はてなキーワード: 浪花節とは
田代 陣基(たしろ つらもと、延宝6年(1678年) - 寛延元年(1748年))は、江戸時代の武士、佐賀藩士。通称又左衛門。『葉隠』の筆記者。口述者山本常朝、その師であった湛然和尚、石田一鼎等と共に「葉隠の四哲」の一人に数えられている。
略歴[編集]
延宝6年(1678年)、田代小左衛門宗澄の子として生まれた。 元禄9年(1696年)19歳の時より鍋島藩3代藩主鍋島綱茂、4代吉茂のもとで祐筆役として仕えたが、宝永6年(1709年)に御役御免となった。
宝永7年(1710年)、山本常朝の庵を訪れ、同じく失意の中にあった常朝と語らい合う内に常朝の言葉の口述筆記を始め、7年後の享保元年(1716年)に『葉隠』として完成させた。
5代藩主宗茂の時代の享保16年(1731年)54歳で再び祐筆役となる。 寛延元年(1748年)71歳で没し、佐賀市田代の瑞龍庵に葬られた。
瑞龍庵で葬られた際の墓碑には「松盟軒期酔之墓」と刻まれていたが、後、墓所の存在は忘れ去られた。(その法名から浪花節語りの墓と考えられていた。) 昭和13年に再発見され、昭和19年に有志により瑞龍庵に顕彰碑が建立された。その碑文には「田代陳基先生葉隠纂述記念之碑」と刻まれている。「陣」は「陳」の俗字で戦乱の際などに使われるものであるため、田代陣基への思いを込め本来の字を使用した。
今、大企業や銀行などでベンチャーキャピタル(VC)が続々と設立されており、ベンチャーやスタートアップへのリスクマネーの供給は加熱してきているように思われる。
※ベンチャーキャピタルとは何か、はこちらを参照:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%94%E3%82%BF%E3%83%AB
しかし、結論から言うと大半のVC(CVCや銀行系VC)の実態は「リスクマネー供給という名の、頭でっかちなサラリーマンが悪趣味的に行っている投資活動である」ことを断言しよう。
その理由を詳細にわけて説明していこう。ちなみに筆者は、VCから資金調達を実際にしている一スタートアップの起業家であることを注記しておく。従って、客観的に論じているつもりであっても、これはあくまで起業家から見た目線に過ぎないことにご留意いただきたい。
1つは、自社でやれることに限界を感じていること。
一言で言うと、ほとんどの大企業の新規事業は失敗する。あれだけ、ヒト、モノ、カネが揃っている大企業であっても、特にIT業界であるとベンチャーやスタートアップのスピード感に(大企業の仕組み上)勝てないからである。
もちろん、DMM.comのような大企業であっても新規事業を片っ端からどんどん仕掛けて、成功、失敗を繰り返す会社もある。
しかし、そのように自社内のリソースを使ってPDCAを高速に回して成功、失敗を繰り返すことはほとんどの大企業の仕組み上(稟議等)難しい上、上場企業であればIRというガバナンスの問題からも自社内で積極的に動いてリスクを取ることが難しいからだ。だから、自社内でそれができるDMM.comのような会社は、そもそもベンチャー投資など滅多にしない。ベンチャーやスタートアップに投資などしなくても、自社内で同じことができるからである。
だから、大企業はそれをVCという形でベンチャー投資をすることにより、なるべくリスクを抑えた上でイノベーションを起こさせ、シナジーという名の”囲い込み”を行うのである。
もう1つは、「ベンチャーキャピタル」というワード自体がバズワードであること。
これは、例えば中期経営計画等を発表している会社の資料を見るとよくあることであるが、会社として更に大きくしていくためには当然ながら何かしらに投資をする必要があるわけで、その中で最もわかりやすいのがベンチャー投資をすることによりシナジーを高めていく、というストーリ自体が今トレンドなのである。故に、中経を発表している企業には、よくアクセンチュアやボスコンといったコンサル会社から「ベンチャーキャピタルモデルで展開しましょう!」とコンサルティングを受け、ベンチャー投資に右も左もわからない状態でとりあえずVCを作ったりするわけである。
他にもいくつか理由はあるが、こういったところから大企業VC、銀行系VCがどんどんできていくわけである。
