はてなキーワード: 車いすとは
教師も支持者が少なくて雰囲気が弱そうな教師だけが保護者の突き上げを食らうから、体育会系や剣道指導者でチンピラみたいな教師や教頭ばかりが残る
まじめで穏やかな人にクレームを入れまくった末路
身体障碍者は女性や子供と比較してすら弱い絶対弱者だから、周囲を威嚇し警戒しボディカメラで常時記録しないと殺される可能性がある
事故に見せかけ車いすを殺そうと、微妙に傾斜があるホームをわざわざ作りホームドアをつけない嫌がらせをする公共交通機関すらあるからな
「無人駅は健常者様専用だ」
全く逆だろ
車いす障碍者に対してはどんな非礼や慇懃無礼をやっても当人が怒り狂って反撃する可能性がないからイジメ放題やりたい放題する健常者が多い
「事前連絡せず電車に乗ろうなんて非常識」電話したらしたで露骨にイラついた声で面倒くさそうに応答し不満を述べたら「普通の声で(とトーンポリシング)」
健常者は自分がされた時だけ騒ぐな
私は本当にもやもやしている。発端は例の伊是名夏子さんのこの投稿。
http://blog.livedoor.jp/natirou/archives/52316146.html
バリアフリーは推進されるべきだ。その方向性に異論はない。そしてバリアフリーを訴える目的はよいと思うし、その目的を批判している人はほとんどいない。
でもこの記事を最初に読んだ時、「これは炎上するな」と思った。
私は、きちんとした教育を受けそれなりの大学を出て、結婚もして家族もあるし、収入はそこそこあり持ち家にも住んでいる。
ただ片目があまり見えない。病気というか、発達障碍というか、弱視という視覚障碍がある。ちなみに弱視というのは、眼鏡などで矯正しても視力がでないことをいう。
だが片目だけの視覚障碍なので、私は身体障碍者ではない。健常者だ。もっとも正常な方の目も、近視、乱視がはいって矯正しないと0.5ぐらいなので、そんなに見えるわけではないけれど、視力矯正できるかできないかは全然違う。
もっとも、もしかすると両目がきちんと見える人よりも、遠近感の把握ができなかったり、視野が狭いのかもしれないが、両目見えていた経験がないので、違うのかは全くわからない。
不自由はないといいつつも、ほんの少し、両目が見えたらいいのにと思うことがある。例えばVRゴーグルをかけてみた時などにそう思うことがある。でもそれは総じて大したことではない。
逆に見えなくてよかったと思うこともほとんどないのだけど、ひとつだけ、心からよかったと思うことがある。
私は、健常者の目と、視覚障碍者の目と、2種類の目を持っている。社会を、健常者の目と、視覚障碍者の目と、2種類の目で見ることができる。それは本当によかったと思う。
私は、時々、自分の健常者の目をつぶり、視覚障碍の目だけで街を歩くことがある。特に、今回は、もやもやし続けているので、いろんな場所で何度もそうしている。
通しでやったことはまだないが、眼帯などで健常者の目を隠し、視覚障碍の目だけで自宅から会社まで通勤するのは可能と思う。
なぜ可能と思うかというと、私は、自宅のドアを開けたところから、会社の入り口まで、健常者の目で何度も通勤しているので、途中の、①道路、通路の硬さ、すべりやすさ、段差、②曲がるときの角度、直線で歩くべき距離、③階段のおおよその段数やエスカレーターなどの位置、こういうものを覚えている。
見えないものは、記憶で補いながら歩く。ゆっくり歩けば、弱視の目でも歩くことができる。
そして音は重要だ。自動車が近づいてくる。こういうものは音で判断する。
自転車は、音が小さいから、怖い。電気自動車も、音が小さいから、怖い。
電車の時間も、発着ホームも、だいたい覚えているので、目的の電車に乗ることはできる。ただし、遅延などが発生し、行き先が違う電車が普段とは違う時間にやってきたりすると、困る。
そういう時は駅員さんしか頼りにできなくなるだろう。
本当の視覚障碍者の人は、情報を得るのにとても困るだろうなと思っている。ホームに駅員さんがいれば聞くことができるのだろうけど、いつもいるわけではない。視覚障害者はそうたやすくホームを歩けないので、同じホームに駅員さんがいても、距離が離れていたら聞くのは難しくなる。
