はてなキーワード: ニヒリズムとは
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1679541.html
http://sinseihikikomori.blogspot.com/2011/11/google.html
Sexy Zoneも、Not yetも流行ってないし、会話ですらその単語を聞いたことがない。
多分、会話にそれらの単語を出すときには説明が必要となるだろう。
それは別に流行ってない訳じゃなくて、そういったのに興味がある奴が俺の周りにいないだけだ。知り合いのツイッターで話題になってないだけだ。
結局流行ってるもの、常識とされてるもの、普通とされてるものが、それぞれのクラスターで違うってだけの話だ。
俺は去年帰郷して兄弟と会話したときにRadioheadとか宇多丸とかいう単語自体が通じないことに軽く衝撃を受けたが
そういったことはありふれてる。ちょっとくらい前に話題になった「サイコ2割問題」とそう変わらない話だ。
だから、テレビで「~が流行ってるんですよ」とか聞いても、そりゃどっかで流行ってるのかもしんないなと毎回思う。
ほんとに流行ってんのか知りたくなったら、データをどっかからググって調べるくらいすればいい。
思ったより流行ってたり、流行ってなかったり、意外な層に流行ってたり、やっぱり流行ってなかったりする。
ここ最近、韓国関連のことが流行ってますよとテレビで流れると、脊髄反射のかのように毎回ネットでは反発が起きる。
「そんなの流行ってない!」だとか「そんなの普通じゃない!」とか「そんなの常識ってことにするな!」とか。
で、これはマスコミに対するネットからの批判意識として、3%くらいは評価・共感できるものかもしれないが、97%くらいはうんざりする。
「流行ってますよなんてそもそも謳うからいけないんだ!」なんて言うのかもしれないけど
逆に、結局この人達はマスコミが担っていた「普通」や「流行」や「常識」に対する信頼を持っていた人たちなのかもしれないという気がする。
オーソリティに対する信頼とでもいうべきだろうか。
「普通」も「流行」も「常識」も、クラスターによって違うということがもはや「常識」だってことはちょっとネットを眺めれば分かるだろう。
それに従って、「普通」も「流行」も「常識」も壊れてしまった。
マスコミ、メディアが担保していた共同体幻想みたいなもの、一億総クラスター幻想がそれらを作り上げていたし、それが崩壊してしまったのだから。
じゃあ何がマスコミを殺したのだろう。
一億総中流的なものから格差社会という流れもあるが、当然ネットがマスコミを殺した。
つながりあえる環境、「真実」を知れる環境、簡単に島宇宙を形成できる環境、それが可視化される環境がマスコミを殺した。
かくして、「普通」も「流行」も「常識」も「真実」も、クラスター別に存在することになった。
それに人間は耐えられるだろうか。
「ほんとう」の「普通」も「流行」も「常識」も「真実」も存在しないことに耐えられるだろうか。
だから、クラスター別に存在する「普通」や「流行」や「常識」や「真実」を「ほんとう」のことと信じて生きることになる。
ニーチェは「神は死んだ」といった。
「お前たちに言ってやろう。我々が神を殺したのだ─お前たちと俺が。我々はみんな神の殺害者だ」と。
「我々が信じていた真・善・美なる価値基準や権威を根底において担保していたものは、滅びてしまったのだ」と。
日本人からしたら、「で?www最初から死んでるしwwwつか日本には八百万いるしねwww」ぐらいのもんで
なんで、そんなことに大騒ぎしたのか分からないところがある。
だけど、「メディア・マスコミが死んだ」というのはそれくらいの衝撃が日本人にとってはある。
その影響がじわじわと色んなところで見える。
「みんな」が思ってる一つだけ存在する「普通」や「流行」や「常識」が死んだ。
お前が言ってる「みんな」って「普通」って「流行」って「常識」って何だよってことになる。
それこそ一神教から八百万の神への改宗という衝撃が実は起こったんだということがじわじわとわかってくるだろうと思う。
その過程では、クラスター別に存在する「普通」や「流行」や「常識」や「真実」を「ほんとう」のことと信じることにしたり、
そのクラスターにおける「真実」を盲信して他のクラスターを攻撃したり、クラスター別に違うモードを使い分けたり、
クラスターの中で、あるいは他クラスター同士で「ほんとう」を定めるために対話したり、クラスターを彷徨ったり、
反動として、確固としたオーソリティや序列や権威を求めて、何かに忠誠的になったり、他者に攻撃的になったり
すべてのクラスターに通じるものとして「ほんとう」のことを提唱したりすることが、日常的なこととなるだろうし、すでになりつつある。
表面上は、まとめブログによって、youtubeの再生回数によって、徐々に「大衆」における「普通」や「流行」は担保されていくことになる気はするが
その根底では、価値観を担保していたものの崩壊が徐々に起こっている。
スピリチュアルでも、自己啓発でも、ノマドでも、愛国心でも、ライフハックでも人生の指針となってくれるものを求めている。
これらの価値観でも、宗教でもなんでもそうだが、人生の指針となってくれる価値観を求める欲望は消せないし、否定すべきでない。
すべての価値観をクールじゃないと否定したあとに待っているのは、ニヒリズムか退廃と決まっている。
「ほんとう」の価値観を求めて、匿名のコメントで殴りあうことがこれからもネット上では続くだろう。
それは価値観の衝突とも呼べるかもしれないし、対話とも呼べるのかもしれない。
その生き方って気持ちいいの?
それって疲れない?
それをハックするのが、「ライフハック」ってことだよ。
人生の定義自体をハックするんだよ。人生自体をハックするんだよ。
その前提をハックしないで、「人生の目的=子孫を繁栄させること」って簡単に前提条件を受け入れちゃうの?
