2010-03-13

「問い」を持って読む/あまりに基本的過ぎてあまり触れないこと

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文献を効率的にかつ深く読むためには、「問い」を持って読むことだ。

 「問い」を持つものは、程度の差こそあれ、「答え」について予想を持っている。

 たとえば、どんな条件を満たせば、答えと言えるのかについて(少なくともある程度)知っている。

 だからこそ、「答え」に行き当たったとき、それが「答え」かどうかの判断が付く。

 研究の成果として生みだされる文献は、それ自身の問いと答えを必ず持っている。

 現代では、その文献が抱える問いと提示する答えは、タイトルや要約(アブストラクト)、序文などに明示されている。

 すべて読まなくても、その文献を読むべきかどうか、判断が付くようにだ。

 読むかどうかの判断は、当然読み手にゆだねられる。

 自身の「問い」を持つ読み手は、こう問い掛けることで、その判断を付ける。

 すなわち、「この文献は、自分がいま抱いている「問い」に答えることに、果たして役に立つのか?」。

 役に立つと判断が付けば、読み続ける。

 役に立たないと判断すれば、読むのをやめて、別の文献を手にとる。

 読む/読まないを判断する力を身に付けるには、予想を立てる習慣をつける必要がある。

 タイトルから、その論文の取り上げている対象と、答えと、答えへのたどり着き方を予想し、その後、アブストラクトや序文を読んで、自分の予想が正しいかどうか確かめる。

 同様の予想と確認を、各章や各節ごとに行なう

 予想が外れても、まずいことはひとつもない。

 繰り返し、何度も問い、挑めばいい。

 

 文献はあなたに飽きて、あなたを放りだしたりはしない。

 放り出するのは、いつも必ず、読み手のほうだ。

 文献は、何度も途中で放りだした不実な読み手をも、変わらず迎え入れてくれる。

 場合によっては、あなたが予想したものの方が、今読んでいる論文よりも優れていることだってある。

 もちろん、あなたがその分野に明るくなく、素人同然で、予想なんてできない場合だってあるだろう。

 誰もがそうした道を通ってきている。

 それでも、無理やりにでも予想してから確認する、というのを続けた方が、長い目で見れば、有用な能力を鍛えることができる。

 一方、 「問い」を持たない読み手は、読み続けるべきかどうかの判断基準を持たない。

 とりあえず、文献が提示しているらしい「問い」と「答え」と「証拠づけ」に付きあうのかどうか、決めなくてはならない。

 付きあうことに決めた場合でも、まずはその「問い」を自分のものとして捉え、やはり「答え」や答えを求め確かめるアプローチを予想しながら進むべきだろう。

 予想が外れてもその方が、ただ付きあうよりも、その論文が提示する答えやアプローチが、読み手に深く刻まれる。

 そして繰りかえすが、予想能力が鍛えられる。

 場合によっては、未だ未熟な段階で、立てた予想が、後日、自分自身の研究の助けになるかもしれない。そんな僥倖も、時には訪れる。問い続ける者のところには。

 予想能力がある一定の線を越えると、(これは分野にもよるが)、たとえば図表をみただけで、その論文研究の細部まで予想が付くようになる。

 これで、その分野での研究者として、スタートラインに立つ必要条件ひとつを満たしたことになる。

 「問い」を持って読むことで、あなたは必要な文献の、必要な箇所だけを読むことができる。

 そして、それはあなた自身の「問い」からすれば、とても深くその文献を読む事でもある。

 時に、文献の持つ「厚み」よりも深く、である。

 「問い」は、文献の奥底まで届く弾丸だ。

 ある時、あなたの「問い」は、あなたが手にした、いずれの文献をも貫通するだろう。

 世界中のどんな文献も、それらをどれだけ重ねても、受けとめられないその「問い」こそは、あなた自身が答えを見つけなければならない「問い」だ。

 ようこそ、研究世界へ。

  

 大雑把に言って、文献はこのように読むものだ。

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