はてなキーワード: 青春小説とは
いとみちの三巻を読んだ。表紙がとってもかわいらしい。この巻でシリーズは完結するみたいだけど、主人公はもちろんのこと、本作に出てくる登場人物のスピンオフがこれからも読んでみたいなあって思った。
全体を通して感じたのが、長く穏やかに続くエンドロール的な読書感だった。というのも、本作には主人公いとの成長過程があまり描かれているように感じられなかったのが原因。
あるいは最終部に書かれていた一段、
何か、劇的な出来事をきっかけに……(中略)……目には見えない速度でゆっくり少しずつ変わってきたのだ。きっとこの変化を、成長と呼ぶのだろう。
ってところに全てが現れているんだろうと思う。内容的にも高校生活も終わりで、受験もあって環境も、これまでの生活も変わる。終わってしまう。その、それぞれの日々が紡いだ結果が、いとの成長として穏やかに描かれていた。
でもってひしひしと感じたのが、目標を定める尊さや、一途に突き進むことへの美しさだった。いと自身の選択もそうだけど、先輩メイドである智美の踏ん張りも素敵だった。本当に読んでいて気持ちがほっこりとする。
あんまり嫌な登場人物が出てこないのがいいんだと思う。一日一日を丁寧に着実に、しっかりと生活している感が伝わってくるから、心地のいい読書感とともに実生活をちゃんとしなきゃと思わせてくれる作品だった。
もちろん、毎日が毎日そうじゃないんだろうけど。でも、たぶん新しく入ってきたメイドのこまちゃんは、これからきっといとが過ごしたような日々を暮らすんだろうな。また新たなスタートです。
他によかったところで外せないところといえば、なんといっても津軽三味線。セッションがとっても格好良かった。でもってハツヱばあちゃんはハッスルしすぎだと思った。
主人公の大きな特徴であり、シリーズの根幹をなす設定の一つではあるんだけど、あんまり描写されることがない三味線。このあんまり描写されないってのがみそで、こまちゃんとのバトルは文字だけだけどしびれるものがあった。
内容以外だと、個人差はあるんだろうけど、文章が読みやすいってのが特徴として挙げられると思う。越谷オサムの小説は中高生にもおすすめです。
階段途中のビック・ノイズが漫画化されてるけど、本作もメディアミックスされればいいなあ。それこそ、智美の描いた漫画が現実になるみたいな感じで。
「いなくなった私へ」と「青の数学」を読んだ。どちらも軽快に読み進められたので満足でした。
まずは「いなくなった私へ」の感想。言葉は悪いけれど。凡庸な文章だなって思った。とても読みやすかったんだけど、はっと目を見張るような文章ではなかった。見方を変えればくどくどしさも嫌みなところもない中庸な文章だといえると思う。
登場人物の年齢や、現代が舞台の青春小説であることもあって、小説すばる新人賞に応募する作品に雰囲気が似てる気がした。高校生や大学生なんかにおすすめかもしれない。
この小説は生まれ変わりの物語なんだけど、読書中になんども異世界召喚ものの主人公について思いをはせてしまった。
ほとんど読んだことがないのにこういうことを書くのもあれだけど、異世界召喚物の作品って、体感したことがなかったり、知り合いが誰もいない世界に急に放り出されるのに、結構簡単に状況を受け入れちゃうのが多い気がする。
もちろん、帰れないことや変える方法に主題を置いた作品もあるんだろうけど、人生をやり直そうって思えるところや、やるしかないと腹をくくれるところがすごいなって読んでもないのに勝手に思ってしまった。
「いなくなった私へ」は、現実世界に生き返るんだけど、死んでしまった自分から生き返った自分が切り離されていて、誰からも同一人物と認識されない苦悩がじっくり描かれていたから、余計に異世界召喚物の主人公のことを思ってしまった。
内容でちょっと不思議に思ったのは、どうして樹まで転生してしまったのかってところ。梨乃の血を浴びたからなんだろうけど、梨乃の死体を検視した人も、場合によっては転生してしまうんじゃないのかな。
検死官は地に直接触れないから大丈夫なのかな。あるいは作中にあったように、理不尽な死に対してしか転生減少は発生しないのだろうか。ちょっと気になる。
