はてなキーワード: マウンティングとは
これ、親しい関係のやつがいうから意味があるのであって、親しくもないやつ相手に多用する人は思考停止のテンプレ脳か人格的にクズかのどっちか。
「そうなんだ、私○○○にいくね」はまだ工夫の余地があるが、このコトバは工夫の余地がない。
意見が違うやつが同意できないと言ってるだけなのだから事実上何も言ってないのと同じ。
ただ、これをいうと上に立った気分になりたいというマウンティング欲だけが駄々漏れになってしまう。
使ってもいいことないと思うんだが、そういうこと考えないから多用してしまうんだろうな。
深読みしすぎだ、俺はそんなこと考えてないって言う人の気持もわかる。
このコトバ言ってる人間からしたら、特にマウンティングとか意識してなくて
どうでもいい話を読まされた時に、とりあえず類型化してゴミ箱に放り投くための機械的な手続きに便利だから使ってるだけなんだろう。
だが、普通に言ったらダレがどう聞いても嫌味な言い方なわけでね。 有名だからって、言ったソイツがイヤミじゃなくなるわけじゃない。
言葉の使い方って結構大事で、マザーテレサもいっていたように言葉が思考を作り、思考が行動作るわけだから。
どうでもいい話とだけ思ってるなら「どうでもいい」という言葉を心のなかで唱えてスルーすればいいんだよ。
この言葉をわざわざ使うってことは、やっぱり心の何処かでイヤミな心が引き起こされてると思うんだよ。マウンティング欲が引きずり出されてくると思うんだよ。
そうやってわざわざこのコトバを無意識にずっと使ってるとそのうち言葉に引きずられて思考もマウンティングよりになってくる気がする。
だから俺はあんまりこの言葉を安易に使う人が好きではない。 「強い言葉を使うなよ弱く見えるぞ」的な言葉と合わせて、こういう言葉多用する奴はアホである。 twitterで見かけたら問答無用でブロックする。
文脈無視して思考停止のバカに使われちゃうの、日本橋先生も嘆いておられるのではないか。 日本橋先生ってそういうのを一番嫌いそうだからな。 公式に否定されたので削除。
reimaは黙ってろ。この人言動がいちいち腹立つ。
男はそんな事言わないと主張してるブコメが多いけど、
そもそもhttp://anond.hatelabo.jp/20150912163750と同じ増田だよねこれ。
こういう事言う女って、自分の都合で「同じ女なのに」と「他の女より偉い私」を使い分ける傾向があるから近寄りたくない。
上の増田に例えるなら、妊婦や子持ちの自分が子無し女に叩かれたら「同じ女なのに酷い」と言うけど
別の場面では子無し女に「私より劣ってるくせに」とマウンティングしてたり。
口じゃ「同じ女だから仲良くしよう」と言っても、その「仲良く」は「お前が私に都合よく動け」と言う意味なんだよね。
そんなのと仲良くしたくないから。
彼の看板番組『session-22』では毎回各分野の専門家を招いておもしろ生トークを行っている。
で、この「専門家」たちが曲者で、要するにオタクという生き物は何かと無神経だ。
彼らの無神経さが特に発揮されるのが、内輪ギャグを言おうとするとき。
専門家の内輪ギャグとは即ち業界ジョークであり、パンピーの視聴者には面白い面白くない以前に理解不能であることが多い。
しかし専門家はそのへんの機微がわからないので、ついついサービス精神から内輪ギャグを口走ってしまう。そして、往々にして内輪ギャグは「不謹慎」「無神経」になりがちだ。
それをチキさんは軽やかにスルーする。ノリが軽めのセッションの場合は受けに回ることも多いが、政治ネタなどの真面目なトーンのときはギャグをギャグと理解できないフリしてスルーする。『session-22』に出る人はたいがい頭のよろしい知識人様どもでありますから、「スルーされること」で次から気をつけるように鳴る。(時に相手が明らかに配慮の足りない発言をした場合はチキりんりん直々に注意が飛ぶこともある)
あまりに自然にスルーので聴いてるほうで「あ、これはスルーしたな」と察知するまで少しラグが生じ、気づいたころにはもう次の話題に移っているので気にしてる暇がない。頭の回転と口のまわりの早いチキりん一流のトーク術がさりげなく発揮されているのである。
ところで、ここで確認しておきたいのだが、内輪ギャグそのものが政治的に正しくない発言を生むわけではない。「内輪ギャグを言ってもいい雰囲気」、狭いサークル内で誰かによっかかれる雰囲気というのが政治的に正しくない発言を生むのだ。
おやじ社員のセクハラはその時代の雰囲気、その社内の雰囲気がセクハラを許容する(と本人がみなしている)から発生してしまうのだ。
その雰囲気を確認する手段が寄っかかりである。内輪ギャグを対面の相手に振ることで「内輪」の流れを作り出し、政治的に正しくない土壌を耕すのである。人によってはこれを「マウンティング」と呼称するかもしれない。