それってニヒリズムを絶対どこかで招くよ。
だって子孫を繁栄させることなんて、人生の目的として実感としてモチベーションにつながらないじゃん。
漠然と幸せにいきれたらなーって考えるか、徹底的に考えてニヒリズムを打破するか、どっちかしかないよ。
実感が大事なんだよ。
「Don't think, Feel」って状態にどうやって持っていくかってことなんだよ。
ナシ側は「人が死んだり健康害したりする可能性をコストと割り切るなんて人でなし」
っていうのが論理的にも感情的にもメインの足場のようなんだけど
「そうだ、自動車も廃止しろ!」ぐらい乗ってくるかも知れないけど
自動車を廃止したら流通も社会も経済も全部死ぬことは多分考慮の埒外。
ドラマや漫画だと必ず悪役ポジションで、人情派の主人公に鉄拳制裁されちゃうけど
そういう善悪対立とかニヒリズムとかじゃなくて、計算は計算でやらないといけない。
というかもうやってる。
社会を不便や不景気に退歩させる・貧乏人や自殺者を増やす感じの声は絶対に採用されない。
言ってる人達が反対した結果を責任持って想定してないっていうのも理由だけど
もし全部を想定してわかった上で反対しても、大多数の人はその覚悟にはついていけない。
例のニューヨーク・タイムズの寄稿記事の話。
http://www.nytimes.com/2011/03/17/opinion/17Murakami.html
http://www.nytimes.com/2011/03/17/opinion/17azuma.html
特に接点のない二人の物書きが、揃って「希望(hope)」という言葉を出したのは、決して偶然ではないと思う。
震災後の長引く混乱の中で忘れられかけているが、
という状況は震災前と何も変わっていないし、震災によってさらに窮地に追い込まれたとさえ言える。今の状況を放置すれば、この国を待っているのは凋落だけだ。
例えば、震災の一ヶ月前、村上龍は自分のメールマガジンでこんなことを書いていた。
わたしはこれまでのような政府批判はもう止めようかと考えたりしています。具体的に何をやるのかわからない政府に対しては、具体的な批判のしようもありません。もともと、政府に頼るのはリスクがあるという考え方で、たとえば『13歳のハローワーク』のような本を作ってきたわけですが、政治家の考えの甘さや、制度の不備を指摘しても何も変わらないという思いがさらに強まりました。新しいニヒリズムが台頭するような気がします。
http://ryumurakami.jmm.co.jp/dynamic/report/report24_2303.html
現在の日本では、「政府には頼らない」という姿勢は重要だと思われます。かなり曖昧な質問になってしまいますが、個人が政府に頼らずに生きるために、もっとも必要とされるものは何なのでしょうか。
http://ryumurakami.jmm.co.jp/dynamic/economy/question_answer658.html
そして、震災後、上記のニューヨーク・タイムズに寄稿された一文。
私が10年前に書いた小説には、中学生が国会でスピーチする場面がある。「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない」と。(中略)だが、全てを失った日本が得たものは、希望だ。大地震と津波は、私たちの仲間と資源を根こそぎ奪っていった。だが、富に心を奪われていた我々のなかに希望の種を植え付けた。だから私は信じていく。
東浩紀の寄稿文に対して、「大規模災害の後で人心がまとまるのは当たり前だ」という意見があった。しかし、その「人々が一体感を持って危機に立ち向かう」という流れこそ、この「失われた二十年」でついぞ得られなかったものだ。「衰退」という名の危機は、既に我々を飲み込もうとしているというのに。
現在の日本が置かれている状況を正確に理解していた二人の物書きが、震災後に人々が見せた反応に対して、そろって「希望」を見出したのは、だから当然と言える。
それは、「被災地の復興で土建屋が儲かる」とか、そういう近視眼的な話ではない。『「震災」と「衰退」に立ち向かう』という共通の目標の下に、既存の様々な制度や産業構造を再編成し、この国の未来を作る。それを成す機会が、ようやく訪れたのだ。
しかし、この「希望」は、翻せば「最後の機会」でもある。この機会を逃せば、この国には本格的に後が無い。これらの論文が、国内紙ではなくNYTに掲載されたということも、個人的には気がかりなのだが。。
自意識問題について。
まあ思春期には、「自我」がどうしようもなく膨れ上がる。みんなそうだ。
このころに、つまり言葉が一定の水位を超えてあふれ出す時に「思考」が始まる。
そして、現実ではなく、「自己意識の中では」自分は「自由」な存在だということを突然発見する。
若者の「思考」の最大の仕事は自分を正当化すること、そして自分を世界の絶対的な主人公とすること。
そんなわけで、14~15歳前後から、世界のすべてを自分流に解釈し、
自己意識の中で激しく「俺は誰でもない俺だけの存在だ」という感覚を確認しようとする。
要するに、思考の自由がやってきて、はじめて人間は「自分という存在のかけがえのなさ」を実感することになるわけだ。
おめでとう。
しかし、ここには問題がある。
第一に、それは「意識」の内側だけの自由であって、その人を取り巻く現実は、やはり親や社会のルールによって縛られ、拘束されている。
自力で現実的な自由の条件を獲得できない大抵の場合、当分は内的な「自由」で我慢するしかない。
第二に、自分自身を世界の絶対の主人公と見立てたいのだけれど、
この望みは誰もが同じようにもっているものだ、ということに気づかないわけにはいかない。
「周りの奴らは馬鹿ばっかで、俺の考えてることはわかんねーんだよ」という人も、
「俺は誰でもない俺だけの存在だ」ということが、誰にもあてはまる平凡な事実だということに薄々気づいている。
「思考の自由」が、人間に「自分だけは特別な存在である」という新しい真理を教えるのだけれど、
その自意識を満たしてくれる「クリエイティブ」で「他者が賞賛」するような職種で成功を収めないかぎり、
そして「別の生き方」を選ぶようになる。
そこにいたるまで我々は自意識問題という名の厨二病を煩い続ける。
ヘーゲルはこの「俺は誰でもない俺だけの存在だ」という「自己意識の自由」の三類型ということを言っている。
第一の類型は「ストア主義」。
人々は醜い承認争いをしているが、そんな競争はつまらないものだと「俺だけはよく知っている」と考える自己意識のことだ。
このことで自己意識は、自分の価値と独自性を、内的に確保する。
「お前ら必死だなw」って奴だ。
人の意見の弱点を見つけてはこれを相対化しようとする人が懐疑主義者だ。
どんな意見もちょっと観点を変えればみな相対化されてしまうということを「俺だけはよく知っている」と考えて「自己意識」を確保しようとする。
この2つは、両方とも自分の意見、態度、生き方を留保しておいて他人の価値を低く見積り、
