はてなキーワード: Metooとは
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.mbs.jp/news/sp/kansai/20180112/00000068.shtml
62歳既婚教師が生徒に恋心を抱いて猛アタックをかけていたことが学校にばれ、減給の懲戒処分となったニュースに対して、ドヌーヴの「口説く自由」を持ち出して皮肉を言うコメントがみられる。
「口説く自由」を認めるなら、この教師の行動も女子生徒は認めなければならなくなる、と言うのだ。
単純に62歳が18歳に恋して口説いてもいいか、に答えるならば、答えはイエスだ。口説いてもいい。ただし多くの国では未成年と付き合うには本人以上に保護者の同意が法的に必要になるが。
次に教師が生徒に恋をして口説いてもいいか、になると、人間としては自由だが、職務上は許されない、となる。なので本気で口説きたいなら卒業してから、となる。
そして、この教師の口説き方は問題か、と言われれば、問題があった。朝日新聞記事によれば、教師から口説かれた生徒は、その話を断った、とある。生徒が断った後も、教師からのアプローチは続いたという。これドヌーヴの「口説く自由」「うざがられる自由」を超えている。
最後に、この「口説く自由」を超えた迷惑に対して、懲戒内容は妥当か、という点がくる。今回は免職ではなく減給である。重すぎることなく、かといって訓戒や注意だけのような軽すぎるものでもなく、表に出ている情報に対する懲戒処分としてちょうどいいものではないか、と個人的には思う。これが懲戒免職が出されたとなると、「報道には出なかった性的な酷い嫌がらせもあったのでは」と類推することになる。
ドヌーヴの文章が出てくる背景には、「その#MeTooに対してはあまりに罰がひどすぎないか」という私刑の行きすぎ感がある。軽口まがいの性的呼びかけ、挨拶に便乗したキスやボディタッチなどに対して、凶悪な性犯罪と同等に扱い、告発を受けた者が仕事を失う、過去の栄光が失われるなどすることは妥当なのか、という罪と罰のバランス感覚に対する問題提起である。
今回の62歳のケースは、「口説く自由」と「自由の行使で発生した迷惑に対する社会の罰」とのバランスが取れてるから良しとするというのが、私の考えである。
カトリーヌ・ドヌーヴってmetoo運動にブレーキをかけようとしてるの?もし、そう言ってるならソースはよ。
どうしてブレーキをかける輩が出てくるか分かるか?
そいつらの正体は断言できるんだけど、俺は無視されてると思ってる弱者だぜ
結局のところ全員救わないとダメなんだよ
一部を取り上げてみんなに共感しろ賛同しろ後に従えって言ったところで、自分の問題が解決されることはないなら誰かを貶めて自分の相対的な価値がから上がるような選択をするのは当然の心理
不条理を感じてる人は誰もが救われなきゃいけない
もし、自分の問題だけで忙しいからなんてやつがいたらそいつは排除した方がいい
賛同に忙しいもなにもない
え? 冒頭から「レイプは犯罪」であり「権力を乱用する男性のいる職場において、女性に対する性的暴力が法的に認識されるようになりました。それは必然」と書かれてますが?
これをMetoo運動それ自体の否定と捉えるのは誤読だと考えます。
そも、ドヌーヴらの意見が告発自体を否定するものでないのならば、口説く権利の擁護にならないのだから、やはり彼女らは告発自体を否定しようとしており、それはMetooの否定となるために、肯定しない。
というのがあなたの意見であるのならばこれは大変驚愕に値する事です、つまりあなたは口説くことが罪になる社会を理想の社会だと思っておられるということなのですから。
その様に、口説く事とセクハラを混同して粛清しようとする言説が蔓延していることへの問題提起としてドヌーヴらが立ち上がったのだということがご理解いただけていないようだ。
そうした粛正主義的態度は女性の解放どころかむしろ前時代的な差別構造をひっくり返して再生産しているだけであり、ハラスメントの解決には資さないという主張であることが。
あの、さっぱりよくわからないのですが、
あなたのおっしゃる「ドヌーヴの全訳のブコメで#MeTooを貶してるような人たち」というのはどこに存在するんですか?