こういう理由で作られたVCというのは、だいたい子会社としてVC運用会社を設立、自社のお金で運用して投資活動を行っていくわけであるが、そもそもVCとして本気でベンチャー投資をしていくつもりがないのは、上記のような理由を見ると明白であるだろう。自社でこれ以上事業に投資して大きなリターンを狙うことができない状況だからこそ、ベンチャー投資というブラックボックスに外見上依存するしかないのである。
故に、とりあえずVCとして活動しておけば、それで一旦OKで目的の大半は達成されるのである。
独立系のVCというのは、ベンチャーキャピタルという業種で「起業」しているのである。例えば、IVPやインキュベイトファンド、East Ventures、ANRI、等といったVCは、全て「ベンチャーキャピタル業を行っていく」という目的の元、有志たちが事業として立ち上げて、人様からお金を預かって運用しているので、彼ら自身がベンチャーキャピタル業でスタートアップしている、一種の起業家でもあるわけである。
故にベンチャーキャピタル業として行っていく熱量は、大企業や銀行のVCにおけるそれとはかなり違うことが明白だろう。なぜ独立系VCの熱量は半端ないかというと、理由は簡単で、VCとして結果を出せないと、会社の売上や自分たちの成果にダイレクトに響いてしまうからである。従って、彼らが掛ける熱量というのは、スタートアップの起業家のそれと同等もしくはそれ以上くらい、本気なのである。
しかし、大企業系のVCや銀行系のVCはどうだろう。サラリーマンであるが故に、目先の自分の評価ばかりを気にしているので、大きなリスクなんて取れないし、ベンチャーキャピタル業自体が最悪失敗しても、「残念でしたね」となって親会社や本体に戻れるので、大きなリスクなんて尚更取る必要もないのである。だから、わざわざ大きなリスクを取ってまで投資する意義なんてそもそもないし、自分たちで目利きもできないので他社が出しているところに相乗りだけで出すVCがほとんどなのである。
はっきり言って、リードとしてリスクも張らず、相乗りでしか出さないようなVCは、リスクマネーじゃないのでさっさと滅びたほうがいい。起業家にとっては、話す時間ですら無駄になることも多いし、余計に疲弊してしまうのである。
ベンチャーキャピタル業を始めます!と言った際、言ったものはいいものの、誰が査定してバリエーションやその他諸条件と言ったタームシートを決めるのか、という問題が今度は発生する。普通なら、ベンチャーキャピタリストとして経験したことのある人材を採用したいところであるが、ベンチャーキャピタリスト自体がそもそもまだ少ないので、引き抜きをしてまで採用するのは難しい。従って、ゴールドマン・サックスやモルガン・スタンレーといった投資銀行でM&Aやらを経験したことのある人材を引き抜いて来て、彼らをベンチャーキャピタリストとして即戦力になってもらうわけである。
当然、知識的な面では彼らのスキルはベンチャー投資のそれに十分資するものであろう。未上場株のバリエーションの査定も、難なくこなすことができる。しかし、彼らのようなエリートくん達が査定する際に最も問題となるのが、「彼らは会社の現在価値を査定することはできても、未来に対しての価値は査定できない」ことである。理由は明白で、彼らはエクセル上ではじき出される数字のみを信用し、事業自体の実態や事業を行う起業家や経営陣という人の部分では成長性を判断しないのである。それはある意味、前職の職業柄エクセル上の数字(結果、ファクト)のみで査定すること自体は正しいことでもあるが、ベンチャー投資はエクセル上の世界とはまったく別物なわけであって、浪花節的に起業家を信じて投資しないと、ベンチャー投資なぞ絶対できるはずもない。エクセル上の数字のみで信用できる会社は、それはもうベンチャーやスタートアップでもない、ただの中小企業である。ベンチャーやスタートアップはまだ華が開いていない状態からこそ、水をやって信じ続けて、華が開くのを待つのが投資家の役目なのではないだろうか。
故に、優良はベンチャーやスタートアップに投資が至らないケースも多々あるし、投資したベンチャーやスタートアップがうまくいかないことも多い。
これが、私が「リスクマネー供給という名の、頭でっかちなサラリーマンが悪趣味的に行っている投資活動である」と断言する理由である。もちろん、全ての大企業CVCや銀行系VCがこれだとは限らないが、ほとんど大半のVCがこういう現状である。