第三の類型は「不幸の意識」。
若者は独自の強力な世界観、理論に出会うとその世界にどんどんのめりこみ、世界や人間のどんなことにも「立派な」ことが言えるようになる。
しかし、この高尚な世界観が要請する理想の姿と現実の自分の姿の間で、引き裂かれる自己意識が発生する。
これらはすべて「自分の心の内側だけで、自己価値を確保しようとする試み」だ。
人間の自己価値は「他者の承認」を必要とする。だけど、それは結構きつい。
だから、人間は自分の中の「自由な思考」のうちで自己価値をつかもうとする。
でもそれはたぶん無理だ。
現実はどうしようもなく存在していて、そのうざったい自意識にうってつけの現実なんて向こうからやってこない。
その不可能性が頭ではなく身にしみた時こそが、めでたく厨二病卒業の時となる。
おめでとう。
で、その「別の生き方」ってのは自分なりに探してくれ。ニヒリズムに気をつけて。
追記元
http://anond.hatelabo.jp/20100922023512
まず、ありとあらゆる意識的、随意的な思考・行動は すべて目標を達成されるために行われる。
目標を達成するための最適解は存在する。各種、方法論、戦略によって最適解に限りなく近づくことができる。
だが、"いかなる目標を設定するか" ということには最適解はない。
それは、個人がもつ、固有の欲求、価値観、思想、志向性、評価関数というフィルターを通して
"自分が考える、最も満足のいくであろう、望ましいであろう状態、目標"
を定義しそれに向かっていく。
言わずもがなそれは十人十色で、それゆえに人類は、かような多様性を呈している。
逆説的ではあるが、この多様性こそが"人生そのもの"に"目標設定そのもの"に正解がないことを示していると言える。
ここで問題としているのは、そういう「いかなる目標に向かっていくか」「いかに生きるか」
という問いに答えがないということではなく、そういった現実の中で
個人個人は
いかにしていかに生きるかを、いかなる目標を設定し、それを目指して生きていくかを
どのようにして決めれば良いのか? ということだ。
あと、人は、望ましい状態に向かっていくと書いたが それが自分にとって望ましい状態なのかどうかは
"想像することしかできない" のだ。
その望ましさはあくまでも未来において想定されるもので、それは人間の想像力によって判別される。
もちろんそれは完全ではない。想像力をいくら駆使しても "これこそが私が最も満足のいくであろう選択だ" と断言することは無理である。
こうであったらなと思い描いたそれが実現されても、不満足を覚えることは多分にありえる。
だから人は、思考停止・妥協・悟り・諦め ≒ 信じる という行為をもってして生きていく。というかそうしなくては生きられない。 疑えど疑えど答えは出ない。
そういう悩みに消耗し、逡巡、足踏みし続け、人生を台無しにしてる人間は少なくないように思える。
いうなれば、登る山が決まっていなく、彷徨っているに等しいような人生だ。 私はそれを回避したい。忌避すべきものだそれは。
しかし一口に"信じる"といっても、 信じるための方法というか、信じ方があると思うのだ。
一寸先は闇の現実の中、無限の情報に前にし、いかに考えいかに行動するか。
結局どうすれば、良いのか。
私は理性によってそれが(生きていく中で価値観などは遷移していくので軌道修正は必要としても)
解決、、というか処理?できると思っているんですよ。
どうやって? こうやって。
まず人間が意識的に、随意的に目指しうることのできるありとあらゆる目標をネット、書籍などから情報収集し
徹底的に拡散的な思考をし尽し
"それらを全て洗い出して(MECEに)" かつ、その中から
"現実的に(物理的に) 私という人間が達成を目指すことのできる目標" を全て抽出する。
全てはここにある。 私が目指すことが可能な目標は全てここにあって、考えるべきことは全て目の前にある状態。
まずその状態を作り出す。
その個々の目標を"そこに向かうべきか否か" を判断する。その人その人がもつ固有の価値観に照らし合わせて。
ネットや書籍で判断材料を集めたりしたりもする。 その目標に向かうべきかどうかを個々に評価するのだ。
そして達成すべき目標("α"とする)をリストアップする。それを合格可能性が最大化された日常に目標を達成すべく定義されたタスクを巧妙に組み込む。
もちろんその組み込まれた目標は、 合格可能性を減少させてでも達成を目指すべき何かだ。
合格可能性が最大化された日常をベースとして考える。 それはそれこそが今もっとも優先すべき目標であるからだ。最大化こそが(私にとっては)
そして、そういうことを徹底的に追求したその果てに "今、この時間、本当になすべきこと(タスク)" が完全に把握でき
"今、ここで使っている時間は、私が思う最高の(限りなく最適な)時間の使い方だ" という意識をずーーっと持ち続けることができる。私はそれを目指したい。実現させたい。
というか受験生活が終わっても私は人生を通してずっとそうでありたい。これは誰もが思う願望であろう。
それを実現するのがGTDなのではないのか。それこそがGTDの本質ではないのか。
私がGTDに期待したのはそこである。というかそれが実現できるならば
この際GTDじゃなくても良いのだけど。
//何か突っ込みどころはありますか? ちなみに勉強からの逃避にしか見えないという指摘がありますがむしろ逆です。
これは勉強に集中するためになされる能動的な過程です。 顕在意識(=メモリ、RAM)に "今実行すべきタスク"のことしか頭にない状態が理想。
それを実現させてくれるのがGTDなのでは? そうであれば物凄く快適そうに思える。 なるほどその状態は達成すべき目標だろう。最優先で。
//結局、合格可能性最大化を図ることができれば満足なんです。
//他の何か、つまり"α"、それを邪魔する原因としての"α"さえうまく処理できればそれは実現します、それが難しいのですが…
//未知数な、存在するかどうかわからない"α"が見つかろうと見つからなかろうと どっちでも良いわけです。最大化、最適化さえ図ることができれば。
//とにかくすべては合格可能性最大化を阻む原因をいかに排除するか、そこが核心、主眼なんです。
>まだ自分が認識、意識していない時間を割くべき、日常に組み込むべき何か(合格可能性最大化以外の目標、仮に"α"とします。)があるのではないか?
これでいうαは受験生活を脅かす要素です。
返信。
>合格可能性の最大化を図ることによってαの発見・達成が阻害される、と考える理由はないわけだから
合格可能性が最大化された日常ということは極端に言えば、αを意識すらしません。そんな暇があったら問題を一つでも多く解くのです。
だから発見は阻害されますよね
合格可能性の最大化を図ることによってαの発見が阻害されるということで
αの達成を目指すということは最大化が阻害されることになります 最大化が阻害されても
生産性、効率が低下してもそれでもなお目指すべき目標は存在するのか?
