はてなキーワード: スポーツカーとは
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6334514
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さっきは読めていたページが、数分後には読めなくなってしまったとは。
「スポーツカー事故で2人死亡 逃走の男逮捕」という見出しのニュースだが、
当てられて街路樹に衝突・炎上した「スポーツカー」の方が悪いという、
「印象操作だ」というわけだ。
そのせいで削除されたのだろうか。
要は、Uターンしようとした車が対向車線前方から来た車と接触し、
ヤフコメ民は、まるで炎上した車が悪いみたいなタイトルだというわけだが、
通常、指示速度を守って走行していれば、そんな大事故になるとは思えないわけで、
直進車両が異常な速度で走行していたのではないかと思われてもしょうがないと思う。
確かに、Uターンした車が接触しなければ、直進車両は進路を逸れて衝突することは無かっただろう。
ただ、事故発生直後、事故発生の原因を作った当事者が逃げたのは良くなかった。
結果はどうなったか不明ではあるが、救護措置を取る義務があったのに、それを放置し逃げたのだから。
たらればの話だが、逃げずに救護措置を取ろうとしていた上で、炎上、死亡だったらどうなっていたのだろうか。
個人的に感じている一般道・高速道での暗黙的なルール違反のルール
走行車線に間欠的に車両が居る場合は追い越し車線を走り続けても良い
ただ、後方から速い車・外車・スポーツカーが来たら走行車線に戻る
視界が確保でき、車両が少ない場合で新東名・新名神であれば130kmぐらいで巡航して良い
追い越し時に限っては140kmでも問題ない
ただし雨天・夜間・カーブ手前などでは120km程度、他の高速であれば100km程度で走行する
後ろに車両がいない、かつ歩行者がこちらに気付いているようなら譲らなくて良い
他に車両が居ない場合は一旦停止するが、渋滞気味・車両が多い場合は徐行で良い
車線変更不可の場所で会っても「ごめーん!」と声に出せば割り込んでも良い
サンキューハザードは忘れない
高齢者の暴走が世間を騒がせてる。オレも今日、直進が黄色から赤になりかけ右折時間になりかかる瞬間に、直進で突っ込んできた対向の軽自動車を見たとき「危ねえな」と思った瞬間相手ドライバーを確認してた。婆さんだった。ウンザリする。高齢者が暴走してたから? 違う。「暴走してたから高齢者なんじゃないか」と自分が心の中で予断を持っていたことに対してだよ。相手の顔を見て「やっぱり」と一瞬思ってしまったことに対してだよ。
言うまでもなく、若いドライバーだって暴走する。中年ドライバーだって暴走する。デブのドライバーなんて運転中に心筋梗塞起こすかも知れねえ。運転に自信があるドライバーなんて最悪だ。周りが全員下手に見えて始終イライラ運転する。社会的地位の高い連中もたちが悪い。周囲が自分に譲って当然だと思ってるから、運転が尊大で危険な存在だ。昔ならセンチュリー、今ならプリウス。運転下手な車種の代名詞だ。廃版にしたほうがいい。スポーツカーなんて存在価値がない。ただただ暴走するための存在だ。購入者にはバカほど高い保険を義務付け、些細な違反にも罰を重くしようじゃないか。誰もかれもが、暴走予備軍だといえるだろう。
…でもな。実際に暴走して叩かれるのは、高齢者だけだ。若いドライバーが、中年が、デブが、運転に自信のあるドライバーが、地位の高いやつが、センチュリーやプリウス乗りが暴走しても、その属性自体が攻撃されたりはしない。属性持ち全体が批判に晒されたりはしない。どれをとってもの「高齢者という属性」と同じくらい有意に暴走との相関があるだろうに、誰も、「あいつらから免許を取り上げろ」とは言わない。おかしくねえか?