少なくとも私は、視覚障碍者の目で歩くとき、普段と違う状況になると状況を把握できず、いらいらする。
私が、視覚障碍者の目で歩くときは、記憶と、耳と、手と、足の裏の感覚と、それ以外の感覚も総動員しながら、歩く。
集中しているので、いきなり肩や腕をつかまれたりすると、とてもびっくりするだろうと思う。怖いと思うかもしれない。
もし皆さんが視覚障碍者に何か情報を伝えたい、手助けしようと思ったら、白杖や身体をいきなり触るのではなく、まずは声をかけてほしい。もし声をかけて手助けを断られたり、声をかけるのを躊躇するなら、見守ってほしい。
私の弱視は、光線の具合で、見えたり見えなかったりすることがある。
広い平坦な場所で、突起に気づかずつまづくぐらいなら笑い話かもしれないが、ホームの端がみえにくくて転落することがあれば、それは生命の問題に直結する。((ホームと線路の彩色、彩度が似ていると、ホームの端がわかりにくい。))
その対策だが、蛍光色で10cmぐらいの幅のラインを描くことで、ホームの端の視認性はかなり上がる。これをCPラインというらしい。
一部、導入されつつあるが、まだまだ普及がすすんでいない。
https://ameblo.jp/milkyht2/entry-12244392124.html
ホームドアは、視覚障碍者のためだけではなく、酔っ払いなど一般の人の転落事故も防止する。ホームドアがあれば死なずにすんだ命は多い。できる限りペースを速めて、設置してほしいと思う。
ネックは、ご存じの通り、多額の費用がかかることだ。
でも、生命にかかわることだから、優先順位は一番高くていいのではないかと思う。
日本視覚障害者団体連合もホームドアの設置を求め続けている。2020年7月の阿佐ヶ谷駅での視覚障碍者の転落死亡事故をうけて、同年9月にも国土交通大臣に要望書を提出している。こういう働きかけは大切だ。政治や企業への働きかけは、絶え間なく行わないといけない。
働きかけを行うべき先は、政治も企業もしかるべき権限をもつ者=責任者であるべきだろう。「なんでホームドアがないんだ!」と現場で駅員さんに怒鳴っても、何も改善しない。
http://nichimou.org/notice/200923-jimu/
歩道や施設などの通路、ホーム上にある点字ブロックは日本発祥のものだ。これはよい発明だと思う。かなり普及しているのも評価したい。
また、2016年に近鉄大阪線河内国分駅ホームから視覚障害者が転落死した事件をうけ、対策として「内方線付き点状ブロック」設置を推進していたが、これはかなり進んだと思う。評価したい。
https://www.sankei.com/affairs/news/161017/afr1610170045-n1.html
でも、「なんでこうなった?」というような謎な点字ブロックも多々ある。そんな役に立たない点字ブロックや、かえって危険を作っている点字ブロックがある。
ホームなどの点字ブロックの配置についてはガイドラインがあるが、まだそれが守られていないことがある。2019年の京成立石駅で視覚障碍者が転落死した事件は、規格外ブロックが問題と指摘された。
https://s.mxtv.jp/mxnews/kiji.php?date=14s53i742ax788in6
ガイドラインに沿っていても、転落事故(死)が起こることがある。視覚障碍者は、目からの情報が少ないため、点字ブロックを認識しつつも、現在地と歩く方向を間違い転落することがある。
点字ブロックはとても有効な設備だが、点字ブロックだけでは転落事故はなくせない。
https://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/437710.html
点字ブロックは、黄色のものが多い。(私も健常者の目で見た時はそう思うが)黄色のブロックは、色がガシャガシャして、うるさく感じないだろうか?