存在しないならば最大化されたまま、それを維持した日常を送れます。
しかし存在するならば、考えなければいけないことがいろいろありますね。
>生活の全てを最適化しなければ合格できないとしたら、入ってからついていけるのかい?
あるいは最適化など目指さなくとも、余裕をもって合格できるにしても他に達成すべき目標がないなら
合格可能性を最大化させることに注力します。念には念を。受かる保証などどこにもないのですから。
ここで問題にすべきなのは"学力の向上における効率、生産性を犠牲にしてでも"達成すべき目標、"α"の処理の仕方についてです。
>そうでなく、やりたいことがまだはっきりしないっていうなら、受験勉強を当面のゲームと考えるといい。
そうですね、やりたいことははっきりしていません。大学をいかなる目的のための手段にするのか?という問いには今のところ答えられません。
それに危機感を覚えます。大学がゴールになっちゃって手段になりえてないっていうのが典型的な失敗例でそういう文脈があちこちに散見されるので。(手段の目的化)
なんとなく、俺はこれをするためにあの大学に入るんだっていう明確な意識があった方が動機づけにもなると思うし…
>他にやることがなくて暇だから受験勉強してる、と考えるんだ。そう考えていれば、普段は合格に最適化した生活を送りつつ、他のおもしろいことにレーダーをはっていられる。
こういう感覚良いですね。 しかし受験勉強と同時進行でなくてはならないのでしょうか?レーダー張り。アンテナ?
そうでないといけないというのは常に新しい情報(速報性があるものやまだ読んでないウェブページとか本とかから)を仕入れないといけないということですよね?
それを、なんというか、最初からいっぺんにできないものなんでしょうか?
>当面の目的から目を逸らすために他の目的を探してるだけであり
>しかも見つかってないあたりは救いようがない
前述のとおり、当面の目的に集中するために他の目的を処理しようとしているのです。
これこそが先延ばしの原因であり、心理的な障壁となっているのです。
もし見つからないのなら受験勉強を蔑にしてずっと探し続けることはしません、受験生ですから。
それは大学を出てやりたいことがないからとりあえずニートになるぐらい危険なことです。
>それはGTDとは関係ないけど、難しい。ほとんど人生そのものと同じだからね。
そう言えますね。ほんと難しい…
>とりあえずは「見晴らしのいい場所(客観的に社会と自分を見られる場所)」に行く(社会的・物理的に)こと、かねえ。
心強い意見です。
>うーん。普通は高校生ともなれば、なんとなく将来、こんな風な仕事をしたいとか、目標と言えないまでも、夢みたいなものはあるんじゃないかな。
それがよくわからないんですよね、、、
生活を維持するためのお金を稼ぐために「仕方なく」働いてると思ってるんですよ。
何らかのきっかけで(宝くじあたったりとか)大金が転がり込んできたら現職を続けないであろう仕事に就いているイメージ。
本当にやりたいことができてる人は、好きを貫いている人はほんの一握りなんだろうなって。
ちょっと恥ずかしいですが、ジョブズでスピーチで語ったように"愛せる仕事"をしたいですね
って、これじゃあ何も言っていないのと同じですよね。 "やりたいことをやりたい" みたいな、、トートロジー的な?身も蓋もない、、
>まあ、中央に[人生の目標]と書いたマインドマップでも書いて、自分の人生の目標でもじっくり考えてみたらどうかな。
>でも、人生は思ったより長い。
>間違った山に登ったかな、と思ったら、降りて違う山に登ることも、特にこれからの時代は不可能じゃない。
>また、寄り道、無駄足だったと思っても、それが次のステップへの足がかりになったりすることもある。違う山へ伸びる吊り橋があったりね。
>大学受験で、また会社選びで、人生のすべてが決まる、とか必要以上に深刻に考えなくてもいいと俺は思うよ。
孫正義「なぜならば、自分で決めた自分の職業、自分で決めた自分の仕事、これコロコロ変えるわけにはそんな簡単にはいきません。
だいたい決めたらその道にほぼ行く可能性が高い。その決めたことをフラフラするということは、効率悪いんです。
こういう意識があって、、、
また引用しますが
>私が思うに、人生を計画的に行おう、と思うのは、なすべきことをしたいという欲望が生じるからだ。
>限りある時間の中で、切実にそれを実現するためには、どういう流れ・ストーリー・フェーズを経て
>実現状態に変貌を遂げるのかをクリアにしようとする。そうすれば実現する可能性が高くなるからだ。
http://works4life.jp/2010/03/gtd-before-big-planning/
もっと明確に、クリアに描きたくてたまらないんですよね
多分どちらにせよ私は志望校を目指すので、将来の目標がどうあれ、今やるべきこと、やっていくこと(受験勉強)は変わらないとしても
心の置き場?というかスタンス? 世界観、人生観、死生観、価値観、思想
そういうことにも心を奪われてしまうんですよね、、考えすぎなんでしょうか?
もっと、こう、なるようになるさって感じでいけたら大分楽かもしれません。気楽に。。
xevraさんのいうよう、悩んでも悩んでも仕方がないことなんでしょうか、、
悩めば悩むほど不安は募り、袋小路の奥にどんどん迷い込んでいくのでしょうか、、
1 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2009/11/14(土) 11:03:45.25 ID:YEzroAVm0
1つの道を選んでそのために一生懸命頑張るということができない
何をするにも何らかの価値観の盲信が必要になるという気分
きっと人生における選択の正しさの根拠なんてないんだと思います。
何か一つを選ぶということはその他の一切の選択肢を捨てることだと弾さんもいっているし
それこそがその他一切の選択肢を選ばないことで何か失うものがあるのではないか という疑いを不安を生んでいるわけなんですね。
ある選択をしてその先一般的に(?)成功したとされても、もっと大きな成功が他の道に転がってたかもしれない、、
そういう迷いや悩みは構造的に人生の原則的に解決が可能なのでしょうか?