分かっている。高齢者が、判断力や反射神経が衰えた結果、事故の原因となりやすいということは。そこを否定したいわけではないんだ。ただ、昨今の報道が、事故の原因を「高齢者」という属性に起因させようとし過ぎているのがフェアじゃないと感じるって話なんだ。「高齢者は危険な存在」って話の持って行き方が、あまりにも誘導臭くて危険に感じるんだ。それが、自動運転車を普及させたい自動車会社と国の隠れた共同キャンペーンであり、実際そこにあるのがあくまで「善意」であると仮定しても…(そして自動運転社会が早く到来してほしいと思うオレにとって、大変都合の良い世論が形成されつつあるとしても)…それでも、そのように特定の属性について安易にその権利を制限する(免許を返納させろ!という空気を形成する)ことには、もっと慎重であるべきだと思う。そんな簡単に、人の権利を取り上げないでほしい。充分に慎重で善良でしかも生活に車が必要な高齢ドライバーに、やたらとプレッシャーを与え後ろめたい気持ちを感じさせないでほしい。
思慮の足りない若者が運転していいなら、反射神経が衰えた老人だって運転していいはずなのだ。こういうと、「お前は高齢者の暴走で家族を殺されても恨まないのか」とか言う奴がいる。馬鹿じゃね? そんなん恨むに決まってんだろ。相手をぶっ殺したいと思うだろーな。でも、それは相手が高齢者でも若者でもデブでもなんでも同じだ。そして、それはあくまで「ソイツ個人の問題」であって、その属性の問題とはしない、程度の理性は保っておきたいと思う。この社会は車の運転を一般人に許容しその利便性を享受する半面として、そこから生じる被害をリスクとしてすでに計上しているんだ。俺たちはすでにカードゲームを楽しんでいて、お互いにジョーカーを押し付けあって、自分だけは「アガリ」を引こうとしてる。だが、一定のリスクがある以上誰かが最後にジョーカーを引く。それはゲームの一部だ。ジョーカーを引いてから文句を言ってもしょうがない。最後に泣く奴が出るのをあくまで防ぎたければ、この車社会と言うゲーム自体を変えるしか無い。そしてそのための方法なら、オレたちはすでに手にしているのだ。
だから報道は、センセーショナルな高齢者バッシングよりも、素直に自動運転車の実証実験、早期推進キャンペーンやろうぜ。その方が確実に、社会を幸福にすると思うんだけどな。
痛ましい事故が起きると高齢者から免許を取り上げろという声が挙がる。
果たして、そうして声高に叫んでいる人の中で、どれくらいの人が実際に自分の両親に運転をやめるように伝えることができているのだろうか。
そんな父の運転をわたしも好きだったし、今のわたしの運転の見本になっているのは教習所の教官でも車好きの友人でもなく、紛れもなく父の運転だ。
そんな父に、わたしからもう運転はやめるように伝えたのは父が70のとき、5年前のことだ。
とっくに車を手放していた父は、こうしてお墓参りに行くときや年数回のゴルフや旅行に行くときにわたしの車に乗ってハンドルを握った。
毎年通る道、毎年変わらないはずの道が、その年は区画整理を兼ねた大きな工事が行われたことで、いままで見たことのない風景に変わっていた。
いつも使っていた道は閉鎖され、見知らぬ信号機に見知らぬ交差点ばかりだった。
それでも父ならば大丈夫だろうと、娘を脇に抱えてぼんやりと風景を眺めていた。
しかし、その時の父は違った。
今まで一度も見せたことのない様子で焦り、苛立ち、わたしがなにか言おうにも頭ごなしに遮り、運転そのものすら見たことがないほどに荒々しいものになってしまっていた。
極めつけは、道のど真ん中で急に停車して、クラクションが浴びせられる中での急なUターンだった。
ようやくの思いでお墓までたどり着いた頃には、母も見るからに苛立つし娘も泣き出すしで、さんざんな状況になっていた。
「わたしの運転だと不安かもしれないけど、帰りは代わろうか?」
一応進言してみたものの、父はそれをきっぱりと断った。
これ以上何かを言えば父を信用していないみたいになってしまう。父を傷つけてしまうような気がして、それ以上はわたしから何かをいうことはできなかった。
それからも、迷いがありながら、父がゴルフや旅行に出かけるときは快く車を貸し出した。
しかし、たまに同行する母からは、その度に曲がり角を間違って苛立つ父の話や、高速の出口を間違えて何故か母に強くあたる父の話を聞かされるばかりだった。
これ以上父に車を貸し続けていていいのだろうか。車を貸し出す度に迷いが募っていった。
そんな時、とうとう父が事故に巻き込まれたという連絡が警察から入った。
幸いながらもらい事故だった。
いざ迎えに行ってみると、父はただひたすらに如何に相手に非があって、如何に自分が悪くないかを繰り返した。
聞けば相手側の不注意による追突事故らしく、過失はほぼすべて向こう側にあるらしい。
思いもよらない父の一言に唖然としてしまった。その後も父の口から事故を起こして申し訳なかったという一言は最後まで聞くことはできなかった。
父が走行している間、事故を起こした相手は不安定な運転を繰り返していたらしい。
一昔前の父なら、そんな相手がいるなら絶対に近寄らないし、ましてやその車を後ろに背負うことなんて絶対にしなかったろう。
それなのに、ただひたすら相手が悪いと繰り返し言い続けている父を見ていることはただただ悲しくて辛かった。
それから程なくして、結局少しの持ち出しとともに新車に買い換えることになった。(くわしくはわからないが車軸が曲がっていた?とかいうことらしい)
「保険の種類が変わったことで、父が保険の対象外になってしまった。」
そのかわりに、父が車に乗りたいと言い出す前に今まで以上に両親を旅行に誘った。
出費や親のために使う休暇も増えたが、父が事故を起こすことに比べたら何でもないことに思えた。
ある時、隣に乗っている父が「老後は小さなスポーツカーで色々なところに出かけるのが夢だった」と独り言のように話し始めた。
父はまだ運転を諦めていない。
