はてなキーワード: 簒奪とは
現実として解放されてないのに、解放されたふりをするのが滑稽だって言ってるんだよ。
更にその上「人類が取るべきスタンス」って言う時点でアホでしょ? だって数的優位の側が少数者にたいして暴力を背景に「これが人類の取るべきスタンスだよな?」って意志を押し付けてるだけなんだから、そんなものスタンスもクソもなくてただの暴力じゃん? その言い換えにどれほど意味があるのかって疑問を呈したわけよ。
弱肉強食から解放されるべきっていうのも特に自明でも説得力もない。そりゃ誰だって暴力に対象になるのは嫌だけど、しかしながらその解放が暴力によるものである時点で、暴力を否定する根拠ゼロでしょ。「俺は暴力でこの社会を支配したんで以後暴力禁止」って言ってるに過ぎないじゃないですか。
歴史的に見て、王侯貴族が専有的暴力で民衆を支配してた時代から、民衆が多数決主義という数の暴力で社会を支配してた時代に変わった。それはでも、暴力の主体が変わったというだけで後者が正しいわけでもなんでもないんだよね。暴力性能で後者が優れていたってだけで。だから新時代により大きな暴力が出てくれば、新しい社会構造になる。簒奪者は他者の簒奪に対して異議を唱える資格ないでしょ、って言ってるだけの話だよ。
マニアックというなら『暗黒太陽の浮気娘』※だな(マニアックの意味が違)
例に挙がってるのがドラマ性より「王道かつ知的なひねり」系なので、
半村良『岬一郎の抵抗』(超能力が発現したサラリーマンと国家権力と町内の三つ巴)、
フレドリック・ブラウン『火星人ゴーホーム』(ある日いきなり地球に大量の火星人がやってきて全世界がパニック)
野尻抱介『太陽の簒奪者』(異星文明のナノマシンが太陽を改造しだして地球が危機)
『星を継ぐもの』的な知的なひねりならスタニスワフ・レムはお薦め。
存在しない本の書評や序文という体裁の『完全な真空』&『虚数』は読んでおいて損はない。
どの架空の本も本当に読めないのが残念になるほどのアイデアが詰め込まれているから。
>書評https://1000ya.isis.ne.jp/1204.html
宇宙活劇いけるなら『虎よ!虎よ!』は是非読んどいて欲しい。
書き捨てて寝たらとんでもないレスがついてて草も生えない
「行き過ぎた自由を制限する」「表現の自由が簒奪されようとも、それは人権を侵害したことにはならない」…………
一部の人のお気持ちによって基本的人権を奪う、ソレをファシズムと言うのだ。
「表現の自由」は基本的人権ではないだって?お前がその寝言吐けるのも表現の自由あってのこと。マスコミや野党が連日連夜政権を批判できるのも表現の自由あってのこと。なんならフェミがファシズム的主張を出来るのすら表現の自由あってのことだぞ。
つまり表現の自由は民主主義国家の最低成立要件の一つであり、紛れも無い基本的人権。ソレを奪うということは相手を人間扱いしないに等しい。
俺たちを人間扱いしない者を人間扱いする理由があるか?そこまで言ったら戦争すら通り越した何かと言って良い。
だから、我々から表現の自由を奪うと言うのなら、そしてそれを実現したなら、そいつには人権を無視した報復をする。自分は相手の人権を無視する、でも自分はされなくない。そんな都合のいい世界はない。表現の自由を奪うと言うことはそう言う死兵を生み出すと知れ。
表現の自由が普遍的な人権を構成する要素足りうるなら国家間で表現の自由の制約に差はないだろう
基本的人権とは神聖にして侵すべからざるものではなく、その時代その国々において差があって当然のものであるから、日本社会としても行き過ぎた自由を制限するという方向に力学が働きつつあるということなのだ
であるからして、今後我が国において表現の自由が簒奪されようとも、それは人権を侵害したことにはならない
そもそもが、健康で文化的な最低限度の生活と言いながらそこらへんにホームレスがいる国だということを理解しよう
欧米出羽守が何でも欧米の人権感覚が正義って主張するのは勝手だけど、アメリカやイギリスのポリコレって特に極端かつ矛盾だらけなんだよ。
同じような疑問、つまりレイシズムを人権主義でカモフラージュしてんじゃないのか?