おかしいなと思って一つ一つ全訳のブコメをゆっくり読み直して見たのですが、杳として見つかりません。
言うまでもないですが、ドヌーヴたちのそもそもの意見でもそのようにセクハラ被害の告発自体を否定している箇所は一行もありません。
見当たるのは、勝手にドヌーヴとそのシンパは被害の告発自体を萎縮させようとしている、などという誇大妄想に捕らわれ、
自立したフランスの女性の口車には乗らないぞ!と、よくわからない空中戦に躍起になっている人ばかりです。
私がおかしいんでしょうか?どうかおっしゃるところの「ドヌーヴの全訳のブコメで#MeTooを貶してるような人たち」と言うのを具体的に提示してください。
「恋愛の作法」という言葉があるらしいが、これは男から女に告白やアプローチをするべきだという話でしょ。
男の一人として不満に思うのは、何で男ばかりが自分から動かなければならないのだろうか。なぜ男だけが傷つくのかということ。
この恋愛の作法が男にとって有利なのはもちろん理解している。男自身で好きになる女を決めることができるのだから、女は自分から動けない。
しいては、最初から男に相手にされず、自分から動くしか選択肢がないブス女を封じ込めることができることにもつながっている。
まず最初に、異性間でのトラブルが発端で、社会的に不当な扱いを受けるなんてことは、あってはならないことだと思うし、そういうことがあれば声を上げて訴えていいと思ってる。
そういう意味では #MeToo 運動が本来の意味で良い方向に活用されるのを願ってる。
とはいえ、いまの #MeToo 運動はちょっとそれ違うんじゃないか?と思われる訴えがあったり。
単に社会的制裁を目的とした書き込みとも取られるものや、さらにはこの運動を利用した売名などもあるので、なんだかなぁと思っている。
>ドヌーヴの全訳のブコメで#MeTooを貶してるような人たちが勘違いしてるのがこれなんだけど、#MeToo運動は今まで「ノー」と言えずにハラスメントを受け続けてきた人が今になってやっと「ノー」と言い始めたという現象であって、それに伴い「『ノー』と言っていいんだよ」「『ノー』と言っても不利益を起こさせないよ」という人権を守る運動に発展したわけで。
それは分かる。
だから嫌なことがあったら、わざわざネットで全世界に晒す前に、まずは本人に対して『ノー』と言えということでしょ。
物事には順序があるわけで、その順序を全てをすっ飛ばして、各種SNSで晒しものにして相手を社会から抹殺するってのは、正しいこととは言えないんじゃないかな。
本人にノーって言って良いんだから、まずは本人に嫌だと言え。
それでも収まらなかったり、職場で不当な扱いを受けたなら、まずは社内のそれなりの部署に相談しろと。
それでもどうにもならなければ、労働基準局に行けと。
それでも改善しないなら、#MeToo でもなんでもすればいい。
片思いには失敗はつきものだから、求愛するにしても、間違った方法だったり、相手が嫌がる方法になったりする。
相手に好かれていると勘違いして、いらないボディタッチをするかもしれない。
相手が喜んでいると思ってしていた事が、実は壮大な勘違いで #MeToo され、それが元で社会的地位を失うとなったら、怖くて社内恋愛なんかできなくなる。
#MeToo 運動は結構なことだけども、何年にも遡って過去の過ちをほじくり返され、こんな嫌なことをされました!ってSNSで晒して、社会的立場を貶めても、
『[翻訳] ドヌーヴ「女性を口説く権利」 全訳』を掲載された方が、"la liberté d'importuner"を「ウザがられる自由」とお訳しになったのはなかなかの技だと思うのですが、惜しいことに、この全訳はかなりの数の誤訳を含み、その結果、多くの箇所で、原文の文意を正しく伝えていません。
以下、大急ぎで、主だった誤訳箇所を列挙し、元記事(http://www.lemonde.fr/idees/article/2018/01/09/nous-defendons-une-liberte-d-importuner-indispensable-a-la-liberte-sexuelle_5239134_3232.html)の正確な読み取りに基づく改訳を提案しておきます。「✖」で誤訳箇所を示します。「⇒」でその部分について、正確であろう訳文の例をを示します。ご検討ください。
⇒また、女性に対する慇懃な振る舞いを女性を傷つける男性優位の態度と見なすのは間違いです。
✖正しく意識されるようになった。
