「問い」を持って読む/あまりに基本的過ぎてあまり触れないこと
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文献を効率的にかつ深く読むためには、「問い」を持って読むことだ。
「問い」を持つものは、程度の差こそあれ、「答え」について予想を持っている。
たとえば、どんな条件を満たせば、答えと言えるのかについて(少なくともある程度)知っている。
だからこそ、「答え」に行き当たったとき、それが「答え」かどうかの判断が付く。
研究の成果として生みだされる文献は、それ自身の問いと答えを必ず持っている。
現代では、その文献が抱える問いと提示する答えは、タイトルや要約(アブストラクト)、序文などに明示されている。
すべて読まなくても、その文献を読むべきかどうか、判断が付くようにだ。
読むかどうかの判断は、当然読み手にゆだねられる。
自身の「問い」を持つ読み手は、こう問い掛けることで、その判断を付ける。
すなわち、「この文献は、自分がいま抱いている「問い」に答えることに、果たして役に立つのか?」。
役に立つと判断が付けば、読み続ける。
役に立たないと判断すれば、読むのをやめて、別の文献を手にとる。
読む/読まないを判断する力を身に付けるには、予想を立てる習慣をつける必要がある。
タイトルから、その論文の取り上げている対象と、答えと、答えへのたどり着き方を予想し、その後、アブストラクトや序文を読んで、自分の予想が正しいかどうか確かめる。
同様の予想と確認を、各章や各節ごとに行なう。
予想が外れても、まずいことはひとつもない。
繰り返し、何度も問い、挑めばいい。
文献はあなたに飽きて、あなたを放りだしたりはしない。
放り出するのは、いつも必ず、読み手のほうだ。
文献は、何度も途中で放りだした不実な読み手をも、変わらず迎え入れてくれる。
場合によっては、あなたが予想したものの方が、今読んでいる論文よりも優れていることだってある。
もちろん、あなたがその分野に明るくなく、素人同然で、予想なんてできない場合だってあるだろう。
誰もがそうした道を通ってきている。
それでも、無理やりにでも予想してから確認する、というのを続けた方が、長い目で見れば、有用な能力を鍛えることができる。
一方、 「問い」を持たない読み手は、読み続けるべきかどうかの判断基準を持たない。
とりあえず、文献が提示しているらしい「問い」と「答え」と「証拠づけ」に付きあうのかどうか、決めなくてはならない。
付きあうことに決めた場合でも、まずはその「問い」を自分のものとして捉え、やはり「答え」や答えを求め確かめるアプローチを予想しながら進むべきだろう。
予想が外れてもその方が、ただ付きあうよりも、その論文が提示する答えやアプローチが、読み手に深く刻まれる。
そして繰りかえすが、予想能力が鍛えられる。
場合によっては、未だ未熟な段階で、立てた予想が、後日、自分自身の研究の助けになるかもしれない。そんな僥倖も、時には訪れる。問い続ける者のところには。
予想能力がある一定の線を越えると、(これは分野にもよるが)、たとえば図表をみただけで、その論文や研究の細部まで予想が付くようになる。
これで、その分野での研究者として、スタートラインに立つ必要条件のひとつを満たしたことになる。
「問い」を持って読むことで、あなたは必要な文献の、必要な箇所だけを読むことができる。
そして、それはあなた自身の「問い」からすれば、とても深くその文献を読む事でもある。
時に、文献の持つ「厚み」よりも深く、である。
「問い」は、文献の奥底まで届く弾丸だ。
ある時、あなたの「問い」は、あなたが手にした、いずれの文献をも貫通するだろう。
世界中のどんな文献も、それらをどれだけ重ねても、受けとめられないその「問い」こそは、あなた自身が答えを見つけなければならない「問い」だ。
大雑把に言って、文献はこのように読むものだ。