はてなキーワード: 擬態語とは
漢字では「搗ち割り」と書く。
「餅をつく」の「搗く」、「かてて加えて」の「搗て」や、「かち合う」の「搗ち」と同じである。
臼と杵でつく、上から叩く、物と物がぶつかる、といった意味がある。
つまり「かち割り氷」とは「(細かく)叩き割った氷」ということであろう。
意味としては「(決まりの悪い場面で)周囲を気にせず出てくる」「何も知らないで出てくる」といったものである。
単なる擬態語という話もあるのだが、なんの擬態なのかよく分からない。
「ぬけぬけ(抜け抜け)」や「のけのけ(退け退け)」あたりの転訛かと思ったがそういう話も見当たらない。
「のこのこ」を強調した形として「のこのこさいさい」というのがあるのだが、
これは
1. もともとあった「のこのこ」という言葉に「お茶の子さいさい」と同じく民謡「のんのこさいさい」を掛けたもの
なのか、
なのか。
この「のんのこさいさい」というのは、
ということである。
文化年間(1804~1818)に江戸で流行したはやり唄「のんのこさいさい」が、四つ竹を用いる遊芸人によって伝えられたものと考えられる。
https://www.weblio.jp/content/%E3%81%AE%E3%82%93%E3%81%AE%E3%81%93%E7%AF%80
江島子秋著、「長崎県の民謡巡り」によれば(中略)『のんのこ』は長崎弁で美しいの意味を『のんのか』というそうで、そこから出たのではないかとのことである。
長崎弁の「のんのか=美しい」から来ているのではないか、と「推測」したものが「事実」として地元で定着したのだろうか。
あるいは、諫早から流行って江戸まで達したという説明もあり、どちらが正しいか判じがたい。
諫早発としても「のこのこ」と「のんのこ=かわいい」ではかなり印象が異なるので、
先に挙げた2よりは1のほうに分があるように思われる。
「のこのこさいさい」の語源を「夜来い夜来い」としているらしい。
のこのこさいさい 夜来い夜来い
「よるこいよるこい」→「よこよこ」→「のこのこ」ということだろうか。
夜這いにくるような男は「のこのこ」やってきた感はありそうな気がする。
http://gogen-allguide.com/te/debu.html
「Double chin(二重あご)」が「デブちん」となり「デブ」になったとする説や、「Death and Burst(死と爆発)」からとする説がある。「デブ」という名詞は明治時代以降に使われた始めた言葉であるため、これらの英語語源説は完全に否定できない。 しかし、江戸時代に「でっぷり」や「でぶでぶ」という言葉が存在するため、「出っ張り」から派生した擬態語「でっぷり」や「でぶでぶ」が名詞化され「デブ」になったと考えるのが妥当であろう。
元増田の言う「デブっていうのは 賢いし 強いし すばやいの!」っていうのは間違いで、
そういう人も稀にいるっていう程度の話でしょ。
マ○コDXはスマートかもね。
やや重たい雪が音も無く降りつづける感じ。
どしどしよりも軽く、軽くはないが、綿雪が 軽いがどんどん層をなして降る情景。
http://matsu.hatenadiary.jp/entry/2017/02/28/174546
https://blogs.yahoo.co.jp/tsurutsune/17158373.html
http://blog.livedoor.jp/hisato123daah/archives/52046082.html
私はマンガをほぼ読まなって久しいが、マンガで擬態語を廃止したらリアルになるだろうかと考えている。
中にはジョジョのゴゴゴゴや、ドラゴンボールでナッパのカパッ、クンッのように好かれているのもある。
しかし、ドキッとか、バッ、サッ、のようにいちいち字で書かないといけないのか疑問に思うことがある。
漫画だから絵で人物の動きは描かれているし、映画などではドキッなど音はしない。
ならば、字で書かなくても良いのではないだろうか?
