はてなキーワード: 非凡とは
サッカー観戦をしていると、こういうワードにたどり着く事が多い。
「○○がクソ」「○○死ね」「○○やめろ」
こういうことを言っている奴ほど、なぜその状況でそのプレーが行われたか全く説明しない。
シュートを外した→外した奴はクソ、やめろ
優勝できない監督→出て行け
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なぜシュートを外したのか?
直前のプレーでパサーとのイメージにずれがあった。
もっと前で欲しかったが、足元に来たのでオーバーモーションになり、DFに詰められて枠を狙うことが不可能だった。
もっと遡ると、CMFからの縦パスをトラップしてサイドにチップし、即座にゴール前へ反転して折り返しを待ったが来ず、そのままDFのチェックを受けていた。
DFが引きつけられて開いたバイタルのスペースを使うべきだったが、サイドからのクロスを受ける形になった。
死ねと言われるほど評価の低い選手だろうか?ここでデータを持ちだしてみると。ワントップのFWで、シーズン終盤の現在で10ゴール以上15ゴール未満、アシストはかなり多く、その分だけ得点を演出しているのがわかる。
1トップなのにアシストが多いということは、この選手が居なければ前線の選手全員の得点が期待できなくなるということだ。居なければ自身の得点がなくなるだけでなく、周りの評価が下がる。
客観的に見れば、アシストと得点を合わせた得点期待値が高い選手を放り出すのは馬鹿げている。
なぜディフェンスがミスをしたのか?
相手のFWにスピードがあった。そのスピードは試合前から留意すべきものだった。なので、チームはDF一人でチェックするプランではなく、カバーをすることは指示されていた。しかしカバーが来ない。
カバーをするCMFが攻撃時に前へ行ったが戻ってこれず(スピード、スタミナの問題など)一人でチェックする事になった。
もともとCMFはスタミナやスピードのあるタイプではなかった(そのためポジションは後ろ目の守備要員だった→攻撃のプランにも影響があり、前述のシュートをミスという部分にも繋がる可能性が多いにある)
入ってきたボールに対してその場でGKから声が上がったが、反応したのは自分だけだった。
ではこの選手は死ななければいけないほど劣るのだろうか?
DFは一人で一人を守りきれば絶対に負けないというものではない。オーソドックスな戦術であれば最終ラインには多くて4人。そこから攻撃時にSBがオーバーラップすることが日常茶飯事だ。
ピッチ上の状況とバランスを全員が見極めながらゴールを守らねばならない。11人全員の行動が密接に関係しているのだ。
その証拠として、現在CLでもベスト4に進んだチェルシーの前線は、スタミナとスピードを重視したウィリアン、オスカルが名を連ねる。これは守備への貢献を考えた選出なのは明らかだ。逆に言えば、攻撃に非凡な才能を持つマタだったが、守備への意識とスタミナに難があり、出場機会を失った。
今回のケースでは最初から一人でチェックするプランではなかった。大きな非は無いだろう。
では何故一人で抑えられないこの選手が起用されたか?それはスピード以外の能力を見出されたからだ。あるいは相手のFWを止められるDFは世界には居ないのかもしれない。
なぜ優勝できないのか?
