はてなキーワード: アブストラクトとは
写実的で実存感に溢れる流麗な映像と共にかかるThe WHOのMy Generationに、山田尚子監督と京都アニメーションの円熟と"私(達)の時代の話をしているんだ"という監督の高らかな宣言を感じた。
単行本7巻分の原作を2時間にシェイプアップされた映像は、大胆な再構成と説明要素の排除で進行される。
原作で描かれた硝子の主観はほぼほぼ排除されている。硝子は聴覚障害があり、手話と不明瞭な言葉でしかコミュニケーションを取ることが出来ない。
それは劇中でもありのまま描かれ、我々健聴者は彼女が何を言っているのか正確に理解できない。
将也や、その他の登場人物の反応で保管できる部分はあるが、原作のように硝子の視点も用意されておらず、想像の範疇を出ない。(なんとモノローグすらない)
つまり観客は彼女に同化することを構造上許されていないのだ。(これは字幕上映を観ることで考えが変わるかもしれない)
物言えぬ硝子を介して、将也はコミュニケーションを、人の間で生きていくことを学ぶ。
しかし原作で大きく扱われていた周辺登場人物との関係(欺瞞に満ちた映画作り〜かつて失くしたコミュニケーションの復活・その崩壊・硝子による再構築)も排除されている。
将也の成長物語のみに徹底的にフォーカスした結果、将也の成長を促す硝子を含むすべての周辺登場人物へのフォーカスを切り捨てたのだ。
それでは山田尚子監督及び京都アニメーションのスタッフ陣はどのような物語の演出方法を取ったのか?
それは徹底的なリアリズムと情感を託された映像密度と、そこにあるもの以外語らない、という選択だったのだと思う。
ノイジーでインダストリアルな劇伴と静かに喋る将也と物言えぬ硝子。大きなカタルシスを用意するでもなく(物語上には存在するが、ここで挙げるのは演出上のカタルシス)、ただただ丁寧に心の機微は描く。
その役割は言語化されたコミュニケーションが大前提な劇映画では異常なほど、人物(言語)ではなく映像に委ねられている。
象徴的に繰り返し映し出される様々な花のモチーフにも、それぞれ意味があり、雄弁に語る。しかしそこに言語はない。
とても静かな映画だった。
それは聴覚障害・コミュニケーション・少年の成長、という大きな主題を映像化する上でベターな選択だったし、原作モノを再解釈して色を付ける、しかしあくまで原作の範疇から出ることはせず、映像化にあたっての最良の選択だった。
「けいおん!」で見せた山田尚子監督のバケモノ級の構成力がいままさに円熟しているのを感じずには居られなかった。
もちろんその演出を選択できる体力としての京都アニメーションのスタッフの技量があってのこの映画だったと思う。
「響け!ユーフォニアム」で到達点を見せたと思われた、写実的で被写体とキャメラの存在を追求した京都アニメーションのレイアウト〜撮影までの画作りの更なる進化があってこそ、将也の心情に寄り添った雄弁な映像は生まれたのだ。
先週観た「君の名は。」で新海誠が描いていた、印象だけで構成された陳腐で空虚でしかないセンスの欠片もない映像と退屈で死にそうなほど単純なボーイミーツガール、ポストエヴァ世代の終わりなき呪縛を今作は問題外と言わんばかりに完璧に凌駕していた。比較対象が雑魚すぎるきらいもあるが、あらゆる意味で次元が違った。
新海誠に代表されるセカイ系の次世代として2000年代後半に登場した、近景に特化した所謂空気系の旗手として君臨した「けいおん!」は物語の歴史の中でノスタルジックかつアブストラクトなエポック的作品だったが、その監督である山田尚子と京都アニメーションがさらなる次世代を紡ぐ、体制側・システムとしての完成をみたのが今作だったと思う。
オルタナティブとしての物語を自分のストーリーとして受け取る現世代のための物語装置を創りだすシステムとしての京都アニメーション。
圧倒的なクオリティと確実なチョイスで、先陣を切りそれを体現していく山田尚子。恐ろしいことに今回は萌えを武器にもしていないのだ。
派手な爆発も、世界を救う大いなる力も、悩める個人と直結したセカイも、今作の持つ超弩級の冷静さの前では旧態依然とした使い古されたアイデアでしか無かった。
それでも丁寧に丁寧に人の手で作られたアニメーションは、絵が動き、実写以上の実存感を持って我々の心に寄り添い訴えてくる。
同時代に生きられることに感謝し、最大級の賛美を持って新時代の幕開けを向かい入れたいと思った。
必見。
最近、ビリギャル効果か、「慶應SFC」というワードをよく聞くようになりましたよね。それとともに「慶應でもSFCは簡単だ」とか「SFCは慶應じゃない」なんてネガティブな書き込みも見かけるようになりました。
こんな言葉を見てしまった後だと、純粋にビリギャルを楽しめなくなってしまいますよね…。
そこで、噂の慶應SFCの難易度のホントのところをまとめてみました。
これからビリギャルを見に行く方だけではなく、慶應SFCを受験される方の参考にもなるかとも思いますので、よろしければ最後までお付き合い下さい。
・0 アブストラクト(簡単なまとめ)