悪人役以外どの登場人物もすがすがしい精神の持ち主だったので心安く読み進めることができた。三人の現状を考えるとビターな終わり方だけど、しんみりしながらもどこか爽快感もあるのが素敵。優しいミステリー小説になっていた思う。
次「青の数学」の感想。当たり前のように続き物だったのが悔しい。けど、数学を取り扱った小説はSF以外だと初めてだったので新鮮で面白かった。
この小説は文章がちょっと不親切だと思う。過去の回想への導入とか、誰目線の心象なのかとか、不明瞭でちょくちょく手が止まってしまった。
また登場人物がどういうわけかうすぼんやりと感じられて、地の文に名前が出てくるんだけど、誰だこいつってなることが多かった。特にキフユが誰のことを指しているのか、随分と進んでからじゃないと気がつかなかった。
ジャンクフードを食べるように読んでいるのも問題だとは思うんだけど、なんかわかりにくい文章だった。
また全体的に透明な文章になっていたと思う。タイトル通り。青く透き通ってるんだけど、情緒に訴えるところが弱い気がする。独特の読書感を与えてはくれるのだけれど。
内容としては、本当に続刊ありきの終わり方をしているので、中途半端だなあって思った。数学バトルの場面や、数学の先に見える風景など、見せ場はあるんだけど、しっかり着地してないのが残念。
ただ、高校までの数学に対する決められたルールの中でパズルを解くようなものだっていうのには強く首肯してしまった。感覚的にわかっていたことが言語化されると気持ちがいいのです。
よくない気がしたところばかり書いたけど、恋に挫折に挑戦にと、静謐な筆致ながらもこれからますます盛り上がりそうな展開なので、続刊に期待です。
20代の頃は「周りの人たちから漏らしているとばれないだろうか」と自意識が過剰に働いていたのですが、何度もやっていたら当たり前の作業になりました。
ただし、「スカトロ扱いをするな」と憤慨した表情で無視されたり、脱糞だと思ったら単にお尻がポッコリしている人だったりする危険性もありますね。漏らしたふりをして黙って席を立ち、近くに立っているアホそうなお兄ちゃんに漏らされるのも悔しいし……。山田詠美の青春小説『ぼくは勉強ができない』の爽やかな主人公のように、「電車の席でいちいち漏らすのは面倒くさいから電車の中では脱糞しない」というマッチョな選択ができたらカッコいいですよね。
勉強もだけど、それ以外で今思うと残念だなぁと思う事。
「大人になったらニキビ出なくなるよ」「綺麗に治るよ」と周りの大人に言われ続けてたけど見事にあばた顔に!
逆に思春期にあれだけ悩んでたムダ毛は施術料金がお安くなりましたのでツルツルに。
キラキラした青春 という概念から距離を置いていた。すっぱいブドウ的な。
そう考える事自体が自意識過剰なんだけど、「客観的に見た自分の容姿や価値」みたいなのは置いといて
物語の主人公やヒロインに共感したり一緒に泣いたり笑ったりしなかった。
結局巡り巡って、そういう未熟さが見下しや理屈ごねの頭でっかちになるのかもしれない。
今改めて観ても面白くなさそうだしなぁ。若いっていいね!みたいなのが先にきちゃうとね。
作品や登場人物に対する評価が変わる事って結構あるんじゃないかと思うけど
「あの時は○○だと思ったけど、こないだ見たら何か感想変わったわ」みたいな体験が少ない。
「あの映画は子供の頃に是非見るべき!」みたいなおすすめ話も出来ないし。
あと「ポーラX」とか難しい映画観たりもしたけど、それは自分にとってはあんまり意味無かった。
自分は高校にも進学出来て凄く幸せなのだ、と信じて生きていた。今以上を望むのは贅沢だと思っていた。
ぼくのかんがえたさいきょうのいんてりあ とか ぼくのかんがえたさいきょうの自分 とか。
とりあえず無難に、みたいな考えだった。真剣に妄想したら人生もっと変わったかもしれん。
『人はなろうとした人物しかなれない。だからといって必ずしも良い条件に恵まれるわけではない。
だが、なろうという意志がなければその人物には決してなれないのだ。』 ってドゴールも言ってるし。
この頃は音楽ばっかり聞いてたな。