字で書くのは、人間が聞こえる音(その場にいる登場人物が聞いた音。ドアを開けたときのカチャとか、ガラスを割ったときのバンなど)だけでも良いのではないだろうか?
Wikipediaによるとワサビとトウガラシの辛味成分は以下のようなものらしい。
「アリ辛い」と「カプ辛い」とかどうだろう。分かりづらいか。
ちなみに英語で「辛い」は「hot」とか「spicy」だけど、
「ツンとくる・ぴりっとする」という意味の「pungent」という表現もあるみたい。
pungentはコーヒーや紅茶などの渋みのことも指すらしい。
トウガラシを表現するのに「ホット」というのは日本でもよく使われるけど、
ワサビを表現するのに「パンジェント」というのは、ちょっと耳慣れなさすぎるか。
日本語の「ワサビ」の語源は諸説あるが「ワサ」は「走る」の意だという説があり、
あの鼻筋を走り抜けるような辛さを表現しているとも言われているらしい。
トウガラシはカラい、ワサビは「ワサい」、という使い分けはどうだろう。
擬態語で言うと「ツーン」と「ヒリヒリ」という違いで、
何事も、初めが肝心です。これは、優しく勃起へと導く言葉で、勃起は男性だけの努力ではなく、相互の歩みよりが必要であるという思想がにじみ出る珠玉の一言です。
ペニスを指す言葉は「チンコ」のような粗野な表現ではなく、丁寧な「お」のついた「ちんちん」が採用されています。これは、同じ言葉の繰り返しによってより安心感を高め、行為へのコミットを増強する作用があると考えます。さらに、「おっき」という初等的な言葉を重ねることによって、一層の効果が期待されます。
良い結果を得るためには、序盤での適切なフィードバックが肝心です。冒頭、喜びの感嘆を表現することによって勃起は間違ったことでは無いという正のフィードバックを行っているとともに、後半では徐々に固くなるペニスの認識を共有することによって、一つのゴールへと向かっていく一体感を醸成しています。
快感は決し悪いことでは無いということを、十分に認識する必要があります。ここでは、「あなたが気持ち良いと、私も嬉しい」というメッセージをしっかりと与え、男性の快感が相手との温度差を生み出さない、という共感の姿勢を表しています。
ここでは、ペニスをシゴくことを「シコシコ」という擬態語で表現することによって、リラックスした雰囲気を演出しています。
最後までやり遂げるためには明確なゴール設定が必要です。ゴールが近くなってきたら、最終的にどうなるかを明らかにしましょう。
ここでは婉曲表現として「しろいおしっこ」を採用しています。これは、出てくるものをどのように認識すべきかを優しく指示していると考えます。最後に出るのは、決して不自然・邪悪なものではなく、小便のように自然な現象であるということを示唆しています。また、「ぴゅっぴゅ」と言う言葉も擬態語であり筋肉の収縮に合わせて、粘度のある液体が飛び出す様子を余すところ無くとらえています。
最後のためらいを突破し、ラストスパートをかける一言です。いつものことと分かっていても、ゴールが近くなると高まる快感に戸惑いがちです。そこで、決して我慢する必要がなく、快感を享受することが良いことだという明確な宣言が必要になります。
シャワーの音を聞くと条件付けによって尿意を感じるように、条件付けを利用して、ここでゴールだという風に明確なトリガーを引いています。上と同じように擬態語によって、粘液の射出を誘導しています
これまで、快楽を完全に肯定されて、現実から引き離されていたところに、それを破壊してしまうかもしれない「吹き出す液体」と言う現実が襲いかかる。「ぴゅっぴゅ」などという可愛い言葉とは裏腹に、熱く濃い液体がドロリと滴り落ちる。快楽に包まれた幻想から、だんだんと快楽が引いて行き、現実に引き戻される。
この様にして、快楽の絶頂と現実性の回復を表す様子をここでは表現している。
ゴールを迎えた後は、フィードバックを行うことが大切です。
強烈な快楽の後には、虚無感と罪悪感だけが残ると想定されますから、そこを埋め合わせて余りある受容感が必要です。(快楽の絶頂を感じ、その後には何も残らない)こんな自分でも受け入れられていると感じさせる一言になっています。
ペニスを扱き、快感を感じることは一見とても容易で低レベルなことと思われがちですが、このような小さなステップを重ねていくが人間に大切です。ですから、ここできちんと褒めてあげることは非常に重要であり、快楽は間違っていないというメッセージを最後まで一貫して伝えることで完結します。
子供は電車をみてガタンゴトンと叫ぶ。走るときは両手を拡げてキーンと言うとそう昔から決まっている。
ガタンゴトンは対象の重要性を重みづけ、キーンは行為の妥当性を評価していることにお気づきだろうか?