・2.2.1 SFCが河合塾偏差値において東大理三と並ぶカラクリ
・5 全体のまとめ
今回の調査では慶應SFCの難易度(や人気)について調べました。その結果は、
となりました。
していること、
逆に上智経済合格者については、3割程度しか慶應SFCに落ちていない(つまり、上智経済合格者の7割近い人が慶應SFCにも合格している)
ということが分かり、
世間で言われているより難しい
のではないかと結論づけました。
慶應SFCとは、慶應義塾Shonan Fujisawa Campusの略で、湘南にキャンパスを持つ環境情報学部と総合政策学部(+看護医療学部)のことを指します。いわゆる文理融合型(学際系)学部であり、設立当初は評価も高く「文理どちらとも」が学べるキャンパスとして1990年代に一斉を風靡した歴史などもあるほどです。また、慶應SFCが日本で初めて導入したAO入試も「ペーパーテスト至上主義からの脱却」として大変もてはやされたそう。しかし、近年では文理融合型学部やAO入試は珍しいものではなくなりました。さらに、湘南という立地の悪さも相まって2000年以降に偏差値が急落[1]、加えて就職率の悪さから「プータロー製造工場」とまで週刊誌に書かれる事態にまでなったそうです[2]。(現在の就職状況は悪くないようです)
ところで、慶應SFCが簡単と言われる理由は大きく分けて3つ存在します。
(1)については、パスナビや公式ページなどにも記されている通りであり、紛れも無く事実です。また、(3)については今時の有名私立大学ならばどこでもやっていることですよね(笑)。国立と違い、私立はブランド力を維持しなければ存続ができないため、ある程度しかたがないことです。
そこで、本記事では特に(2)について「偏差値」「W合格者進学先」「併願合格対決」などの観点から分析することにしましょう。
[1] 教えてgoo 慶應SFCはどうして偏差値急落したの?(http://oshiete.goo.ne.jp/qa/1437209.html)中の代ゼミ資料より
[2] SFC CLIP SFCバブルとSFC生の就職(http://sfcclip.net/series2010040901/)
まず、偏差値ランクの代表格とも言える、歴史ある「代ゼミ偏差値」に関してです。
(現在、代ゼミは模試事業を撤退してしまったため少し古いものになりますが2014年入試用ので見てみましょう)
2014年 代ゼミ偏差値ランキング
実際に2014年度受験用の代ゼミ偏差値ランクを見てみますと(慶應総合政策付近抜粋)
2014年度受験用の代ゼミ偏差値ランク
66
65
とのことで、確かに慶應総合政策は明治政経に負けているようです。
しかし、法学の名門と呼ばれる中央大の法学部(政治学科)よりも高い偏差値をマークしていることから、十分に高い難易度であると言い切ってよいでしょう。
一科目しか課されないことを考慮しても、合格は相当に難しそうです。
[3] 偏差値が明治大未満に。慶應SFCはついに日東駒専レベルになったのか。 (http://anond.hatelabo.jp/20140410022735)
こちらに関しては最新偏差値が公式ページ[4]から偏差値を見ることが出来ます。
河合塾2016年度受験用(15/06/22更新)
驚きですよね(笑)
参考程度に東大の医学部(理科三類)の偏差値も記しておきましたが、こちらと慶應SFCは河合塾によると同偏差値ランクのようです。
確かに入試科目数が違うとはいえ、河合塾によると東大理三と並ぶ日本最難関レベルになってしまいますが…。少しだけ違和感が残りますよね。
それもそのはず。
実は、慶應SFCがこの偏差値にランクされるようになるのには少しだけカラクリがあるからです。
[4] 河合塾 入試難易予想ランキング表(http://www.keinet.ne.jp/rank/)
ポイントは
という所のようです。
慶應SFCの入試難易度は非常にはかりにくいため、意見が分かれる傾向にあります。
小論文が合否を分ける試験というのは大学受験ではわりと珍しく、また、偏差値も存在しないため、入試難易度をはかることが難しくなってしまっています。
また、各予備校が出す偏差値も極端に差が出ているため、それもまた、受験生を惑わす一因になっている様です。
①なぜ、各予備校ごとに出す偏差値が変わってくるのか。
慶應SFCは上述したように、小論文で合否が変わる学校です。そのため「合格者平均」偏差値は低くなります。しかし、高い偏差値をマークしていても、小論文で本番ミスれば即不合格なので「合格者ボーダー」偏差値は高く出る傾向にあるのです。
そのため、「合格者ボーダー偏差値」を表記している河合塾では非常に高い偏差値(慶應法以上)が、「合格者平均偏差値」表示の代ゼミでは「明治政経」レベルの偏差値が算出されるのです。
偏差値は学科試験の難易度しかはかっておらず、そのため例え学科が偏差値72.5であったとしても小論文の出来次第では落ちてしまう可能性があるため、合格する確率が5割の偏差値ラインをはかることが出来ません。