http://yuma-z.com/blog/2013/05/student_books/ という人のエントリを見て、自分も(学生じゃないけど、)読んで楽しかった本をまとめてみたくなった。
この長い本の紹介を読んで、読んでくれる人や、ほかにおもしろい本を紹介してくれる人が続いてくれたら自分はうれしい。まだ微修正中で、加筆・修正するかもです。
これから紹介する本の順序について、あまり意識していないけれど、なんとなく読んでいる人が多そうな順。下に行くにつれて、読んでいる人が少なくなっていくと(書いている自分は)予測してます。
このエントリで紹介するのは以下の本です。つづきは http://anond.hatelabo.jp/20130530045256 で。
宮部みゆきさんの小説。一人の女性が婚約後にいなくなってしまう。主人公はその女性の捜索を頼まれて、懸命に消息を追う。そして、調べていくうちに、現代資本主義社会の底しれぬ闇が見える――。
とても有名な作品で少し前にテレビドラマにもなったようだ。物語の始まりが冬の寒い時期のせいだろうか、自分は冬の時期に読みたくなる。三日間くらいで読了できるとおもしろさが持続すると思う。
読まれる方は、Wikipediaのあらすじにネタバレの要素があるので注意されたい。Amazonの書評にも、ややバレる要素があるかな。この小説についてはあまり詳細について語ると魅力が半減してしまう気がする。読まれる方はできる限り事前の情報収集を避けて読んでください。
1995年にそれまで350年にわたり証明されなかったフェルマー予想が証明された。そのフェルマー予想をテーマにしたノンフィクション。著者はサイモン・シンさん。翻訳は青木薫さん。
著者のサイモン・シンさんはこの後紹介する「ビッグバン宇宙論」においてもそうだが、説明がとても丁寧だ。わからないことを教えてもらおうとして、わかっている人に聞いたときに下手な比喩でたとえられて、全くわからないという経験をした人は自分以外にも大勢いるだろう。サイモン・シンさんの比喩はわからないという気にならない。なぜなのだろうか。
数学をテーマにした本なので、数学が嫌いな人は手に取ることもないかもしれない。しかし、そういう人もぜひ読んでみてほしい。というのも、この本は数学の「問題そのものを解く」ということが主題ではないから。むしろ数学の問題はどのように生まれるのか、それを解こうとして350年にわたり数学者たちがどのような試行錯誤を続けていったのか、そのもがき苦しんだ歴史の本だからだ。
海外の本はしばしば翻訳調とでもいうべきか、文が堅く読みにくい感じがすることもあるけれど、この本はとても翻訳が丁寧で読みやすい。青木薫さんのすばらしい仕事だ。
自分は単行本(ハードカバー)で読んだ。文庫版だと新しい翻訳者のあとがきなどがついているかもしれない。
ジョージ・オーウェルが書いた小説。ユートピア(物質的・精神的に豊かになる、健康で長生きできるといったような人間の社会が幸せで良い方向に向かう社会)小説の反対、ディストピアを描いた小説。
ここまで暗く描かれるとむしろ読む方の気分は明るくなるような、そんな気にすらさせてくれる小説。ただし、それは読後の感想であって、読んでいる最中は暗いままだけれど。
村上春樹さんの1Q84はもしかしたらこの小説に関連があるのかもしれない。今ググったら、どうやらそうらしい。自分は村上さんの方は読んでいないので何も言えません。(すみません)
この小説が書かれた時期も意味があるし、この小説の中で登場するニュースピークという言語体系の設定は、そもそも言葉とは何なのかを考えるきっかけにもなるだろう。
火車と同じくWikipediaはあまり見ないで読み始めた方がよいだろう。
大崎善生さんの小説。純粋な小説というよりも何割かはノンフィクションかな。
自分は将棋のことは駒の動き方くらいしか知らないのだが、羽生善治さんやほかにも何人かくらいは将棋指し(棋士)の名前を知っている。この棋士の方々は、奨励会という将棋のプロを養成する機関の中で勝ち上がってきた人たちだ。勝ち上がってきた人は晴れて棋士になるわけだが、では、「敗れ去った人たち」はどうしているのだろうか。その人たちをテーマに据えた小説だ。
