はてなキーワード: コンピューティングとは
別枠という話じゃなくて、Perfumeを語るとアイドルフリーク以外がどうしても参戦してくると言ってるんだよ
それくらいPerfumeの演出は先進的で、クリエイターや技術屋の興味を惹いてるんだよ
映像のリアルタイムレンダリング1つとっても、それを生放送するバックエンドはどうなっているのか?とか熱く語られてるんだぞ
そういう技術の部分にPerfumeは関係ないと思うかも知れないが、Perfumeはそういう技術も含めて「Perfume」とされているからアイドルフリーク以外も参戦してくるんだよ
そんな集団を個人で相手取るにはアイドル以外の音楽・映像・コンピューティングの知識すら必要で、非常に難易度が高いんだよ
もしPerfumeを相手取りたいなら、Perfumeに批判的なアイドル以外の知識を持つ音楽・映像・コンピューティングの人間も集めなきゃならない
Perfumeが異常に評価されていると感じているのならば、それはアイドルフリーク以外からも評価されているからが答えであって、その評価を覆すにはアイドルフリーク以外の評価を覆す必要があるんだ
NEC全盛期を知っている人間からすると、今の凋落ぶりは目を覆うばかりだよ。バブル前に『C & C』- コンピューティング & コミュニケーションだったかのキャッチフレーズの元、コンピュータ / 通信 / 半導体を3本柱にして世界を席巻していたのがすべて壊滅だもんな。
後知恵で今から振り返っても、この分野は90年代から21世紀にかけて伸びまくってたわけだし、バブルのころは理系就職人気No.1で優秀な人材が殺到、半導体は世界1、PC / 携帯電話では日本1のシェアを獲得。
オペレーティングシステムがユーザにとって解りやすく使いやすくなったお陰で、パソコンやスマートフォンは急速に普及し、ユーザは意識しないでコンピューティングが可能となる時代になりました。
過去に定義されたパーソナルコンピュータの時代へ突入しており、1ユーザ1コンピュータは夢物語などでは決して無くなっています。
しかし、過去の使いにくかったオペレーティングシステムはユーザ間同士の情報共有、技術継承が密にあったこともまた事実で、時代が進んでオペレーティングシステムが使いやすくなったことでユーザ間同士の公助文化が絶たれ、ITリテラシーの共有・継承が難しくなっている時代へと突入しています。
パーソナルコンピュータが定義された時代では、1ユーザ1コンピュータによりユーザは必要な情報へ自由にアクセスし、ユーザ毎に持つ課題をコンピューティングによって解決するということが想定されていました。
しかし、実際には1ユーザ1コンピュータの時代へ突入してもユーザは必要な情報へ自らアクセスをしないということが解ってきました。
最早これはパーソナルコンピュータ論のバグと言っても過言でなく、このバグへ対応するべきであるという声も少なからず挙がり続けましたが、コンピュータの普及の速度はバグ対応の速度よりも圧倒的であり、気付けばバグ対応へ大きなコストを支払わざる得ない状況へと陥いりました。
コンピュータウィルス、フィッティング詐欺、アカウント乗っ取り、倫理に関わる失言etc...と組織が想定しなければならないコストは膨大となるようになったのです。
そしてそのコストの支払い先として選ばれたのが、組織単位へ向けてITリテラシー講習を商材として提供する新しいビジネスです。
それまで高いITリテラシーを有している一部の専門家、パワーユーザー達のノウハウそのものが注目される時代が来ると予想されるようになったのです。
さて、ここからが私の未来予想となりますが、数年以内に必ず「高いITリテラシーを有している一部の専門家、パワーユーザー達のノウハウへアクセスできるマッチングサービス・クラウドソーシングサービスが登場する」はずです。
専門家やパワーユーザは様々なユーザから持ち寄られたITリテラシーに関する課題に対して回答し報酬を得るというサービスが発生するでしょう。
もしかしたら、それは既存のクラウドソーシングサービスを行っている企業が始めるかも知れないですし、スタートアップでいきなり立ち上がるかも知れません。そこは予測が難しいです。
しかしながら、ITリテラシーの共有と継承が絶たれた今の時代に需要のあるサービスであることは間違いないのです。
私はこの点に注目していきたいと思っています。
今やすっかり定着した暗号通貨のマイニング。マイニング専用PCを作るためのビデオカードが売れたりと、活況を呈していたりする。
これまでもっぱら個人目的(ゲーム、動画etc)のためだったコンピュータの演算資源を
自らの利益そのもののために使うという発想が一般に広まってきつつあるのは歓迎すべきだと考えている。