このようなことから、
という事態になっているそうです。
これは、実際に河合塾が公表している合格者「平均」偏差値データからも分かります。
河合塾合格者平均偏差値
2014 慶應義塾大学環境情報学部 合格者平均偏差値 64.2
2013 慶應義塾大学環境情報学部 合格者平均偏差値 62.1
2012 慶應義塾大学環境情報学部 合格者平均偏差値 63.7
---引用---
ボーダー偏差値の方では72.5もあった慶應義塾環境情報学部ですが、
2016年度受験用駿台全国(ハイレベル)偏差値
早稲田大 法 64
---引用---
駿台予備校 ISUM専用コンテンツ 合格目標ライン(http://www2.sundai.ac.jp/yobi/sv/index.html)
こんな感じでしょうか。
慶應SFCと他大学にどちらとも合格した場合、どちらに進学するのか…。
少し気になりますよね。
そこで、こちらについても調べてみました。
…ですが、見つかった資料は一つだけでした。
それがこちらです。
早稲田VS慶應。学部別「W合格進学者対決」 (http://anond.hatelabo.jp/20141127051428)
な、なんと…。
一つだけしか載っておらず、全員が早稲田政経へ進学…。早稲田政経と慶應SFCの間には圧倒的な差があるのですね。
しかし、この結果は慶應法と並んで私大最難関と称される早稲田政経であるが故かもしれません。上智やMARCHとの比較も気になるところですね。
最後に、併願合否対決を見てみましょう。
併願合否対決とは
偏差値のようなマジックが働きにくく、客観的な難易度比較には向いていると言われています。
それでは慶應SFCの併願合否対決データ[7]を見てみましょう。
(こちらも出典元は河合塾の慶大塾、早大塾に記載されているものです。)
慶應環境情報併願合否結果(河合塾サイト、慶大塾より引用)
大学 受験者数 当該◯併願◯ 当該◯併願× 当該×併願○ 合格者の併願成功率 慶應総合 550 39 70 42 35.8% 慶應経済 271 13 37 13 26.0% 慶應商 171 4 16 13 25.0% 早大社学 137 3 26 4 10.3% 上智経済 126 14 23 7 37.8% ---引用---
慶應SFC W合格対決データ(河合塾) (http://anond.hatelabo.jp/20141127052807)
慶應SFC(環境情報)の合格者音9割が早稲田の社会学部に不合格に、6割程度が上智経済に不合格になっていることがわかります。
逆に上智経済を合格した人の67%がSFCに合格していることも読み取れます。ここから、併願対決を見る限りでは
ことが客観的に言えるのではないでしょうか。
合格者平均偏差値データでは
合格者ボーダーでは
W合格進学先では
併願合否対決では
と言った感じではないでしょうか。
確かに早慶上智の中では簡単な方かもしれないが、上位MARCHレベル以上はある可能性もあり、世間で言われているほど簡単ではない。
と結論付ける事ができると思いますし、少なくとも、「偏差値がMARCHに負けている」とは言えないと思います。
(当然、入試科目が一科目であるため三科目を学ぶより簡単だという意見もありますが…)
そのため…
他の人も書いているけど、諦めずに続けていれば、そのうちにスピードは上がってくる。
それぐらいの英語力だと関係代名詞がこれにかかって…みたいな読み方になるかもしれないけど、慣れてくれば文章の頭から理解できるようになる。これは続けていくしかない。リスニングの練習をすると、英語を頭から理解するためのトレーニングになるかもしれない。
単語力が足りてない可能性も高い。いちいち辞書を引いていると、どうしてもスピードが落ちるので、よく出てくる単語はやはり暗記しておいたほうがいい。
あと、英語力のアップに加えて、背景知識がついてくると「正直、文法的にはよく分からないんだけど、言っていることはわかる」ということも多くなる。
ここで気をつけたほうがいいのは、ぱっと読んで何が書いてあるのかがわからないというのは、重要なことが書いてある可能性が高いということ。背景知識で読めないのは、自分にとって意外なことが書いてある可能性が高いということでもある。なので、ぱっと見で読めない箇所はわりと丁寧に読んだほうがいいと思う。
時間がないけど論文の概要を把握する必要があるときには、アブストラクトのほかに段落の最初と最後の文章だけ読んでいくというやり方もある。英語論文の段落分けはけっこう厳密なことが多く、段落の最初に「その段落で言おうとしていることの要約」、段落の最後で「その段落で言ったことの要約または次の段落へのつなぎ」という構成になっている。だから、段落の最初と最後の文章だけ読んでいけば、それなりに意味は把握できる。もちろん、論文をちゃんと理解するためには、全部読んだほうがいいと思うけど。
最後に、著者自身の文章力もある。分かりやすい英語を書く人もいれば、ものすごく分かりにくい英語を書く人もいる。だから、ある論文がさっぱり分からなくても一喜一憂せずにいろいろと読んでみるといいんじゃないかと思う。