私たちはラプラスの魔でもなんでもないので、人間が培ってきた知見と経験則によってのみ、なんとか予測を立てることができる程度で
そこを理性的に突き詰めれば何か見えてくるんじゃないのかな…?と思ってはいるんですが、、
例えばこうするとかも。
ジョブズ「自分が死と隣り合わせにあることを忘れずに思うこと。これは私がこれまで人生を左右する重大な選択を迫られた時には常に
決断を下す最も大きな手掛かりとなってくれました。何故なら、ありとあらゆる物事はほとんど全て…外部からの期待の全て、
己のプライドの全て、屈辱や挫折に対する恐怖の全て…こういったものは我々が死んだ瞬間に全て、
きれいサッパリ消え去っていく以外ないものだからです。そして後に残されるのは本当に大事なことだけ。自分もいつかは死ぬ。
そのことを思い起こせば自分が何か失ってしまうんじゃないかという思考の落とし穴は回避できるし、これは私の知る限り最善の防御策です。」
しかしなぜ死と隣り合わせであるという事実を直視するとこういうことが可能になるのでしょう?
死の意識というフィルターを通せば真に、自分にとって大切なことが、死ぬまでにこう生きていたいんだってことがはっきりわかってくるようなのですが
どうも、私はそうなれていない?ように思うのです 死を意識してはいるつもりなんですけどね
孫さんやジョブズのように"実際に死にかけた経験"がないから 死を想像してみてもそれは不明瞭で、漠然とした恐怖とかで その程度ではそういう状態にはなれないのかどうか、、、
更に返信。
>今、どうしてもやりたことが見つからないなら、焦っても無駄。君が時間を無駄にしてるんじゃないかって焦ってる間に、既にやりたいことを見つけた人達は何歩も先を行ってる。天職のことを英語でcallingと言う。>呼ばれちゃうんだよ、そういう人は。こっちから選ぶことなんて出来ない。君もいつか呼ばれるかもしれないし、もしかすると一生呼ばれないかもしれない。どっちにせよ、それに振り回されて迷うっていうのはそれ>自体が無駄。呼ばれた時にすぐ応えられるように準備しておくしかない。
やりたいことってのは、天職ってのは能動的に探すものではないのですか? "呼ばれた時にすぐ応えられるように準備しておくしかない" なるべく選択肢とか可能性が維持できるように
したいところですけれどもね。
>http://anond.hatelabo.jp/20100922183732 //長いのでURLだけ。
なるほど。ってことは一週間かけて考えて見つからなければαを放置して学力の向上におけるパフォーマンスを最大化させればいいのですね。
受験が迫っているため、一週間程度のリソースで見切りをつけ、当座は合格を目指し、大学という場でリソースを獲得し
"目標α発見可能性を最大化して実践" すれば良いのですね。 すごくわかりやすく、かつ的確な回答のように思えます。
しかし一週間ではなく二週間であれば見つかるかもしれないわけじゃないですか。
というか期間の問題ではなく、 目標αはまったく(もしくはこれ以上)発見されないであろう、その可能性はないであろうと判断することを私は求めているのです。
目標αはまったく、もしくは、もうこれ以上生まれないであろうと。 気が変わったりするもんですから、人間も。
定期的に そうであるかどうかを確かめるような手段が欲しいところなのですが。
また言いますが、それこそがGTDの本質なのではないのですか?
そういえば私の提唱した方法論についての反応がありませんね、、
今の私って、無数の目指すべきかどうかは判断されていない目標は見えているけど、それを目指すかどうかっていう判断材料になりえる情報(目の前に膨大に広がっています)
に溺れてる感じなんですよ。 "今" 何をすべきなのか? がわからないんです。
わからないから、わかろうとする。 そうやってるとただ情報の海を漂ってるだけになるんですよね、、困ったことに。
一連の考えを要約すると、 人生において早い段階で 「選択と集中」 をしたいんですよ。
自分は何者でもないし、なにか特別な才能があるわけでもない。
特に何ができるわけでもない、 そんな私ができることって 人より多く一つのことに時間を投入することなんですね。
そのためには「選択」が要ります。それも孫さんのいうように腹の底から、覚悟を伴った"選択" それほどまでの"選択"ができて人はやっと"集中"ができる。し続けられる。
集中ができるほどの、それほどまでの選択を私はしたいんですよね。 もちろんここでいうαである目標の達成を選ばないという選択もありますよ。
受験一筋なパターンです。それも一つの選択ですね。 例えばそういうパターンを選択し、集中できないのはαがあるからなんです。 とにかくこのα。これさえなんとかなれば。
またまた追記ですー
http://anond.hatelabo.jp/20100924192440
http://tamasoku.blog35.fc2.com/blog-entry-882.html
『指差した星にさえ罠を仕掛けてる無法の荒野』を
彼らは進んでいったんじゃないかなあ
あんまり笑えないぜ、お前らも『何か』は信じてんだろどうせ
いくとこまでいってもニヒリズムを信じるしかないんだからさ
ああ、旧帝大からの見方をしてる俺とマーチレベルからの見方をしてるお前と何が違うんだって方向に持っていきたい訳ね。
今回も、どんな人間の言う事もポジショントークに過ぎないんだよってニヒリズムに陥って話の方向が行き詰っていくパターンなんだろうか。
関関同立は関係なしに、大学生はこういう風に見られてるよ、中で学んだ事を評価されるフィールドはものすごい少ないよ、と
社会人の立場から書くことにしよう。これなら満足してもらえるだろうか。
「suteacco 単なる偶然かもしれないが「この世代」にある何かをまじめに考えた人いるのだろうか。いるなら話を聞いてみたい。」
ネット右翼的ルサンチマンだと感じるかもしれないけど。たんなる自伝(?)にすぎないかな。
・実質的な「ゆとり教育」最盛期。否定する論者はほぼ皆無(むしろ、「ゆとり教育」という言葉が出たときには、反発する層が活発化し、かなりこの思想は相対化された)
・ニューアカ的左翼思想の全盛期、朝日新聞的意見が社会の主流。