チキりんりんさん氏はこの流れをせき止める。峻拒する。飲み会でやれば親父を「なんだこの空気の読めない若造は」と鼻白ませる行為であるが、『session-22』はチキチキマシーンりんりんさん氏の番組であり、場の空気とは彼のことだ。彼が気に入らないと言えば、それは通らない。
彼が徹底的につまらない内輪ギャグをスルー、あるいは叱責することで『session-22』はリベラル番組として、政治的な正しさを担保している。しかも決して攻撃的ではない形で、上品な形で、である。右といえば極右、左と言えば極左にドリフトをキメてしまいがちな生まれついての走り屋人種日本人にあって、このバランス感覚は稀有といってもいい。(ただしイケボにかぎる)
ポリティカル・コレクト的に正しいトークがなんたるかを知りたい人はTBSラジオ『session-22』を聴こう!
分からなくても本筋には関係ないが、気づくとたまに出てくる変な引っかかりがすっきりするようなもので、まあ女と思わせて男だったとか、日本舞台と思わせてアメリカだった、みたいな叙述トリック的なものだと思ってくれればいい。
発表した後、それらの仕掛けには概ね気づいてもらえて嬉しかったが、その中の幾つかはある程度専門的な知識が必要なこともあって、指摘されることはなかった。
が、先日、それらを指摘するメールが届いた。
ついに気づいてくれる人が、と喜び勇んだが、読み進めるとどうも様子がおかしい。
その人は引っかかりには気づいたものの、それをこちらの認識ミスとして糾弾してきていたのだ。
そこに気づいたなら、もうちょっと調べれば正解にたどり着くのでは、という生半可な知識を元にして。
一応質問という態をとっていたものの、こちらが間違っているという前提で書いているのは明らかで、最後は「いい加減な作品にはがっかりしました」と締められていた。
当然嫌な気持ちになったし、言い返してやりたい気持ちはあるし、気づいてくれたこと自体への嬉しさはあったが……と迷った末、以下の理由により返信はしないことにした。
・多分、返答に厭味な感じがにじみ出てしまうだろう
・言い返されたらカチンと来て更に粗探しをしてくるタイプだろう
(指摘の中には労力の釣り合いの関係で妥協した部分も確かにあった)
この人の中では俺は「いい加減な作品を作る人」のままだろうが、下手に関わらない方がいいという判断だ。
それにしてもがっかりした。
作者が馬鹿だと思うのはまあいいとして、どうしてその辺りを隠して普通に質問してくれなかったんだろうか。
それなら俺は気づいたことを褒め称えて喜んで秘密を教えたし、相手も納得するかどうかはともかくちょっといい気分になれただろう。
あれこれの話題にクビ突っ込んで、ちやほやされるブログウォッチャーですら、よく見りゃ適当なきめつけとその場のしのぎの理屈展開しかできない
誰もツッコまないのは、面倒事に巻き込まれたくないのと、ただ単に、自分との意見の一致が多くて好意的だからにすぎないよね~
思想の陣取り合戦みたいなもんでさ、自分が気に入らない人へ嫌がらせ、追い出したり視界に入んないようにしてすっきりするだけ
はてなっつー狭い世界で、これが正しいと決まった!と誇っても、現実世界では「わたしはそうじゃないのでさようなら」の一言でぶった切られて終わり
新しい知見を得られるとしても、ほとんどは自己満足でおわって、現実世界では大した評価もされない
人生になんにも寄与しないのに、そこでのコミュニケーションとセルフブランディングを維持するため、必死になって時間を割く頭のおかしい連中、それがはてなブロガー。
あーだからメタフィクションっぽいのか。女主人公の大河は。まあ、権限を男から剥ぎ取るのを進歩だと思ってる程度のフェミ的な連中には歴史もの時代が相性悪いのよね
女の子に対して泣かず飛ばずな人よりもむしろ「いい感じになったことあるんだけど、舞い上がったり踏み外したり、急に自分の嫌なところばかりが目立つようになって振られちゃった人」…あ、これ、僕です。なんかある時期にうまく行ったんだけど、簡単に女の子に暴落されちゃった経験を何度かしたことがあって、そのせいで「腹の中を見せない、基準が主観的で感情的な女という生き物に付き合わないと社会的にも個人的にも承認されない生きづらい生き物が男である」ぐらいに思ってたことがあったのよね…はい
口で興味やふんわりとした意思表示してるうちは巻き込まれない限りやらない。本当に興味があるやつはもうひっそりとやってるか、どうしたいという具体的な願望のために何が必要で今自分がどこにいるかを把握してる。この違いが大事
kanose 君は女にマウンティングしたい欲望を素直に言えないから、遠回しに言うためにかわり叩く存在としてのフェミという存在があってよかったね。
正直な話、顔の造形だけを取ればその子より私の方が整っているんだけど
こうやって無意識に自然にマウンティングしてんだから、マウンティングは女の習性であって無くすことはできないものってことなんじゃねえの?