これでは、日本からは残念ながらアメリカのような新しいイノベーションはより起きづらくなるだろう。リスクマネーという名の、悪趣味な投資であるのだから。
生半可な気持ちでVCなんて始めるくらいであれば、最初から無い方がましである。頭でっかりなサラリーマンが悪趣味的に行う投資活動は、今すぐやめたほうがいい。
ICJとかユネスコの件でまたぞろ「松岡洋右の再来か!!!!」と腐れ外交官の代名詞みたいな扱いを受けている松岡洋右さん。
しかし、彼はゴリゴリの右派とはいえ、「なるべくなら国連脱退したくない派」でした。連盟を脱退し、国際秩序へ挑戦状をつきつけるヤバさは認識していたのです。
国連を説得できないなら脱退しろ、と言ってきたのは本国政府のほうで、
アメリカに遊学した経験を持つ松岡さんにとっては「無茶振りにもほどがあるだろ」だったらしいですが、
そこはホモ・シャチクンスである日本人であるかなしさ、負け戦とわかっていながら国連へ赴きます。
で、一縷未満の望みに賭けて国連で大演説を行うわけですが、そもそもの満州国擁護からして無理筋もいいところなのですから
いくら弁舌さわやかな松岡さんも無理なものは無理。無茶振りやっといて、やっぱりダメした、からの暴発。このへん古きよき日本の惨敗パターンをなぞってますね(rf. 沖縄戦)。
彼も「全権」と名前はついてるとはいえ、実態としては本国の使い走り。大臣でもなければ現役の外務官でもない。「A(無理な命令)ができないならB(脱退)をやれ」という指示に従うしかありません。ここで本国に楯突いたらそれこそ独断です。
(無茶振りとはいえ)使命を果たせず、日本を孤立化への道に導いてしまった松岡の挫折感は相当なものでした。
彼が肩を落として議場を退場する様子を「堂々退場す」と書き立てたのは新聞でした。
国民は帰国した松岡を旗振って出迎えます。外交的には大失敗を犯した人物を立派な外交官として歓迎したのです。
「国益」と「浪花節」を取り違える国民性はこのころから変わっていません。
落ち込んで帰ってきた松岡さんでしたが、英雄として出迎えくれる国民を見てすっかり気をよくします。その後、右派から更に針を倒してファシスト的な方向へ進みます。
国連脱退により軍部のおぼえよろしきを得ていたこともあって、40年には外務大臣に就任。
香港工作など平行していわゆる三国同盟を推進するものの、そのドイツとの同盟が仇となって日米関係は悪化。ついには真珠湾へと至ります。
ところが、何をどうしたらそういう思考になるのかしりませんが、松岡さんはまさかアメリカと戦争になるとは考えていなかったらしい。日米が開戦すると男松岡は「陛下や国民に申し訳のしようがない」と泣きながら辞任。アメリカとの国力差を認識していたのはアメリカ帰りらしい慧眼でしたが、いかんせんその他が無能すぎました。その後、終戦までの四年はあんまりぱっとしない生活を送ります。
終戦後はA級戦犯として裁かれ、本人も死刑になる気まんまんで望みますが、ここでも彼らしいヘタレぶりを発揮。持病の結核が悪化し、法廷から「まあとりあえず裁判とか後でいいから病院いけよ」と病院送りにされ、そのまま不帰の人となります。享年66歳。最後まで、なんだか咬み合わない人でした。
ちょっと前の話。
外資系コンサル会社で5年間勤務するも、その勤務時間に疲れて日系事業企業に転職。
が、日系特有の義理人情浪花節文化に気疲れしてしまい、わずか2年で外資系コンサル企業へ再転職することにした。
…。
新卒で個人主義/自己責任/短期成果主義の、いわゆる「日本人から見た外資系企業」文化を叩き込まれたのが悪かったのか、
古い日系企業に多いと言われる、全体主義的で、みんなでゆったり浮き沈みするような、そんな労働環境が受け付けなかった。
なんでみんな横並びな状況で笑顔でいられるの?
無能な人間が高齢なだけで上司になっている状況に革命を起こさないでいられるのはなぜ?
みんなすごいよ、僕には無理だよ。ぼくが異端なの?みんなが普通なの?それが組織のあるべき姿なの?そんな組織設計で社会が良くなるの?
http://www.asahi.com/articles/DA3S11251769.html
ワールドカップはおろか、サッカーに関する記事のなかでこれほどまでに無知蒙昧、盲目、的外れのくせに上から目線な記事は初めて読んだ。
全文を読む為には登録しなきゃいけないところをみると炎上商法か?