⇒意識されるようになったのは正統なことだ。
✖いわゆる普遍の名の下で、
⇒誰にとっても善いのはこういうことだと勝手に決めて、
✖実際、報道メディアやソーシャルネット上で、#metooが巻き起こしたのは密告と、個人個人に抗弁の余地や弁護の余地を与えることなく、性暴力の加害者と同じ俎上で糾弾することだった。
⇒事実、#metooを通して、報道メディアやソーシャルネット上に密告と公の場での告発のキャンペーンが発生した。犠牲になったのは、性暴力の加害者たちとまったく同じ俎上に乗せられ、抗弁の余地も弁明の余地も与えられない人びとだった。
✖「豚野郎」たちを屠殺場へ送り込むこの熱狂だが、女性が自立することを手助けるには程遠かった。 実際には性の自由の敵、宗教的過激主義、最悪の反動主義者に利益をもたらすことになってしまった。この反動主義者は、実質的にはヴィクトリア朝のモラルのもとで、女性を「別扱いな」存在とみなし、女性を保護することを求めながら大人の顔をした子供とみなすのだ。
⇒「豚野郎」どもを屠殺場へ送り込もうとするこの熱病は、女性が自律的になるのをいささかも助けない。それどころか、実際にこの熱病から利益を得るのは、性の自由の敵たち、宗教的過激主義者たち、最悪の反動家たち、そして、実体論的な善概念とそれにともなうヴィクトリア朝風のモラルの名において女性を一種「別扱いの」存在と、大人の顔をしていながら子供のように庇護されることを求める存在と見なす人びとなのである。
✖ミケランジェロ・アントニオーニの映画『欲望』を「女性差別」で
⇒ミケランジェロ・アントニオーニの映画『欲望』を「女性蔑視」で
✖「やりりたいこととやりたくないことに」
⇒「してもいいと思うことと、するのはいやだと思うことに」
⇒人の気分を害する自由
✖彼女は給与が男性と平等に支払われるように注意しているべきだ。しかし、地下鉄で痴漢にあっても、それが犯罪だからといって、トラウマを植え付けられたと感じる必要はない。
⇒彼女は彼女は給与が男性と平等に支払われるように注意することができる。しかし、地下鉄で痴漢にあっても、痴漢行為が犯罪と見なされるからといって、一生涯続くトラウマを植え付けられたとは感じないでいることもできる。
✖評判だおれだったとさえ考えてもいい。
⇒さらには、大した出来事ではなかったと考えることさえできる。
✖女性としての私たちは、自分たちが、力の乱用を超えて、男性たちとセクシャリティへの憎しみという顔をもったフェミニストになることを認めない。
⇒私たちは女性として、権力の濫用を告発することを超えて男性たちとセクシャリティへの憎しみとして表れるフェミニズムに強い違和感を覚える。
⇒ウザがられる自由が男たちの側にあってこそ意味を持つと私たちは考える。
✖そして私たちは、このウザがられる自由にどう応えていくかを知らなければならない。性的な獲物の役割に閉じこもる以外のやり方でだ。
⇒そして私たちは、このウザがられる自由に対して、獲物の役割に閉じこもる以外のやり方で対応する能力を持っていなくてはいけない。
✖子供を持つことを選んだ人々のために、
✖娘たちが気後れさせられたり罪の意識を感じさせられたりすることなどなく、自分の人生を精一杯生きるために十分教育されて自覚を持つことが適切だと考えている。
⇒自分の娘たちが、〔性について〕気後れさせられたり罪の意識を感じさせられたりすることなく、人生をのびのびと生きるのに十分なだけの知識を得て意識的になるように育てることこそ適切だと考えている。
✖たとえそれが辛く、生涯残る傷を残すものだったとしても、身体を傷つけられる事故にあった女性は尊厳を傷つけられないし、傷つけられるべきでもない。
⇒女性の身体に関与するアクシデントは、必ずしもその女性の尊厳を傷つけるわけではなく、ときにきわめて辛いものであっても、そのアクシデントを理由に当該女性を終身犠牲者のように考えるのは必ずしも適切なことではない。
以上。
そういう場合でも「ノー」と言えるように#MeToo運動があるんでしょ
世界中に仲間がいるから「ノー」と言えない、「ノー」と言ったら不利益ある、と思い込まずに「ノー」と言えばいいよ、っていう。
一方で、先のグラドルの人の#MeTooにもあるようにメリットとデメリットを比較してメリットがあると思えば「ノー」と言わない選択肢もありうるし、枕でも何でもしたっていい。まずは自立を、ということでもある
そのmetoo運動の中に、男に対して強者の役割を押し付けることもセクハラに含まれているの?