が、その演算資源を科学の発展(人類の利益にも通じるかな)に使ってしまおうという発想が、遡ること18年前、1999年に始まった。
SETI@homeである。SETIはSearch for Extra-Terrestrial Intelligenceの略である。映画「コンタクト」を見た人になら覚えがあるかもしれない。
つまり、地球外知的生命(宇宙人)から発せられて地球に届いているかもしれない電波を見つけるという目的で運営されており、
それは、プエルトリコにあるアレシボ電波望遠鏡でキャッチした電波の中から特定のパターンに一致するものを
分散コンピューティング、つまりこのプロジェクトに参加するユーザのPCのパワーをちょっと間借りして解析し、宇宙人からの電波を見つけるというとてもチャレンジングなもの。
これは誰でも参加できる。
この辺の詳しい沿革や概要についてはSETI@home - Wikipediaを読んでほしい。
いまではBOINCというカリフォルニア州立大学バークレー校の分散コンピューティングのプラットフォーム上で動くものであり、
SETIのほかにも計算のリソースを必要とするタンパク質の構造予測や、ある種の糖尿病などの先天性疾患の原因遺伝子の発見などの
興味深いプロジェクトが行われている。
伝えたいのはここから。
夜空を見上げてほしい。東京の人でも今の時期なら冬の大三角形を南の空に見ることができると思う。
私も含めた田舎在住の人ならもっとたくさん、もしかしたらオリオン星雲なんかも見ることができるだろう。
肉眼で見える星の数というのはおよそ8600個。私たちの住むこの銀河系には1000億というオーダーで存在する。
思いを馳せてみよう。
私たちと同じように苦しいこともあったり、楽しいこともあったりする生活を送っているだろうこと。
いろんなことを考えているだろうこと。
そして、きっと私たちと同じように彼らの星の外に知的生物を探しているのだろうこと。
そんな途方もないことは現実には知りようがない?
いや、私は考えている。それを知るためにこのプロジェクトがある。
自らのコンピュータの演算が、その途方もないことを知るための小さい一歩であること。
そしてそれが人類にとっての大きな飛躍につながっていること。
この考えとともに今までおよそ10年ほどこのプロジェクトに参加している。
まだ有望な電波は見つかっていないようだが、それでも私は今日もコンピュータを走らせる。
強要するつもりはなく、はてなーの皆さんに認知だけでもしてもらいたいと思いこれを書いた。
もしすでに豊富なCPUパワーを持っていて知らなかったという人はぜひ参加を検討してほしいし、
今マイニングをしているという人は、もしふっとこれが頭によぎることがあれば、参加してくれればいいと思っている。
また最近はプロジェクト自体かなりの財政的困難にも見舞われているようなので、寄付ができるのであればしてもらえたらとも思う。
ぜひ、あなたのコンピュータを科学の発展のために役立ててみてほしい。
1年ぐらい前に「そういえば日本の歴史は教科書を読めばいいけど、インターネット上の歴史は意外とまとまってないよな」とふと思いつきで書いて、以降何か思い出す度にちまちまと書いてて、最終的に本にするかどっかで公開しようかと思ってた。
が、金取るほどじゃないし、そもそも出典元は自分の記憶とWikipediaとかその他ウェブサイトだし、正確性も担保できないし、どうせなら皆で見て「あーこういうのあったねー」とか「これが無い!」とか言い合うのも楽しいと思ったので書く。
あと、自分だけでなく、一度某所に公開して出てきたやつも一部混ざってます。※2016年まであります。
・アメリカで現代のインターネットの起源となる「ARPANET」が始動する。最初はカリフォルニア大学ロサンゼルス校とスタンフォード研究所、カルフォルニア大学サンタバーバラ校、ユタ大学の4つを結ぶネットワークから始まった。最初に送信されたメッセージは”lo”だった。(login:を入力しようとしてクラッシュした)
・東北大学とARPANETが接続される。日本にARPANETが入った最初の出来事である。
・慶應義塾大学と東京工業大学を接続するJUNETが誕生。日本におけるインターネットの起源。後に東京大学をはじめ、様々な研究機関や大学が接続されるようになる。
〜〜中略〜〜
・Windows95誕生。一般市民にインターネットが急速に広まる。地下鉄サリン事件発生。
・阪神淡路大震災発生
https://www.youtube.com/watch?v=ktPL7X7nFXk
https://www.youtube.com/watch?v=FvfBJapb2pw
・芝雅之により掲示板「あやしいわーるど」が誕生。日本インターネットのアンダーグラウンドの祖先。元は地下鉄サリン事件を題材にした不謹慎ゲームを配布するために立ち上げたウェブサイト。