そこで、街並みをおしゃれにするため、点字ブロックを歩道の色と合わせて設置することがある。最近増えた感じがする。
でも弱視者には、これがわかりづらい。
視覚障碍者は全盲の人ばかりではないという認知がもっと広まってほしい。
「視覚障碍者は見えないのだから、点字ブロックは何色でもいいのでは?」と思わないでほしい。
少ない視力を使って点字ブロックの上を歩きながら、足の裏の感覚などで点字ブロックの助けを得て歩く視覚障碍者もいる。
視覚障碍者は、道路交通法によって、白杖を持つこと、または盲導犬をつれることが義務づけられている。(第14条第1項)
また、視覚障碍者でなければ、白杖を持つこと、または盲導犬をつれることを禁止されている。(第14条第2項)
さきほども書いたが、視覚障碍者は全盲の人だけではない。ロービジョンといわれるのだが、若干の視力はあるのだが日常生活に支障がある人がいる。白杖の使い方は、人それぞれだ。
ところで、視覚障碍者が白杖を持つ理由は次の3つとされている。
https://nippokai.jp/wp/formembers/canes/
障害物もなく、路面が確かな場合、ロービジョンの視覚障碍者は、白杖を「視覚障害を持つことを周囲に知らせる」だけに使うことがある。つまり周囲の人に自分の存在を知らせるために、白杖を動かさず抱えることがある。
それを白杖を使っていないと思わないでほしい。白杖で地面を叩いていないからといって、「こいつは視覚障害ではないのでは?」なんて思わないでほしい。
点字ブロックの上や近くで立っていたり、荷物を置いていたりしていないだろうか?
いわゆる歩きスマホはしていないだろうか?
視覚障碍者は、器用にぶつからないようにしたり、避けたりするのが苦手だ。
伊是名夏子さんの投稿とその後の議論、動きなどみて、私がもやもやした理由は主に次の3つになる。
私が、ここに書いた話題は、全部が「視覚障碍者にとってのバリアフリー」問題だ。
伊是名夏子さんの投稿は、さまざまな議論を呼んだが、その議論は、エレベーターとかスロープとか、「車いす利用者にとってのバリアフリー」だけしか議論されていないでは?と感じた。
確かに伊是名夏子さんは自分自身の障碍のため、「車いす利用者にとってのバリアフリー」を問題にしている。それは当然だと思う。
でも、「バリアフリー」を必要としている人は、車いす利用者だけではない。視覚障碍者も、聴覚障碍者も、妊婦や精神障碍者なども、「バリアフリー」を必要としている。
それぞれの障碍やハンディキャップが違えば、「バリアフリー」として求めるものは違う。でもそこまで広く捉えた「バリアフリー」議論はほとんどなかった。
いつでもどこにでも自由に行ける自由はとても大切なことだと思うけど、毎日、命の危険を感じながら鉄道を使う人のことも思い出してほしい。
案の定、伊是名夏子さんの投稿は炎上した。あの投稿を批判的に見る人は、来宮駅を巡るトラブルの作為性を問題にしている。作為性とは、バリアフリーを訴えるために、わざとトラブルを起こしたのではという見方だ。ご本人は否定している。しかし私も実は、作為性はあっただろうと思っている。
現場でのトラブルを、乗車拒否などの強い言葉を使った非難を行い、耳目を集める手法というのは、そのトラブルの作為性を巡って反感を買いやすい。
伊是名夏子さんご本人が、それが戦いだとお考えになることは、批判できない。こうしなければ、耳目を集められないという気持ちも理解できる。
しかし、何かバリアフリーの課題を改善したいと考えた時、この手法が一番効果的となってしまえば、他の障碍者も(少々作為性があろうと)トラブルを起こし、それを声高に訴えないといけなくなってしまうのではないか? 私は、そういう状況が本当のバリアフリー社会とは思えない。