1シーズンを戦える選手層が無い。中盤からどんどん失速する。しかし代わる選手がおらず出突っ張りになる。コンディションが落ちる(上記のシュートを外してしまう要因になる)。
ではなぜ選手層が薄いのか?近年の市場価値高騰から、特別な資産を持つチームが選手を独占する。優勝をするにはその特別なチームと渡り合わねばならず、しかし特別な資産はない。
プレーの外側での支出が大きく、金銭的に厳しい状況で主力選手が次々引き抜かれる中、現在は雌伏の時である。しかしそれでも一流と呼ばれるチームに見合うだけの最低限の成果を出し続ける。
なぜ選手の怪我が多いのか?原因不明。基本的に試合中での怪我が多く、不確定要素が多すぎる。
はっきり言うと、毎年主力選手を引きぬかれてなおリーグトップと渡り合い、欧州チャンピオンリーグに出場し続けるほどの成果を出すのは前例がない。
マラガは財政難で沈んだ(選手の引き抜きに関してどうこう言うつもりはない)し、ドルトムントもけが人が続出し、予断を許さない。インテルも3冠の後はセリエ中位を続けている。リヴァプールも昨年まではまさに雌伏だったはずだ。チェルシーのモウリーニョは名将だ。ではベニテスは駄目か?そうはならない。彼はリヴァプールでCLを制覇し、現在ナポリで一流クラブを指揮している。
このエントリがどこのチームのことを言っているのかわかっても、何も言わなくていい。
纏めよう。まず、サッカーで口汚く批判をするなら、その責任を負う事を自分の理論と考えで示すことが最低限の批判の仕方だ。そして、サッカーのプレーは、あるいはピッチ上の選手は、他方から密接に関係しあってプレーを行っている。スタッフもそうだ。
クラブが好きだから声を上げるという理論が成り立つのは、そのクラブの地元だけだ。日本でやっても届くのはJだけだ。Jに届くのは現場で上がった声だけだ。俺はそれでも議論にならない死ねだの出て行けだのといった言葉を上げるのはアホらしいと思うが。
メリットは何もない。デメリットは、同じクラブを好きなやつが嫌悪感を募らせる。明確だ。
嫌悪感を募らせた結果、こんなエントリを書くのだ。聞くに堪えない。サッカーは好きだが、そのサポーターや、対立が華みたいなサッカー文化は嫌いという矛盾した状況になってしまった。
それとも、こういった人は多いのだろうか?
俺も大体似たようなことをたまに思うんだけど
なるたけ加担しないように気をつけて生きられるならそれでもう非凡だと思う。
彼(女)らは自分の力で状況を打破していくよ。
何かのアウトプットで「常識にとらわれるな」と言うと、「常識にとらわれるな」という言葉にとらわれてしまうのか、「常識なんて面倒なもの考えなくていいとか超楽だー!!」と思うのか、変人ショーみたいなのに走る人が少なからずいる。
別にこっちは変なものを見たくてそんなことを言ってるわけじゃないんだけどな。
なんというか、「型破り」と「形無し」の違いとでも言おうか。
噛み砕いて言うなら「常識にとらわれるな」=「常識を熟知した上で、その常識にとらわれるな」ってこと。
もっと具体的に言うなら「常識を熟知し、そこからどの程度外れてみせるかプランを立て、実行せよ」ということかな。
即ち、表現に臨む者のメンタルは常にニュートラルというか、極めて普通な感覚を備え、これ以上ないくらい常識的であることが大前提。
そういうのをすっ飛ばして変人ショーになった挙句、その表現者の日常に根ざした下品な感性が透けて見えるとか、もう最悪。
カネ払う代わりに石投げてやりたくなる。
要するに、非凡であってもそのままでは使い物になりませんよと。
いわんや只の常識知らずをや。
そうかな? アスペの人間が取り得るパターンてかなりはっきり分けることが出来ると思うけど。
だから極端に言ってしまえば「対アスペマニュアル」があってもいいくらい。
そういうものがあれば、現場で一緒にならなければならない定型発達者のストレスがかなり減るだろうし、アスペ本人のためにもなる。
「私は褒めたら伸びる子です、私は叱られて伸びる子です、私は自分で考えるのに10分かかるのでその時間が必要です、
私は言われなくても進んで出来る人間です」って言うのは流石に誤読し過ぎ。
アスペだから非凡(と思われる)って考え方がベースになってないか?