以下、興味ある方向けに全文をコピペします。こんなクソ記事読むために登録なんて誰がするか、誰がさせるかクソ朝日。
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サッカーのワールドカップ(W杯)ブラジル大会が終了した。熱戦続きだったが、「なぜ、開催国ブラジルはドイツに7点も奪われたのか」「なぜ、日本代表はまったく精彩を欠いていたのか」など、さまざまな謎も残った。映画評論と共に、斬新な視点からのスポーツ評論でも知られる蓮實重彦さんに、謎解きをお願いした。
――今回のW杯、特に決勝トーナメントに入ってからは、一部の試合を除き、なかなか点の入らない展開が目立ちました。素人が見てもワクワクするような試合をもっとやって欲しかった、という思いもあります。
「国民や国の期待を背負うと、どれほどスポーツがスポーツ以外のものに変化していくか。それを見せつけられた何とも陰惨なW杯でした。サッカーとは本来『ゲーム』であり、運動することの爽快感や驚きが原点のはずですが、W杯は命懸けの『真剣勝負』に見えてしまう。お互いもう少しリラックスしなければ、やっている選手もおもしろいはずがないし、見ている側も楽しめない」
「『ゲーム』ではなくなるからです。ましてや負けないための真剣勝負など、見ていて興奮するはずもない。前回2010年の南アフリカW杯で、日本代表の岡田武史監督は大会直前、徹底的に防御を重視した『負けないサッカー』へと泥縄的に方針転換しました。確かにそれで1次リーグは突破できましたが、『1点でも奪おう』というサッカー本来の精神からは、ほど遠いコンセプトだった。今回3位になったオランダ代表は、まあ前線にファンペルシーやロッベンがいるからでしょうが、5バックというさらに防御重視の戦術で、まるで『岡田ジャパンのなれの果て』のようにさえ見えました」
「勝ち上がるのを最優先すれば、どうしても『岡田化』が進む。今後はさらに防御重視の傾向が強まるでしょう。しかし、サッカーはどちらかが防御に徹すると、ゲーム自体が成立しなくなる。日本―ギリシャ戦はその典型です。運動の快さを放棄してまで、国が期待する勝利にこだわる。そんな『スポーツの死』には付き合いたくない。W杯はそろそろ限界だ、とつくづく思いました」
「国を背負うとどこか血生臭さも出てきます。その一例が、コロンビアの選手がブラジルのネイマールの背中にひざを入れ、骨折させた場面です。故意かどうかという問題ではなく、国のために死にものぐるいでプレーすると、ああいうことが起きてしまう。他にもずいぶん負傷して血を流している選手がいました。観客の皆さんは、あの血生臭さにもう慣れてしまったのでしょうが」
「ザッケローニ監督は、日本のサッカーのためにある程度までうまくやったと思います。岡田監督とは違い、前々代表監督のイビチャ・オシムが作った流れを壊さなかった。私はオシムが率いていた時代のジェフ市原(現・千葉)の、攻守にわたり選手たちがダイナミックに動くプレーを見て、日本でもサッカーが見られるんだという喜びを感じました。ザッケローニにも『みんなが走り、気持ちよくサッカーをしないと意味がない』という姿勢があった」
「問題はそれを十分に実現できなかった選手の方です。私は前回の日本代表について、岡田監督の急な戦術変更にもかかわらず、選手たちの『運動する知性』が想像以上に高かった、と評しました。選手たちが無言のうちに素晴らしい連係を達成したり、味方をも欺くようなはっとさせる動きを発想したりする知性のことです。前回は、松井大輔からそういうトリッキーな動き方を感じたのですが、今回はみんながまじめすぎた。少なくとも大久保は、もっと不まじめでもよかったのではないか。市原でオシムに鍛えられた前代表・阿部勇樹のように、『失点のリスクをつぶす責任はオレが負うから、君たちは好きにやれ』という人もいなかった。知的な面では退化していた、と言わざるを得ない。それでも、岡田サッカーで勝つよりも、ああいう負け方の方が日本の未来にはよいことだと思います」
――本田の「目標は優勝」という言葉とは、かけ離れた結果でした。
「本田の発言の真意は分かりませんが、多分『そうでも言わなければやってられない』という思いがあったのではないか。『オレたちはどこまで伸びられるのか』ということを意識的に試そうとしている選手が、彼以外にはあまり見あたらなかった。そんな仲間たちを鼓舞しなくてはいけない、と思ったのでしょう。ただ、本田自身も、勝利へのこだわりが動きの柔軟さを奪っていたような気がします。それでも1点を取り、1点をアシストした。彼が日本代表の最低限の名誉を守りました」