あー、なんだい?論文を書きたいって?でも初めて書くから書き方が分からないって?ああ、そりゃ大変だね。自慢じゃないけどおじさんは自分で論文を書けるようになるまで10年かかった。まあ簡単には書けないさ。すぐに出来なくても焦らなくていいよ。ペーパーテストじゃないんだからね。何回書き直したっていいし、どれだけ時間が掛かってもいい。もちろん辞書は使いたい放題だし、ググルスカラで気の利いた表現はすぐ出てくる。間違った表現かどうかも分かる。エキサイト翻訳の精度も随分上がったしね。ちょっとお金出したら業者が校閲してくれるしね。英語なんて高校生レベルで十分さ。問題は研究結果だよ。当たり前の事だけど新奇性が十分無いといけない。でも君は普段から先行研究を十分サーベイしてたよね。そこは大丈夫な筈だ。もし君の研究に今までに無い知見があって、君がそれを永遠の形に残したいと思うのなら、じゃあ論文を書いていいんだよ。論文の書き方には色んな流儀がある、どんな風に書いたっていいんだよ、多分ね。重要なのは読んだ人にメッセージが伝わること、そして標準的なサイエンティストの批判に十分耐えられること、この二点だけだ。後者は色々難しいかな。人によって「標準的」は随分違うしね。物理学会の領域8みたいなdisり合戦に十分耐え、どんなクレーマーにもびくともしないデータの質、精密な議論。そりゃあ、望ましいけど、多くの場合はオーバースペックだよ。年を取ってこだわりたくなったらトライすればいい。最初はデビューすることだ。君の論文の伝えたいこと、メッセージ、が標準的な科学者が納得できるエビデンスが揃ったらどんどん進めばいい。周りの人が「もう論文書けるね」とか言い始めたらそれがシグナルだ。論文を一度書くと、人の論文の読み方も変わってくる。場合によっては査読が回って来たりする。それが論文を書く時に役に立つ。この感覚はやってみないと分からない事が多いと思う。最初から完璧に書こうとせずに、何本も書きながら成長する方が遥かに効率的だよ。ある先生は論文を書けない私を「3本書きましょう、3本書いたらみんな書けるようになりますよ」と励ましてくれたんだけどね、これは金言だと思うよ。じゃあ具体的な話に移るよ。まずタイトルだ。これは出来るだけ短く、しかし君のメッセージを出来るだけ伝わるように選ぶ。この二つを両立させるのは難しい?まずは後者で作って、その後、少しずつ削ればいいんだよ。そして意味が不明になる直前で止める。これで終わりさ。次はアブストラクト。アブストラクトは論文に書いた後に書くって流儀もあるそうだけど、私はアブストラクトが書けないうちは論文を書かない方が良いと思う。だってアブストラクト~君の伝えたいこと、メッセージ、だからね。これが固まっていないと迷子になると思うよ。アブストラクトは全体の設計図、骨格なんだよ。そして次にイントロダクション。イントロダクションと結論は対応していないとダメだからね。結論を意識して、読者に結論を理解出来る必要十分な情報を提供するのがイントロの役割だ。もちろんこの際、先行研究を正当にリファーする必要がある。自分の結果の新奇性を十分に主張するためには自然とそうなると思うけどね。次にエクスペリメンタル。ここはそんなに難しくないかな?そして肝心のリザルツアンドディスカッション。ここは先ずグラフを先に作るほうが良いと思う。君のメッセージを一目で伝えてくれるような分かりやすくて美しい図、それを作るんだ。図の作製は重要だよ。論文を読む時は図だけ先に読めとか良く言うでしょ?ログ-ログ,リニア-ログ,リニア-リニア,色んなプロットを試してもっとも良いのを選ぶんだ。そして図を、君のメッセーが伝えやすいような順番で並べる。レターだったら3つぐらいフルペーパーだったら10を超える事もあるかもね。とにかく色んな順序で並べてみて、君のメッセージを伝えるストーリーを考えるだ。もっとも分かりやすい順番を選べば良い。数学の証明のように順を追って謎を解き明かず方法もあるだろう。最も重要なメッセージを伝える図を最初に示して、それを補強していくやり方もあるだろう。どちらにせよ基本的に英語は一本道だ。日本語みたいに、「なお」「話は変わるが」みたいな唐突に話を変えるような事は殆ど出来ない。そう考えると自ずと解は多くない。ここまで出来たら後は文章化するだけだ。On the other hand, moreover, in contrast みたいな単語で文章をつなげれば良い。これは色んなサイトで表現を紹介しているよね。便利な時代だ。最後に結論。Summaryだとほんとに本文を拾ってくるだけでもいい。最初はこれで十分だと思う。慣れてきたらSummaryとConclusionの違いを意識してみる、とか色々考えればいい。投げやりだって?ごめん、勢いで書き始めたけどもう眠いんだよ。最後に君に是非伝えたいメッセージがある。論文を書くという作業は楽しい物なんだよ。君の研究結果を永遠に、多くの人に伝わる形に結晶化させる作業だからね。早くその楽しさを知って欲しかったのさ。