絶賛ばかりですが正直な感想を申しますと、「おもしろくなかったけど、何度か観たい映画」というところでした。
批判的な感想をあまり目にしないので、この一週間、絶賛に対して指摘したい部分を時々考えました。それを時間書けずに一発で書きます。荒くてごめんなさい。
・ストーリーに波がない。
「生きねば」と書いてあるポスターや、ボロボロに燃えてしまった後の戦闘機っぽいものと、それを見て呆然と佇む主人公の絵に、
「戦争に揉まれながら、どんな恋や葛藤があるのかな〜!」と思ってしまいますが、はじめからわかってた展開をただ踏まえてるだけな気がしました。
予告編では泣けましたが、本編では泣こうとおもっても、、、、?なかなか泣けない。
とにかく長いです。一緒に行った人は寝てました。最後のユーミンの歌の、長い長いPVみたいでした。
幼少の頃から非凡な存在として描かれていて、そのままです。しかもお坊ちゃま。
人格も優れている主人公がどんな壁を経験して、奮起するドラマなのかと思いましたが、、、右肩上がりのまま、、、右肩上がりにフライ。
これは厳密には違う指摘ですが、菜穂子と再開する避暑地の重要なシーン。
あれも「なんで今は仕事しないの?オフでも飛行機のこと考えてるキャラが何してんの?」と内心思いながらでした。しかも、これも長い。
それを消してくれる説明も無かったような気がします。
・SEが口
これはなんかの朝のニュースでやってたのを着替えながら見たので知ってましたが、どうやらSEのほとんどは口で人が作ってるようです。
でも、それが耳障りなんです。なんの意図があったのか知らないので残念ですが、その意図を知らない私からすると違和感で集中できないのです。
途中から、製作者側が「今回のSEは人の声が作ってるんですよ」とドヤ顔で言ってたらと思うと、それをどうやって論破するか。。。そんな怒りの妄想に集中力がいってしまいました。
・庵野秀明の声
幼少期が終わって、いきなり声が変わります。それで「『ジブリの主人公の声をエヴァ監督の庵野秀明が担当』なんていうニュースを何かで見たが、これか・・・」とその時に思い出しました。
とにかく、びっくりするほどスムースな口調で人間らしさゼロ。10のテンションで話してきたキャラに対して、4くらいのテンションで返す主人公。しかし、相手は自然に10のテンションを保ったまま会話している不自然さ。
例えて言えば、片方は大男が体をうねらせて豪速球を投げているのに、それを受け取る主人公は直立不動でボールをキャッチし、腕だけ動かして投げて緩いボールを返している感じ。その不自然なキャッチボールはラストの一言まで続きます。
製作者の意図としては「理系の人っぽさを出したかった」ということですが。理系独特のドライさってのは違うと思います。
成功に仲間や上司が昂ぶっている時にタバコ吸ってどっか見てたり、菜穂子が王子様アピールしてるのに「晴れてきました」とかいってるだけで理系っぽさは出たと思います。
その点、同じ理系でも今放映中の福山雅治のやつとかは、たしかに理系っぽい感じはします。
百歩譲って、理系な人が抑揚のない声で話すとしましょう。でも、見る側としては少なくとも僕は違和感で集中できないんですね。不自然なコミュニケーションを意図的に作ってドヤ顔してる制作側に本当にいらっとした。
ヒロインが嫁入りするシーンで、嫁が高橋留美子の漫画のキャラにしか見えない。
そもそも、結核の嫁が病院抜けだして来て嫁入りを済ませるっていうのはとてもむずかしいと思う。
ただの美談ですよね。ちび上司が普段と違ってお祝いしてる方が胸を打たれました。
これは単純すぐり僕の勘ぐりでもあるのですが、いちいち飛行機とか鯖の骨とかに「美しい・・・」とかいうところに、デザインに対して強いこだわりを思っていたジョブズを投影させてたのかなって思っちゃいました。
シンプルに美しい見た目=優れてる、という考え方を持っている二郎アピールが多いんですよね。
もしジブリもジョブズに敬意を表すなら、普通に「敬意あります」とか言えばいいんであって、作品にわざとらしく言わなくてもいいんじゃないでしょうか。
とにかくうるさいんですよね。忘れた頃に出てくる。「また!?そんな(にデザイン好き)なの?」みたいな
でも、まあ、ジョブズが話題になる前からsimple is the best的な価値観はありましたので、あんまり強気で言えることじゃないです。
以上を踏まえて「風立ちぬ、傑作!」みたいな空気は、なんかつっこみたくなります。
「ジブリがやったことならすべて良し!たとえ理解できなくても良しと言う!白も黒と言えば諸手を上げて黒に賛成」みたいなダサい空気です。
確かにジブリの過去作は素晴らしかったです。でも、今作はどうでしょう。ほんとうにそうおもってますか?と。いや、過去作も実は「良さげ」雰囲気だけの作品だったのかも… ?
なんちゃって、それは言いすぎな気がしますが、否定なんかしたら自分がバカっぽい立場になるって思ってませんか?