――誰もが国を背負い、勝利にこだわりすぎたW杯だった、と。
「サッカーの魅力は『うそのように思いがけないことが、ピッチで起こる瞬間を目撃すること』ですが、今回それを味わわせてくれたのは、オランダ―スペイン戦におけるファンペルシーのヘディングシュートだけでした。決勝戦でのドイツ・ゲッツェのシュートは確かにみごとでしたが、ああいう場面で輝くのは真のスターでなくてはならず、まだスター予備軍のゲッツェが決めても、私たちを驚かせることはできません」
「1カ月も大会を続けていれば、その間に必ず愉快でおちゃめな選手が出てくるものですが、今回はそれも不在でした。唯一、相手選手にかみついたウルグアイのスアレスには一種のかわいげを感じましたが、おちゃめと言えるかどうか。02年の日韓W杯で、ブラジルのロナウドが前髪だけ三角形にそり残した奇抜な髪形でプレーし、優勝トロフィーをさらってしまった。そういう『変な人がおちゃめをしながら勝つ』という楽しさもなく、みんなが必要以上に本気になってしまった」
「一方で『見たことを一刻も早く忘れたい』という瞬間が多すぎました。世界最高GKの1人、スペインのカシリャスはオランダ戦で5失点した。彼があんなによれよれで崩れてしまう、という場面は決して見たくなかった。ポルトガルの対ドイツ戦での惨敗にも目を背けたくなりましたが、極め付きはやはり準決勝のドイツ―ブラジル戦です」
――ブラジルが7失点。目を疑いました。
「あれはもうサッカーではない。ドイツが7点も取ってしまったことは、果たして成功なのか。もちろん、勝利したという点では成功なのですが、『サッカーをサッカーではないものにしてしまった』という点においては、醜い失敗だったとしか思えません。誰かがドイツ代表の精神分析をやらなくてはいけない。どこまで点が取れるのか、面白いからやってみよう、というぐらいの気持ちになっていたと思うのですが、どう見ても7点も取ってはいけない。何かが壊れるし、人の道から外れているとしか思えない」
「サッカーから運動の喜びを奪うW杯という枠組みが、選手たちの精神とゲームそのものを、いかに異様なものにしてしまっているか。それを象徴する試合でした。サッカーは死んだ、と思いました。前回のW杯でも、国を背負うことの問題は至る所に現れていましたが、それでも決勝、準決勝は緊張感のあるいい試合でした。それが今回のW杯では、なくなった。次回のW杯まで私が生きているかどうか分かりませんが、確実なのは『もう、徹夜をしてまでは絶対に見ない』ということです」
■ ■
「実は今回のW杯では、二十数年ぶりに心から応援するチームがありました。ボスニア・ヘルツェゴビナ代表です。1914年に同国の首都サラエボで起きたオーストリア皇太子暗殺事件が、第1次世界大戦の引き金になった。それから100年。20年近く前まで殺し合っていた三つの民族が、オシムの尽力で一つのチームを作り、W杯に参加した。これはもう、応援するしかない」
「最初の対アルゼンチン戦で、敗れはしましたが、イビシェビッチがチーム初得点を決めた時には、わがことのように泣きましたね。最後のイラン戦で初勝利した時にはまさに『オシム流サッカー』という感じの躍動感にあふれた闘いぶりで、その華々しさにまたも涙しました。この年になって真夜中に何をやっているんだろう、とも思いましたが」
――蓮實さんは、スポーツの世界に、スポーツ外の浪花節的な物語を持ち込むことを嫌っていたのではなかったですか。
「いや、これは私個人ではなく、人類の問題なのです。サラエボ事件100年ですよ! そこから来ている代表が民族対立を乗り越え、W杯で初勝利した。その奇跡を、日本と関係の深いオシムが実現させたことを、心から祝福するべきなのです。そしてボスニア・ヘルツェゴビナがオシム流のサッカーをさらに継承し、将来のW杯で魅力あふれる運動感をピッチに行き渡らせる。これは私のロマンチックな願望です。そうなれば、W杯をまた熱心に見ることになるかもしれませんね」
(聞き手・太田啓之、金重秀幸)
*
はすみしげひこ 1936年生まれ。東京大教授、教養学部長、総長を歴任。著書「『ボヴァリー夫人』論」「表層批評宣言」「スポーツ批評宣言」など多数。
俺もやってみた。
bbabbだった。
