はてなキーワード: 被告とは
伊勢谷被告は29日、弁護士を通して直筆のコメントを出しました。
「このたび私、伊勢谷友介の身勝手な行動により、いつも応援してくださるファンの皆様、ならびにご支援くださっているすべての関係者、クライアントの皆様を裏切ることになり、多大なるご心配とご迷惑をおかけしましたこと、心から深くおわびび申し上げます。
私は無責任極まりない甘さで、自分をそして自分と一緒に活動してくれている方々を、さらに世間の皆様を裏切ってしまったことを今、留置場にいて、身体拘束を受けるなかで、かみしめています。
すべては私自身のおごり、未熟さや愚かさ、役者、および経営者としての責任感の欠如により引き起こした事態です。
深く反省するとともに、これまでの身分に甘んじることなく、一社会人して社会的制裁をしっかりと受ける所存であり、失われた皆様のご信頼を一日でも早く取り戻せるよう、努力していく覚悟でおります。
https://togetter.com/li/1595038
「結婚と性交を一緒にするな」「ムハンマドが実際に性交したのは15歳になってからである」「現代の価値観で裁こうとするな」
この批判は「9歳のアーイシャと結婚を完成させたムハンマドさんがダメだというなら」と言い出した人に向かうべき批判だろう。
「イスラム教の教義では預言者ムハンマドを冒涜した者は死刑とされる。」
現代的価値観で歴史の人間を裁くなというのに、現代日本人をイスラムの法で裁こうというのは許されるのか?
日本人が日本でした発言は日本の法で裁け。イスラムの法で裁こうとするな。
イスラムの法で裁こうとするやつは犯罪者かテロリストだ。イスラム的価値観ではテロリズムは容認されるから、日本人へのテロも許せというのか?
そんなもの、キリストだろうが偉い人だろうが幼児とやったらアウトのほうが筋が通っている。
その行為を否定するのか、その人の人格を侮辱するのか区別を付けろ。
だが、人間の発達時期は大して変わっていない。特に第2次性徴の年齢に関しては数千年、それこそ普遍といってもいいほど大きな変わりはない。
女児の身長加速のピークは11~12歳ごろ。加速のピークなので11~12歳でもまだ身体的に未成熟。それ以前の児童ではサイズ的に大丈夫なのか考えろ。
事実、未熟な身体に負担がかかる若年出産に多いフィスチュラという医学的な問題がある。
普段医学的な話題で「偽医学・反ワクチン・宗教」とか散々バカにするくせに「ムハンマドがやってたから」「イスラムではOKだから」で許し続けるのかよ。
いやだから非常にレアではあるけど、営業妨害・名誉毀損のついで では無く
侮辱罪単独でブチ込まれてるヤツいるんだってば。最高裁で判例出てる。ちょうど10年前だ
最高裁第2小法廷(中川了滋裁判長)は11日付で、被告側の上告を棄却する決定を下した。1、2審判決の拘留29日が確定する。
1審判決によると、小俣被告は2004年9月30日、同市内のスナックで、一緒に訪れた知人男性(同罪で科料7000円の有罪確定)とともに、
客として居合わせた初対面の20歳代の女性に「デブ」「そんなに太ってどうする」「ドラム缶みていだな」などと侮辱した。
https://news.yahoo.co.jp/articles/af5f56b1b77128d0a9d89c3d928fc085340fde1b
一審さいたま地裁は18年3月、被告が統合失調症だったと認めた上で、「残された正常な精神機能に基づき、金品入手という目的に沿った行動を取った」と完全責任能力を認定。「6人もの生命が奪われた結果は極めて重大」として死刑とした。
これに対し、二審東京高裁は19年12月、被告は統合失調症の悪化で「スーツの男が危害を加えるため追っている」との妄想を抱いていたと指摘。被害者を「追跡者」とみなして殺害した可能性があったなどとして心神耗弱状態だったと判断し、無期懲役に減刑した。