そして、あの手法に反感をもつ人と、支援する人との分断は、更に広がったように思う。
分断されたバリアフリー社会とか、笑えないブラックジョークだ。
伊是名夏子さんの投稿に対しては、私も批判的だし、批判する人の気持ちはわかる。
一方、こういったネットの炎上が生じると、その人の過去の行動を洗い出し、それらも併せて執拗に非難するような行動がよく見られる。晒しと呼ばれる行為だと思う。
確かに、伊是名夏子さんの過去の行動で、「それはよくないな」と思う事例はいくつか見つかった。
しかし、既に法的には時効を迎えたと思われる古い過去を、声高に非難する合理性はないように思う。
話は変わるが、視覚障碍者の投稿を読むと、白杖を持って歩いている時に誰かとぶつかった後、その人から心無い言葉を浴びせられたという投稿がいくつも見つかる。
他の障碍者やハンディキャップを持つ人も、そういう経験をしているのだろうと思う。
そんな心無い言葉を浴びせる人は、たぶんその人の心の中に、障碍者への「偏見」というバリア(障壁)を持っていると思う。
心の中のバリア(障壁)は、目に見えるものではないので、取り除く=バリアフリーを作るのはとても難しいと思う。
インフラは整っているが、人の心の中はバリア(障壁)だらけのバリアフリー社会って、何かのアイロニーだろうか?
今回、伊是名夏子さんの過去の行動を非難した人の心の中に、障碍者に対するバリア(障壁)ができないことを願う。そして本当のバリアフリー社会を作るには、あなたの協力が必要だと訴えたい。
私はまだもやもやしている。
の話しだけど、ディズニーなら特別な障害者割引制度がなくても、
スタッフの一存で、子供料金でどうぞ くらい決められるんちゃうかな。
伊是名さんが車いすでも楽しめるアトラクションはおそらく限定されるだろうし、
そこで何らかの割引が行われてもおかしいことではない。
仮に、大人なのに偽って子供料金で遊んでいたとしたら、訴えて良いのはディズニーであって、何もしらない外野じゃないと思うんだけど。
別にあの乗車拒否の話は全然関係ない。最近知人が車いす生活になった。特にすごく会う相手でもない。7年ぐらい前は一年に一回ぐらい一緒にスキー旅行に行ってた人で、今は1年に一回は会うぐらい。去年はコロナでその一回も会ってなかった。特に自分の人生に関係ない人っちゃ、人なんだけどさ、「もう二度とこの人と一緒とスキーはできないのか。」と思ったら、急にすごく悲しくなってきた。すごく悲しくなってきたけど、まあしょうがないものはしょうがない。
私にも家族にも、今のところ特に障害は無い30代ですが、車椅子の件を見ていてモヤったので吐き出しておく。
首都圏の人の多い駅で、電車が事故などで止まると、他社線での振替輸送の案内がある。
構内にアナウンスもガンガン流れるし、掲示板などで視覚的な案内も出るし、駅員さんに聞けば状況がすぐわかる。
振替輸送のときは、持ってる切符をそのまま使えて、追加でお金を出さなくても、当所の目的地まで行ける。
乗り換えの手間や時間は余計にかかるけど、復旧まで待つよりはマシなら利用させてもらう。
状況にもよるが、鉄道復旧までの間、その区間は代替でバスを運行しているケースをよく聞く。
鉄道側にトラブルがあっても、あの手この手で目的地まで運ぼうとしてくれる。とても有り難いことだと思う。
「JRで車椅子は乗車拒否」の元ブログの記事を読んで引っかかったのは、車椅子を持ち上げる手配をした「駅員D」が登場するまで、私のところには当たり前に伸びてくる、目的地まで運ぼうとする「あの手この手」が見当たらないことだ。
たとえば、私と隣の人が、どちらも東京から横浜までJR東海道線で移動しようとする時。