「それは素敵な夢だね。だけど、もしそれで娘と同じくらいの子供を事故に合わせてしまうようなことがあったらわたしはどうしていいかわからないな。」
父は一言「そうか」とだけ口にしただけだった。
高齢者による事故が起きれば、あのときの自分の判断は間違ってなかったと自分に言い聞かせる。
でも、ただ取り上げることを声高に叫び続けるだけではなく、それによって失われるものを埋めるための努力が本人以外にも必要なのだ。
恐らく表題だけからなにの話か分かる人は多いかと思いますが、某所で交通事故を起こした車を運転していた方が「アクセルが戻らなくなった」と説明していたそうです。
「アクセルが戻らない=車が止まらない」と思っている方が多そうなので少し車の工学的な面を解説したいと思います。
車はエンジンの動力を車輪に伝えることで進みます。これは誰でも知っていることですが、どうやって伝えているかを知っている人は少ないように思います。
最近の車はアイドリングストップ機能がついていたり「静止しているときにエンジンも停止させる」ことが増えていますが、古い車や冷暖房などを使っている場合は車が静止していてもエンジンが停止しません。たとえば車のエンジンをつけた直後は止まっているのにエンジン音はしますよね。
つまり車は止まっているけどエンジンは回っているのです。ということはエンジンが回っていても車輪が回らないための仕組みがあるのです。
このための仕組みはおおまかに二種類あって、どちらを使っているかは車がオートマ(AT)車なのかマニュアル(MT)車なのかによって異なります。
MTの場合にはエンジンの駆動力を車輪に伝えるために「クラッチ」と呼ばれる機構を使っています。
このクラッチは大雑把に言うと二枚の鉄板で、ペダルを使って離したりくっつけたりすることができます。
クラッチがくっついているときは車輪に動力が伝わり、離れているとき(クラッチを切っているとき)は伝わらないという仕組みです。
そのため、たとえアクセルペダルが戻らなくなったとしても、クラッチを切ってしまえばブレーキを使って減速することができます。
詳しくはわかりませんが、クラッチを切り忘れたとしてもクラッチは滑ることができるため、ブレーキを踏みさえすれば減速するのではないかと思います。
ATにもいろいろな種類があるのですが、一部スポーツカーなどを除いた車ではトルクコンバーター(トルコン)という仕組みを使ってエンジンと車輪をつないでいます。
トルコンは2つのお椀型のパーツでできていて、中にローターとステーターというパーツと液体が入っています。
ここで重要なのは「液体が入っている」という部分で、エンジンからの動力はこの液体を通して伝達されるということです。
つまり、クラッチと違って何もしなくても空転することができるのです。
そのため、エンジンによって発生する動力を、トルコンを介して車輪に送る力より、ブレーキによる制動力の方が勝っていれば、トルコンが空転して車両は減速するはずなのです。
これが「アクセルが戻らなくなった」ことが「事故を防げなかったことに対する言い訳にならない」と主張する理由です。
ATにしろMTにしろ、エンジンのパワーよりブレーキの方が圧倒的に強いはずです。
高速で走る車が止まれないのはブレーキの性能の限界ではなくタイヤの性能の限界であることの方がはるかに多いです。
特に高パワー車でもない今回の事故を起こした車種で、恐らくトルコンATであることを加味すると、運転者のペダルの踏み間違いだったのではないのかと疑ってしまいます。
特に高齢ドライバーで踏み間違いが発生しやすいことは明らかなので踏み間違えにくいデザインをすればいいのです。
もしくはよりよい解決策として、高齢ドライバーに積極的に運転支援機能のある車を買ってもらえるような制度を作ればいいのです。
今回のような事故は特に、被害者はもちろんですが、加害者にとっても大きなダメージとなっているはずです。わざとやっているのではないのですから。
「高齢になって運転しているのが悪い」「免許を返納させろ」という声もあるかと思いますが、やはり車というものは便利ですし私もいざ高齢になったときに免許を返納できるかと言われたらYesと答えられる自信はありません。
年に1本面白そうな鉄道ネタがあれば行くくらいのライト層だけど、友人が薦めてくれた、「東北新幹線」に今ははまっている。
最高速度が320km/hで、たしかにスピード狂の自分好みに思えて毎週見ていた。
しかし、なんでこうちょいちょい座席課金要素があるのか、正直意味がわからない。
しまいには、完全に豪華列車まがいなサービスが出てくる有様。(これがまた「ここまで新幹線で頑張っちゃいました」みたいな感じでさらに不快)
こんなのわざわざする必要があるのだろうか。
東北でローカル線に乗ろうとした時に、変な電車が出てきて、なんとそれが茶色い普通電車の改造車。
そしてこういった列車は東北各地に走っているというカオスっぷり。
ここで先に進むのをやめた。
この東日本エリアに限った話ではないけれど、なんでわざわざ一部の利用者にこだわるのだろうか。
SNSや5chとかを見てみると、ブロジョワホイホイがあるからこそみたいな意見が非常にたくさんあるけれど、怒られるの承知でいってみると、食べ物が美味しいだのイスが快適だの正直こんなんだから、鉄オタは嫌いだの言われるんじゃないかなーと思ったりもするわけ。
家も大学も東京のJR線沿線にあるけど、電車のテレビにそういった電車の紹介シーンが流れて、乗客は何も言わないものの、本当に勘弁してくれと思った。
かといって客層も少ない区間でコソコソ流すなんて余計にださいし、都会に住む鉄道の好きな裕福な人達は一体どんな風にこれを見ているのだろうか。
そんなにブルジョワホイホイが必要なら、上下分離でも導入して別会社に運営させておけばいいだけだと思うのだが。
公共交通に課金なんて全くいらないと思う俺は少数派なのだろうか。
SNSや5chの住人みたいに食事が美味しいだのイスが快適だの喜んでるの?