この小説はけっこうずしりとくる。最初に挙げた宮部みゆきさんの「火車」は小説の範疇ということもあるせいか、なんとなく怖さを感じることはあるが、現実的な切実さ、哀しさまでは感じないかもしれない。この「将棋の子」は、何かを一生懸命やってうまくいかなかった人の哀しさがよくわかるし、そういう体験をしてきた人(あるいは今そういう一生懸命何かに取り組んでいる最中の人)にはこたえるものがある。
ファインマンというアメリカの物理学者の自伝的エッセイ集。著者はリチャード P. ファインマンさん。翻訳は大貫昌子さん。この本もすばらしい翻訳だ。
エッセイ集ということもあって、好きなタイトルから読み始めることができる。エッセイ集なんてつまらんだろう、などと思っている人は読んでみてほしい。物理学者とは思えない言動の数々と、物理学者だからこその言動が少々。そして、その間に驚かされるような洞察が垣間見えるのだ。場合によっては論語みたいな読み方もできるかもしれない。
全般に明るく楽しく描かれているけれど、これは意図的なものだろう。第二次世界大戦のロスアラモス時代には、自分の心にとどめるだけの悲しい出来事も数多くあったのではないか、と自分は想像している。
最後の「カーゴ・カルト・サイエンス」の節はできれば最後に読んでほしい。この節だけは特別だ。物理学がわかれば、もっとファインマンさんのことをよく知ることができるのだろう。それができないのは残念だ。
「プー横丁にたった家」は「くまのプーさん」の続編だ。「くまのプーさん」というと、単なるハチミツが大好きな黄色っぽいクマだと自分は思っていた。そうではなかった。
この本は子供向けの童話だと思われるかもしれないが、読んだことのない大人の方も読んでみてほしい。自分も大人になってから読んだ。著者はA.A. Milne。翻訳は(童話のジャンルでは高名な)石井桃子さん。
プーさんはもともと、著者が自分の息子に聞かせるためのお話だったようだ。こんな話を子供時代に聞かせられたらすごいことだ。
ところどころでプーさんが代弁する著者の考え方は、Amazonのレビューにもかかれているけれど中国の思想家のような、どこか超然としたところがある。このクマがほかの動物たち(と一人の子ども)に向かって話しかける姿が良い。それとプーさんと行動をともにするコブタ(ピグレット)が健気だ。自分は大人になってから読んだせいか、出てくる動物たちの役割に目が向いた。すなわち、物語の筋よりもおのおののキャラクターが人間のどういう面を強調したものなのかを考えてしまいがちだった。子供の頃に読んだならば、もっと無邪気な読み方ができただろうと思う。
サイモン・シン氏の2作目の紹介になる。翻訳も前に紹介した「フェルマーの最終定理」と同じ青木薫さん。(本自体は「フェルマーの最終定理」→「暗号解読」→「代替医療のトリック」(共著)→「ビッグバン宇宙論」、で四冊目だ)
大人になるにつれて、子供の頃に「なぜだろう」「どうしてだろう」と単純に不思議に思えたことへの興味がだんだん薄れていくと思う。すくなくとも自分はそうだった。どうして鳥は飛べるのに人間は飛べないのだろう、なんでお風呂に入ると指がフニャフニュになってしまうのだろう、どうしてテレビは音が聞こえたり絵が見えるのだろう、泥だんごはうまく丸くなってかちかちに固くなることもあるけど、そうでないこともあるのはなぜだろう、カブトムシはかっこいいけど、クモはすこし気味が悪いのはなんでだろう…、などなど。
そういう疑問の中で、人間がずっと追いかけて考えてきた疑問の一つが「この人間が生きている空間はどういうものなのか」だろう。その考え方の歴史をまとめたものがこの本だ。この本をひもとくと、この百年の間に予想もし得ないことが次々に見つかったことがわかる。ビッグバンという言葉はほとんどの人が知っていて、宇宙は一つの点から始まったと言うことは知っているだろう。意外に思えるけれど、今から百年もさかのぼれば、ビッグバンという言葉すらなく、そう考えている人も科学の世界において異端扱いされていた。