検察側は上告を断念し、弁護側が心神喪失で無罪として上告していた。裁判員裁判の死刑判決が高裁で無期懲役となり、最高裁で確定するのは6件目。
神宮外苑火災で5歳の男の子が亡くなるという痛ましい事件が起きた。最近その事件に関して被告側が無罪を主張しているという記事を見た。
それを見て多くの人は被告側にふざけるなという反応を示した。それには同意するところもある。しかし本当に問題なのは被告側だけなのかという疑問が浮かび色々考え、1つの結論に至った。
その結論とは「白熱電球は生産禁止にすべき」というものである。
その主な理由は、白熱電球の火災リスクが、特に若い世代において広く共有されたものではなく、これからの世代ではもっと悪化すると考えられるからだ。
かつて白熱電球がシェア100%の時代には白熱電球による火災事件は多発しており、その度にテレビで報道され、そのリスクに関しては周知の事実だったと思う。当然その時代においては白熱電球は生産禁止するべきではない。包丁が殺人リスクを持っているのにも関わらず生産禁止にならないのと同じ理由だ。つまり危険リスクがあっても、全国民にそのリスクが知り渡っている場合は、問題が起きても責任はその利用者に問われるため、製品そのものに責任はないのである。
しかし今はどうだろうか。10年ほどまえから電球は白熱電球からLED電球にシフトし始め、今となっては白熱電球はまったく見なくなり、白熱電球メーカーも非常に少なくなった。LED電球はより省エネルギーで熱もあまり発生しない優れた電球である。これの普及で電球による火災が発生しなくなり、報道も減ったはずである。その過程で人々の"電球"に対するイメージは過去とはうって変わり、"別に火災など発生しない安全なもの"となっただろう。そんなLED電球メインの生活を長いこと続け、電球といえばLEDというような若い世代が白熱電球を使う場合、LED電球と同じ感覚で白熱電球を扱う人の割合はおそらく低くないと考える。昔を生きた人の感覚からしたら"電球"におがくずをかけるなんてありえないことである。しかし今の若い世代にはその感覚を持ってない人が増えているということである。さらにこれから生まれてくる世代の人々ではもっと悪化するのではないだろうか。そのような時代の流れにおいて、白熱電球はますます危険なものになるのではないかと思う。まるで拳銃を水鉄砲と同じだと思い込み人に打ったらひどい事態になった、と同じレベルの事件が増えるのである。そんな時代で白熱電球のあり方には次の2つがあると考える。
1つめは白熱電球の危険度をメーカーが積極的に啓蒙すること。2つ目は白熱電球そのものを生産禁止にすることである。どちらが現実的かと言うと私は後者だと考える。その理由は、啓蒙は痛みが必ず伴わないと効果がないからである。悲しいことだが、人は反面教師がないと同じことをしてしまう。今回の痛ましい神宮の事件で向こう数年は白熱電球の危険度は広まったと思う。しかし人々が数年後にこの事件を忘れ、またこの事件を知らないさらに若い世代が出てくる時、再び同じような事件が起きるだろう。かつて人々が白熱電球に気をつけたのは火災事件が報道されたからである。今の時代は白熱電球の流通量が少ないため火災事件は昔ほどは頻発はしないから報道は少なくなる。そうすれば危険の認知度は低くなり、再び今回のような事件が起きるとう事態になる。「危険だとは知らなかった」というレベルの事件が。
白熱電球を現在も作っているメーカーはあるだろうし、その人たちには申し訳ない気持ちは ある。しかし、彼らは今の時代で白熱電球の危険性を啓蒙する責任を果たせるかというと疑問である。今や大手のメーカーはLED電球しか生産していないため、大企業の啓蒙力は期待できない。そうなればやはり禁止するしかないと私は考える。
植松先生ですら2日で彼女を作れるのに、あなた方にはできないんですね
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2020/08/post-94169_2.php