・住専問題だの、ノーパンしゃぶしゃぶだの、とりあえず政府や官僚、役人を叩きまくる風潮が強かった気がする。
特にそういうワイドショーの視聴率が高かった。あと芸能人叩きもひどかった。「○○が付き合った」「別れた」どーのこーの。
・個人的には、すごく窮屈で息苦しい時代だった。子供ながら、建前的な正義(≒朝日新聞的正義)に嫌気が差していた。でも、それが唯一の正義だとも思っていた。
□中学生……1995年=阪神大震災、地下鉄オウム、そして「エヴァ」
・被災者はともかく、個人的には「(ほぼ)中二でエヴァ」が圧倒的影響力を持つ。
当時の中学校では同学年の男子は9割、女子でも5割程度は見た感触。(再放送時に録画したビデオテープの貸し回しが凄かった)
・高校や大学等で色んな人に聞いてみたが、この世代へのエヴァの影響力はものすごい。「エヴァなら全校生徒観ていた」と断言されたこともある。
もちろん、エヴァは時代の風潮を反映してつくられた作品である。
しかし、「この世代」にそれをダイレクトに、強烈に、過剰に伝える媒介を果たしたのが「エヴァ」だった。
それ以前の「建前の世界」を全て取り剥がして、「本音」を初めて自分たちにぶつけてくれた、と感じた。(今でも感じているよ)
・小6か中1で酒鬼薔薇事件が起こった。多分同年齢だけど、当時はその社会的意義をよく理解できなかった。「同じ年なのにすごいなぁ」とか程度の感想しか出ない。
たぶん、あの子は僕らの中でもとりわけ世相の雰囲気に敏感だったのだと思う。単なる精神異常者ではなかった
……と大澤真幸前京大教授(セクハラにより引退、でも個人的にはまだ崇拝してる)の授業を受けて気づいた。
□高校生
(・エロゲーの隆盛 『To Heart』 『ONE』 『加奈』など)
・「ネオ麦茶事件」・・・酒鬼薔薇よりネオ麦茶のほうがよっぽど親近感を持った。「あーあ、やっちゃったよ…」みたいな。
・世相の右傾化。今まで「正義」とされてきたことがことごとく否定される。個人的にも従来の「正義」には違和感を覚えいたので大きく賛同する。
☆分かりやすい図式でいえば、バブル崩壊とネットの進行によって価値相対化が起こり、虚無感が広がる。ニヒリズム化。
これは今までもよく言われていたこと。
予想以上に多くの方々からコメントをいただけたのでうれしいです。少々疲れてますが、コメントに反応してみようと思います。
1.僕の意見に賛成または好意的な意見 2.反対または批判的な意見 3.論外なもの の3つに分けてみていきます。
1と2は僕の真意をあぶり出す事へつながり、3は生産的なコメントの阻害要因を除去する事につながります。
結果、焚き火に炭を投入するがごとく、じわじわと火力が増してくれれば良いなと思います。
「ほんとうの恋愛」って何だ?それ以外は偽物?結局恋愛なんて個人の主観だ。増田含めて世の中の男女は本音なんて相手に言わないだろう。人間て怖いよねー。
御意。
愚かでかわいそうな男の子が、彼女の為に身銭を切ってプレゼントしたりするのでお互い様 相手を知り己を知れば百戦危うからず
御意。男は性欲の奴隷です。それに気づいていない男性も結構多いです。僕もそんな時期がありました。そんな男性を皮肉って「おろかでかわいそうな男の子たちへ」が出てくるのは想定内でした。もっとうまく男を逆上させるくらいに皮肉ってほしいです。
ほ、ほんとうにたのしい恋愛をしたことがないんだろうなあ…もしくは過去に相当ひどい目に遭ったんだなあ。そればっかりじゃない恋愛だってあるよう。
僕はたくさん恋愛をしてきました。ドキドキして胸がはりさけそうになって眠れない夜を何回も体験しました。でもそのドキドキも子宮への航海の第一歩に過ぎないのです。ひどい目にあった事なくはないですがその腹いせに書いているわけではありません。
こういうことを書く奴は男の敵だ。女性にとっても男不信を拡大させるだけで誰の得にもならない。自分がダメだからって同性の狩りの邪魔をするのは最低だ。つか女性も分かってて乗っている場合もあるのに。
男の敵という表現は面白いですが、僕が伝えようとした事は全くつたわっていないようです。僕は、男女の構造上の問題から、女は真実を知る事ができないと言っています。つまり、構造上の問題なのだから、こんなところで僕がどんなに過激に極論を展開したところで、彼女たちは真実をしる事ができないのです。それを右記のようにも書きました。「男は男で性欲の奴隷なんだよな。 女は女でそんな男の作り上げる虚構の奴隷」 よって僕は男の敵にはなりえません。
需要と供給を愛と勘違いしてしまっているようですね
いいコメントですが、僕は利害関係と愛の区別はついています。男女の関係は利害関係です。ただしここで言う男女関係は、実際の男女関係でなく、論理的な意味での男女関係です。つまり、男と男、女と女でも成り立つような関係を僕は男女関係とは呼んでいません。一方で愛は男女関係の制約にしばられないものと思っています。
これ書いたの女の子じゃないのか?
僕は女ではありません。よく中性的だねとは言われますが男です。どこが女っぽいと感じました?
と、童貞様が仰りました。
僕は童貞ではありません。おつきあいした人の数から言うと、同年代の男性陣の平均よりはやや多い方です。
やけに僕を童貞発言が多かったけど、童貞はこんな屈折したものの見方はできない気がします。逆に、今の童貞ってこんなに屈折してるの?
思うんだけど、ミソジニーってものすごくかわいそうな病気だよね。まあこの増田がこう思い続けていることで見過ごしたり失ったりするものの大きさに一生気がつかないんならばそれはそれで幸せなのかも。
僕はミソジニーではありません。女の子は大好きです。もちろん性的な意味で。
いつもこの手のヘイトともニヒリズムともつかない内容の文章を見ると思うけど、なんで「男は」とか一般化して言いたがるの?
本文は、僕の経験と観察からの仮説です。もし一般化が間違ってると言えるならどこがどう間違ってるのか指摘してください。
http://b.hatena.ne.jp/entry/blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1430361.html
「ラモスが真の日本人だ」とかいってる人は本当にラモスと同じ意見なんだろうか?