あやしいわーるどで発生した文化は後のインターネットに大きな影響を与えたものも多い。
・ネット流行語:「マターリ」「ヽ(´ー`)ノ」「『餃』『子』『の』『王』『将』」「萌え」「Warez」「ギコ猫」「ツンデレ」
・あめぞうにより「あめぞうリンク」誕生。酒鬼薔薇事件発生。あやしいわーるどに少年Aの実名が投稿される。
・あやしいわーるど閉鎖。あやしいわーるどから派生した掲示板が大量に発生する。これらは2016年現在も続いているものもある。
・「あめぞうリンク」にスレッドフロート型掲示板(あめぞう掲示板)が設置される。最初にあったのは「掲示板ニュース速報」「株式速報」
読みづらいとされていた大型掲示板サイトの中でこのシステムは当時は画期的で、爆発的な人気を誇るようになる。
・この頃に「ひろゆき」出現。
・この頃はまだコンピュータも高価で、インターネットもまだ滅多に使われず高額だったため、利用者が好事家に限られていた。雑談以外には、株式、経済、社会情勢、コンピュータ等、専門的で高度な話題が多かったとされている。
・テキストサイト全盛期
・あめぞうの利用者が増加し、サーバ確保が困難になったり荒らしが増えるようになり運営に様々な問題を抱えるようになる。
・サイトの引き継ぎ先を求めていたあめぞうの声に応える形で同年、利用者の1人であったひろゆきにより「2ちゃんねる」が誕生。当時は「あめぞうのセカンドチャンネル」という位置づけとされていた。1日あたり1万人程度の来訪者。
https://www.youtube.com/watch?v=h22l8iWAW18
https://www.youtube.com/watch?v=6rNZBF9DXTU
・スクリプト荒らしによりあめぞう掲示板壊滅。同年閉鎖。西鉄バスジャック事件発生。犯人が2chに書き込んでいたことを受けてひろゆきが初めてテレビに出る。
・ネット流行語:「(この掲示板は)匿名というのが前提になりますので、うそもあるし、ひどいことも書かれます。そういうのをうそはうそであるとか、見抜ける人でないと(掲示板を使うのは)難しいものがあるでしょう」
・教育改革国民会議(森内閣)「バーチャル・リアリティは悪であるということをハッキリと言う」
http://www.nicovideo.jp/watch/nm3956863
https://www.youtube.com/watch?v=LWSZMrz0zsk
・2chに対抗した1ch.tv誕生。あめぞうと西和彦が関わる。
・アメリカ同時多発テロ事件発生
・先行者出現
・田代神
・MAD GEAR SOLIDの1作目が公開される。「性欲をもてあます」
・グリッドコンピューティングを用いたUD ガン研究プロジェクトが開始。2007年に終了するまでの間、Team2chが大きく貢献する
・WinMXで逮捕者。「かぎのおとが おやがかぎわたしや もうだめぽ」
・ドラえもんのキャラを使ったFlashが流行(後にオラサイトと呼ばれる)
https://www.youtube.com/watch?v=DaoGHZFKt6s
https://www.youtube.com/watch?v=nQl3NIJYkt0
いろいろ突っ込まれることを前提でエントリをぶちまけるので、忌憚ない意見が聞けたら良いなとおもっている。
さることの昨年九月、とある財閥企業グループの子会社に転職をした。
親会社にくっついたエンジニアリング会社といえば聞こえは良いが、要するに工事会社だ。親会社が不採算で利益率の低い部門を分社化しただけのことだ。
この企業に転職して数ヶ月、起こったこととそれに対する意見をぶちまける。異論、反論、大募集だ。ただし討論に興味はない。
思ったことをぶちまける代わりに、それに対して思ったことが返ってくることを期待する。
サマリーはおおまかにいって以下にまとめることができる。
①工事会社としての技術力とは一体なんなのか、それは情報漏えいを恐れるようなレベルのものなのか
②内部の人間同士で『人間性』に言及し始めるようなら、その組織は終わってる
③ドメスティックタイプの企業における『コミュニケーション能力』という名の限界
会社に入ってきて思うのだが、いわゆる施工規準や施工方法に関するデータの流出を上層部が過度に恐れているように思える。
しかもそれは本質的な『情報漏えい』に関する健全な怖れというよりは、子会社にありがちな親会社や風評被害を怖れての脊髄反射に見える。
PCをシンクライアントにするのは良いが、いくつかのクラウドサービスをアクセス禁止にするのはいかがなものか。はてはフラッシュメモリからフリーソフトのダウンロードまで規制されている。
顧客情報流出を怖れるのは良いとして、施工規準や施工方法に関する教育データぐらいある程度コピーして弊害があるか?