タモリの音楽は世界だが終わってから生まれた脱ゆとり世代の君達は。(倒置法)
西欧では擬態語は幼稚な言葉とされるが日本では擬態語は幼稚とされることもあれば立派な言葉とされることもある。
日本の擬態語の豊かさについては、擬態語辞典を見て貰おう。海外ではどこの国にもそのような辞典は存在しないと国語学者は指摘する。日本固有の文化である。
しかしながら日本人特に近現代の日本人は擬態語を十二分に活用できていない。つまり我々は人生において
物事の重要性を決めたりそれに対する行為の妥当性を評価することで日々の生活をコントロールをしていきたいと考えている。
にも関わらず、それに最適なツールである擬態語をまるで活用していないという事実にばったり行き当たるのである。
シュミラクルという芸術用語はご存じか?パクリのパクリ、パクリのパクリのパクリと模倣の連鎖が起きることで
やがてオリジナルのパクリの境界がとろけてオリジナルという概念そのものが喪失する。シュミレーション(模像)がクルクル回ってオリジナルが喪失する。
擬態語というのもこれと極めて似ている。ある対象を模擬した擬態語があるとしよう。その擬態語はやがて拡大解釈されて意味があいまいになる。
つまりオノマトペの「使用が」シュミラクルの無限廻廊に取り込まれ、真正性はやがてどこにも見当たらなくなる。
そのような過程を経て、擬態語は本来の機能を失い、物事の重要さの重み付け、またそれに関する行為の妥当性の評価という機能を喪失する。
子供はそのような喪失からは至って自由である。すなわちアラレちゃんはキーンと感じた時にだけキーンと言う。キーンと感じない時にはキーンと言わない。
しかしそれをまねする大人はどうだろう?キーンと感じなくてもキーンと言う。それはもはや演技である。言行不一致。
言ってることとやってることが違うのである。還元すれば自由妖精もとい物事の重要性と行為の妥当性との間のマッピング(写像)が歪んでいる。
ここで議論を明確にするため、重要度関数と妥当性関数という概念を導入することができる。
例えばロボットの性能評価は時にだめ人間とは何かという哲学問題を提起する。無駄なことに無駄な労力を使うのがダメであろう?つまりこれは近似的にはコスト分配の問題である。
巡回セールスマン問題の近似解を求めるよりははるかに複雑であるが。
話を戻すけど擬態語の問題は音楽にもついて回る。ノーミュージックノーライフと拳を突き上げるまでもなく人生は音楽、世界は音楽というプロパガンダがある。
それは結局のところ音楽で世界のあらゆるものを重み付けできることを指している。ところが、音楽の中で消費文化のJPOPが絶えず流れ
アレアの一擲に身を任せているような人はそのような機会をすべからく失っている。
もうお解りだろう。
キチガイのような声張り上げてるDQNらが昨日街中でたむろしていた。畢竟するにリア充はなぜ奇声をあげるのか不思議に思う人は多いだろう。
奇声というのはノンバーバルコミュなんだよ。奇声のような一見意味のない感情表現するするとキモチ悪がられるという構図。
コミュ力ある人ほどジェスチャーを多く用いるという研究成果もある。人間は表現できないキモチを抱えるとストレスになるから、
積極的に感情表現をせねばならない。社畜労働者はイエスマンになっている場合ではない。斎藤孝のガツンと一発シリーズじゃないが、
ガツンと一発言ってやろうぜ。ガッツだぜDo the ド根性という名言もあることですし。
しかし言葉だけでは表現しきれないものもあるだろう。当人の語彙力の問題、表現力の問題だけでなく、言葉そのものに表現力の限界もある。
感情という訳のわからないものを表現するのには言葉よりノンバーバル。身振りやしぐさが豊かな人はストレスが少ない。お前は身振りなどで
ストレスを発散してますか?ちなみに言葉も口調や抑揚や文体などでノンバーバルに表現することもできる。空腹時に「私は腹が減った」と
辞書的・教科書的に発話するのではなく、「ハラヘリヘリハラ」と言うことで心の中にくすぶっていた気持ちを的確に表現できたならば、