隣の人はJRから「東海道線止まってるんで一旦山手線で品川まで出て京急線に乗り換えて下さい、その切符で追加料金無しで行けます、ご迷惑をおかけいたします」みたいな対応されてるのに、私だけ「横浜行きは止まってます。外にタクシー乗り場ありますから自腹でどうぞ。あなたは乗せられないので。タクシー乗り場わからない?調べてください。タクシー拾えないかも?いやそこはご自身でどうぞ、こちらでは対応できないんで」って言われたら「は????なんで???(怒)」ってなる。
電車が止まってるのは仕方ない。JRが何もかも面倒みてくれるとは思っていない。でも、隣の人との対応の違いには怒るだろう。なんで私だけ、隣の人には求められないお金や労力を求められてしまうのだ。同じ電車を使って、同じ場所に行こうとしてるのに。
でも、私に「障害」があると、このJRの対応の違いが「正論」としてまかり通ってしまう上に、後でSNSに書こうものならあちこちから駅員の味方が出てきて、私がタコ殴りにされるのだ。
駅員C「来宮駅はお使いいただけませんので、熱海駅までで。その後はご自身でお考えになってください。」
私「どうやって?」
駅員C「タクシーなど」
ここのやり取りが特に、健常者を目的地まで運ぼうとする「あの手この手」感が全く感じられなくて震えた。
ああ、これが、差別か。
駅の設備(今回ならスロープやエレベーター)の不足で移動が制限されてしまう人がいる、ということは、残念ながらよくある。
制限される側から見たら、あっちこっちで災害による運休が発生しているようなものだろう。
しかもこの運休は、電光掲示板にも改札前のホワイトボードにも出ておらず、駅員に尋ねても15分待って「そこは運休です」しか情報が出ないレベルの、ステルス運休だ。ユーザー側で全部把握するのは無理ゲーだろうし、その無理ゲーをやる時間をもっと別のことに使いたいだろう。
JRの予算も無限ではないから、全駅にバリアフリー設備を導入するのは難しいかもしれない。
JRの都合で、一部のユーザーに対する運休区間を発生させているのだ。
バリアフリー対応をしたら運賃が上がる、という意見も見た。気持ちはわかる。JRはけっこう高い。
ということは、私が、あなたが、運休区間を発生させているのだ。
っていう意見を見た。
実際、熱海周辺はあの手この手でバリアフリーに取り組んでいるらしい。素晴らしいことだと思う。
なら駅員A〜Dは、なぜその提案をしなかったんだろうか。
もっと言うなら、もし、バスでバリアフリー対応をカバーしているつもりなら、なぜJRは「バリアフリー振替輸送システム」みたいなものを用意してないんだろうか。
「来宮駅は無人駅で、エレベーターなどの車椅子に対応できる設備もございません。申し訳ありません。代替手段として、熱海駅●●口からバリアフリーのバスが来宮駅前まで出ておりますので、そちらをご利用いただけませんか?来宮駅までの切符をお求めいただければ、そのままバリアフリーバスにご乗車いただけます。お連れ様もご一緒に。いかがでしょうか?」
健常者が大幅遅延や区間運休にぶち当たった時は、このくらいの対応をされている。と思うラインで、今回の伊是名さんへの対応を考えてみた。本来の到着時間には間に合わないが、今ある設備で対応でき、JR側の人員的にも無理が少なく、乗客に調査や予約の手間・過度な経済的負担を課さず、本来の目的地まで運ぶ提案。
これで丸く収まるかどうかはわからない。バスが本当にバリアフリーなのか、駅からバス停まで車椅子にとってどれくらい大変な移動なのか、バスの本数はどれくらいで来宮まで何分かかるのかも知らない。ただ、「隣の人と同じ程度の対応」として考えたら、これくらいになると思う。
箱に乗って柵のむこう側の景色を見ている、三人の人の絵を思い出す。
背が高い人、中くらいの人、低い人。
三人に同じ高さの箱を配ると、背が低い人は柵のむこうが見えない。これは悪しき平等だ。