原価見積りに関するデータが流出することで、利益源泉が素っ裸になってしまうリスクは分かるが、正直言って建設業関係で中小のエンジニアリング会社に、セキュリティをかけてまで守る技術などない。
とてつもない機械をどっかから買ってきて、数値を入力して、資金力にものを言わせて人を雇って、膨大な工期を費やして建築物を完成させるというだけのことだ。
だいたいエンジニアリング会社なんて、自社の技術なんてなにも持っちゃいない。
太陽光発電事業者なんかがよく自らをEPC(エンジと調達と構築をワンストップで行う事業モデル)とか言っちゃってるわけだが
要するに知識と人員と情報収集力&編集力はあるから、必要なもんは金かけて集めてきて設計して作ってやんよ、っていうだけの話だったりする。
だからエンジニアリング会社がプラントに持ってく装置や設備のほとんどは、実は盤屋に筐体だけ作らせて中身は中小メーカーやどこぞの電子メーカー製品の寄せ集めだったりする。
ぶっちゃけ施工会社としてのエンジニアリング会社はエンジニアリングっつーよりはむしろ商社に近い。投資事業モデルを使ってないだけ。
客先常駐型の派遣モデルで収益を上げているが、結局設備そのものの校正やサービスはメーカーの技術者を呼ぶわけで、ビジネスの形が顧客との利益相反になってる。
これが例えばプロパティマネジメントのように、顧客の一部となって設備投資利益の最大化を目指す形ならばいざ知らず、結局は政府の公共工事に縋る建設コンサルタント業界とほとんど変わらない。
相手がメーカーに切り替わっただけの話で、二年三年単位で作られる景気を見越した設備投資計画によって投入された予算に従うだけ&なるべくその予算を多く取るために張り切るだけのビジネスだ。
現代における技術力の意味合いはどちらかといえばもっとサイエンスであったりコンピューティングなものだと思う。
少なくとも、いくら工事会社が『我々の技術力を守る』だのと言っても、そこに書かれていることのほとんどは日本の電気事業法だの高圧ガス保安法だのに則ったものを超えられないし、そこから幾らでもリバースエンジニアリングが可能なものでしかないと思う。
つまりなにが言いたいのかというと、会社のPC持ち帰れないんだから教育資料ぐらいクラウドサーバーにアップして家でテスト受けることを許可しろ。
職場で仕事の成果物に対する評価を下すならまだしも、従業員の人間性に言及が終始するような職場は終わってる。それは単なる噂話や陰口の温床だ。上司が部下の人間性に口を出す組織も終わってる。
コミュ障やアスペ、発達障害やうつ病についての言及をするような職場、とりわけそれを「脱落者」「人として未熟」という組織も同様だ。まず間違いなく組織として終わっている。
仕事をするにしても各自に割り振られたタスクそのものがなく、社内営業や油売りによって仕事を獲得するような組織だ。
指示系統にせよ、組織でありながら組織化が徹底されてない証拠だ。
誤解を怖れずにはっきり言うが、そもそも『人間性』に着目しはじめたとき、その組織もあるいはその人間関係もある意味で終わってる。
多くのビジネス書では地図よりコンパスの方が重要だとよく言われるが、はっきり言ってそれは嘘だ。
コンパスはたしかに重要だが、それよりも地図を手に入れることの方が先決だ。
コンパスは主観だが、地図は自分がいる位置を相対化して知る事ができる唯一のツールだ。GPSがあっても上空からの映像がなければ何の役にもたたない。
人間性を期待するべき側とそうでない側がTPOで変化する。また人間性の定義もTPOで変化するし、人間性を評価する人間もまたTPOで変化する。
そして多くの場合、人間の語る評価はポジショントークで、現代人は一個人でありながら日常生活の中でさまざまなポジションに立つ(親であり上司であり母であり父であり弟であり..)から、人間性の評価軸そのものが普遍ではない。
人間関係は一元的なものではない。人は誰と対面しているかによってコロコロと相を切り替えるので、ある人間から見た印象が必ずしも別の人間から見た印象と一致するわけではない。
しかもそれは個々の人間が持つ評価軸に連動しており、その評価軸は各々の視野・視座によって変化する視点であり、複雑系で曖昧だ。
『評判』そのものに実は信頼性などなく、『何故その人はそのような評価を下したのか』に着眼し、評価を下した人間の立場や背景にまで目を広げなければ、客観的な『結論』を得ることは難しい。
facebookの『いいね』の個数は重要ではない。『どこの誰が〝いいね〟を押しているのか』が重要で、さらに言えば〝何故いいねを押したか〟の方がもっと重要だ。
その理由の如何によっては、『いいね』そのものをデータの指標として無視するという選択すら十分ありうる。
ビジネスの現場において、始末書や反省文に人間性に対する言及があってはならない。
それはなんら解決にはならない。根本的な問題が仮に人間性にあるとしても、それを逆手に取って上手に外的要因に沿って問題に取り組んでいく以外に道はない。