心的緊張の緩和も図れるというものだ。実際のところ、規範や文法を気にしすぎると表現がおろそかになるという方程式がある。
相手の機嫌をそこねないように言おう、相手に変な奴と思われたくない、正しい日本語を心がけねば、などと気にするのは良いことではあるが、
行き過ぎると自己表現が不足してストレスが蓄積していってしまう。現代日本人が抱えるストレスの99.6%はこれである。
例えば、「畢竟するに」と冒頭に書いたが意味はない。吉野家コピペよろしくつゆだくと言いたいだけとちゃうんか、と。
でも言いたい気持ちを押し込めるのは精神衛生上好ましくない。なぜツイッターが流行したかというとリアルで言えない言葉を気軽に言えるから。
人にもよるがそういう一面もあるのではないか。ツイッターの次にくるサービスは何か?我々はそれを考えねばならない。
スポーツオノマトペと言って長島監督の「腰をガッと入れてパーンと叩けばスコーンと飛んでいくから」のような指導もじつは効果的だと再評価されて久しい。
またバクマンの新妻エイジも擬態語いいながら漫画をノリノリに描いてたろう。爆音流しながら。我々は奇声を再評価すべき岐路に立たされている。
一生懸命頑張っているのに、モノが売れない人は戦略やマーケティングが間違っている。
以下、アフィリエイトに限らず、オンライン上でモノを売ることや、Webサービスの運営などに当てはまると思います。
読みやすくするため、箇条書きで記します。1つでも役に立つのがあれば、これ幸いです。
・相手の「知性」と同時に「感情」に訴えかけること。つまり、欲望やコンプレックスを狙う。
・「自分はどんな人生を歩むべきか?」「このままで納得できるのか?」といったことを考えさせる。
・「傍観者」では感情を揺さぶりにくい。「参加者」になってもらうことで、記憶に残る。
・上から目線は、相手が離れる。共感や応援のほうが、相手の心に届く。
・人は見聞した情報で商品を買う…というよりは、その情報を元に頭の中で使い道を想像してから買う。
・お客様のコメントは、その商品の良し悪しが具体的にイメージできるため、次に商品を買う人の参考になる。
・お客様が欲しくなる演出を心がけよう。例えば、その商品開発の背景、安心感、お得感。
・人は、自分と似たような人と同じものを買っておけば安心、という心理がある。
・それゆえ「この商品も同時に買われています」「このページを読んだ人は、こちらの記事も読んでいます」などが、有効に。
・「自分だけのモノ」という、愛着を持ってもらえる商品を考える。
・健康食品が高額なのは、高い方が効果がある、という意識を植え付けさせる役割をはたしている。
・売上を伸ばすためには、「新規の開拓」「リピーター作り」「購入単価を上げる」こと。それぞれの検証が必要。
・単一商品で売るよりも、パッケージ化したほうが利益は伸びる。
・高い商品を購入した直後の人は、関連商品のついで買いにおいて「そんなに高くないかも」と感じて購入しやすい。
・携帯は、常時接続のメディア。モバイルでの売り上げを甘くみないようにしよう。
・人は良いコミュニティに入りたがる。そういう空気を創り出すために必要なのは、濃く狭く伝えること。
・クックパッドのPR企画など、広告ですらすんなり読者が入っていける魅力がある。
・人は得したことを、ついつい話したくなるもの。
・消費者に目を留めてもらうには、子供・動物・女性などの要素が使いやすい。
・限定品は、売れやすい。
・美容や健康関連のキャッチコピーは、モノを売る上での参考になる。
・人は、「高いから買わない」「安くないから買わない」というよりは、情報や商品の氾濫から正しい価値が分からないから買わない。
・それゆえ信頼できる、他人のオススメを信じたりする。
・マクドナルドは、セット販売で選択肢のパターン化をしている。例:ハンバーガー、サイドメニュー、ドリンク
・ユーザーというのは、たくさんのメッセージを受け止められない。
・そのサービス、多角化しすぎていませんか?