それぞれに柵のむこうが見える高さの箱を配れば、三人とも景色が見える。
ところで、誰が柵を立てたのか。
現実には、箱を用意するコストがかかる。リソースは無限ではない。
ただ、柵を立てた者が、箱を用意するのが筋ではないか。と思う。
柵を金網に変えてしまえば、箱無しでも三人とも景色が見える。ユニバーサルデザインと呼ばれるものは、これだろう。
電車に限らずあちこちで、柵を金網に変えていければ、車椅子ユーザーにもベビーカーにも、順調に生きれば歳を取って足腰や認知が弱る私やあなたにも、同じ景色が見える世界になる。
頑張るなら、そういう方向で頑張りたいなと思う。
最低でも24時間前までに連絡したら主要な駅でのみアシストしますよって言うだけで、主要駅以外はバリアフリーに違いないので調べてみようね。
殆どの小さな駅はプラットフォームが2Fにあるなんてこともなく質素な作りで1Fの地面の近い所にプラットフォームがあるし乗り入れもしやすいのだろう。
だが、ちょっと規模が大きくなると、そうでもない場合もあるようだゾ。
例をいくつか出してみると
https://www.banenor.no/en/Railway/Search-for-stations/-A-/Alna/
https://www.banenor.no/en/Railway/Search-for-stations/-B-/Blommenholm/
あれあれ?車椅子によるプラットフォームへのアクセスは不可ですね。
ちなみに、介助してくれる主要駅には含まれないので、24時間前に電話しても対処もしませんね。お近くの駅はこちらですと。すっすんでるーーーー!!
全部の駅がどうかは見てはないが、当然これだけではないだろうね。主要駅以外のそれなりの規模の駅は同じ考え方で運営してるだろうと予想できる。
質素なつくりの駅でプラットフォームが1Fにあっても、画像を見て存在が確認できる段差や、プラットフォームから電車への段差を考えた乗り入れ補助はないのかもしれない。
もしかしたら車掌なり、他の客が助けるからバリアフリーって認識なのかなぁ。中には駅には日本では良く見る持ち運び式の傾斜板がないから、必要なら事前に電話してねなんて駅もあるんですがね。
車椅子利用可になっていても、夏の間だけならとか、2番線に行くには段差がありますとか、割と但し書きもあるんですけど、これもバリアフリーなんですかね。
で、利用者が増えて作りが複雑になって階段がつくと、階段でしかアクセスできないから車いすでは行けませんし、主要駅ではないからサービス対象外ですってよ。
無人駅で階段を使わないとプラットフォームに行けないという条件は、それなりに日本でもレアなのは言うまでもない。
わざわざ見なくても分かるが、他の北欧諸国の鉄道も大なり小なり同じだろう。これだとJRの設備やサービスは特別悪いとは言えそうもないね。
俺なら、事前に連絡しておけば主要駅なんかでは当然ない無人駅でも対応してくれる日本の方が便利だと思うし、
問題となった無人駅にすらエレベーター導入予定があるJRの駅の方がバリアフリーだと思うが、感じ方は人それぞれかw
https://anond.hatelabo.jp/20210412194236
ミスリーディング以前に、情報の閲覧能力が極めて低い。どうせ情報をだすなら正確に参照したまえw
https://abyss.hatenablog.jp/entry/2021/04/12/184932
さすがに何が落ちるのかな?ド低脳くんw
もっと便利に、と求める気持ちだけなら理解できたのに、低レベルな出羽守なんかやってるから馬鹿にするしかなくなるんだよw
北欧には北欧の事情があり許されたリソースや資金の中で最善を尽くしてるだろう。それは尊重すべきだし、参考にすべきものもあるだろうが