上司がパワハラであるからといって、我々は生計を立てることを諦めるわけにはいかないし、部下や従業員が怠惰や傲慢であるからといって、具体的な目標を立てずにビジネスが進展することはありえない。
結論を言えば、『人間性』に言及し始めることは、ビジネスにおいて必須たる〝コト〟に向かう姿勢を歪める。
それが蔓延する組織は、組織化が上手くいっていないか、もしくはそのビジネスが限界を迎えているかのどちらかだ。
(※ 筆者の場合、所属しているのは子会社タイプの工事会社なので、ビジネスそのものが危うく、社内が内向きになっているのだと考えている)
阿吽の呼吸のことを『コミュニケーション能力』と呼ぶ時代はとうに終わっている。
すべては文脈と宣言型言語によって語られ、記述と構造化が優位に立つ時代になるはずだ。
曖昧さは削られていく。
世界全体で大きなストーリーが崩壊した今、ドメスティック企業において求められていた『コミュニケーション能力』を担保にした『仕事が出来るヤツ』『仕事が出来ないヤツ』の評価軸は揺らぐだろう。
なにが言いたいのかというと、現場ごとに施工ごとに異なる大同小異の部分で小さく競い合うのは不毛だし醜くてむしろ哀しくなってくるから辞めろ。
たかだが一つの装置の細かい機能に過ぎない部分で知識自慢と知恵比べをするのは不毛だから辞めろ。
文脈レベルでの競い合いなんざ無意味だ、職人同士の張り合いは趣味でやれ。ささやかな自慢なら良いが、無駄にプライドを持つと逆に扱いづらくで邪魔だ。
もう誰も覚えていないと思うけど、3年ほど前、ここに、"Hello world!"というタイトルのエントリを投稿した。あの話の続きをしようと思う。
※このお話はたぶんフィクションです。実在の人物や団体とはあんまり関係ありません。
※前回のあらすじ:高校中退→工場派遣→プログラマ→ホームレス→自立支援施設→プログラマ→海外放浪→職業訓練→世界一周アプリを作る
あれから3年、いろんなことがあった。またプログラマとして働いたり、またホームレスになったり、福島で除染作業員をしたり、本当にいろいろあったけど、 今回の主題にはあんまり関係ないのでざっくりはしょる。今回の主題は世界一周についてである。
僕はいつか世界を巡る旅をする。10年くらいかけて。わりと本気で。その計画を立てるためのアプリケーションも作った。でもそのアプリは正式リリース以降、開発が頓挫している。開発を進めるにあたって、致命的な問題があることがわかったからだ。それは、開発者である僕自身が、この世界について何も知らないに等しい、という問題だ。
開発者は、システム化する対象に関して、誰よりも精通していなければならない。業務用アプリケーションの開発なら、 その会社の業務フローについて、社内の誰よりも詳しくなくてはいけない。システム開発とはそういうものだ。そして今度の対象は世界だ。すべての国だ。それを僕自身が知らなくてはならないのだ。
しかし世界は巨大で、そして複雑だ。
国連加盟国は現時点で193か国。それぞれの国の下に州や省や県があり、その下に市区町村があり、そういった階層的な行政単位以外にも、歴史的背景から自治区になっているところや特別行政区、連邦直轄領もあり……。
そういや連邦ってなんだろう。なんとなく知っているようでいて、詳しくはわからない。王国と共和国ってどう違うんだろう。国の形ってなんでこんなにいろいろあるんだろう。いやそもそも国ってなんなんだ。どうすれば「国」になるんだ。
国連に加盟していればいいのか。いや国連非加盟の国もあるじゃないか。国家の三要素(領域、人民、主権)を満たしていればいいのか。しかしそれを満たしていることを誰が認定するんだ。他国からの承認があればいいのか。その他国は誰が国だと承認したんだ。政治的問題から国なのか国じゃないのかはっきりしない地域だってたくさんある。国とか国じゃないとか最初に言い出したのは誰なのかしら。
それは世界一周アプリの開発中に国データをちまちま作っていたときにも思ったことだ。もしかして「国」というのは、僕が思っていたほど絶対的で、はっきりしたものではなく、相対的で、曖昧なものなんだろうか。
わからない。わからないことだらけだ。こんなもの本当にシステム化できるのか。複雑ってレベルじゃねーぞ。これが仕事だったら「うんこー☆」とかいいながら全力で投げ出しているところだ。しかしこれは仕事ではない。これは仕事ではないので、真剣に取り組まなければならないし、投げ出すわけにはいかないのである。
だけど、 どうしたらいいんだろう。世界はあまりに巨大で、複雑で、茫洋としている。何かとっかかりが必要だと思った。基点が必要だと思った。人でも物でも事柄でもいい。それをとっかかりにして、基点にして、少しずつ裾野を広げていけばいいのではないか。そう思って、自分の記憶を探ってみる。僕の基点、時間軸と空間軸の原点、それは子供のころ、ブラウン管の向こうに見た、落書きだらけの大きな壁だった。