元増田です。
言い方が悪いかもしれないけど、イントロは『その系に注目した動機』を書く場所で、書いて、『動機とその自分がやった個所の結果を端的に(アブストラクトがあればいらない)』かとおもう。
これは、何を動機と呼ぶか、なんですよ。
じゃあ、めーっちゃしょうもない例え話をするよ。
ドラえもんというマンガの研究をした人が、日本のマンガの研究をする意義を述べた後、ドラえもんの研究がどこまで進んでいて、
まだ何を明らかにする必要があるか、と書いたとするよ。
この場合、『ドラえもんの研究がどこまで進んでいて、まだ何を明らかにする必要があるか』は、ドラえもん研究をする上での重要な動機付けですよね。
それがなければ、なぜその論文で行っている実験をしていくかが本当の意味ではわからないはずなんです。
しかし、たぶん増田さんも、うちの教授も、『日本のマンガの研究をする意義』を述べるだけで十分だ、っていってるんだと思うんだよね
これはとてもおかしなことで、明らかになってない部分を詳細に書くことがすなわち細かい意味でも研究の動機づけになってるはずなんです。
そして、門外漢を想定した場合のほうが、より詳細に書くべきなんですよ。
であっていいと思うし、俺だってそこまで冗長に詳細に書かないよ。
今後 学会などで外の教授に読んでもらうときにコレでは重すぎると感じる人がいる。という指摘だと思って受け入れたほうがいいと思う。
学会発表でも簡潔に書くよ。
でも、今回は修論なんですよ。
門外漢が添削してる、とはいえ、同じ研究科の近い分野の教授が読むんですよ?
「背景を詳細に書いたらわかりにくい」なんて、言い換えたら、
「詳しく書かれてると読むのに骨が折れるから読みたくない」とか
「学生の修論なんかこんなもんでいいでしょーってノリで添削しようとするには難しかった」とか
「難解なものは俺は理解できない」とか、言ってるようなもんだと思う。
それか、もちろん、文章が下手、っていうのもあるかもしれない。
だから俺は、学生がイントロが削られた、と言っているのを聞いて、
「じゃあ意義がもっとわかりやすくなるように、削れと言われた部分についてはより詳細に書いてみたらどうだろうか」
なんて言ってもみた。
でもやっぱ、そういう問題じゃないんだよね。
つまりまあ、今回の一番のポイントは、今回が修論だ、ってことだと思うのですよね。
学生が積極的に努力した結晶を、個人的な趣味によって完全否定したことが問題なんです。
これでは学生の、若い人の積極性が育たないし、いいことなんてひとつもない。
学生が明らかに間違っていたり、指導教官の譲れない部分であったら、仕方ない部分もあるよ。
しかし、今回は全体を通して読みもせず、部分だけ見た思い付きで、「んーここ長いし細かいからわかんない、いらない」って否定しているんだよ。
これが許せると思う?
っていうことなんです。
伝わればよいのですけど。
あとついでに。
いえ、これは人類が未だかつて誰も明らかにしていないことです。
『私がわかっていないと思う。』ことでしか無いなら文献調査不足です。
僕ではわからん、すごいことをしているんだろうから、がんばってこの国を引っ張っていってくださいな。ただ、世の中には専門外とかFランもいるんだ。ということは忘れないでね。
これは、研究費調達のための申請書なんかは、まさにそういう書き方をするんですよね。
あと、合コンや、親せきのおばちゃんにたずねられた時も、そんな意識はしますよね。
今回は修論の話なのでー。
『何がどこまでわかっていて』
無いと思う。
わかっていないことを書かれても、それは、『私がわかっていないと思う。』ことでしか無いからなぁ。
わかっていなかったので、調べようと思った。その結果Xだった。 詳しく述べると・・・ がイントロかと。
全文を見てないからわからないけど、アブストラクトがあればアブストラクトと考察かと。
そういう意味ではすまん。
ただ、わざわざイントロを書くなら、『わかっていなかったので、調べようと思った。その結果Xだった。』かとおもう。
『何が課題となっているか』は少なくとも、その時点で、そこを読む人間には関係の無いこと。
論文は話したいことではなく、聞く人にとって価値のあることを伝えるという視点で書くものだから。動機があれば十分。
言い方を変えれば、査読者はディスカッションがしたいわけじゃなくて、事実に反しているかどうか?だけを確認して問題ないか?という物を見るのであってディスカッションしたいわけじゃないかと。
専門分野じゃないので、専門分野外の人に査読を頼むなら、そうなるとおもう。
専門外だけど知識のある人に査読をお願いして、ディスカッションがしたいといったら、それは、ちょっと嫌な顔をされるかと。
ごめん、すくなくとも私はこの教授と同じように習ったよ。そして、それでいいとおもってる。
言い方が悪いかもしれないけど、イントロは『その系に注目した動機』を書く場所で、書いて、『動機とその自分がやった個所の結果を端的に(アブストラクトがあればいらない)』かとおもう。