ボスザルの第一夫人ポジションでありつつそれを上手にあしらって(笑)アテクシオスメスという次元でくくられたくない人じゃないですかーって雰囲気がかもしだせる
自分のシャツないから父親のかりようと思って父親の段を探してると一番奥にコンドームが・・・
父62、母58か?
しかもうちの父親って家族だけの空間ではいっつもムスっとしてるタイプなのに。
母親はこないだ「洗濯物がたまってたから勝手に洗濯機を回したら父に怒られた」みたいなメールを俺にしてきたくらいだったのに。
(うちは父がすでに退職して家事全般してる。完璧主義の潔癖症の頑固おやじ)
なんだよ結局仲いいのかよ。
心配して損したわクソ
(追記)
お前がそう思うならそうなんだろう。お前ん中ではな。
今日高校の同級生とあってきたんだけど、そのうちの一人が雰囲気美人だった。
正直な話、顔の造形だけを取ればその子より私の方が整っているんだけど、どうかんがえてもその子の方がモテそうなんだよな。
私はモテてるとは言い難いし、モテても処女厨とかDV男とかなので、男に下に見られているんだと思う。言うこと聞きそうというか、はっきり言って芋っぽい。
黒髪ボブで化粧も薄くてサブカルになりきれないみたいな格好しているからダメなんだろう。
大学のゼミでも同じようなことを思ったことがあった。二人の女の子の後輩がいて、一方の方がどう見てもかわいい顔してるのに、もう一方の方が断然モテそうだった。
かわいい顔している方は髪の毛も気を使ってる感じはないし、服装も田舎の中学生でももうちょっとおしゃれしてるよという感じ。
モテそうな方はきちんと手の入ったショートにシンプルでカジュアルなんだけど清潔感と清楚さを感じさせる格好。
モテには実際の顔の造形より髪の毛や服装含む雰囲気の方が重要なんだと思う。
今好きな人はちょっとモサいというか、ファッションに興味なさげな文化系男子で、あんまりファッションに気合い入れ過ぎるのもなという感じもする。
それよりも、共通の話題の芸術とか文学とかに時間とお金を裂いた方がいい気もする。
でも、私はもう女の子にマウンティングされたくないし、男にも見下されたくない。
ファッションとかメイクとか気を使ってないわけじゃないんだけど、サブカル方面の青文字系だったので、それじゃ雰囲気美人にはなれないんだよな。
手っ取り早い方法を誰か教えて。
職場の年上女性と、冷たいマウンティング戦争が繰り広げられている。
それは、FFFTPのアカウントを、2つ発行した際にも勃発した。
「じゃあ、私が1のアカウントを使いますから、先輩は2を使ってください」
「えっ」
「ごめんなさい、じゃあ私が2を」
これ以上、戦火を広げないために、私はいま早急に探している。
「異なるものでありながら、まったく優劣がつかない2つのアカウント名」を。
Apple と Orange ・・・だめだ。最近はりんごのほうが高価。
Shampoo と Rinse ・・・だめだ。リンスが単独で存在しにくいことからシャンプーのほうが優位。
Kinu と Momen ・・・惜しい。でも絹のほうが上品な印象を持っている可能性がある。
Tsubuan と Koshian ・・・これも上記と同じ理由で危ない。
Botan と Bara ・・・論外。
Mana と Kana ・・・これが一番いい気がしたが、カナのみ結婚しているので若干センシティブな領域である。
絶妙な均衡を保つというのは、なかなかどうして難しい。
世の中には毒親というものがいて、自分が親とうまくいかなかったのは自分が悪かったわけではない、と思うことで親の呪縛から逃れるためにある。
正しく使えば、その人にかかった呪いを解くためにとても有効な武器であると言える。
だが、この言葉はとてつもなく強力であるがゆえに使い方を間違うと己の身も滅ぼす。
残念なことに、ちゃんと本を読まずに言葉だけ知って自分の感情のままに使おうとするために、使い方を誤っている人は多い。