バランス感覚の優れた性格です。世渡りの名人と云った風が有り、万事に波風を立てない術を心得て居ると云うべきでしょう。合理的で冷静な分析判断に長けて居り、人間としての面白味に欠ける点が有ると云えばあるかもしれません。貴方の場合には、羽目を外す必要の有る場合でも、良く考えて見ると馬鹿馬鹿しくなって、諧謔(おどけ)たり、イイ子ぶったり、居丈高になったり、と云う芸を見せられないタイプなのです。言わばそれが、貴方の長所でも有れば、短所でも有る訳で、一時、流行語になった「役者やのう…」と云う言葉には、殆ど縁の無いタイプと云う事になります。
恋人や配偶者を選ぶ場合、先ず自分と相手の釣り合いを第一に考えるタイプです。環境の釣り合い、性格の釣り合い、容姿の釣り合い、を慎重に考えて是非を決めるでしょう。そういう様な訳ですから結婚の失敗は、比較的少ないタイプです。結婚後は当分の間、甘さと優しさを先ず前面に押し出して行く方が良いでしょう。
職業適性
一般的な職業には何にでも適性が有ります。警察官、刑務官、カウンセラー、宗教家、等特殊な仕事には向いていません。又、芸能、芸術、文芸などの分野についても、はてな?、と首を傾けざるを得ないような所が有ります。とにかく、一般的で常識的な職業に、最も適性のある事は疑い有りません。
対人関係
特別な注意を払わなくても円滑な人間関係を保って行く事には、不自由を感じないタイプです。但し、それはあくまでも、極く一般的な乾いた人間関係を作り、持続して行く為の、と云う注釈付で有って、それ以上の深い人間関係については、むしろ苦手とするタイプかも知れません。云うなれば、演歌や浪花節に出て来るような人間関係には、余り縁の無いタイプなのです。
http://www.twitlonger.com/show/7k0gjq
ブコメでは肯定的に受け取るひと、否定的に受け取るひとに分かれているが、
2つの視点の違いは
と私は受け取った。
私の場合は、どっちの意見もそれぞれ理解できるが、否定派に分があると考える
おもちゃ屋のストーリーは販売側と顧客側、つまり商行為が発生しているので商法において関係が定義されている。その関係がありつつ、特別な事例(感動話のクレーム)によって販売側の組織の一人の独断らしき判断によって達成された物語である。個人同士の感動を表した物語であるが、そこには企業や組織、果ては社会に対する未来への道が閉ざされた、一時避難的サービスを行っただけの話である。
何が言いたいかというと、よく耳にする感動系の話として
・リッツカールトンの従業員はいくらいくらまでの自由に使える経費を与えられていて、顧客の誕生日に特別な計らいを行って感動を与えた。
・ディズニーリゾートで、お子様を亡くした夫婦が、亡くなったお子様の食事を注文し、店員もそれをサポートして感動を与えた。
などある。
これらと、今回のおもちゃ屋のストーリーとの違いは「組織の仕組み」かどうか?なのだ。
「組織の仕組み」は一時的なサービスではなく戦略的に仕組まれたものなので、継続と安定が望めるのである。つまり感動が未来へ繋がるのだ。
一方、今回のおもちゃ屋のストーリーは、いち担当者が機転を利かせたものにすぎない。なので刹那主義的な感動にしかならない。
いやらしい書き方をすれば、このおもちゃ屋のストーリーには、裏で泣き寝入りした家族(子供)もいるだろうという事が見えてしまっている。不良品を購入させてしまった顧客への不公平が生じているのだ。ひとりの担当者の浪花節は、他の困っている顧客へのサービスにつながっているのか?が表現されいていないことが「違和感」に繋がる。
この商行為の販売側と顧客側という枠組みで、個人の浪花節を語ることが、このストーリーの問題点なのであり、この物語の構造的な矛盾が違和感を生んでいるのだ。
少なくとも、組織の浪花節なら、すっきりしたかもしれない。もしくは商行為という関係にない家族内部での感動の話だったなら、すっきりしたかもしれない。
爺ちゃんは、15年前に65歳で死んだ。その時ばあちゃんは怒っていた。爺ちゃんは大酒飲みでばあちゃんに迷惑をかけてばかりだったけれど、退職してからその悪い癖はだいぶ落ち着いて、しかも人より多く年金がもらえる仕事だったし、退職金も多かったから、やっとこれから夫婦水入らずの穏やかな余生を送れると、婆ちゃんがほっとした矢先だったのだ。爺ちゃんとばあちゃんは喧嘩はよくするけれど、浪花節的にとても仲の良い夫婦で、風呂も毎日一緒に入って背中を流し合っていたそうだ。なのにばあちゃんはイキナリ一人ぼっちになってしまった。ばあちゃんの娘、つまりわたしの母さんはそのときすでに死んでいたし、息子は東京へ行ったまま結婚し、恐ろしい鬼嫁の元、連絡もよこさなかった。そこからばあちゃんは狂い始めた。昔から信心深かったばあちゃんは、毎朝ながながとお念仏をとなえるようになった。