「男のくせに」とか、男に一方的に経済力や甲斐性を求めることも当然セクハラだよね?
男が「男性差別」と訴えると、男女双方から叩かれ続けてきたことを知らないわけではないよね。
でないと全く説得力がないよ。
ドヌーヴの全訳のブコメで#MeTooを貶してるような人たちが勘違いしてるのがこれなんだけど、#MeToo運動は今まで「ノー」と言えずにハラスメントを受け続けてきた人が今になってやっと「ノー」と言い始めたという現象であって、それに伴い「『ノー』と言っていいんだよ」「『ノー』と言っても不利益を起こさせないよ」という人権を守る運動に発展したわけで。
それに対して、ドヌーヴの宣言文にのっかって「そうそう、最初から『ノー』と言えばいいんだよ」とか「女性でも誰でも『ノー』と言える権利あるのだから今になって告発するのはおかしい」だとか#MeTooを腐してるのは、全くのでたらめでしかない。
「ノー」と告発された行為が業界から追放されたり仕事を失ったりするに値するものであるかどうか、は議論の対象になるべきだが、「それは大したことないから」と言ったりして#MeTooで「ノー」と言う行為を止めさせようとしてはいけない。たとえ「大したことない」と言われようと何だろうと嫌なことには「ノー」ときっぱりと宣言できる。「ノー」ということで人間関係を作っていく。それが#MeTooの理想だ。
#MeTooの文章で一番「これだ」と思ったのがグラビアアイドルで性被害に合い続けたことを告発した石川さんの文章で、これからタレントを目指す人に対して「私は嫌なことにメリットあると思い込んで『ノー』と言えずにきてしまったけど、『ノー』と言ってもデメリットは大したことないから嫌だったら『ノー』と言おう」みたいなエールが書かれていると受け取った。
https://note.mu/ishikawa_yumi/n/n1e73ecf608d1
だから、#MeToo は今まで「ノー」と言えなかった人が「ノー」と言えるようにする運動であって、それに対して「ノーと言えるはずだから」とマッチョ理論を振りかざすのは間違っている。
翻訳ありがとうございます。読めて良かった。
#metoo見てるとフェミニスト的にはリンチOKなんですね、とは思ってた。ただ男性観点だと対立構造になるので効果がない。女性からこういう意見がでるのは妥当だね。
馬鹿馬鹿しさの行き着く先は、スイスで提出されている法案だ。これは性的関係を持とうとするもの全員に明確な同意の通知を強制するものなのだ!さらにご苦労なことがある。二人の成人が一緒に寝たいと思ったら、携帯のアプリを使って、あらかじめ正式なリストのチェック欄を見て、やりりたいこととやりたくないことに印をつけなければならないというのだ!