女性は2014年8月ごろ、被告から電車内で声をかけられ、LINEのIDを交換。2日後に被告の家に行き、交際が始まった。
被告は友人が多く、女性との予定が入っていてもドタキャンが多かった。「もう少し一緒にいる時間を作りたい」と話すと、「友達との時間を割いてまでお前と会う時間を作るつもりはない」と言われた。衝撃で涙が止まらず、そのまま別れた。同年冬ごろのことだった。
「友達との時間を割いてまでお前と会う時間を作るつもりはない」とまで言ってもよりを戻せちゃうんですね
やっぱ恋愛工学なんだよなあ
信号機の立っていない横断歩道をわたるときに、「さては俺ってば性格悪いな?」と思うことがある。
俺が横断歩道をわたろうとしている。車道から自動車がやってきていて、俺を明確に意識できる視界である。車道をやってくる自動車との距離関係上、徐行、もしくは停車しないと俺をはねるよ、というタイミング、後続車はないとする。
こういうとき、車道を走ってくる自動車に減速する気配がなかったり、落とす速度がゆるかったりすると、俺は絶対、意地でもわたってしまうのだ(ところで俺は自動車の免許を持っていない)。
また車の中には、停車しても、早くわたれこのヤロウ、とでも言いたげに車体の鼻先をじりじり露骨に近づけてくる奴がいて、こういうのは俺の「テメエ歩行者なめてんじゃねーぞ」という気持ちに油を注ぐので、わざとゆっくり歩き、路上で牛歩戦術みたいなことになる。
途中でかがんで靴紐直してやろうか、と思ったことさえあって、正直俺はまともじゃない(さすがにやらなかった)。
こんなん、歩きスマホの女性にわざとぶつかってくオッサンと同種だ…。ヤバい。
困るのは、自動車側の「歩行者無視度合い」みたいなものとそれに対する俺のイラ立ちが比例関係にあるところで、この前なんて、減速ゼロで突っ込んでくる奴を横目にもしないでこっちも完全に無視して歩いたので、バカ同士のチキンレースみたいになり、最終的に車側が俺の1m手前ぐらいで急ブレーキかけてつんのめる、みたいなことになっていた。
このままだと、いつかナチュラルに轢かれるだろう。車の方だって、そりゃ徐行や停車が法律で定められてはいるんだろうが、こんなバカをひっかけて前科がつくのは災難だな、と冷静なときは思う。のだけども。
で。
先日、煽り運転と被害者ドライバーへの傷害をはたらいた事件の公判があって、これまで書いたとおり俺はイキったドライバーがベースとして嫌いだし、自分が運転しないのもあって完全に他人事として聞いていた。
しかし、被告の「(被害者の運転で)嫌な思いをすることを分かってもらい、危険な運転をする人がいなくなってほしいと思った」という法廷での言葉を聞いてぎょっとした。
ええ~…。
俺じゃん。
俺もこういうところあるよ、これ…。おいおい…。
俺は24時間完全に歩行者だから立場上真反対、事故のときは自分がはねられてる側なわけだけど、「ナメやがって。許せねえ」って根っこにある心情としては同じじゃないか。
気持ちの部分で、完全に無関係だと思っていた煽り運転と同じマインドが自分の中に宿っていると知って、俺はちょっとヘコんでしまった。「目の前の横断歩道、向こうの自動車がちゃんと徐行してくれればわたれるけど、しないとハネられるね」ってとき、今後も意地でもわたるかどうかは、ちょっと考えようと思っている。
結婚というのは最後の最後まで公正団体も手を出せない領域なんだよ。
宗教にはまった親族や要介護の親兄弟がいる人、身内に犯罪者がいる人に同情したところで、可哀想だから結婚してあげましょうということにはならない。
可哀想な誰かを救うための結婚はその相手側の人の人権侵害になってしまうのでね。
不当な差別に怒る人の中には、結婚での選り好みが差別扱いされた時に輪をかけてブチ切れる人がいる。
それも裏を返せば痛いところを突かれたからなんだよ。
例外はいったん婚約した後の破棄の理由が不当かどうか問題になる場合。