宇宙論という非常に大きなテーマを扱っているため、「フェルマーの最終定理」よりも分量があって読むのが大変かもしれない。ただ、自分が読んだ単行本(ハードカバー)には各章にまとめがついていて、おおまかな筋はそこを読めば追えるように配慮されていた(これはうれしい配慮だ。)文庫版のタイトルは「宇宙創成」のようだ。
読み終わったら、ぜひ上巻のカバーと下巻のカバーのそれぞれの色に着目してほしい。
今まで見てきた本を読むとわかるかもしれないが、あまり自分は昔の小説を読むことがなかった。一つには風俗や文化が違いすぎて、いまいちぴんとこないからだろうか。そう思って昔の小説を読むことがほとんど無かったけれど、このモンテクリスト伯はおもしろかった。著者は三銃士でおなじみのアレクサンドル・デュマ。翻訳は竹村猛さん。自分は上に挙げた岩波少年文庫版を読んだ。
復讐劇の代表的な作品だそうだ。「それってネタバレでは?」と思う方もいるかもしれない。そうと知っていてもやっぱり楽しい。引き込まれるようなおもしろさがある。
少し前に「レ・ミゼラブル」が映画になって、そちらの原作も良かった。境遇は何となく似ているのだけれど、「レ・ミゼラブル」が愛の物語なのに対して、モンテ・クリスト伯は純粋に復讐劇だ。その痛快さ。モンテ・クリスト伯の超人的な活躍が楽しい。
自分はまだ一回しか読んでいないせいか、下巻の最後の方のあらすじはうろおぼえになってしまった。もう一度読む楽しみが増えた。今度は岩波文庫版で読もうかな。
森博嗣さんの小説。もともと「まどろみ消去」という短篇集の中に「キシマ先生の静かな生活」という短編があって、それを長編ににしたものだ。
(科学系の)研究者の世界とはどういうものなのかを丹念に追った小説であり、若干の事実が含まれているのかな?と思っている。森博嗣さんは某大学の研究者であった(今では退職されたようだ)人で、その知見がなければ書けない小説だろう。
今Amazonのレビューを見たら、「自分には残酷な小説だった」というレビュー内容もあった。自分は、心情、お察しします、という気持ちだ。ただ、主人公は喜嶋先生と出会えたことは僥倖だったに違いない。この小説の中で登場する喜嶋先生の名言は、本家よりもむしろ心に残る。
北村薫さんが選ぶミステリーを中心とした選集。あるテーマを設定して、そのテーマの中で北村さんが編集者と対談形式でさまざまな物語を紹介していく形式だ。テーマは「リドルストーリー」であったり、「中国の故事」であったり、「賭け事」であったりと様々だ。
編集者との対談は実際の編集者ではなくて、北村さんが頭の中で生み出した架空の「編集者」であるけれど、この対談がとても読んでいて楽しい気持ちにさせてくれる。いろいろな本が紹介されて読みたくなる。そういう罪深い(?)本だ。これを元に幾冊か叢書が組まれた。
その叢書の中で、自分が気に入ったのは「私のノアの箱舟」と「なにもない猫」だ。このシリーズはまだ全部読んでない。だから、気に入ったものは変わるかもしれないし、増えていくだろう。
自分は中国の故事や旧仮名遣いの本は読みづらく感じてしまうので、「真田風雲録」は読めないかもしれないなあ。
海外の人を中心にした伝記シリーズ。主に子供を対象としているためだろうか、シリーズ全体として、文は平易で図や写真を多用している。そう書くとありきたりな伝記に思われるかもしれないが、装丁、ページの中の文と写真の配置の良さが際立つ伝記集だと思う。
全体として、割とマイナーな人も取り上げていたりするし、平和に貢献した人たちを取り上げている点も特徴だろう。気になった人がいたら、その人を読んでみてほしい。
星新一は、多くの人がショートショートと呼ばれる一連の作品群で読んだことのある作家だろう。その人の評伝だ。著者は最相葉月さん。
星新一さんはその作品を読むとところどころに冷徹さが垣間見える。その冷徹さがどこから生まれたのかがわかるだろう。もともと幸せな境遇に生まれ育ったが、途中からどうしようもない災厄に見舞われるからだ。それだけが冷徹さの理由ではないだろう、ほかにもこの本を読めば思い当たる点がいくつかある。それらも書くと紹介としてはやや度が過ぎるのでやめておく。