1989年11月、ベルリンの壁が崩壊した。僕が9歳のときだった。ニュースは連日連夜、この話題で持ちきりだった。興奮気味に壁を壊す人たち、全身で喜びを表現する人たち、泣きながら抱き合う人たちもいた。世界中が大騒ぎになっているようだった。僕はその映像を、意味もわからずただぼんやりと見ていた。
それからしばらくして、社会科の教科書の世界地図が大きく書き換わった。ソ連という国がなくなり、新しい国がたくさんできたのだという。国がなくなる? 国が新しくできる? その意味もまたよくわからなかった。
時間軸は一気に飛び、ベルリンの壁崩壊から20年以上たったころ、僕は生まれて初めて日本を出た。半年かけて海外を放浪した。特に目的もない旅だった。だからその場所に行ったのも、ほんの気まぐれだった。
ベトナムのホーチミン市にある戦争証跡博物館。ベトナム戦争の記憶を後世に伝える博物館だ。旅の途中にふらりと立ち寄ったそこで見たものを、僕はいまでもフラッシュバックのようにありありと思い出せる。
銃器、対戦車地雷、その他さまざまな武器弾薬が「こうやって使われていたんだ」といわんばかりに、実際に使用している場面の写真と並べて展示されている。銃を突きつけられて悲壮な顔をしている男性、道ばたで血まみれになって死んでいる子供、虫の死骸のように雑多に並べられた人の死骸、そんな凄惨な写真がこれでもかと並ぶ。
何か、自分の中で価値観が急速に書き換わっていくのを感じた。頭の中がぐちゃぐちゃになって、いろんな言葉が浮かんでは消えていく。
「資本主義」
「共産主義」
「イデオロギーとは何だ?」
そのとき同時に頭の中に浮かびあがってきたのが、子供のころに見たベルリンの壁崩壊のニュース映像だった。あれから20年以上たってようやく僕は、あの人たちがどうしてあんなに泣いたり喜んだりしていたのか、少しだけ理解できたのだ。
あの博物館で僕がもっとも強く感じたのは、「戦争は悲惨だ」という事実ではなく、「どうしてここまでのことになったのか?」という疑問だった。人が人を虫けらのように殺す、その理由が知りたい。そこには絶対にそれなりの経緯があるはずである。東西冷戦とは何だったのか、僕はまずそれを知らなければならない。
しかしこうなるともう最初から世界史をやり直したほうが早いんじゃないかと思った。よし、時間軸を一気に人類の歴史の始まりまで巻き戻そう。
まずは大河流域で文明がおこる。チグリス・ユーフラテス川、ナイル川、インダス川、黄河。うわー、すげー懐かしい。そして農耕が発達する。食料を安定して収穫・保存できるようになると権力が生まれる。そこからは世界各地で似たような権力闘争が延々と繰り返される。
特に印象深いのが「カノッサの屈辱」だ。十代のころ、学校でこれを習ったときは意味がわからなかった。この人たちは何をそんなに必死になっているんだろうと思っていた。いまならわかる。目的は、権力そのものなのだ。人の頭を踏みつけること、人を思い通りに動かすこと、それ自体が目的であって、権力によって得られる富や名声は二の次なのだ。それは自分の経験を振り返ってみてもわかる。ヤンキーの世界でもエリートの世界でも、どんな場所でもどんな階層でも、人間が集まれば、始まるのはいつも頭の踏みつけあいである。それが直接的か間接的か、下品か上品かという違いはあれど、やっていることは同じだった。だから世界史に記されたこのくだらない争いの数々も、いまは実感を持って理解できる。
そして絶対的な権力者である神によって凍結されていた歴史が、ルネサンス以降、急速に動き始める。宗教改革、名誉革命、フランス革命。それまで聖職者や王侯貴族が持っていた権力が少しずつ引き剥がされていく。そしてフランス王国はフランス共和国に。ああそうか、王国と共和国の違いって「王様」がいるかいないかなのか。さらに現代の「国」という概念、国民国家というのも、このころに生まれてきたもののようだ。人類の歴史から俯瞰すれば、ここ200年くらいの「流行」にすぎないのだ。
しかしフランス革命って華々しいイメージだったけど、こうして改めて調べてみると、革命政権の恐怖政治によって何万もの人間が処刑されていたり、何度も王政に戻っていたり、混沌としすぎていて、華々しいなんてとてもいえない血まみれの革命だったのだと気づかされる。
そんな混沌の中、産業革命を経て、歴史はさらに加速する。権力のあり方も変わる。聖職者や王侯貴族に変わって資本家が台頭してくる。資本主義が加速する。貧富の差が拡大していく。賃金労働者は悲惨な労働環境で搾取され続ける。暗澹とした空気の中、社会主義・共産主義という思想が台頭し始める。ロシア革命が起こる。世界初の社会主義国、ソビエト連邦が誕生する。
いままで社会主義ってあまりいいイメージはなかったけど、こうして順序立てて成立の経緯を追っていくと、歴史の中での必然性がわかる。みんな、もう誰も頭を踏みつけあわずにすむ世界が欲しかったのだ。だから既存の権力や富や労働のあり方を強制的に変える。そしてそれが国の形を変える。そうか、国の形ってこういうふうに決まるのか。