本来アブストラクトもイントロも この論文を読む必要性がある人、無い人を 振り分けるためのキーであって、本文ではないから、そこに余計な情報を突っ込まない。ことがマナーという認識。
詳しく知りたい人は本文を読んでね。と。その傾向はむしろ、アブストラクトだと思うけど。イントロに重いことを書いたら冗長という査読が入るのはなっとくな気がする。
個人的には教授が言っていることが正しいと思う。
査読教授は指導教授じゃないので、余計な時間を使わせずに、端的に説明するのがマナーだと思う。
その教授が言いたいのは、オレに合わせろ というより、今後 学会などで外の教授に読んでもらうときにコレでは重すぎると感じる人がいる。という指摘だと思って受け入れたほうがいいと思う。
これも長文で十分重いけど。
自分が何を言いたいか?ばかりを書いて、読み手の気持ちになって情報を並べていったか?というのがわからんかった。という風に読んでもらってもいいよ? 努力とか、あの子がとか 書き手の都合が並べられていたから。
僕ではわからん、すごいことをしているんだろうから、がんばってこの国を引っ張っていってくださいな。ただ、世の中には専門外とかFランもいるんだ。ということは忘れないでね。
「問い」を持って読む/あまりに基本的過ぎてあまり触れないこと
ttp://readingmonkey.blog45.fc2.com/blog-entry-233.html
文献を効率的にかつ深く読むためには、「問い」を持って読むことだ。
「問い」を持つものは、程度の差こそあれ、「答え」について予想を持っている。
たとえば、どんな条件を満たせば、答えと言えるのかについて(少なくともある程度)知っている。
だからこそ、「答え」に行き当たったとき、それが「答え」かどうかの判断が付く。
研究の成果として生みだされる文献は、それ自身の問いと答えを必ず持っている。
現代では、その文献が抱える問いと提示する答えは、タイトルや要約(アブストラクト)、序文などに明示されている。
すべて読まなくても、その文献を読むべきかどうか、判断が付くようにだ。
読むかどうかの判断は、当然読み手にゆだねられる。
自身の「問い」を持つ読み手は、こう問い掛けることで、その判断を付ける。
すなわち、「この文献は、自分がいま抱いている「問い」に答えることに、果たして役に立つのか?」。
役に立つと判断が付けば、読み続ける。
役に立たないと判断すれば、読むのをやめて、別の文献を手にとる。
読む/読まないを判断する力を身に付けるには、予想を立てる習慣をつける必要がある。
タイトルから、その論文の取り上げている対象と、答えと、答えへのたどり着き方を予想し、その後、アブストラクトや序文を読んで、自分の予想が正しいかどうか確かめる。
同様の予想と確認を、各章や各節ごとに行なう。
予想が外れても、まずいことはひとつもない。
繰り返し、何度も問い、挑めばいい。
文献はあなたに飽きて、あなたを放りだしたりはしない。
放り出するのは、いつも必ず、読み手のほうだ。
文献は、何度も途中で放りだした不実な読み手をも、変わらず迎え入れてくれる。
場合によっては、あなたが予想したものの方が、今読んでいる論文よりも優れていることだってある。
もちろん、あなたがその分野に明るくなく、素人同然で、予想なんてできない場合だってあるだろう。
誰もがそうした道を通ってきている。
それでも、無理やりにでも予想してから確認する、というのを続けた方が、長い目で見れば、有用な能力を鍛えることができる。
一方、 「問い」を持たない読み手は、読み続けるべきかどうかの判断基準を持たない。
とりあえず、文献が提示しているらしい「問い」と「答え」と「証拠づけ」に付きあうのかどうか、決めなくてはならない。
付きあうことに決めた場合でも、まずはその「問い」を自分のものとして捉え、やはり「答え」や答えを求め確かめるアプローチを予想しながら進むべきだろう。
予想が外れてもその方が、ただ付きあうよりも、その論文が提示する答えやアプローチが、読み手に深く刻まれる。
そして繰りかえすが、予想能力が鍛えられる。
場合によっては、未だ未熟な段階で、立てた予想が、後日、自分自身の研究の助けになるかもしれない。そんな僥倖も、時には訪れる。問い続ける者のところには。
予想能力がある一定の線を越えると、(これは分野にもよるが)、たとえば図表をみただけで、その論文や研究の細部まで予想が付くようになる。
これで、その分野での研究者として、スタートラインに立つ必要条件のひとつを満たしたことになる。
「問い」を持って読むことで、あなたは必要な文献の、必要な箇所だけを読むことができる。
そして、それはあなた自身の「問い」からすれば、とても深くその文献を読む事でもある。
時に、文献の持つ「厚み」よりも深く、である。
「問い」は、文献の奥底まで届く弾丸だ。
ある時、あなたの「問い」は、あなたが手にした、いずれの文献をも貫通するだろう。
世界中のどんな文献も、それらをどれだけ重ねても、受けとめられないその「問い」こそは、あなた自身が答えを見つけなければならない「問い」だ。