最後の方で著者は有名な芸能人にもインタビューする機会を得て、実際に星新一さんについて尋ねる。そこも印象に残る。その芸能人はちょうど星新一さんの逆の人生をたどるような状況になっている。
自分はこの評伝を読んで、がぜんショートショートに興味を持つようになった。
SF小説はあまり読んだことがないのだけれど、この小説は良かった。著者はケン・グリムウッドさん。翻訳は杉山高之さん。
SFのよくある設定として、「もし過去に帰ることができるとすれば、その人の人生はどう変化するのだろうか」というものがある。その王道設定を利用して、すばらしい小説になっている。
この小説が書かれた時代は1988年なので、やや風俗や文化の描写が21世紀の現代と比べて現実離れしている点があるけれど、それを差し引いてもすばらしい小説だ。
あまりあらすじをかかない方がよいだろう。http://anond.hatelabo.jp/20130530045256 で紹介する「心地よく秘密めいたところ」と全然違う話なのだけれど、自分には似たものを感じる。
この本は近年読んだ中で最も良かった。
自由への長い道は南アフリカ共和国でアパルトヘイト(人種隔離政策)が撤廃されるまで闘った人々のノンフィクションだ。著者はネルソン・マンデラさん。翻訳は東江一紀さん。
アパルトヘイトという言葉とその意味は何となく知っているけれど、それが具体的にどんなものかを説明できる人は日本の中で多くないのではないかと思う。ネルソン・マンデラさんとその仲間たちは、それをなくそうと政治活動を繰り返す。そしてその度に時の政府の激しい妨害に遭い、その結果そういったグループを作ること自体が違法になり、グループの首謀者たちは収監されてしまう。そこからが圧巻だ。
いかにしてそういう逆境の中で自分の政治信条を保ち続けるか。自分たちの仲間を増やして支持を広げていくか。そして時の権力機構に対して、アパルトヘイトの「非道さ」をアピールし、撤廃にこぎつけるか――。
仲間の反乱分子やスパイへの対処、国際社会へのアピールなど、常人には思いもよらない方法でアパルトヘイト撤廃に向け前進してゆく。ところが、前進したと思ったら後退したりすることが何度も繰り返されるのだ。
この本はネルソン・マンデラさんがアパルトヘイト撤廃後の大統領に選出された直後に出版された本なので、結末に近づくにつれてかなり筆が鈍って、慎重な言い回しが増えていく。現在進行形のことを縷々書くと信用問題になるからだろう。それでもこの本は読んでいて楽しい。
この本を読んだ人は「ネルソン・マンデラ 私自身との対話」もぜひ読んでほしい。自分もまだ途中までしか読んでいないが、より素直なネルソン・マンデラさんの言葉と考え方がわかると思う。(「自由への長い道」についての言及もある。)
ほかにも映画「インビクタス」や、「マンデラとデクラーク」など、映像作品もある。後者の「マンデラとデクラーク」は「自由への長い道」と同じテーマだ。ついでに、youtubeにあった国連の広報映像(日本語訳付き)もリンクしておく。
原作は読んでいたけれど放送にきちんと追いついていないから比較できないが。
見てみたい。
ただ、リア充な友人からココロコネクトをおすすめされたという個人的な経験から、改変は不要なのかもしれない。
あれでいいという人もいる。
70、80年代の青春っていうと、何となく音楽に連なったイメージが浮かぶのだけれど、それ以降の年代にとっての青春って何なのだろう。
巷に溢れている青春小説を読んでると、昭和後期の描写が出てきたりするんだけど、わからないことが多いんだよね。
私は平成世代で、つまるところゆとり真っ只中なんだけれど、その人達にとっての青春、年代で言えば、90年代の青春ってものの具体像がつかめない。
もっと言えば、2000年代の青春もわからない。現代小説でもサブカルちっくな漫画でもファッション誌や音楽雑誌、ネットでもなんでも使って探してみればいいのだろうけれど、めんどくさい。
そもそも、90年代は青春期として見られていないようにさえ思える。そんなことないのかもしれないけど。