ラモスが移民受け入れ反対なのは、現状では受け入れ態勢が不十分だから。
だからもし受け入れ態勢が整えば賛成になりうるし、或いは受け入れるために体制を整えよう、という主張をする可能性はありうる。
ラモスは真の日本人とか言っている人たちはそういう主張には賛成するのかどうか。
つまり受け入れ体性が整っていようがいまいが、移民を受け入れる事に反対という人は
ラモス賞賛している人は
単に目先の結論が「移民反対!!」で自分と同じだからっていうだけに見えるんだけど。
ちょっと流れとは関係ないけど、ゲーテッドコミュニティと移民の話があったので
(メディア批判が主な内容だけど)
7分以降から
http://www.youtube.com/watch?v=r2DS9t5lzJo&feature=related
後編part10
http://www.youtube.com/watch?v=g1HkKOMhloc&feature=related
ちょっと長いので1分20秒あたりからの気になった内容を文章に起す
宮台
「例えば同じようなメディアでも、まあこれはあのう自転車で行こうっていう、皆さん見ていただきたい、インディーズ系の大阪の生野区ですよね、鶴橋とかがある。
外国人がいっぱい住んでいるところの、その精神障害の人間たちの生き方を、生き様を映している訳だけども。
これは本当に皆さん見るとびっくりするんだけど、まあ生野区ってヘリテージがあるわけですよ。郊外化してなくて凄く地元性が残ってる。
でその地元性の中にコリアンとかチャイニーズ、或いは中南米の人たちと一緒に生きていくっていう事が完全に組み込まれているから、
精神障害の、知的障害の方々がいても、別に女子高生のコギャルも平気で話かけて喋ってるし、街で歩いてりゃたこ焼き屋のおばさんが、たこ焼き奢ってくれるし
その普通なら信じられないようなですね、地元的なコミュニティー的な者と、絶えず出入りする外国人との共生が成り立っている訳ですよ。
で僕はそういうヴィジョンを見ると、メディアはこういう風にも働く事が出来る。
つまり「異質な人間が入ってくると共同体がバラバラになって不安になるんだ」じゃなくて、まったく逆だと。
むしろ共同体が空洞化してバラバラになってるから、異質性に対して脆弱になって神経質になっちゃうんだと。
だからむしろ寛容さっていうのは共同体の強固さの表れなんだ、という様な事をね、ものすごく説得的に、本当だったら描けるわけだメディアでね。
メディアはどっち側にも加担できるわけなんだけど、どうも頭の悪い思考停止野郎が多いせいか知らないけど
ある一方側の、ネオコン的ニヒリズムをブーストするようなタイプの情報ばかりが、メディア空間に溢れるという現状になっている。
これは否めないですよね。」
神保
「一つはそっちの方が取材が楽だから、ともう一つ最近感じるのは、書いてる本人が多分本気でそう思ってるんだろうなっていう感じがして……」
生きていることに価値などない……などと未熟なニヒリズムをひけらかすように言っている人が多いように思えるのだが
こういった人々はどうも、生に価値がないという主観に基づいた曖昧な論拠を基に、相対的に死が価値を持っていると言いたいかのようである
でも死のうとしない、コレははっきり言って発言が矛盾しているとしか思えない
周りに迷惑がかかるから、とか、死ぬ勇気がないから……とか、様々な理由を付けて死を回避しようとしているが
それは相対的に生というものに価値をおいているということに他ならないのではないだろうか
「周りに迷惑がかかるから……」これは自身の周囲に価値をおいている、あくまで生という範疇に価値をおいた発言だ。
また、「死ぬ際の苦痛が怖い……勇気がない……」こういった発言も、同様である。
生の範疇にある苦痛に価値をおいている、というのは、結局のところ死ぬより生きている方がマシだ、と言っているのと同じである。この場合も、より生に価値をおいているとしか言いようがない。
ジョジョじゃないが、やりたいと思っているということは既に実行しているということなんじゃないのか
とっとと死ねとは言わないが、彼らにはせめてその辺りの矛盾をちゃんと把握してほしいと思う
それはニヒリズムとかいうやつかな?
己の承認欲求について色々考えていた。
能力等全てが並のくせに承認欲だけいっちょまえにたっぷりあるという、何かどうしようもない人間。
何故起きるのかとか、自分のこういう欲は実は結局全て「認められたい」につながっていたとか、そういうのは結構あったし納得いくのも多かったし楽しかったが
結局「じゃあどうすれば?」っていうと答えが出ていない。
「普通に生きる幸せを覚える」みたいな、あるいは「欲を絶ち仙人みたいな暮らしをする」とか
結局そういうところに行き着くっぽい。
でもそれが出来ないから苦しんでるんじゃね?
なんか堂々巡り。
どうすりゃいいのか。苦しい。時折、逆に180度回転してしまって、全て無価値な、ニヒリズム的な気持ちにかられて死にたくなるときがある。上下が激しい。
満たされない。いつまでたっても。
克服する必要はない。
ニヒリズムといってもいろいろな考え方があるけど、俺は、
「神はいない」→「だから、自分自身の意志で生きろ!」
ってことだと思っている。
お空の上のお偉いさんに認めてもらう必要なんてない。
日米欧の関心は雇用と所得、鳩山次期政権は現実に対応出来るだろうか?
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鳩山政権は明日発足するらしい。しかし不思議や不思議、熱狂的期待感は皆無、酒井のりビー保釈と閣僚人事予測が同列のエンターテインメントになっている。この一種壮大なニヒリズムは何だろう?
