火を市長が街まで持って帰れば時間は余裕なのに(また普通に考えて街の宝を放置するほうがありえないのに)、わざわざ間に合わないギリギリまで放置して女子高生ギャルにスプリントさせるとか、なんかこう……脚本レベルで穴が多い。
「みんなの物語」「みんなで協力するという感動」という企画性は理解できるんだけど、脚本陣にそれを実装する能力が欠けていたように思われる。かと言ってそれは脚本家をけなしているわけではなくて、企画レベルで(つまり脚本の方法性や盛り込もうとした素材のボリュームレベルで)無理があったんじゃなかろうか? 登場人物を絞るなり(その意味でサトシのポケモンをピカチュウだけに絞ったのは良かった)、あるいは尺を圧迫しないおりたたみで内面を描写したりという工夫が足りなかったように思う。
ゼラオラは物語の舞台フウラシティ周辺のポケモンの守り神とでも云うべき存在で、フウラシティが成立する前から周辺のポケモンや自然を守ってきた。しかし、産物に乏しいこの地にルギアがあらわれて風を呼び、この風をもとにした風力発電でフウラシティは成立。人間はドンドコ森を切り開き、ポケモンの自然生息域を圧迫、その件でゼラオラとは対立せざるを得ないようになっていった。五〇年前、人間たちは自己から森林火災をおこしてしまい、火災からポケモンを守るためにゼラオラは負傷。当時の市長はゼラオラを守るために、山林は人間の立入禁止として立ち入ったものはゼラオラの呪いがあると嘘の噂をばらまいた――というのが物語の背景。
なんだけど、なんかもうこの時点で2周半くらい人間側がクズじゃねえ?
ゼラオラ何も悪い事してないじゃないですか。と言うか、その点ではなく、むしろ人間が人間の都合(街を拡張したい)で森林伐採をするならそれはそれで良いんだけど(なんせ人間はそういう存在なので)それならそれで、そのように述べてやれば良いわけで、「ゼラオラの呪い」なんていう相手の名誉を毀損するでっち上げをしながら、相手を救うとかいう恩着せをするのが全く救えない。んで50年もの間「かー、ゼラオラに呪われちゃうんであの山には入れないんだよなー。かーっ。呪い無ければ事故調査も開発もできるのになー。かー」とか責任転嫁をしてきたという醜悪さがある。
それがポケモンの世界観だと言えば世界観なのかもしれないが、そのゼラオラをサトシ&ピカチューは叩きのめすことで「ともだち」にして「ともだちだからもう遺恨はないよな?」とする脚本は、おいおいいくらなんでもそれマジで書いてるのかよ? 的な部分はあった。
ポケモンは三歳児程度には意思疎通な生命体なんだけど、ペット(守るべき対象)なのか、それとも一種の亜人(権利を認めるべき存在)なのか? って言うこの問題意識はポケモンの第一作から見え隠れしている。しかし今回は輪をかけて「ポケモンはともだち」というパワーワードとゼラオラが見かけ上はネコ科の獣人っぽい外見(人型)であるという2点で、極まってしまっているように思える。明らかに独自の言語的能力を有して、周囲の同族やポケモンを守り、森林火災から救助するほどの知能を持つ知性体を「呪い」扱いしてトラブルの責任転嫁をするって、どうなのよ。
そもそもフウラシティはルギアの呼んだ風を用いる発電で街を興し、毎年一度「風祭り」の日にルギアを招いては風力発電の維持を願っているような街である。風がとまれば電力も絶えて街は闇に包まれて住民たちはうなだれる。そういう関係を「ともだち」っていうのか? 母親の財布から毎月数千円くすねて上納することによって「ともだち」になってくれるクラスメイトより気持ち悪くないか。
そういう意味で今回の映画は、自分個人が楽しめないとか以上に「この映画を無邪気に楽しめるってやばくね?」的な心配が発生してしまった。この心配の方向性は「ドラえもん のび太の宝島」によく似ている(ドラえもんのほうがヤバさは上だが)。
ポケモン映画は毎回なんだけど、街の人混みの中や自然の中にちょこちょこと数え切れないほどのポケモンが登場していて楽しい。ウォーリーを探せ的な楽しさがある。その気持ちよさ楽しさは今回もたっぷり楽しめた。
主要人物の一人「コミュ障のポケモン研究者トリト」のパートナーポケモンであるラッキーがよい。
脚本や演出がどこまで自覚的だったのか怪しいのだけどこのラッキーの存在が、映画全体に対するアンチテーゼになっている。
トリトはポケモン研究者でいつも多くのポケモンに囲まれているんだけど、いつも一番近くにいるのが癒し系のラッキーで、おそらくこのラッキーは、トリトを飼い主であるとか主人であるとか思っていない。トリトのことを自分が保護すべき存在だと、あるいは下手をしたら、トリトは自分の子供だと思っている。
ポケモンが一体何なのか? 都合の良い労働動物なのか? 資源なのか? 生存権を保護すべき対象なのか? 人権さえ認めるべき存在なのか? というテーマはシリーズにグッサリ刺さった楔なわけだけど、それってあくまで人間を中心にした人間視点でしかない。
ラッキーはトリトのことを意気地無しで世話が焼ける存在だと思っていて(そしてそれは正しい)、そのうえ自分が世話をしてやる対象だと思ってる。
それはポケモンの側からみて、人間が「時々発狂して面倒くさいメンヘラの同居人」なのかもしれない、というシリーズのブレイクスルーになりうる(非常に薄くて小さな)突破口だ。