言葉が先行してて、明確な定義はないのだが、ハテナによるとこんな定義がされている。
1.過剰な自意識を持った主人公が(それ故)自意識の範疇だけが世界(セカイ)であると認識・行動する(主にアニメやコミックの)一連の作品群のカテゴリ総称。
2.[きみとぼく←→社会←→世界]という3段階のうち、「社会」をすっ飛ばして「きみとぼく」と「世界」のあり方が直結してしまうような作品を指す。
アニメでいうと「新世紀エヴァンゲリオン」が代表格になるだろう。
で、小説の世界だと「0世代」にくくられる西尾維新や佐藤友哉らがこの文脈で語られることが多い。
で、「ライ麦畑で捕まえて」を一読して、この世界的な青春小説は「セカイ系」の元祖だったんじゃなかろうかなんてことを考えた。
成績不良で高校を退学させられたホールデンが、実家に戻るまでの「三日間の彷徨」を口語体の一人称によって語るというものだ。
道中ホールデンは様々な人に会うのだが、いちいちこいつ病気じゃないのかという態度とり、悪態をついては、相手を怒らせる。回想シーンに登場する旧友や恩師にたいしても、冷笑的な批判をくりかえす。
ホールデンにとって「よきもの」として騙られるのは、死んだ兄、妹、道中に出会った尼くらいのものである。
じゃ、ホールデンの思考回路が支離滅裂かというと、価値判断の基準だけはぶれがない。
ホールデンは、大人社会の「欺瞞」や「スノッブ」に対する徹底的な反抗者としてかかれており、彼の「ピュア」や「イノセンス」は一貫してくどいほど強調されている。
その「ピュア」や「イノセンス」に触れるものに対して、彼は悉く過剰反応を起こす。
ただ、ホールデンのいう「インチキ」というのは、大人が嬉しくもないのに「nice to meet you」ていうのは許せないとか、その程度のもので、潔癖症に近いものがある。
おまけに最期にホールデンが語る夢は、「聾唖になって森のそばに住みたい」だとか、「ライ麦畑で遊ぶ子供たちの監視員になりたい」とかもう「引きこもりの妄想」の領域に入ってる。
「ピュア」でも「イノセンス」でもいいけど、いいかげんにしろって感じだ。
どっちかというと「イノセンス」というよりただのヘタレなんじゃないだろうかという話はさておき、ホールデンの不幸は、自分がその「汚らしい大人」の領域に踏み込みつつあることを自覚していてそれゆえに「壊れて」いくことにある。彼は病気になることで、自らの「イノセンス」に殉死したとも言える。
私が「ライ麦」をセカイ系だというのは、このホールデンの過剰な自意識と、自分の価値観に基づく自己愛。そして学校を辞めたことに端的に表出されている「社会」をすっとばしたセカイへの直結(あるいはセカイからの逃走)がセカイ系の特徴とリンクしてるなと思ったからだ。
さらに「壊れていく自分」というのはセカイ系でも定番のモチーフなんだが、「ライ麦」では、壊れていく自分の攻撃性は外部に向かうのに対して、エヴァや0世代の文学では、その攻撃性は、自分へと向かい、「自虐的な自分語り」に落ち込んでいく。
この差が、時代的なものなのか、お国柄なのかはわからんけど、セカイを憎んだ「ライ麦」は、ジョン・レノンを射殺したマーク・チャップマンや、レーガン元大統領を狙撃したジョン・ヒンクリーに愛され、21世紀最大の知能犯「笑い男」(攻殻機動隊SAC)を生んだ。