私達の青春って一体何だったのだろう。テレビ? アニメ? ゲーム? 今の子はインターネットなんだろうか。
音楽史とか分野別に見ていけばぼんやりとした若者文化の構造が見えてくるのかもしれないけれど、これといってパンチのある特徴がないような気がしてならない。
言い換えれば、そんな多様性、無個性こそが特徴なのかもしれないけれど、ありとあらゆる事柄が先鋭化していって、その結果希薄化しているような気がする。
僕も読みたいのだけど、キチガイで毎日幽体離脱と乖離を繰り返している自分にとって
何かプラスになるだろうか。それとも青春小説のように楽しめるのだろうか。暗いふち
が待っている。流行の小説を読みたいという願望と僕の中の暗い部分はまったくもって
一致しない。結局こういう風に僕は死んでいくのだろうか。あの世のことばっかり考え
ている僕が『もしドラ』を読むことに何か意味があるのだろうか。素敵なあの世生活が
待っているのだろうか。僕には意味が何一つつながらない。ここまで書いてようやく
『もしドラ』が『まねじめんと=人を管理すること』に気付いたよ。結局僕とは何だっ
たのだろう。
http://mikemaneki.blog.shinobi.jp/Entry/277/
しかし、それにしても昔「苺ましまろ」がアニメ化する際に伸ねえが女子高生から女子大生になった経緯を鑑みると、
なんというか緩くなったなぁとは思いますね。
今でも「タバコを吸う女子高生」が登場する原作がアニメ化される機会があれば何らかの処置は取られると思うよ。
やがて、「スレイヤーズ」「スクラップド・プリンセス」等により、ハイファンタジーは読みやすく世界観がちゃらんぽらんなファンタジーになりました。
スレイヤーズは90年、スクラップド・プリンセスは99年。この人の言うような流れがあったとして、後者の頃には既に拡散しきってました。
そこにはゴクドーくんやフォーチュンを代入すればいいと思う。
ライトノベルがまだジュブナイルだったころ、つまり80年代前半に流行していたのは氷室冴子、久美沙織などの青春小説に近いものでしたし。
言葉が先行してて、明確な定義はないのだが、ハテナによるとこんな定義がされている。
1.過剰な自意識を持った主人公が(それ故)自意識の範疇だけが世界(セカイ)であると認識・行動する(主にアニメやコミックの)一連の作品群のカテゴリ総称。
2.[きみとぼく←→社会←→世界]という3段階のうち、「社会」をすっ飛ばして「きみとぼく」と「世界」のあり方が直結してしまうような作品を指す。
アニメでいうと「新世紀エヴァンゲリオン」が代表格になるだろう。
で、小説の世界だと「0世代」にくくられる西尾維新や佐藤友哉らがこの文脈で語られることが多い。
で、「ライ麦畑で捕まえて」を一読して、この世界的な青春小説は「セカイ系」の元祖だったんじゃなかろうかなんてことを考えた。
成績不良で高校を退学させられたホールデンが、実家に戻るまでの「三日間の彷徨」を口語体の一人称によって語るというものだ。
道中ホールデンは様々な人に会うのだが、いちいちこいつ病気じゃないのかという態度とり、悪態をついては、相手を怒らせる。回想シーンに登場する旧友や恩師にたいしても、冷笑的な批判をくりかえす。
ホールデンにとって「よきもの」として騙られるのは、死んだ兄、妹、道中に出会った尼くらいのものである。
じゃ、ホールデンの思考回路が支離滅裂かというと、価値判断の基準だけはぶれがない。
ホールデンは、大人社会の「欺瞞」や「スノッブ」に対する徹底的な反抗者としてかかれており、彼の「ピュア」や「イノセンス」は一貫してくどいほど強調されている。
その「ピュア」や「イノセンス」に触れるものに対して、彼は悉く過剰反応を起こす。
ただ、ホールデンのいう「インチキ」というのは、大人が嬉しくもないのに「nice to meet you」ていうのは許せないとか、その程度のもので、潔癖症に近いものがある。
おまけに最期にホールデンが語る夢は、「聾唖になって森のそばに住みたい」だとか、「ライ麦畑で遊ぶ子供たちの監視員になりたい」とかもう「引きこもりの妄想」の領域に入ってる。