大雑把に言って、文献はこのように読むものだ。
読売新聞に「基礎からわかる外国人参政権」という1面を使った解説記事が載ってたので、新聞社のスタンスの参考として紹介しますね。
出典:2009/1/14 発行 読売新聞東京本社 13面(13版)
(なお、項番と丸括弧内は私が勝手に補足した。)
1. (ニュース的な直近の動き)
2. Q なぜ今議論するのか
3. Q 民主の方針は
4. (周辺知識)
4-1. Q 永住外国人とは
<見出し:国内に約91万人>
4-2. Q 諸外国の対応は
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・民団の支持の内容説明。
・最大の懸念は憲法違反。
・積極論者の持ち出す傍論は法的拘束力を持たない。
・地方自治体で外国人が選挙権を行使すると国政にも支障を及ぼす恐れ。
・90年代からの年表。
・90年代には推進の立場を取る動きが地方議会などに広まった。
・民主党政権で現実味が出てきたので、反対するケースが増えてきた。
・地方自治体の選挙が外国人の思惑で左右されかねない、という危機感から。
・昔から民主党の方針だった
・党内に反対意見が多い
・マニフェストには入ってなかった
・一般永住者と特別永住者の説明
・米国
・原則参政権無し
・欧州
・韓国
・韓国永住日本人は少ないので相互主義論の根拠にならないとの声
----
反対論に基づいて組み立てられた記事なのは別に構わないです。
ただ、憲法解釈については違憲を「臭わせる」。手法はマスコミの汚い面ですね。違憲なんだったら、学者呼んで来て確実なことしゃべらせればいいのに。
諸外国の対応については、国籍取得条件とセットにしないと、諸外国が外国人に固く門戸を閉ざしてるように見えてしまいますね。実際には米国は出生地主義、大雑把に欧州の多くの国でも永住外国人の子孫は国籍を得られるんじゃなかったっけ?米国や欧州の基準を日本に当てはめると、特別永住外国人(いわゆる在日)はほとんど日本国籍を持ってることになるのでは。
以上
なにかがモノになるとか、モノになったレベルが想像できるとか、そういうとこまで行くには長い時間がかかるよ。
知ろうともしないで書き(描き)散らすなとか知ったかぶるなとか、言ってるつもりになるなとか、なんかすげー権威主義的なことを言ってる人々がいて、要するに自分のスキルフルなエリアを塹壕化してそっから機関銃撃って、顔の見えないワナビーをオーバーキルしてるのに気づきもしないのですよ。あんたらのことだ、id:chnpk に id:Midas 匿名の卑怯者とは俺のことだ。
あーむかつく‥まあそういうひとびとへの怒りもまた地道な努力の原動力になりうるし、そういうひとびとにそういう話をするとモチヴェートしてやってんだから感謝しろくらいのことはいわれそうだ。
まあともかくものがちゃんと考えられる、調べるべきこと、押さえるべきところ、どこを見ていけばいいか、そういうのはすぐにはできないものなので、愚直にがんばりましょう。
自分だって英語の論文に書いてあることの大意が(アブストラクトに書いてあるよりはもうすこし)わかるようになるのに5年かかった。
ネガコメすんなとか、ネガコメって何だよとか、いろいろ盛り上がってるね。
はてブ2.0に超期待とか。はてブもつまらなくなったな、とか。
でも思うんだ。ネガコメすんなっていう人(アンチネガコメ((ここでは所謂コメントの質が下がったとか、ネガコメが陳腐化してるなぁとか言って、あきれている人は含んでいるつもりはありません))と呼ぶことにします)とかって若干先鋭化し始めてるように(自分からは)みえるところがあって、言ってることとやってることが逆さまになってたりとか、非難してる人間と同質な事をしてたりするんじゃないかと。ネガコメに対してネガコメを返すとか。ネガコメidをdisりまくりーみたいな。てか増田であるよね、そういうの。ネガコメidを共有するとか、ネガコメするやつは死ねとか。
自分としては、それってテロリストとテロとの戦いと同質の構図じゃねぇの? と思うわけです。その行動の結果はスパイラルを生むだけですよ。
まぁ大体(「アンチネガコメなひとに」)やられたやつって言うのは別にダメージなくて、むしろニヤニヤしながらそういう見てたりするんだけど、本人たちは大まじめに言ってる。実効性ゼロ、むしろそのネガコメidに対して燃料を与えているに過ぎないわけです。
「アンチネガコメ」な人たちはいつも同じ様に、彼らに燃料を送り込んでは自分を燃やしてる、そういう風に見えるわけです。自分から見ると。
いや、何もするな、粛々とネガコメの餌食になれば良いんだという訳ではもちろんなくて。
もっと良い方法ってあるんじゃないの? ということ。いや、むしろ、「だんだん自分もそうなってますよ」と、俺が言いたいだけか。
つまり、どこまでがネガコメなのか、ということ。
たとえば、多少辛辣さが入ってればなんでもネガコメなのか。それがあからさまな悪意であろうが、そうでなかろうが関係なく?