僕もそうゆうのが怖いのですが、これを書いた反響とかを楽しみたくてネットに書きました。
以上です。
ちなみに、個人的に一番良かったシーンは、幼少期の夢の中で雑誌に出てた有名なイタリアの設計士と出会い、刺激をうけるところです。
あの夢の中には、生まれや、能力や、物理法則すらも超越した、ピュアな(実現したい世界としての)夢だけでした。
そしてあの空間にいる間は、「自分のヴィジョンは世界の偉人と共有できる程のものなんだ」という高揚感は、とてもこんなことを言うのは憚られますが、僭越ながら共感できました。
色々文句もありましたが、終わってみると、確かになんだかスッキリした映画でした。
それが何かは、わかりません。それが不思議な魅力でしょう。
自分はジブリと育ってきたような年代で、現在は「アラサーw」と自虐を言う時期に入った年代です。
「風立ちぬ」は今回の作品で初めてです。
一番好きなジブリ映画は「もののけ姫」。理由は興奮するからで、メッセージ性などはあまり気になりませんでした。
一番心躍った映画は「バトルシップ」。一番泣いたのは「アイ・アム・サム」。という単純な人間です。
たぶんだけど、「釣り合う天才」とかって考え方はしない方が精神衛生上良いよ。
あの人は、プログラマーとしては非凡だっただろうけど、むしろアーキテクトとして卓越してた。
そういう、スキルとしての評価ってのは、その他の行状から関係なくありうるよ。
でも、当然ソレとは関係なく、やらかした動機とか、やらかした結果ってのはある。
オッペンハイマーは天才だし、完璧に合法だし、当然罪には問われなかったけど、間違いなく原爆の父だよ。
でも、それが「原爆を生み出した」ことに釣り合う天才かってことは、考えても無駄だよ。
ヤツは天才だった、そして考え無しだった、
既にある技術を、知られていた方法で組み合わせるだけで、破滅的な結果になる。
ある程度の知識があれば結果は予想できるし、結構なアーキテクトならアイデアがあれば近いものは組めるし、そこそこのプログラマーが仕様書受け取りゃ実装できる。
でも、あの速度で全てを兼ね備えてたってのは、まあ最近はあんまり居ないよ。
そして、やらかしちゃった人も。
業界に破滅的な結果を与えた極悪人、考え無しの技術者、そういう評価で十分。
本当の意味でのマッドサイエンティストだったんだよ。
頑張ります!仕事振ってください!と張り切るのは良いが、毎度「どうしてこうなった」と言いたくなる物を仕上げてくる。
「君はこんなこともできるのか!すごいね!」と認めてもらいたいのだろう。君は善かれと考えて頑張っている。
しかし今、求めているのはそれじゃない。頑張ってほしいのはそこじゃない。
修正指示をする度に機嫌が悪くなる。否定されたと思い込むのだろう。
だが、へそを曲げずに学習してほしい。そのやり方では君の評価はどんどん下がっていくばかりである。
依頼通りにこなさなければ、いつまで経っても任せられない。
プラスアルファの提案は、依頼を忠実にこなした上でしてほしい。
細部へのこだわりはフレームができてからである。効率を考えて仕事をしてほしいのだ。
誤解しないでほしい。若さを攻撃しているわけではない。
誰にでも若気の至りはある。
早く気づいた者勝ちだ。
http://www.saikontan.net/choyk/2006/03/post_135.html
作意尚奇者、不為奇而為異。
不合汚便是清。
絶俗求清者、不為清而為激。
俗人の世界を超越して高潔を求める者は、高潔ではなく過激である。
自戒を込めて。
ADHDである私はアスペルガー2人と喧嘩別れしたことがあり、この記事を読んで深く納得するものがあった。
発達障害者のオフ会に参加したのは排斥される者同士の連帯・互助を信じていたからだが、彼我の相違を感じることが多々あった。
そこで仲良くなったアスペルガー2人について。
1人は男。プログラマーとして様々なフリーソフトを開発したその世界の有名人(彼を仮にAとする)。
1人は女。独学で5〜6ヶ国語を話せる才媛。