どういうことかというと、この言葉を手にすることで、余計に親に執着しまうのだ。
自分を傷つけた親を許せなくて、なんとかして親を打ち倒そうとする。
まるで親を打ち倒すまでは、自分の人生は始まらない、と言わんばかりである。
そもそもこの概念は、いくら今の自分のまま努力しても絶対に親との関係は改善しない、そういう人たちのために考えだされたものだからである。
にもかかわらず、この強力な言葉を手にすることで、間違った希望をいだいてしまう人がいる。
今まで自分にマウンティングを続けてきた親を打倒し、自分の屈辱を晴らしたり、自分の気持を親が理解してくれるようになる、という間違った幻想である。
繰り返すが、毒親とは、「そういうこと」が不可能であるということを前提として作られた言葉である。
今のままの自分では絶対に親とは分かり合うことはないし、かつ自分自身が親に執着しているから今の自分から変われない、
そういう状況を変えるために生み出された道具に過ぎない。
水戸黄門の印籠のように、この言葉を手に入れたからといって、親はあなたに頭を下げたりはしない。
この言葉を使うことによって、自分の親に対する罪悪感や劣等感から「一時的に」解放され、
「一時的に」親から自由になって、自分が望むように生きること、それこそがこの言葉の使い方である。
せっかくこの言葉を手に入れても、それで余計に親に執着してしまうと、
なまじこの言葉を知ってしまったゆえに、親への愛や期待だけをうしない、それでいて間違った希望だけを抱いて苦しむことになってしまう。
この言葉を知って、それを使うのであれば、目指すべきはただひとつ、親からの自立、自由である。
この言葉をもって、より親に依存、執着してしまうのはほとんど自殺行為である。余計に自分を追い詰めるだけだ。
怖いかもしれないけれど、この言葉を手にした人は、一度親離れをすべきだ。
あなたは悪くない。けれども親のせいにばかりにもしていられない。いくら毒親を責めても親は反省して補償をしてくれるわけではない。
この言葉を手にすることによって、ようやくスタートラインに立つことができるのだ。
親のせいでスタートが人より遅れてしんどいだろう、それで親を恨みたくなるだろう。存分に恨んでいい。
恨んでいいが、恨むだけにしなければいけない。「毒親のせいで自分はハンデを負っているので償ってください」と言っても誰も助けてはくれない。
毒親という言葉は今まで親のせいでスタートにも立てなかった人間をスタートに立てるようにしてくれる言葉だ。
だが、それゆえに、逆に言えば、スタートが遅れた自分に向き合う勇気が求められる。
2ちゃんねるで勃興したインターネットにおけるマウンティングはより具体性を持ってきており、インターネット文化には暴言をもって優位に立つような行為が根強い。
しかしながら、相手の顔をみない一方的なコミュニケーションには、危険性が多い。まず、ニュースで報道される文章には犯人や被害者の性格や人間性は全く予想できないことが挙げられる。
本来ならば正当防衛とも言えるべき行為であっても、行きすぎて死に至らしめるなど、悪意のない不注意に基づく事件などはより注意深く観察する必要があるだろう。
2ちゃんねるやTwitterにおいては、私刑ともいうべき言葉の暴力が横行しており、当事者に対する偏見や誤解に基づいた言動が多々見受けられる。
当事者の性格から離れて、レッテルによるテンプレーション的なマウンティングが行われているのである。
言われた側はたまったものではない。インターネットにより増幅された憎悪が自分に襲いかかってくるためだ。数の暴力ともいうべき精神的なストレスは尋常ではないだろう。
特に最近は、インターネットが普及しているためか、電凸やストーキングなど、実社会への影響も大きくなっている。
暴言を書き込む際は、言われた側の立場に立って考えなくてはならないだろう。そうでなくては、今後人間社会のコミュニケーションは独りよがりの自己満足として衰退していくに違いない。