って今回も思い浮かんだ。
毎回行き当たりばったりで、しかも「白人様はポリコレで黒人様や女性を守ってるのに、そういう倫理観に欠けたジャップはクソ」みたいな何重にも入り組んだレイシズムをぶつけてくる。
https://togetter.com/li/1086546
まあ見てみろよ、この白人至上主義者の目、異文化の人間に対してレイシズムを隠そうともしない歪んだ表情…と言ったら、ジェンダー系のポリコレに違反するだろう。
じゃあ色んな黒人文化やイスラム文化にも同じノリで突っかかって行くのかと思ったら、何故かそっちの方は文化の簒奪とか言って悪気ない白人が民族服を試着することすら止めにかかる。
性的消費に対してイスラムばりに厳しいのは分かったから、じゃあどんな性犯罪者も徹底的に糾弾するのかと思いきや、今度は少女を暴行した難民が国外退去になりかけてたのをポリコレ派の人達がむりやり止めに入る。
まあ矛盾するのはポリコレ実践家とはいえ人間、仕方ないと思う。
でも異質な他者に対する攻撃性はもうちょっと抑え気味にならんかねぇ。
そらこんな文化圏で生きてたら、チューリングも自殺に追い込まれるよ。
当時は同性愛者がポリコレの管轄外だったから彼は徹底的に攻撃されただけで、今でも当該国ではまだポリコレ外の別のマイノリティが徹底的に攻撃されてると思う。
「「Kimonoは『人種差別主義』『帝国主義』」芸術イベントで理不尽な日本批判 https://www.sankei.com/west/news/180905/wst1809050009-n1.html
読めばすぐ分かることだが、ライターの方はボストン美術館に寄せられた批判に対しておっそろしく頓珍漢な反論を行っている。
事件は当時有名になったから、ご存じの方も多いと思うが、教科書なんかにも載ってるモネの「ラ・ジャポネーズ」の絵の前で着物を着せるイベントを企画したら、アジア系の人からクレームがきた、というものだ。これは、当時大変盛んだった Cultural appropriation(文化の盗用/文化簒奪)やという視点に基づく批判の典型である。つまり、「弱者であったアジアの文化を、強者だった西欧人が真似して楽しむ、というのは、西欧がアジアから簒奪してきた歴史への反省や異文化に対する敬意を欠いた尊大な振る舞いである」という主張だ。日本でも、近年ようやく「ステレオタイプな異文化理解やその模倣が、異文化に対する敬意を欠いた失礼な振る舞いになる」ということにいくらかコンセンサスが生まれつつあるが、自国内で異文化と日常的にふれあう経験が少ないせいか、これを重要な問題と理解することがなかなか日本人には難しいようだ。
個人的に、この「文化の盗用」論に100%賛同するわけではない。特に、あまりにも過敏な反応は、逆に内なる差別性の表明、あるいは強者の驕りではないかと思う場合すらある。少なくとも、モネの絵の前でその真似をしたくらいで目をつり上げるほど怒る必要はないと思う。それは、「真似をする」行為がリスペクトを意味しもするという風に感じられるからだ。
しかしながら、「相手の真似をする」という行為は、一方で相手を侮蔑したり揶揄したりするときにも行われることも考えておくべきだ。大人しく着物を羽織ってる程度ならまだしも、そのまま椅子に腰掛けたら? その程度なら問題ないだろうか。では、たとえば撮影した写真に滑稽なタイトルを付けてSNSにアップすることは? あるいは、その着物を羽織ったままわざわざ眼鏡をかけ首からカメラをぶら下げる真似をしだしたら? どの時点からそれは「アウト」なのか。もちろん「リスペクトのない行為はダメです」とは言えるだろう。だが、残念ながら「内なるリスペクト」とやらを検証する方法はない。リスペクトを言い訳にすれば何をしてもいいのか。あるいは、結局、みている日本人の「お気持ち」だけが判断規準になるのだろうか。そんな明文化できない規準を我々はいちいち振りかざすべきなのだろうか。
それよりも、単純に「少なくともそういうこと(文化の盗用と疑われること)は軽々しくやっちゃだめ。少なくともダメだと言われたらすぐやめましょう。」というあたりが、今のところ落としどころになっている。今のアメリカでの「文化の盗用論」というのは、おおむねそういう風に理解しておいたらよろしいと思う。