お嬢さん育ちのばあちゃんは人を疑うことを知らなかったから、変な健康食品や水晶や絵を買わされた。数年後には立派な家が建つほどあったお金は全部なくなっていた。それからばあちゃんはたくさんの動物を飼い始めた。犬、猫、小鳥、亀。猫は一時期、30匹ほどになっていて、ばあちゃんは毎朝4時に起きてエサやりと掃除をしていた。餌は缶詰と鰹節とご飯をごちゃまぜにしたものだった。ときどきばあちゃん家に遊びに行っても、エサやりが忙しいから帰ってと言われることもあった。わたしの父に金の無心すること数知れず、サラ金にもたくさん借りていて、何度も自己破産をすすめたけれど強情っ張りで言うことを聞かず、それも父がたてかえた。そんなダメすぎるばあちゃんだけれど、なぜか憎めない人の良さがあって、友達はたくさんいて、ばあちゃんに金をあげたり、ご飯を作って持っていってあげたりしてくれていた。というそんなギリギリの生活が15年も続いている。
そして、ペットも大分へって、ばあちゃんも昔ほどの元気がなくなり、もちろん金は年金以外にないという状態の今日このごろ、ばあちゃんが新興宗教にはまった。ばあちゃんの部屋にその宗教の戒律のようなものが書かれた紙が貼られているのを見たときは、少し心配して、その戒律がびっしりと繰り返し書かれたノートを発見したときは凄く心配した。でも、その宗教にはまってから、ばあちゃんはすごく元気になって、目が輝きだしたのだ。いきいきとして楽しそうだ。3人くらいのオバサンが勧誘してきたそうだが、暇なときはあの汚いばあちゃん家に上がって、お茶をのんで愛の話や世界の話をしているそうだ。その宗教をネットで検索してもあまりヒットしないところを見ると、かなり小規模な団体らしい。よくよく考えれば、新興宗教にはまると悪い理由っていうのは、全部ばあちゃんに当てはまらないような気がする。まず、ばあちゃんには毟り取られるような金はもうない。ブラックリスト入りだからどの金貸しも金を貸してくれない。家は持ち家だけど、わたしも父もその家をもらうつもりは毛頭ない。だから資産を毟り取られる心配はない。新興宗教にはまって潰れてしまうと困るような素晴らしい将来も、ばあちゃんにはもうない。あとは死ぬまで年金でほそぼそと数年生きるだけだ。勧誘おばさんたちも、金なし、亭主なし、未来なしらしく、皆やさしくて、ばあちゃんにたかるようなこともなく、たいていは茶菓子をもってきてくれたり、ファミレスや蕎麦屋で奢ってくれたりするらしい。寂しくて、救われたくて、そんな仲間がそっと集まって語り合うのだ。
孫の顔も息子の顔もほとんど見られない、亭主も死んだ金のない独りぼっちの独居老人が、一つの宗教に希望を見出して、誰にも迷惑をかけず、社会の最底辺にある仲間とささやかな茶会をして、生き返ったように目を輝かせている。来世は救われると信じて、毎日一所懸命、戒律を守って、お祈りしている。ばあちゃんに、宗教の原始的姿を見たような気がした。
良いことだと胸を張っては言えないけれど、なんか、それでいいんじゃないかと思う。死ぬまでそっと見守りたい。
別に、具体的に特定のどこかを想定した話じゃない、というエクスキューズをとりあえず書いた上で、と。
洗脳の恐ろしさとかサンクコストとかはもちろんやっかいなんだけど、も一つやっかいなのが「人間関係」なのよね。当然ながら組織内のメンバー同士の間には身内同士で改めて布教するわけはないんで普通に人付き合いが成立してるし、友情も同志愛もあるし、入ってくる年齢層や階層なんかによっては、男女のカップルが成立してるケースもあって、そういう状況である日「目が醒めた。俺は抜ける」と発言するとどうなるか、はまぁ想像に難くはないところ。
そういう横のつながりもあるし、さらにやっかいなのが縦。まずは自分をその道に引きずり込んだ「先輩会員」。往々にしてその人には日頃から組織の活動以外の局面でも世話になってるの。なので、「俺が抜ける」イコール「先輩の顔に泥を塗る」なのよね。客観的に外から見ればその先輩って「俺」を騙してカルトに引き込んだ「詐欺の加害者」なんだが、義理と人情と浪花節な文化圏で育つと、なかなかそうは割り切れないのよね。
で、先輩が問題なら当然に後輩も問題。この場合の後輩とは「俺が騙して引き込んだ犠牲者」なのだ。いやもう、その責任について真面目に考えはじめると、いまでも夜中に飛び起きるね。
http://d.hatena.ne.jp/shibuyan730/20081111/1226428535
面白い。面白いけど、俺にはどちらかというと一方的にDQNがオタク文化を吸収しているように思える。オタクがDQN文化を吸収した例ってある?