「ピュア」でも「イノセンス」でもいいけど、いいかげんにしろって感じだ。
どっちかというと「イノセンス」というよりただのヘタレなんじゃないだろうかという話はさておき、ホールデンの不幸は、自分がその「汚らしい大人」の領域に踏み込みつつあることを自覚していてそれゆえに「壊れて」いくことにある。彼は病気になることで、自らの「イノセンス」に殉死したとも言える。
私が「ライ麦」をセカイ系だというのは、このホールデンの過剰な自意識と、自分の価値観に基づく自己愛。そして学校を辞めたことに端的に表出されている「社会」をすっとばしたセカイへの直結(あるいはセカイからの逃走)がセカイ系の特徴とリンクしてるなと思ったからだ。
さらに「壊れていく自分」というのはセカイ系でも定番のモチーフなんだが、「ライ麦」では、壊れていく自分の攻撃性は外部に向かうのに対して、エヴァや0世代の文学では、その攻撃性は、自分へと向かい、「自虐的な自分語り」に落ち込んでいく。
この差が、時代的なものなのか、お国柄なのかはわからんけど、セカイを憎んだ「ライ麦」は、ジョン・レノンを射殺したマーク・チャップマンや、レーガン元大統領を狙撃したジョン・ヒンクリーに愛され、21世紀最大の知能犯「笑い男」(攻殻機動隊SAC)を生んだ。
それはレイプじゃないよ。書いてあることだけから判断するなら。
「そんなつもりはなかった」は、その日までは(あるいは酔ってないときは)そういう関係になるつもりはなかった。疎遠になったのは、一旦関係を持ってしまった以上、元と同じような友達関係を続けるのは気まずかったから。こんなん、青春小説やトレンディドラマ(笑)にでも出てきそうな典型的な青い春エピソードじゃないか。大体こういうこと(勢いでセックス)の後は、くっつくか疎遠になるかのどちらかで、それ以外の選択肢を選べるのはよほど猛者だと思うぞ。たぶん疎遠80%。全然普通。君らは普通。
なんでショックなのかも分からないよ。自分のあて(これで恋人同士だヤッター!的な)が外れてショックとか、他人に性行為のことをペラペラしゃべるような女だと判明してショックとか、そういうのなら分からんでもないけど、そういうのとも違うんでしょう?
なんでこう、そのものとかけ離れた潔癖症じみた人ばかりが要らん心配をして、本物の該当者には一ミリも届かないのかね。あまりにもかけ離れた心配なので、遠まわしの嫌味かと思ってしまうくらいだ。
672 :名前は誰も知らない :2007/03/16(金) 22:42:50 ID:pX7AgFxZO
準ひきこ森とかいう本読んだ。
俺の見たところ、例として挙げられてる学生の中に、
精神医学的な処置が必要かもしれない人が何人かいる。
こんな粗雑な克服方法を、専門家ヅラして語ってんじゃねえよボケ。
673 :名前は誰も知らない :2007/03/16(金) 23:10:20 ID:pX7AgFxZO
ああ、確かに教授ですら話しかけられないような風貌で、キャンパス内を歩いてる奴って、学生時代の俺のことだぜ。
19とか二十歳の頃の俺のバンド仲間とかも似たようなもんだったぜ。
何とか生きていこうと必死だったんだ。
そんでどうにもなってねえじゃねえかっつわれればその通りだけどさ、
俺達に触んじゃねえよ。
つうかお前の自伝だろ、これ。
674 :名前は誰も知らない :2007/03/16(金) 23:33:52 ID:zqqPXqUB0
>>672
あれね。俺も読んだ。そして燃やした。
要するにこの手の本は内向的な人間の不安を煽り立てて搾取しようってだけなんだなと
今更ながら気がついた。本当に今更だ。
特にライトノベルを読むとき、本文から脱線して妄想の世界に入り込んでしまうことがよくある。例えば最近読んだ『荒野の恋 第一部』(桜庭一樹)の場合、
そんな風にしているものだから、当然読むのに時間がかかる。平均すると1ページにつき1分。ただし、読んでいくうちに物語にのめりこめば、妄想も減りこれよりも早く読める。今回は、
と顕著にその傾向がうかがえる。全体平均は1.4ページ/分。今回は最初に妄想に浸ることが多かったこともあり、普段より遅い読書速度となった。(ページ数、時間は概数)