追記)
これが例えばスポーツカーや歓楽街のバーとか富裕層相手しか相手がいないようなコンテンツだったらこんなこと書いてない。そんなものは論外だし、子供や若者を持ち込むなで終わってる。
現実は知らないけど、公共交通の体裁であれば、そういった課金要素はいくらでも省くことはできたんじゃないかとも思えてしまうのよ。
もちろんそれはないと成立しないところはもう仕方ないにしても、あからさまに狙った課金要素だったり、必要のないところでいちいち突拍子もないホイホイ要素を入れてくるこの風潮に疑問を感じている。
そして、そういう突拍子もないホイホイ要素を入れてくる鉄道路線がとにかく多すぎるんじゃないかと思うのよね。
これはこないだ大阪に行って感じた、観測範囲が非常に狭いものではあるけれど、そんなのばかりで、コメントではやはり5chと同じく「座席が快適」だの「ブヒブヒ」だの。
久しぶりに電車で旅行して非常に不快になったし、鉄道が大金持ちの娯楽施設にしかなっていないことがどうにも残念で仕方ない気持ちになったんだ。俺は貧しくはない方だけど、本当にこいつら気持ち悪いと思えてしまうのよ。
それだけの需要があるから運行業者側はやってることだとは思うんだけど、お前らがそれに乗っかって最高に気持ち悪い反応するからそういう風潮になったんだとストレス発散のためにここに書いてしまったということもある。
先日、結婚前にお付き合いをしていた女性から突然Facebookでメッセがあった。付き合っていた期間は半年ほど。
もともとモデルなどをしていた女性だったが、当時お互い三十路になろうかというところで結婚も意識し始めていたのだが、結婚直前にモデルの撮影会と称した若干いかがわしい撮影会に参加していたことがわかり、それがきっかけでこちらからお断りした。
その後数年たってこちらも記憶の彼方に押し込んでいたが、いまさらメッセで、あのときの恨みつらみを述べられた。
まぁ、こちら妻子いる身なので特段相手にもしなかったのだが、彼女のSNSを見てみるとその後そこそこ年上の大手企業の役員クラスの方と結婚されたようで、専業主婦としてそれなりに裕福な暮らしをされているよう。
高級スポーツカーを買ってもらい、毎日エステにジムに友人とのホームパーティにと自分磨きを欠かさない模様。
モデルをしていたこともあるからかオーディションに参加したり、ライブ配信などもされているようだが、
たまたまツイッターを見つけたところ、書いているのは旦那への罵詈雑言。そしてなぜ自分が愛されないのかといういじけ。
自分の意見や考えに合わないユーザに対しての攻撃などもあり正直大人の女性がすることではないなと。
上記はかなりオブラートに包んで書いているが、言わせてもらうと40近いババアが10代の子が出るようなオーディションに参加しているなど傍目から見ても痛々しいし、ライブ配信のアーカイブを見ても私が知ってることとは比べ物にならないくらい容姿のレベルも落ちているのに、自己満足の陶酔にひたり夫の給料で買い与えてもらっている高級品をこれ見よがしにアピールしながらも自分は誰からも愛されないなどとよく書けるなぁと。
私は振った側なので、今後どうとということはなく、結婚しなくてよかった、と安堵するところではあるが、
やはり専業主婦で暇で時間を持て余しながらも自己顕示欲が強く未だに過去を捨てされない人間こうもゆがんでいくものかと、毎日楽しみにしながら彼女のツイッターを眺めている。
なんで狭い道でスポーツカー乗っちゃいけないって思ったの?