たとえば、それまでエロイ抱き枕でニヤニヤゴロゴロしていた集団が、だんだん鉢巻占めて長ランでオラーっとかやっている例はどのくらいあるんだろう。言葉を変えると、オタクの硬派化、オタクの体育会系化ってのはどのくらいあるんだろう。長島は面白い例だが、あれを傾向といえるかどうかは、俺にはよくわからない。彼のほかに頂点には上れなかったけど、体をとことん鍛え上げたオタクのピラミッドがあるの?そうならばオタクは体育会系化しているけど。
なんとなくだが、単にDQNが形式美を失いつつあるんじゃないかと思う。まっとうに暮らしているやつはこういうことを言うと、なに言ってんだと思うだろうが、暴走族にも鉄の団結と厳しい上下関係がある。乗り回している車とか単車は、一般人が目を背けるような改造であっても、連中なりに「しぶい」「かっけー」という基準があった。単にお行儀のよさに対するアンチでめちゃめちゃやってるだけと考えると、少なくともDQN文化という見方からは降りる必要がある。彼らは彼らの美意識と規範を持っている(社会的に容認できないが)。そういう意味で、文化を論じたい筋からは彼らはカウンター・カルチャーだろうが、彼ら自身にとって「カウンター」という言葉は無用だ。
話がそれた。
アニメ暴走族に関しては、単に暴走族としての美意識が崩壊しつつあるんじゃないかと思う。というか、集団的な美意識を構成員に押し付けられなくなった。「萌え??」とか「アニメ」とかいっているやつを、「馬鹿じゃねーの、恥ずいことしてんじゃねーよ」と恫喝できる鉄の組織を維持できなくなった。なぜなら、DQNに限らず日本人全部が美意識を失いつつあるから。
大阪の引きずり回し殺人の父親のコメントが印象的だった。どう見ても犬猫以下の生活が報じられていた男の親と思えないくらい、常識的なお詫びを言っている。言わされたというより、本人の内側から自然にそういっている。たぶん会社ではきちんとした社会人だったんだろう。でも、わが子にはペット程度のしつけしかできなかった。
日本中上から下までそんな感じだろう。だめなことはだめ、文句を言わずに黙って言うことを聞けという最低限のしつけさえされていないペットが街にあふれている。暴走族が例外だと思ったら大間違いだ。彼らだって若い連中をそういった層から入れざるを得ない日が来る。そんな連中が、びしっと筋の通った浪花節的価値観、美意識を受け入れられるか。言い換えると厳しさを受け入れられるか。あまったるい、萌える、快楽だけの世界へとゆっくりと降下していくだけだ。
つーわけで、一部暴走族に発生している(とうわさで聞く)痛車化は、DQNカルチャーとオタクカルチャーの融合とかではないと俺は思う。どちらかというと、お米にエロゲーの原画化に絵を描かせて売る、美意識のなさ、常識のわきまえなさ、痛さに近い。
つまり、一億総痛い人化の一例に過ぎない。
空白は検索能力に限界があって見つからなかったモノです。
秋 川 雅 史 (初)
「千の風になって」
http://www.youtube.com/watch?v=ix2ln17bnpA
Aqua Timez (初)
「決意の朝に」
http://www.youtube.com/watch?v=5IjEmvFmJLA
五 木 ひ ろ し (36)
「高瀬舟」
w??inds. (5)
「ブギウギ66」
http://www.youtube.com/watch?v=ZlQaXO4K880
ORANGE RANGE (2)
「チャンピオーネ」
http://www.youtube.com/watch?v=RYKuymZllHU
北 島 三 郎 (43)
「まつり」
北 山 た け し (2)
「男の拳」
ゴ ス ペ ラ ー ズ (6)
「ふるさと」
(民謡)
コ ブ ク ロ (2)
http://www.youtube.com/watch?v=r2YEax8nDA4
さ だ ま さ し (18)
「案山子」
SEAMO (初)
http://www.youtube.com/watch?v=lcMD86pmkCQ
ス ガ シ カ オ (初)
「Progress」
http://www.youtube.com/watch?v=O8Fu1hv1POc
ス キ マ ス イ ッ チ (2)
「ボクノート」
http://www.youtube.com/watch?v=9rW36_TX7A4
S M A P (14)
http://www.youtube.com/watch?v=2rQjgzenKAQ
http://www.youtube.com/watch?v=A277Pdo7cLw
TOKIO (13)
「宙船(そらふね)」
http://www.youtube.com/watch?v=8ZD9BMbYr0M
徳 永 英 明 (初)
「壊れかけのRadio」
http://www.youtube.com/watch?v=J_Lq5R8rG4s
鳥 羽 一 郎 (19)
「兄弟船」
http://www.youtube.com/watch?v=SW4h9yecfrQ
氷 川 き よ し (7)
「一剣」
http://www.youtube.com/watch?v=ma86ZnIFndg
布 施 明 (22)
「イマジン」
http://www.youtube.com/watch?v=zj8LR25HeJA(ジョン・レノン)
細 川 た か し (32)
http://www.youtube.com/watch?v=jtk55xSxre0
堀 内 孝 雄 (17)
「愛しき日々」
ポルノグラフィティ (5)
「ハネウマライダー」
http://www.youtube.com/watch?v=HRUmPMjCo7E
前 川 清 (16)
美 川 憲 一 (23)
「さそり座の女2006」
http://www.youtube.com/watch?v=vj8Nymzkvms(Ayuready 21)
森 進 一 (39)
「おふくろさん」
http://www.youtube.com/watch?v=3vkob1tyEEo
W a T (2)
「5センチ。」