世の中には毒親というものがいて、自分が親とうまくいかなかったのは自分が悪かったわけではない、と思うことで親の呪縛から逃れるためにある。
正しく使えば、その人にかかった呪いを解くためにとても有効な武器であると言える。
だが、この言葉はとてつもなく強力であるがゆえに使い方を間違うと己の身も滅ぼす。
残念なことに、ちゃんと本を読まずに言葉だけ知って自分の感情のままに使おうとするために、使い方を誤っている人は多い。
どういうことかというと、この言葉を手にすることで、余計に親に執着しまうのだ。
自分を傷つけた親を許せなくて、なんとかして親を打ち倒そうとする。
まるで親を打ち倒すまでは、自分の人生は始まらない、と言わんばかりである。
そもそもこの概念は、いくら今の自分のまま努力しても絶対に親との関係は改善しない、そういう人たちのために考えだされたものだからである。
にもかかわらず、この強力な言葉を手にすることで、間違った希望をいだいてしまう人がいる。
今まで自分にマウンティングを続けてきた親を打倒し、自分の屈辱を晴らしたり、自分の気持を親が理解してくれるようになる、という間違った幻想である。
繰り返すが、毒親とは、「そういうこと」が不可能であるということを前提として作られた言葉である。
今のままの自分では絶対に親とは分かり合うことはないし、かつ自分自身が親に執着しているから今の自分から変われない、
そういう状況を変えるために生み出された道具に過ぎない。
水戸黄門の印籠のように、この言葉を手に入れたからといって、親はあなたに頭を下げたりはしない。
この言葉を使うことによって、自分の親に対する罪悪感や劣等感から「一時的に」解放され、
「一時的に」親から自由になって、自分が望むように生きること、それこそがこの言葉の使い方である。
せっかくこの言葉を手に入れても、それで余計に親に執着してしまうと、
なまじこの言葉を知ってしまったゆえに、親への愛や期待だけをうしない、それでいて間違った希望だけを抱いて苦しむことになってしまう。
この言葉を知って、それを使うのであれば、目指すべきはただひとつ、親からの自立、自由である。
この言葉をもって、より親に依存、執着してしまうのはほとんど自殺行為である。余計に自分を追い詰めるだけだ。
怖いかもしれないけれど、この言葉を手にした人は、一度親離れをすべきだ。
あなたは悪くない。けれども親のせいにばかりにもしていられない。いくら毒親を責めても親は反省して補償をしてくれるわけではない。
この言葉を手にすることによって、ようやくスタートラインに立つことができるのだ。
親のせいでスタートが人より遅れてしんどいだろう、それで親を恨みたくなるだろう。存分に恨んでいい。
恨んでいいが、恨むだけにしなければいけない。「毒親のせいで自分はハンデを負っているので償ってください」と言っても誰も助けてはくれない。
毒親という言葉は今まで親のせいでスタートにも立てなかった人間をスタートに立てるようにしてくれる言葉だ。
だが、それゆえに、逆に言えば、スタートが遅れた自分に向き合う勇気が求められる。