しかし計画経済ってなんだろう。どうしてそんなものが必要になったんだろう。と思って、初心者向けの経済学の本を何冊か読んでみた。めちゃくちゃおもしろかった。経済ってこういうものなのかと思った。市場経済では必ず景気は好況と不況を繰り返し、いつかどこかで恐慌を引き起こす。そんな繰り返しをさせないために、計画経済では政府の計画にしたがって商品を生産する。そうか、そんな経済の形もあるのかと思った。ずっと現代日本で生きてきた僕にとっては、市場経済があたりまえすぎて、市場の自由がどうの規制がどうのといわれても、これまでピンとこなかった。「あたりまえ」のことは、対比されるものがないと、それを知覚することさえできないものなのだと知った。
その市場経済へのアンチテーゼとしての計画経済は、しかし破綻する。いつ、どこで、誰が、何を、どのくらい欲するか、なんてことを計算し尽くすには、リソースが足りなさすぎたのだ。結果が出ているいまだからいえることなのかもしれないけど、少数の頭のいい集団の演算能力よりも、多数の平凡な人間の無意識的な分散コンピューティング(見えざる手)のほうが演算能力は遥かに高いのである。
そして社会主義自体も破綻する。ソ連型の社会主義では一党独裁を必要とする。しかし絶対的な権力は絶対的に腐敗する。それは歴史が証明している。独裁政権は必然的に暴走していく。これも僕は経験として知っている。「いじり」がいつも「いじめ」に発展するのと同じだ。他人をおもちゃにできる、自分の思い通りにできる、これは権力である。そして「いじり」は場の空気によって正当化されるので抑制がない。抑制のない絶対的な権力は暴走する。だから 「いじり」はいつも「いじめ」に発展する。企業内のハラスメントや家庭内の虐待も同様だ。人間は好き勝手にできる状況に立たされたとき、好き勝手に振る舞うものなのだ。そうか、チェックアンドバランスってそのために必要なのか。絶対的な権力は絶対に生み出してはならない。権力は絶対的に抑制されなければならないのだ。三権分立を唱えたモンテスキューさんマジパネェすわ。
こうして自由主義・資本主義の矛盾への疑問から生まれた社会主義・共産主義は、自身に内包していた矛盾によって自壊していく。そして時間軸と空間軸はまた原点に戻る。冷戦の象徴であり、永遠に世界を二分し続けるかのように思われていたベルリンの壁が、ささいな行き違いからあっけなく崩壊する。ほどなくしてソビエト連邦から次々に構成国が離脱し(国が新しくできる)、連邦は解体される(国がなくなる)。
天秤の片方から社会主義・共産主義が脱落したことにより、その後、世界はまた自由主義・資本主義へと大きく傾いていく。混合経済の社会主義的な部分が次々と取り払われていく。その結果が、派遣法改正だったり、リーマンショックだったりするのだ。そしてそれらは僕の人生にも多大な影響を与えている。そうだ、これはひとごとではない。遠い昔にあった「歴史」でもない。僕がいま生きている「現代」の話なのだ。
そうか、世界ってこういうふうに動いていたのか。少しずついろんなことがわかってきた。国とは何か。イデオロギーとは何か。なぜ法の支配が必要なのか。なぜ憲法が必要なのか。しかしそれよりも何よりも、ひとつ重大な事実を確信した。それは、世界のすべてを知ることは絶対にできない、ということだ。
ミクロの領域――個人の感情や行動、これはわかる。マクロの領域――世界の市場や情勢、これもわかる。しかし両者がどのように関連しているのか、個人の感情や行動が、どのように影響しあい、どのような力学が働いて、世界の市場や情勢を動かすのか、逆に、世界の市場や情勢が、個人の感情や行動にどのような影響を与えるのか、それを計算し尽くすことは、誰にもできない。それは人間の演算能力の限界を遥かに超えているからだ。
「俺は世の中の仕組みをわかってる」「裏の論理まで知ってる」と嘯く人にはたまに出会うけど、そういう人が本当に世界の仕組みを知っていたことは一度もない。本当にただの一度もなかった。陰謀論はマクロとミクロの間にある巨大で複雑な回路をショートさせただけの反知性主義にすぎない。僕はそんなチートに興味はない。僕は真正面から、正攻法で、その回路を解析したいのだ。そうでなければ意味がない。
ああ、そうか、経済学とは、それを解き明かそうとする学問なのだ。マクロとミクロの間にある巨大で複雑な回路。それを解析するのが、経済学や、その他の社会科学なのだ。僕はそれを、もっと深く学ばなければならない。
進むベき方向性は見えてきた。しかしここからどうするか。独学ではもうこのへんが限界のような気がする。つぎはぎだらけの学習じゃなく、もっと体系的に学びたい。でもどうやって学べばいいのかがわからない。僕はまず、学び方を学ぶ必要があるのだ。それには、どうしたらいいのか。
大学に行く。どうしてそんな選択肢が浮かんできたんだろう。これまで僕の中にそんな選択肢は存在していなかった。そのはずだった。これまでずっと金も時間もなく、ただ日々の生活に追われるばかりで、そんなことを考える余裕は一切なかった。そんなことを考えるくらいなら明日の飯の心配をしたほうがいい。ずっとそう思って生きてきた。