本来のニヒリズムではなく、投げやり、明日のことはどうでも良い、難しいことは考えない。そんな怪しい空気が日本を蔽っている。政権交代とか、個別、民主党の圧勝とかの区分けは表面的すぎないか、と多くの政治分析を眺めつつ一種違和感が私の脳裏に去来する。もっとも筆者には自民党を断固支持するというメンタリティはない。
日本の「政権交代」は結果として、イデオロギーの交替でもパラダイムの交代でもなく、或る精神の後退である。戦後日本の精神的混迷という極北状況の中で、導き出されたひとつの結論である。それは耐えられない日本の軽さの証明でもある。
ブッシュ・シニアは湾岸戦争を主導し、国連決議を成立させてイラクに空爆、圧勝をもたらした。当時、アメリカ国民の人気は90%もの支持率を誇った。しかしパパ・ブッシュは再選されなかった。クリントンがいみじくも言ったように[Stupid,It’s Economy]だった。
パパ・ブッシュは選挙中にスーパー・マーケットに立ち寄り、庶民の味方という政治演出を試みたが、まったく物価を知らない実態を写し出され、国民の多くが反発し、アーカンソウの馬の骨(クリントン)にも票が流れた。保守革命を忘れたブッシュに保守側から挑んだロス・ペローによって共和党支持票がみごとに分割し、馬の骨が漁夫の利を得た。
麻生首相は漢字が読めない漫画ファンというのはご愛敬にしても庶民の物価感覚がわからなかった。自民党支持票は大量に小沢ガールズに流れた。
クリントンは学生時代にロシアに招待され、夫人のヒラリーはニクソン弾劾キャンペーンの活動家だった。
青春時代、いわば極左にいたクリントンの政権が誕生し、保守は不安視したが、しかし政権掌握後、クリントン夫妻が選択した政策は保守主義の濃い、中間路線だった。リベラル色濃い政策は議会が反対した。
おりからのITブームにも助けられクリントンは軽々と再選を果たした。民主党を支えたのは左派イデオロギーではなく、雇用と安定と所得の増加だった。
▲「Stupid,It’s Economy」とクリントンは言った
その政策に息切れがでたときにブッシュ・ジュニアが本命ゴアを破って辛勝する。ジュニアは反テロ戦争に打って出て、やはり90%近い支持率に支えられ再選されるが、政権最後の日々は不評さくさく、ブッシュ・ジュニアの後継になる筈だったジョン・マケインはイラク戦争を表面にだして巧みに中盤戦をリードしたが、リーマン・ショック直後からの経済混迷の荒波にあっけなく飲み込まれ、どこの馬の骨とも分からないオバマに敗北した。アメリカ国民が求めたのは『気分転換』だった。
共和党の敗因は経済であって、イラクでも、アフガニスタンでもなかった。アメリカ国民は雇用と所得に関心があり、外交問題は二の次、三の次だった。
鳩山民主党は濃厚な左翼イデオロギーが支持されて勝ったのではない。経済である。つまり、選挙民にとって身近な問題は雇用と所得であり、失業増大、所得の目減りに対して殆ど無策と言って良かった自民党に対して体制保守、生活保守派さえ失望した。
明日はどうなろうと、空気の入れ換えを求めた結果が自民党の大敗を産んだのである。経済政策に何かを期待して、民主党を選んだのでもなければ、中国政策に共鳴して投票したのでもない。まさに「Stupid,It’s Economy」だった。
さて鳩山政権は誰が見ても、というより世界水準から言って三流の政治家である。一流に絶対になれないことは誰もが知っているが、二流にはなれる可能性がある。それは何か?
ヒトラーが名言を吐いたと三島由紀夫は『我が友ヒトラー』のなかで、次の台詞を用いている。「政治とは右を切り、左をきって中道を歩む」ものである。民主党イデオローグは左バネが強いが、そちらに傾斜すると政権の運営は難しいだろう。
自民党は改憲を謳い、靖国神社参拝を公約しながら実行せず、いやそれどころか後藤田、野中という極左を中枢に抱えて左傾化した。さらに自民党は連立相手の公明党バネに押されて政策を歪め、中道から左にぶれた。つまり自民党の無様な敗北は左傾化という誤断からだった。
同様に鳩山民主党が党内党友の左派路線にぶれると基本の方向性を歪め、再選はあり得なくなるだろう。鳩山次期首相が党内左派の連合、日教組、同和路線を斬る蛮勇があれば、二流の仲間入りが出来るだろう。
国民の多くは日米同盟の破綻を望んでいなければ、中国への急傾斜や東アジア共同体の成立を期待してはいない。雇用が安定し、所得が回復すること、外交にはそれほどの関心がないのである。
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通巻第2712号
ニヒリズムと一口に言ってもいろいろあるが、私が想定しているのは
虚無主義というよりはむしろ、懐疑主義なのかもしれない。
であるとしたら、超克するべきものではないのかとも思う。
人間として生きて、日々考えて暮らすには、ツールとしての懐疑は使うべきだから。
だが、懐疑主義をつきつめると、やはり虚無主義に落ち着いてしまうのでは?
私ばかだから、何度否定論者の説明を聞いてもこの堂々巡りに陥ってしまう。
あと、wikiに載っているような否定論は、単なる根性論にみえてしまって腑に落ちないんだよなぁ。
いや、そんなこといっちゃあ、ニーチェも根性論か。うーん。
矛盾点
ニヒリズムの「真理が存在しない」とする信念に対する批判としては、もし"真理が存在しない"が正しいとすれば、"真理が存在しない"という主張自体が"真理"になり、自己矛盾に陥ることになる、とする主張がある。同じような反論は相対主義、論理実証主義における意義の検証可能理論にも浴びせられている。
真理が存在しないに対するより高度な解釈として、「真理は存在するかもしれないが、それは実際には人間がアクセスできるものではない」とするのがあるが、この場合、ニヒリストがどうやってそれにアクセスしたかが問題となる。これに対して、ニヒリストは真理に直接的にはアクセスしていないが、「真理は人間の境界内において結局獲得できるものではない」であることを過去の経験により間接的に導き出しそのような結論となった、というのは理にかなった答えかもしれない。このように、ニヒリスト達は「真理は人間が獲得できるものではない」という前提から、彼らは真理を求める行為を無益と見なしている。
形而上的な概念である真理とは、その存在が認識されているからこそ存在するものであり、客観的な証明がなされなければ、存在すると言うことはできない。あらゆる真理が相対化される現代においては、少なくとも大多数にとっては真理とは存在しないものであり、ゆえに現代はニヒリズムの時代であるとする主張は多く見られる。
極端なニヒリズムとして、論理的な事柄の真理を人間が知ることはできないとするものがある。この場合、事実としてニヒリズムが矛盾に至ることは問題ではない。なぜならば矛盾は論理を受け入れる者に対して問題となるからである。
wikipediaよりhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%92%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0
これが本当だとしたら、哲学って当たり前なことに無暗に小難しい理屈つけるだけの学問だと思うw
結論も当たり前だし…
大学4年生。
卒業もほぼ決まって、内定もあるんだけど、人生に展望がもてない。
「どうせ死ぬ」のに、来年からバリバリ仕事する意義が分からない。
「死んだ後の自分」目線で世界を見ると、ほとんどの物に価値がないことに気づく。家族の愛情くらいは価値があると思うけれど。
こんなこと考えてるけど、別に鬱病って訳じゃないんだ。ただなにをしても、「どうせ死ぬじゃん」と思ってやる気が出ない。
何をしても、どうせ死んだら消えるんだ。じゃあなにもしなくてもいいじゃん、ってなる。
おかしいなぁ。昔はこんなじゃなかったのに。
とりあえず楽しくないんで、早くニヒリズムから脱出したいです。何かいい方法を教えてください。