要するに大量のid(など)から「匿名」か「匿名っぽく」自分の考えを「否定される」ことがいやなんだろうなと言うことだとりかいしてるんだろうけど、それは現実世界でもよくあることで。つまり、偽装したり、脱法・違法行為を働いた企業に対してマスコミとか、所謂街角の人が「あれ、いけんよねぇ」って言ったりとかしてるように。
てかホッテントリ入りするようなエントリって、そういった風な、昔のよくある「炎上」と同じ構図があったりするのじゃないのかなぁ。つまり論理的・倫理的に突っ込みどころがあったりとか、あと、デリケートな話題に主観だけでエントリ起こしちゃって、たこ殴りされてるとか。
たとえば、俺がダイアリーで「ワープアの人って無能で我慢が足りないんでしょ?」とかいうありがちな偏見記事を書いたとする。
したら、まず間違いなくbuyoではじまるあの人やgoodではじまるあの人、多分某有村さんや俗物記のあの人当たりから、「偏見で語るな、ハゲ」的なブコメが一杯付く。disられる。
でもそういう人は、第一にその人をdisってるんじゃなくて、「その考えをdisってる」んであって、それはそれで、一意見として認められ売るんじゃないかと。
あーいや、さっき上げた人らは確実に、「そういう思考をするその人そのものをdisってる」のが多いな。例が悪かった気がする。
つまり、ここで言いたいことは「否定されてしかるべきエントリを書いたんだから、黙って殴られてろ」っていうことでは全然なくて、「そういうブコメも一つの意見であって、大量につくのは同じように考えてる人が多いという証左ではないか」なわけで((いや、もちろん例外はあって、そいつのブクマをたぐっていくとあからさまにdisりしかしてないidも見たことあるけど))。
とはいえ、いくら意見の集合体だからといって言い様はあるだろっていう主張はもちろんあるけどね。
でも、そういうことが言いたいんなら、なおさら、「ネガコメつけるやつは死ね」っていう表現の仕方は通らないと思うんだ。
個々の事例を考えていく時に、否定したい手法を用いて用いた手法を否定するっていうのは、おかしいから。それがつまり2段落目の「テロとテロとの戦いと同質」ということ。
言いたいことが散乱してるけど、要するに、ネガコメが嫌いな人はもっと違う方法を考えた方が良いよと言うこと。
同時に、現時点では、そのネガコメが嫌いという主張もネガコメをして何が悪いという主張もほぼ等価((共通認識が得られていないから))なので、前者と同じように後者も扱われてしかるべきだから、そこら辺ちゃんと考えて策を用意しておかないと、味方は増えないだろうし、相手も説得できないよ、と思う次第。
まぁ、所謂「ネガコメ」派もちょっと自重した方が良いなとは感ずるけどね。やり過ぎというか。新自由主義的というか。
うあー、延々内容の薄いことを書いてしまった。
知り合いの言ってた「何でいちいち議論やら突っ込みを入れたがるのか」に関して言及してないし。
追記:
やったー! disってもらえた。
いや、disりなのか? あれくらいで?
さておき。
ブコメの方で
2008年11月18日 ekken communication, ★ 外からの言及は「見ない自由」を行使する自由が得られやすいことに気付けよな、アンチネガコメの人は。
っていうのがあったけど、そもそもアンチネガコメ派は「見ない自由」というものを理解してないと仮定して話を書いてみたんだ。
その上で、いろんな手法・アプローチがなされているけれども、それらに対して、妥当性や正当性を問うてみたのが上の文章。
なんだ、アブストラクトが6行で済むんじゃねぇか?
書き直しの方ですが、考えてみたいとは思います。
てかこうなるとダイアリーに起こした方が良いのかなぁ…それこそ増田である意味がないか。
あと、
>まぁ、所謂「ネガコメ」派もちょっと自重した方が良いなとは感ずるけどね。やり過ぎというか。新自由主義的というか。
ですが、これはつまり、(自分を含めた)ネガコメ派の主張は、ほとんど全て、あらゆる言説は表現の自由の発露として、かなり広く(または―ひとによっては―際限なく)認められるべきで、そういった「広く認められた自由」の中で効果的でない言説は淘汰されていくだろうという立場なんだろうけど、それは市場原理主義に基づいた新自由主義と同様の考えじゃないのかなぁ、と考えたので書いた次第。
すっげぇどうでも良いことですが、Ubuntu氏が寡黙な上にこんな話にまでブクマしてるのを見て思わずお疲れ様ですとブクマで声をかけたくなった次第。
再追記:書き直しました。以上