何より僕には自信がなかった。自分みたいな中卒の人間が高等教育を受けたところで何の意味もないと思っていた。そんなの僕にはまったく関わりのない知識階級の人間の世界だと、大学なんて僕にはまったく何の関係もない、別の世界に存在するものだと思っていた。
でも思い返してみれば、その認識は少しずつ変化していた。いろんな仕事をしたり、あとさき考えず旅に出たり、プログラムを組んだり、文章を書いたり、そしてそれを不特定多数の人の目に晒したり、ずっと何かに追われるようにそんなことを繰り返してきたけど、その過程で、僕は何か大切なものを拾い集めてきた気がする。それはたぶん、自尊心と呼ばれるものだ。幼いころに失い、ずっと欠けたままだったそれを、僕はこの歳になって、ようやく取り戻すことができたのだ。
だからいまは自分が高等教育を受けることに意味がないだなんて思わない。大学が別の世界に存在するものだなんて思わない。ああそうか、だからいま、このタイミングで、「大学に行く」という選択肢が、僕の前にあらわれたのか。
あとはこの選択肢を選び取るかどうかだ。
いまの時代、大学に行くなんてそんなにたいしたことじゃないのかもしれない。だけど少なくとも僕にとってそれは、とてつもなく勇気とエネルギーが必要なことだ。ホームレスになることよりも、右も左もわからないまま海外に飛び出すことよりも。
現実的な問題もたくさんある。資金、学力、人生の残り時間。いろいろと考え始めると、解決しなければならない問題が多すぎて、わけがわからなくなってくる。もうどうでもいいじゃないかと投げ出したくなってくる。でも僕の中の何かが、そうさせてくれない。僕の中の何かが、そうじゃないだろうと責め立てる。
これには覚えがある。この熱には覚えがある。これは、あの旅の途中、自分の中に発見した、マグマのような熱量だ。感情になる前の感情。行動になる前の行動。名前なんてつけようもないほどプリミティブな衝動。僕はいままさに、それに直面している。そしてその熱量からは、どうあがいても逃げられない。それだけは確信できる。
だったらもう、覚悟を決めるしかない。本当にもう、そうするほかどうしようもない。
僕は大学へ行く。
そうやって覚悟を決めてみると、ものすごく気が楽になった。気分が軽くなった。
ああどうしていままでこんな簡単なことに気づかなかったんだろう。その想いはずっと自分の中にあったのに。
つい最近無断RT禁止をTwitterで行っている人達が批判的に扱われる騒動があった。
「なんだこいつRT嫌ならツイッターすんなヴォケ」みたいなただ感情的なだけの反応が数多く、
事を遡るに10年、「無断リンク禁止問題」が大きな話題になったこともあった。
今回の騒動はこの問題といくつかの点で相似している。
まず当人に一般的なルールの自覚があること、次に当人はその上でマイルールを制定したこと、
そして周囲の人々がこれらの点を十分に理解しないまま批判していること、以上である。
まずルールの自覚に関してだが、これは当然のことなのである。一般にリンクは自由にしてもよい、
RTも自由にしてよい、ということを理解しているからこそ、注意書きが書き加えられている。
それをどう曲解したのか「無断リンクする奴とかマジ最低、無断リンクすんなボケ」という意味に
捉えて叩いている。この問題の根本は現代社会特有の理解の至らなさにあるように思えてならない。
ダミー論証という言葉をご存じか?批判とは理解の上に成りたつべきものだ。それを
理解なしに批判してしまうのがダミー論証。しばしば悪意でねじ曲げて相手が言ってもないよう
なことで非難する。2chが生み出した1つの文化と言っても過言では無い。
こうした問題を防ぐためにも、皆さんにはまず無断RTが良いのか悪いのか、そのことから意識を
離していただきたい。視野が狭いままでは水かけ論になるだけ。まず、対立構造から離陸すること。
無断RTに限ったことではないが、すぐムキになって対立争いに巻き込まれるのが我々の悪いところ。
恋人が「距離を置こう」というのは相手に無関心だからではない。関心があるからこそ一度離れよう
と提言している。しかしこと社会問題になると構成人員の何割の人間が「距離を置こう」と言える
だろうか?それが言える人間の割合が稀少な現代社会はまさにどこかで歯車を狂わせてしまったに
違いない。お互いのためにも「距離を置こう」としれっと言える人間を育成すべきだ。
近代から現代にいたる人類の歴史は、単なる合理的分業の範囲を逸脱して、ただ雇用創出のため
だけに過剰なまでに個性を尊重し価値観が多様化されてきた歴史とも言えるのだが、
その過程でコスモポリタニズム的世界観、平たく言えば全世界的な視野の広さが
失われてきたのではないか?はっきり言えば世界が平作状況に陥っている。スイスフランと円が
世界の基軸通貨と言われた時代も終焉を遂げた。ヒトという種の存続のためパラダイムを
コペルニクス的に展開すべき時期に来ている。そのためには旧来のIT技術ではダメなのである。
確かにインターネッツがあれば、色んな情報へのアクセス性は高まる。しかし限度もあることを