これは素直に良いんじゃないかな。いやだって『女性の合意の無いSexはレイプ』とすると、合意を明確にする必要がある。フェミニストが求めてきた政治的な正しさを実現する為にも、ぜひスイスには頑張って頂きたいな。
追記
確かに漏洩するとまずそうだね。でも『合意が無いSexはレイプ』って世界はそうなんじゃないかな。合意をどこかに残さないといけない。後出しジャンケンで『やっぱ合意は無かった』みたいなフリーライダーが出てきて困るしね。スイスは誠実にかつてのフェミニストの要望を叶えようとしている気がするよ。
最近というかちょっと前だけど、ツイッターで#MeTooというタグをよく見かけました。そういえば私にもそんな経験あったなーと思い出して、ここに吐き出してみます。
たぶん私が大体5歳か6歳の頃だと思う。5つほど上の従兄弟が家に遊びに来ていました。
他の兄弟も含めてみんなで隠れんぼをしようという話になって、私とその従兄弟はおじいちゃんの部屋のベッドの中に隠れたんです。
それで私はなぜか胸と股間を揉まれていました。胸なんてないのに。何もわからなくて、なんか気持ち悪いなって思ってじっとしてた気がします。
まあそれだけと言ったらそれだけなんですけど。
今も帰省して顔を合わせるたびに、あのもやもやした気持ちを思い出します。この程度でって思われるのかもしれないけど、この程度でも大きなもやもやが残るんですよね。
散文でごめんなさい。
先日、友人と会った。友人は英語もイタリア語もドイツ語も話せる。過去に何年も海外で暮らしていた。だから、勝手にすごいリベラルだと、フェミニストなのだと思っていた。勝手に、だ。しかし先日会ったとき、ケビン・スペイシーの話になった。彼女曰く、「彼は可哀そうだ。あんな過去のことを蒸し返されて、才能を潰されてしまった。可哀そうだ」。云っていることが判らず、眼が白黒した。すごい動揺した。おもわず「え?」って声に出た。私は多分「でもこれが意識革命の一歩になると思う」そんなことをしどろもどろに返したと思う。それに別にこれから先の作品を封じられたわけで、過去の彼の映画やドラマを発禁にされたわけではない。なおかつスペイシーは、最悪のタイミングでカムアウトまでした。そのカムアウトの話をして、彼の声明を口にした。スペイシーは「そんな昔のことは覚えていないけど」と書いていたと云った。すると「そんなの憶えているわけないじゃん」と彼女は口にした。「ワインステインはアレだけど、好きで躰を差し出している女性もいるじゃない?」再度動揺。好きで?好きでそんなことをしていると思っているの??? そしてした方は憶えていなくて当然なの????
私は父が嫌いだった。すぐに触ってくるから。やさしい接触じゃない。本当に「触る」のだ。どれだけ泣いて嫌がっても、「これは愛情だから」とやめてくれなかった。車で助手席に座るとぜったい太腿をさわってくる。私はスカートを履くのを辞めた。けど、ズボンになっても触るのはやめなかった。私は助手席に座るのをやめた。後部座席以外絶対座らなくなった。夜寝ていると布団に入ってきた。顔や体をべたべたと触った。キスもされた。当然泣いて嫌がった。最初はそれすらも面白がられた。本気で怒って反抗すると、向こうも本気で怒って怒鳴ったりしてきた。父のそれが少しおさまると、今度はそれを兄が手本にした。こわかった。とても怖かった。一度だけ母に密告した。でも口先だけの注意で何の歯止めにもならなかった。挿入まではされなかったけど、太腿に精液を出された感触をまだ憶えている。
こんなことがあって、家族と一切仲良くはなれなかった。なかよくなれると思っている母に、びっくりとした。家庭と云うのは、小さな檻なのだと思った。この檻に閉じ込められたくなかった。
私は家を出た。もう二度と関わらないで居たかった。そんな折に父が病気になった。母は「これでまた家族がひとつになれるね」と云った。ぞっとした。当然なれるわけなかった。父が死んで、私も努力したけど、仲良くなれなかった。その記憶が一気に押し寄せた。
彼女と別れて、その日の帰り、駅のベンチで泣いた。
怖かった。そんなことを云う人だとは思っていなかったから。被害者は、絶対忘れない。忘れることなんてできない。好きで躰を差し出したりなんてしてない。そこにはそれ以外の逃げ道がなかったのだ。家庭内で起こったことを口に出すのは難しい。彼女も目の前に被害者が座って居ると思って口にしてはいないだろう。(もっとも被害者でなくても駄目だけど)
さかんになってきているmetooのハッシュタグ。これを使うには勇気が要る。私には、その勇気がなかった。でも、口にしなければ、こんな心無いことを云われ続けるのだ。
その対処を第三者に「もう忘れろ」とか「時効だ」なんて云われる筋もない。決めるのは本人であり、蓋をするのも、包帯を巻くのも本人次第なのだ。ただ、私としては包帯を巻くのを手伝って欲しいだけなのだ、と感じる。傷は消えることなくずっと残っている。