ADHDとアスペルガーは議論好きな人が多い。お互い論理的なものが好きだからだが、その立場は随分異なっていた。色々な議論をしたが、上記2人とは必ず意見が衝突した。
たとえば、スティーブジョブズについてこんな会話をしたことがある。
「ジョブズはギル・アメリオをAppleから追放したのはやりすぎだろ。彼はジョブズを引き入れた人間だ。ジョブズを追い出した人間じゃない」
という私に対して、Aは、
「Appleの改革のために必要じゃないか。結果を見れば一目瞭然なのにバカじゃないの。何故なら……」
といくつも立板に水のようにそれがなぜ必要だったかを述べる。それに逐一反論するうちに、最後はAが癇癪を起こして終わった。
アスペルガーは突然癇癪を起こすが、ADHDも自説に固執する癖がある。
それが何度が続き、やがて2人からは、メールブロック、着信拒否されて交際は終わった。
今思い返せば、原因は価値観の相違だったのだ。
ADHDの私が弱者の論理を主張し、真面目なものが幸せになる社会であるべきだと述べるのに対し、アスペルガーは強者、非凡な人間、強圧的な人間の側に立った主張が多かった。
アスペルガーは、確かに人並み外れた才能に恵まれた人間が多かった。がゆえに、自分が絶対的に正しいと思い、独自ルールを周りに強制するうちに嫌われていく。
ADHDは独特の発想をする人が多い。だから芸術家にADHDが多いのだろうが、脈絡のない落ち着かない思考は、他人とのコミュニケーションを阻害し、疎外される要因となる。その苦痛が弱者への共感を生み出すのだが、共感を求めた弱者にかえって愚鈍だとバカにされる羽目に陥るのだ。
就職後、何かに集中すると他のことが目に入らない、整理して説明ができない、一度聞いただけでは話を飲み込めない、時間を(守ろうとしても)決して守れないことなどで「高学歴なのに使えない」と言われバカにされ執拗なイジメを会社で受けるようになり、一時期自殺を考え、ADHDというものを知り、原因を知りホッとした身としては、同じような異端児同士、仲良く連帯をしたかったが。お互いの間には埋められない溝があるのかもしれない。
凡庸と天才ってよく対置されるじゃん?でも凡庸の反対はあくまで非凡。天才の反対は凡人。まったく別ベクトルなんだよね。凡庸な天才だって非凡な凡人だっているのだ。
芸術家は非凡な凡人が多い。凡庸な天才は勉強が全国上位レベルに出来る、でもそれだけってタイプっていう。
別に勉強じゃなくていい。仕事や勉強や趣味が異様なまでにさらっとこなせる。でも特別な(singular)ことは何もできない。凡事を非凡にこなせるってタイプの非凡人。
対して非凡な天才は非凡なことをこなせる。そういったタイプの人間が時代を変える。なぜか?凡事は代わりがいくらでもいるから。
全国100位レベルといったって日本に100人はいる。世界なら何千人といる。時が熟せば誰かがやる。単なる時間の問題なんだ。
往々にして我々はこう考えがちだ。すなわち、「難しいことを分かりやすくシンプルに説明できるのが天才」と。 いかがだろう?
先日、カントのような哲学書は小難しく言って気取りたいだけに見える、と聞いてぶったまげたよw
でも分かりやすく言うのって、凡事を非凡にこなすことの典型だよな。たとえるなら日本式のエリート官僚の仕事。代わりは沢山いるっていう。
名言でもそう。月並みな内容だけど、的確簡潔であるがために評価されるってタイプの名言、これは実につまらない。似たようなのが沢山あって、知れ渡り、使い古されているっていう。
知れ渡っているので、「名言なんてどれも当たり前のこと言ってるだけじゃん」とか言い出すヤツもいるw ちげーよっていう。
マンネリな目で見るからマンネリに見える。そして非凡なことを新たに周知されても評価できない。特異な新発見を周知する名言をスゴイと思った経験が一度もないのかっていう。でっていう。
しかしまあ、非凡=特異なことを分かりやすく言う、これは特異な天才性だな? そうだな?分かりやすく言うだけならサルでもできる。サルのような天才とハサミは使いようだけど。
新人社員にありがちなマニュアル指向。すぐに簡単な答えを欲しがる。自分で見つけようとしない。これは今大問題なんだぜ?