以上の話を踏まえれば、御年73歳のこのコラムのライターの「分かっていなさ」「恥ずかしさ」がよく分かると思う。この方が引用した3人の批判者の主張はこのイベントが「アジア人に対する人種差別主義」であり、ステレオタイプが抱く「異国情緒」を楽しむ低俗なイベントであり、そして「帝国主義」的であるというものだった。そして、ライターの方はこれを「日本批判」と捉えたらしいがとんでもない誤解で、明らかに事実はその反対なのである。彼女らの主張は、「文化の盗用」と見えるイベントを企画したボストン美術館の姿勢自体に「アジア人に対する人種差別」があり、モネの絵のような「ステレオタイプ」なヨーロッパの東洋のとらえ方に基づく流行(=ジャポニズム)を今また模倣することは、かつての西欧の帝国主義の無邪気な肯定にすらなっている、ということである。そこには、日本に対する一欠片の批判の意図もなく、彼女らはむしろ「西欧帝国主義のおもちゃにされている(と彼女らが信じる)アジアと日本文化の尊厳」を守るべく、ボストン美術館に対して声を上げているわけだ。(かれらが掲げるプラカードも、体験する来館者に対して「あなたが着物をきてキュートで異国的に見えたとしても、それは差別じゃないの。美術館のイベントでなければね!(It's not racist if you look cute・exotic in it. Besides MFA support this!)」という、美術館批判の趣旨の言葉である。)
ネットに残る写真に写る方々が中国系アメリカ人なのか、日系なのかは知らないが、彼女らの出自などというつまらないことで邪推し、彼女らが「日本を批判しているに違いない」と思い込んでヒートアップして美術館に手紙まで送ったこのライターの方の行為は、相当差別的で恥ずかしい。
しかしながらもっと恥ずかしいのは、「文化の盗用」のような、現代の「差別」をめぐるごく基本的なワードや議論を全く知ることなく、このような稚拙な内容のコラムをそのまま掲載してしまった産経記者のあきれるような無知である。こういうところで「所詮は二流新聞」とあなどられることになる。それがイヤなら、産経は好き嫌いをせず、あおり記事ばかり書かせる練習をするのでなく、記者にもっときちんと勉強をさせるべきだと思う。できればライターや読者にも。
なお、参考までに、事件当時も似たような方々が大量に湧いていたらしい。こういうのなんて言うんだろう。セルフ釣り?(参考:https://togetter.com/li/845708)
たしかに、度重なる強制的な残業やパワハラで精神的な失調状態にある時、冷静な自己判断でギブアップ(断るとか退職するとか)出来ないってのはあって、過労死が自己責任であるってのはもはやこのご時世無理筋で、自己責任だって言うと炎上する。炎上するのはわかる。過労死した人に何らかの過失(しかも命を失わなければならないような)過失があったとは思えない。
んだけど、炎上問題のコアは「それがわからん愚かな経営者が居る」とかそういうことではなくて、同じような状況下で生存した人間(転職なり自分で居場所作るなりしたひと)がいて、そういった人に正統な報酬が与えられてない(彼らが十分な報酬を得たとは感じられてない)って部分なんだと思うよ。
現在ブラック労働をしてる人から見れば「居心地よい職場で働いてるならそれが報酬だろ」って思うかもしれないけれど、そういう評価が正当化されるなら「じゃあ、おまえが居心地の良くない職場で働いてるのはおまえの行動の報酬だな」っていう自己責任論も正当化されてしまう。
労働的な意味で弱者の人(労働環境が劣悪な人)は一方的な被害者かっていうと、労働的な意味では弱者で被害者かもしれないけれど、政治的な意味では多数派であり簒奪者という、強者であり加害側だって視点がないと労働的な意味での強者を説得できない。
つまり、この件で「弱者を救う」ってのは筋が悪くて「一番の弱者が自殺を選ばなくなるほどに全体の労働環境を良い方向にシフトアップする」じゃないとまずいんだよ。