・選択肢が多すぎると、結果的に人は迷って買わない。
・選択肢に迷った時は、ランキングに流れたりする。最初から、ランキング志向の方もいる。
・同時に、同じ表現なら短いほうが読まれる。
・数値の羅列よりは、表のほうが理解できる。
・難しすぎるのは、つまらない。
・簡略化されていない情報は、読み手にとって理解しづらい。
・擬音語、擬声語、擬態語は、分かりにくい表現を分かりやすい表現に変える効果がある。
・分かりにくい説明には、例え話を用いることで、理解度が高まる。
・世の中では、小学生や中学生でも理解できるような、お手軽なHow toが求められている。
・レベルというのは、落とせば落とすほど、マーケットが広がる。
・長い説明が必要なサービスは、そもそも求められていない。
・信頼関係のない人にモノを買ってもらうのは、非常に難しい。
・人は、何回か同じ人に接する(ブログを読む、Twitterで会話するなど)内に、信用するようになる。
・一度でも買ってくれた人は、その次の購入の敷居が、一気に低くなる。
・有名ブランドが、単価の低いハンカチやキーホルダーなどの小物を出しているのは、最初のキッカケになるから。
・ネットショップなどは、いきなりオープンさせるよりは、モニターを募り改善点を見つけておく。
・ある記事や広告を読んでその商品が欲しくなったら、なぜ自分は欲しくなったのかを考えてみる。
・ライバルの店舗ではなく、自分の店舗を選んでもらうために何ができるか、は常に考えること。
・ライバルの長所を真似することは、ライバルが持っていた長所を奪うことにもつながる。
・儲かるというイメージがないのなら、そのイメージが湧くまで引き出しを増やす必要がある。
・例えば、売れているネットショップの研究をしよう。流行や季節を考えてみよう。
・逆に、自分ならどういうショップだと躊躇するか、を考えてみよう。
http://tsurumitext.seesaa.net/article/130055536.html
以上です。
追記:こっちも書きました。
人たらしになるコツ30箇条
http://anond.hatelabo.jp/20110622150551
行動力を身につけるためのコツ30箇条
http://anond.hatelabo.jp/20110622220732
「草はやす生活」
まずはこれを見てほしい
http://club.shogakukan.co.jp/search/author/result/?j=oosironobo_001
それをクリックして試し読みしてみると良い。
最初に、何が言いたいのかと言うと、手塚が漫画の神ではないということだ。
言っておくが、俺は手塚が嫌いなわけではない。
しかし世間の手塚評、いわゆる”漫画の神”というものが気にいらない。
なぜ気にいらないのかと言うと、それが戦前漫画の否定につながってる節があるからだ
そういった手塚評は、上のURLで見てもらった大城のぼる氏や他の漫画家への冒涜でもあると思っている。