あいつら異様に分かりやすさを求める。そのくせ向上心あるヤツもいるんだよな?滑稽な光景。 簡単で分かりやすい方法があるならとっくに知られてますがなっていう。株式投資といっしょ。
ならば凡人でも良いから非凡なことをしようって話になるんだべさ。エッサホイサ。エイコサペンタエン酸。
ロングテール(笑)なんて言葉持ち出すまでもなくオンリーワンは馬鹿にならんよイマドキ。分かりやすいものはあっちゅうまに知られて、お得感なくなるもの。ライバルより先に情報入手しても大して差がつかずうま味ナッシン。
自分で非凡なことできない人はどうすればいい?見つければいいんだよ。分かりにくいものの中に宝石があるってこったい大腿骨体。
"私の友人に、今は故人となりましたが、蚕業新報社の社長で竹沢章という人がありました。精力絶倫非常な熱心家で、朝は未明に起き、夜は十二時より早く休んだことがありませんでしたので、社長は一体眠ることがあるだろうかと社員等が疑問にしたくらいでした。
その頃私はこの雑誌の主筆として、一人の記者を紹介しましたところ、僅か二年でその記者は神経衰弱に罹りました。私は社長に向かい、あまり過度に働かせた故だと責めますと、竹沢氏は意外な面持ちで、「彼は僕の三分の一くらいより働かないのに、過労などとは解せられませんね」と、それでも医師は過労より来た神経衰弱と診断しました。こんなふうに非凡の自身と普通人との相違を忘れては人を使用することは出来ません。多勢の中にはその非凡な者もいるとしても、やはり多人数を使う場合は、その標準を普通人におくべきであると思います。"
過去の定石だと、予算案と国債に関する法案を通す事を条件に解散総選挙、支出に関する法案は再開後の国会で審議というのが、落し所である。もっと早い時期であれば、そして、民主党が公約を実現していれば、内閣退陣を条件にし、政権はたらい回しという55年体制に持ち込めたのだが、タイミング的にも、支持率的にも、もはや選択肢にはなりえない。
4月の統一地方選の投票日に衆議院を重ね、バランスを取ろうとする大衆の心理を利用して、地方議会の議席か衆議院の議席のどちらかを取るという考え方で延命を図るというプランしか残されていない。
子飼いの地方議員が生き残れば、衆議院を落選していても地盤は維持できるし、衆議院の議席が維持できれば、地方議員の面倒は見れる。持ちつ持たれつで地盤を維持していくというのは、自民党的なやり方である。
もっとも、民主党の中央議員は、地方議員の面倒を見ていないようである。親小沢だと、その辺の指示を出してくれる人をつけてもらえるようであるが、その意見を受け入れて、地元の面倒見をやっているのは、いないようである。親小沢であると、党中央に目をつけられるし、地盤の手入れには金がかかる。次の選挙で勝てればよいが、今の党中央では、負けた後でも、その地盤の候補でいられるかどうかの保証がないとなれば、地盤に金を注ぎ込んで手入れをするのはやめて、金を貯めておく方が良いとなる。地盤に金を注ぎ込んで手入れをしていると、選挙を望んでいると解釈されて、政権が長続きしない事を望む反動勢力であると認定されかねない。小沢氏からつけられた秘書は返上しましたと、党中央に答えた方が、覚えが良くなるというのもある。
選挙は別々にした方が、裏工作が効く。衆議院選挙の間は、議員の事務所は選挙違反の内偵が付きまとうが、地方議会の議員の事務所はノーマークになる。反対に、地方議会の選挙期間中は、衆議院議員の事務所はノーマークになる。票の買収工作をやる裏選対はノーマークな方でやるというのが、選挙の常識である。この常識に添うならば、統一地方選と衆議院のダブル選挙はありえないとなる。地方議員を切り捨てるようなことをしていながらも、その選挙を利用して、有権者のバランス感覚だけにすがりつかなければならないほど、今の民主党には道が残っていない。
凡人は、凡人としての生き方を貫くべきであり、非凡でなければ勤まらない地位や職には、まかり間違ってもつくべきではないのだが、その程度の事すらも理解できないほど、日本人の質が劣化している。無能な政治家が生き恥を晒している様を見て、他山の石とするようになれば良いのだが、さて、その生き恥を晒している本人が、恥と思っていないというのが、実は、一番の問題なのかもしれない。
誤植ちょっと笑った↓
東海大相模 一二三慎太 150キロ魅力も打者転向の方が得策か
大幅なフォーム変更など試行錯誤を経ながら今夏はチームを33年ぶりの甲子園へ導き、40年ぶり決勝進出の立役者となった潜在能力抜群の右腕。
一時は東海大進学に傾いていたが、高校から直接プロを目指す道を選んだ。
(中略)
ただ、打者としても非凡なない脳を持つ。今夏の甲子園では巧みなバットコントロールから5試合で12安打、打率.571と打でも活躍。
http://www.sponichi.co.jp/baseball/flash/KFullFlash20101028014.html
投手、打者どちらになるか分からないが一二三君にはがんばってもらいたい。甲子園見た限りでは明らかに野手適正だと思うけどなぁ